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『利己的な遺伝子』 (The Selfish Gene)
著者 リチャード・ドーキンス (Richard Dawkins)
訳者 日高敏隆 岸由二 羽田節子 垂水雄二
紀伊国屋書店
地球上で成立する物理学の法則は、宇宙の果てであっても当てはめることが可能である。 ならば、生物・生命体の進化を論ずる上で、宇宙のどのような場所においても適用できるような法則はあるのだろうか。
生物・生命体を語る時、我々は無意識のうちにその個体あるいは個体群を対象としてしまう。 ドーキンスはその視点を個体から遺伝子に移し、場所を選ばぬ普遍の法則として新たな生物学・進化論を問い直した。
人類を含め、動物、植物、魚類、昆虫から細菌等々、およそ生命体と呼ばれるものは如何にして生じたのか。 そして現在の我々が目にするような多様な生物は如何にして進化し、繁栄し得たのか。
ドーキンスはさまざまな動植物の行動を遺伝子の視点から考察し、なわばり、求愛、給餌、養育、群れの状態、親子、血縁等々あらゆる条件の元での行動や雄と雌の行動の違いなどを、遺伝子によって引き起こされた結果だと説明する。
生命体の行動は、無意識のうちに自分と同じ遺伝子のコピーが増加するように、最大限の努力をするよう仕組まれているというのだ。 自己犠牲を伴うような利他的に見える行動といえども、自分と同じ遺伝子のコピーが増加する確率が最大になるような状況において、行動を起こすのである。
遺伝子は自分のコピーを最も効率よく効果的に増やそうとする。 それは敵対する遺伝子との戦いであり、仲間の遺伝子との競争でもある。 戦いに敗れ、競争に負けた遺伝子は滅びるしかない。 それ故遺伝子は他を出し抜き、欺きさえする。 遺伝子は自分の利益のみを追求し、利己的な振る舞いをするのである。
--- 遺伝子に意識はない。 それは淘汰によって選択された遺伝子が、結果として利己的に振舞っているように見えるのである。 ---
そうした遺伝子も、共通の利益を持つ遺伝子とは協力したほうが有利となれば相互協力を惜しまない。 協力する遺伝子同士が組み合わさって複合遺伝子 (遺伝子のセット) となり、それぞれのセットはそれぞれの生命体の完成へと進化した。
遺伝子は構造物 (生命体) の設計図と、その構造物を増殖の目的に向けて動かすためのプログラムから成っている。 我々の身体の構造があらかじめ決められた形 (設計図) に形成されるのと同様、その行動も実はあらかじめ決められた (自己の遺伝子のコピーを増やすようにプログラムされた) 通りに行動しているのだ。
遺伝子は生物個体が繁殖のために用いる道具ではない。 事実はまったく逆で、遺伝子は自由奔放に世代から世代へと移り、一時的に使い捨ての死すべき生物体を次々と果てしなく脱ぎ捨ててゆく。 遺伝子こそが主役であり、不滅の存在なのだ。
生物の進化とは、環境に適合しない遺伝子は淘汰され、適合した遺伝子のみが増殖 (適合した遺伝子によって創られた生命体が繁栄) するということに他ならない。 増殖し繁栄した複合遺伝子が創出した多様な生命体を、結果として我々は目にしているのである。
そして我々人類もまた、複合遺伝子を次世代へ運ぶ目的を持った、複合遺伝子が創り出した生命体なのだ。
ドーキンスの唱える生物・進化論は、輝く生命を宿し・育む多様な生命体が、実は遺伝子によって完全にコントロールされた単なる遺伝子の乗り物でしかなく、すべては意識を持たない遺伝子の戦略の結果だと言い切る。 その内容は衝撃的である。
人間は遺伝子の乗り物であり、単なる生存機械なのだろうか。
ドーキンスはこう考える --- 『人間は巨大な脳を持つようになり、遺伝子の解明・操作まで行おうとしている。 そして何より人間は、意志という遺伝子の指令に背くことを辞さない精神を持つに至った。
こうした行為は遺伝子にとって戦略外のことであり、そこに人間が遺伝子の呪縛から逃れて理想とする方向へ歩める可能性があるのではないか』。