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本はエンタメ

恥辱 (Disgrace)

恥辱『恥辱』 (Disgrace)
著者 J・M・クッツエー (J.M.Coetzee)
訳者 鴻巣友季子
早川書房


 デヴィッド・ラウリー 52 歳、ケープタウン大学コミュニケーション学部教授、離婚暦 2 回、独身、子供 (娘) 一人。

 物語はエスコート・クラブの女性との週 1 回の逢瀬から始まる。 バイロンの愛人との関係をテーマとしたオペラの創作をライフワークとし、ささやかな幸福感に包まれていたラウリー。 掌中にあると思えた約束された生活や将来の展望が、あるきっかけからほころび始める。

 それほど大きいとも思わなかった傷口だが徐々に広がる気配をみせ、やがて着実に堕ちてゆく自身の運命にラウリーは抗う手段を見出すことができない。

 職を失い、好奇の眼にさらされ、むき出しの敵意は感じさせないにしても疎まれる存在となり、平穏を求めた娘の元での生活も耐え切れぬ忍従を強いられる ・・・・ これが人生の大半をかけて築いてきたものなのか。
 権力もなくヒーローでもない一市民に、時代と風土と社会の圧力に抗して運命の軌道修正など出来ようもない。

 人生は思うようにならない。 それは辛く、屈辱をも受け入れねばならない。 だがクッツエーの紡ぎ出す文章からは、そうした重荷は感じられない。
 どこか乾いた透明感のある語り口で、刹那的な情景や、自ら受け入れようとする運命、過去との対峙や、ゆっくりと堕ちてゆく人生が、平凡な日常的な生活のように綴られてゆく。
 それは、自分のことでありながら試験管の中の実験を観察しているような、現実から遊離した不思議な感覚の文体である。

 台詞の合間に、ラウリーの述懐が入る。 例えば家に誘った女子学生との会話ではこんな具合に ・・・・

「結婚しているの?」
「していた。 二度ほど。 だが、いまはしていない」
と言って、こうは言わない --- いまは”手近なもので間に合わせている”。
こうも言わない --- ”いまは娼婦たちで間に合わせているんだ”。
「リキュールでもどうかな?」

・・・・ ラウリーの本心とも言えるし、多分我々も日常生活の会話においては、こうした様々な想いをコントロールしながら、その場に合わせた言葉を選別して発しているのだろう。 だから読む者の心にある種の共感を抱かせずにおかない。

 堪えきれぬほどの事態に陥ったとしても、涙を流したり、怒ったり、感情にまかせた行動をとることを否定されてしまっている現代人は、自身のことでさえ直截的な感情表現を制限されてしまったのだろうか。 自分の身の上を他人事のように感じることで、辛うじて精神のバランスを保っているのだろうか。

 人生の残高を記帳し始めるような境遇になったとき、引き出し済みの時間は何かを語ってくれるだろうか。 彼方へ去ってしまった記憶を見つめる眼には何が映り、そう遠くない未来に向けた眼は何を見つけられるのか。
 一切の事象や個々人の都合など一顧だにせず、すべてを一様に過去へ押しやりながら人間の営みは昨日から明日へと連綿と続くのだ。 時間だけが唯一の救いであるかのように。

 この作品には希望や解決策を示唆したり、別な生き方を暗示するプロットはない。 ただひたすらにラウリーの生き様を追っている。 だがそれにも関わらず、ここには堕ち行くものの暗さはない。 人間が愛しく思えてくる、「大人」の作品である。



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