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本はエンタメ

数学的にありえない  (Improbable)

数学的にあり得ない『数学的にありえない』 (Improbable)
著者 アダム・ファウアー (Adam Fawer)
訳者 矢口誠
文芸春秋


 それは唐突に襲ってくる。 慣れた感覚 (吐き気を催し、気を失いそうなほどの悪臭) だが今は遠慮して欲しかった。 天才的数学者デイヴィット・ケインには癲癇発作の持病があり、襲い来る幻覚はその前駆症状 (前触れ) だった。

 ケインは"A"(エース) のフォーカードを手にしており、ポットの中には既に 1 万ドルを超えるチップがグツグツと煮えたぎっていた。 負ける筈のない手だが、老いぼれウォルターは降りずにしぶとく残っていた。
 ウォルターがケインに勝つにはストレート・フラッシュしかない。 このゲームでストレート・フラッシュが出る確率はたった 0.029 パーセントだ。

 ハッタリなのか本物なのか、ウォルターの表情には余裕さえ窺える。 ケインのフォーカードと同時にウォルターの手がストレート・フラッシュになる確率は・・・そんなに多くない筈だ・・・。 ケインは悪臭と戦いながら、ウォルターの手札がストレート・フラッシュである確立を必死に計算しようとした。 集中しろ、集中しろ、集中しろ・・・。

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 ケインは掛かりつけの病院で目覚めた。 担当医からは一般的な治療薬では直る見込みがないことを宣告されてしまった。 たった一つの望みは開発中の実験薬による治療だったが、副作用として統合失調症を発症する恐れがあった。 だが、ケインに他の選択肢があるだろうか。 このまま発作が続けば、数年もしないうちに植物人間になってしまうかも知れないのだ。 ケインは意を決して実験薬による治療を受けることに同意した。

 果たせる哉、副作用の統合失調症らしき症状がケインを襲い始める。 妄想は真に迫っており、リアルで自然だ。 周りの人々のその後が、ケインのちょっとした行動によって大きく違って (狂って) 行く様が、リアルな情景としてケインの意識に一気に押し寄せて来る。
 だがケインにはそれが妄想であるとは思えなかった。 何かが違う、予知能力?、それとも狂気に蝕まれている・・・・? そうしたものとも違っている気がした。

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 借金の返済を迫られたケインは、金の工面に苦慮していた。 仕方なく大学時代の恩師のドクに、アルバイトの相談をしている時、それは起こった。
 ケインには見えた ―― 彼らの座っているレストランのテーブルめがけて、ピックアップトラックが飛び込んで来る。 店内に轟音が響き、金属と無数のガラス片が飛び散り、皮膚が裂け、赤黒い血が流れ落ちる ――。
 それは繰り返され、そして元通りに戻って行った。 意識は逼迫した残り時間を告げていた。 ケインは理解した。 これは、これから起こる出来事だ。 ケインは立ち上がり、ドクと、たまたま同席したトヴァスキー教授の二人を押し倒すようにして退避させた。

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 妄想が二人の教授を救うことになったケインに、後日トヴァスキーが接触してきた。 トヴァスキーは自分の研究に協力してくれたら 2000 ドル払うと言った。 多額の借金を抱え、定職にも就けないケインには断れない話だった。

 トヴァスキーにしてみれば、降って湧いたようなチャンスだった。 自分の研究にまたとない実験台が現われたのだ。 それも眼の前でその能力の片鱗を見せてくれた。 トヴァスキーは密かにそうした能力の萌芽を促す薬物の研究をしていた。 それも、もう少しで完成しそうだった。 この技術が完成すれば大金が手に入る。 この技術なら、巨額の代価を払う国はいくらでもある。 さっさと完成させて高飛びするのだ。

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 国家安全保障局<科学技術研究所>はトヴァスキーの研究に補助金を出していたが、所長のフォーサイスはそんな研究を胡散臭く感じていた。 だが、どうでもいいことだ。 フォーサイスもうすぐ所長の座を追われる。 トヴァスキーの研究が成功すればそれを横取りし、失敗であれば別の目ぼしい研究を探し出して売り払い、研究所とおさらばして自分の研究所を始めるのだ。 取り敢えずトヴァスキーの行動を監視し、研究データを押さえておく必要があった。

 CIA 工作員のナヴァは、人間として生きる資金を得るため情報の売却を目論み、北朝鮮工作員と接触していたがトラブルに見舞われる。 別の魅力的な情報を至急提供しなければ、ナヴァ自身が危ない。 そんな折、トヴァスキーの研究資料ファイルが目に留った。 ナヴァはケインを追い始める。

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 ケインの周りで不穏な動きが起こり始める。

 ナヴァの動きを監視していた北朝鮮工作員はケインの能力の価値に気付き、ナヴァとケインを捕獲すべく行動を開始した。
 トヴァスキーを監視していた国家安全保障局の工作チームも、必然的にケインとナヴァを追い始めた。

 巨大な陰謀が、制御不能な速度で暴走を始める・・・・。

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 克明かつ微細に状況を描くことで、一瞬の出来事を超スローモーションで推移する細密画のように描く手法は、「ダ・ヴィンチ・コード」で一世を風靡したダン・ブラウンの世界を彷彿とさせる。 様々なシチュエーションの断片が繋ぎ合わされて物語を紡いでゆく様は、映画の世界そのものだ。 スローモーションは映像表現のお家芸だが、この作品は読むヴィジュアルと言えるのではないか。

 すべてのプロットに伏線が張られ、交錯する伏線の織りなす緊張と不協和音は、驚愕のサスペンスを紡ぎだす。 原題の"Improbable"は、「起こりそうもない」事。 正に偶発的な出来事の連鎖が、必然であったことをあなたは目撃する。 そんなこと、数学的にありえない。。。。
 暴走するサスペンスからは、何人といえども途中下車できない。



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