for e's laboratory
本はエンタメ

JFK ケネディ暗殺犯を追え  (On the Trail of the Assassins)

JFK ケネディ暗殺犯を追え『JFK ケネディ暗殺犯を追え』  (On the Trail of the Assassins)
著者 ジム・ギャリソン (Jim Garrison)
訳者 岩瀬孝雄
早川書房


 著者のジム・ギャリソンは 1963 年 11 月 22 日の事件当時、ニューオーリンズの地方検事であった。 彼の 3 年以上に及ぶ調査の結果、インターナショナル・トレード・マート社の理事でありニューオーリンズの上流階級の一員であるクレイ・ショーが、ジョン・ケネディ暗殺を企てた陰謀の容疑で逮捕された。 1967 年 3 月のことである。
 その後、1969 年からクレイ・ショーの裁判が始まったが、陪審員の下した評決は、陰謀が存在したことは認めるがショーは無罪というものであった。

 調査・裁判の期間を通して、政府による公然とした妨害、圧力、スパイ行為は繰り返され、さらに判決後の、マスコミによる反ギャリソン・キャンペーン、誹謗、中傷はかなり激しく、ジム・ギャリソンは罪人に仕立て上げられ、逮捕までされている。 この裁判以来ギャリソンは誤解され、批判され、罵られて現在までその悪評が定着してしまっている。

 それから 25 年の歳月が経ち、ヴェトナム戦争、ウォータゲート事件、イラン・コントラ事件等数々の苦悩と政界スキャンダルを経験したアメリカ国民は、情報機関や、それらの機関が国民の名において行ってきたことに関して多くを学んだ。
 またその間に、JFK 暗殺に関する公式見解は綻びを見せ始め、捏造された証拠や証言、隠されていた事実、証拠隠滅工作等々が明るみになり、これらを指摘した報告書や書籍が出版されるようになった。 ジム・ギャリソンの起こした裁判についてもう一度振り返り、あの時何が行われていたのか素直に耳を傾ける下地が整いだしたのである。

 1988 年に出版された本書は、ギャリソンの調査活動と裁判記録、そして判決後の状況を記した告発書・報告書・ノンフィクションと呼べるものである。 書かれていることはあまりに衝撃的である。 そこには権益を背景としたパワーゲームのおぞましさ、平然と国民を欺く政府中枢部、崇高な理念を掲げた仮面の影に潜む欺瞞に満ちた姿が浮かび上がる。

本書の冒頭では、1970 年代になって新たに判明した事柄が紹介されている。
暗殺事件の 5 日前、FBI ニューオーリンズ支局は、大統領暗殺計画があるという警告をテレックスで受けていたが他の機関に連絡しなかった。
暗殺現場にいた目撃者の多くは、大統領前方からの銃声を繰り返し聞いている。
事件直後、ダラス警察は 3 人の男を連行したがその光景を写した写真は公表されず、警察は 3 人の顔写真、指紋、名前に関する記録を一切残していない。
リー・オズワルドは逮捕当日、硝煙反応テストを受けている。 結果は陰性 (銃を撃っていない) であったが、連邦政府及びダラス警察はこの事実を 10 ヶ月間秘密にしていた。
エイブラハム・ザプルーダーが暗殺現場を撮影したフィルムは、5 年以上にわたって『ライフ』発行社の地下室に施錠してしまわれていた。フィルムには、ケネディが激しく後方にのけぞっている姿が写されていた。
自動車パレードが到着する約 1 時間前、後にオズワルドを射殺したジャック・ルビーは、現場近くでライフルを持った男を車から降ろしているところを目撃されている。 目撃者の供述は、FBI によって、「ルビーかどうかわからない」と変更された。
軍によって、大統領の遺体検死が行われた後、彼の脳が行方不明になっている。
ベセスダ海軍病院でケネディの検死を担当した病理学者は、検死報告の第 1 草稿を焼却してしまった。

 大統領暗殺事件にはあまりに謎が多く、数々の説が流れ、多くの著作物が刊行された。 そして陰謀の首謀者として、犯罪シンジケート壊滅作戦に反発したマフィア、幾度となく政権の転覆を図られ暗殺のターゲットとされたフィデロ・カストロ、テキサスの膨大な原油の利権を背景とした石油カルテル等が挙げられているが、ギャリソンは一つ一つに反証を挙げて否定している。

 そしてギャリソンは彼なりの結論を導き出す。最終章で彼は次のように語る。
・・・ 1963 年 11 月 22 日にダラスのディーリー・プラザで起こったことはクーデターだったと私は信じている。 それを計画し扇動したのは、アメリカ合衆国の情報コミュニティの中の狂信的反共主義者だったと信じている。 そして、公式の承認なしにそれを遂行したのは、CIA の秘密工作関係の個々人と政府外の協力者であり、隠蔽工作に手を貸したのは、FBI 、シークレット・サービス、ダラス警察、軍部の、同じような思想を持った個々人だった。 目的は、ソ連やキューバとのデタントを求め、冷戦に終止符を打とうとしていたケネディ大統領の努力を阻止することだった。

 ギャリソンがこうした結論に至る根拠は、膨大な資料に基づいているが、詳細は本書を参照して頂きたい。 しかし事件とは一見無関係に見える連邦政府の外交政策、軍事政策が、この時を境に劇的に変化しているのである。 ギャリソンはこの事実も最終章で次のように報告している。

ケネディ大統領の外交姿勢は、以下の出来事で窺い知ることができる。
CIA によるキューバのピッグス湾侵攻に際して、キャンベル将軍がジェット戦闘機を出動させるよう要請しても、ケネディ大統領は承認しなかった。
ミサイル危機の際に、キューバを爆撃して侵攻するよう薦められたが、ケネディ大統領は拒否している。
軍事顧問たちが当初反対したにもかかわらず、ケネディ大統領はモスクワで核実験停止条約に調印することを主張した。
1963 年には、ベトナムから手を引くことを決意し、キューバと国交を回復させることを考えた。

 要するにケネディ路線は、従来の路線とは異なっていた。 アメリカの権力構造の中の、戦争を支持していた強硬派にとって、これは「裏切り行為」にほかならなかった。

ケネディ大統領暗殺後、連邦政府の政策は矢継ぎ早に路線変更された。
1000 人のアメリカ人を 12 月までにベトナムから引き揚げさせるケネディの命令は、ただちに撤回された。
暗殺直後の日曜日、ケネディ追悼式に出席したあとジョンソン新大統領は、駐南ベトナム大使ロッジに会い、ベトナムを手放すつもりはないことを伝えている。
1964 年 8 月、トンキン湾事件 (北ベトナム沖の公海上で、アメリカ艦船が攻撃を受けたというものだが、被害も証拠もない) が発生した。 ジョンソンはただちに報復攻撃を命じ、北ベトナムに対する最初の爆撃が行われた。
1965 年には 20 万人以上のアメリカ兵が南ベトナムに派遣された。
1966、67 年にはその数は 30 万人を超えた。

 そして、1973 年 1 月にパリでベトナム和平協定が調印されたときには、5 万 5000 人を超すアメリカ人と何百万ものベトナム人が死んでいた。 指導者が代わったことによって行われた外交政策変更の結果は、以上のごときものだった。
 多くの疑問が呈され新事実が判明しているにもかかわらず、ジョンソン以降歴代の政権は、現代における最も重大な暗殺事件を、真摯に究明することを現在にいたるまで拒んでいる。

 この政策変更によって疑いなく莫大な利益を上げたものがある。 軍需産業とその関連企業、それらを傘下に置いて支配している財閥である。

 アメリカには、大統領の命さえ自分たちの自由にして、国家の行方を意のままに操ろうとする者たちがいるということだ。

 本書は 1991 年夏、監督オリヴァー・ストーン、主演ケビン・コスナーで映画化されている。 撮影中に嫌がらせや脅迫があったのは、言うまでもない。



*** お薦めする本の一覧表示 ***