第四楽章 プレスト・アジタート



(27)ナナ、路上の死、ラテン詩人の影――1919年
(28)若いカップルについて、オイゲン公について、および、無名兵士についての二重唱――1700−1919年
(29)公爵の館へ通じる、ぶどう蔓のアーケード――1701
(30)聖盃の城のビール・ジョッキとビロードのコートを着たウォーダンの別れ――1919<
(31)問題は簡単――1707
(32) 常に愚か者一人分だけ多い――1923
(33)バイオリンの町の皇帝の警察隊長――1711
(34)ペンション『優雅荘』――1925
(35)牢獄のバイオリン――1717
(36)ガラスの鐘が壊れたとき――1929
(37)泥のバイオリン――1730-1733
(38)ダ・カーポ――1932
(39)ほとんど空想的な物語の終曲――1932





(27) ナナ、路上の死、ラテン詩人の影――1919年


 ホーエンシュヴァンガウ・一九一九年一月十三日

 親愛なるフォン・ティーッセン殿
 貴兄の数行の手紙を拝見し、わたしはこの上もない喜びを覚えた。妹がわたしに読んでくれて、二人ともども喜んだ。以前のわたしの手紙にたいして何の返事もないことから、シャリテにおけるわれわれの出会いの記憶はすでに貴兄のなかで色あせたものになったのかと思っていた。もし貴兄がその出会いのことを、あまり重要でない小さな挿話だと考えているのだとしたら、それはわたしにとってきわめて遺憾なことであった。なぜなら、たとえ、われわれの出会いがどんなに短いものであろうと、わたしにはそうではなかったからだ。
 わたしはもう一度手紙を書くべきかどうかでずいぶん考えた。そして、そうしていてよかったのだ。おかげで、少なくとも、貴兄がまえの手紙を受け取っていなかったことがわかったからだ。いまはすでに貴兄がその小さなパリ娘とともに休養に訪れてくれることを
さまたげるものは何もないものと思っている貴兄には両眼が無事に残った。だから貴兄は当地の風景を楽しむことができる。それはそのロマンチックな美しさにおいて、他に比類のないものといわれているものだ。
 妹と母は毎日、新聞を読んでくれる。だから街路上での乱闘のことも、国じゅうに吹き荒れるひどい対立抗争も十分承知している。このような時代にはこの人里はなれた地方に引っ込んでいるのが、とくに貴兄の場合は、きっと最良だと思う。そして、ここに来て、このぶっそうな時期をしのいでくれるようお願いする。
 ご参考までに、貴兄が訪れるのがいったいどんなところか、もう少し書き加えておこう。わたしどもの住んでいるところは、けっして王様の城などといったところではない。この小さな貴族の館は城とフュッセンのあいだに建てられている。そしてスペイン継承戦争の時代に詩的精神をそなわった一人の先祖によって築かれたものだ。
 当時、城はオーストリア軍が占領しており、ヨゼフ・フォン・シュヴァルツェンベルクが皇帝軍の部隊を率いて攻め込んだのだ。この地方の風光の美が、この地に小さな領地を買い求めるまでに彼をとらえた。それを軍功によるものとは必ずしも言いきれない。
 その後ベネチアと、そのごクレモナの地方総督になったときは、いつも夏はこの館ですごしたそうだ。もちろんその目的で建てたものだ。
 その一方、彼はバイオリンの名品のすごい愛好家だった。彼はちょっとしたコレクションをもっており、近郷のフュッセンで多くの時間をすごした。フュッセンには今でもバイオリン作りの古い家族が生きている。そのことにかんしてはすべて、いずれ、もっと多くのことを直接お話しすことにしよう。
 今は、このことだけを言っておこう。わたしが君の失われたストラディヴァリのかわりに提供を申し出たアマーティもこのコレクションのなかに入っていたものだ。
 ご覧のとおり、わたしは四年前のわたしたちの出会いのどんな細かな点も、一言一言をも正確に記憶している。
 フュッセンまで貴兄のために橇を迎えにいかせるから、「青い白鳥」酒場まで、いつ来るか正確なところをどうか手紙に書いて送ってくれたまえ。貴兄とかわいいパリジェンヌと会える日を楽しみに待っている。ごきげんよう。
 退役大尉ハインリッヒ・フォン・シュヴァルツェンベルク
 クルトが文面の行にざっと目を通したとき、シャルロッテンブルガー・ショーッセで銃の発射音が響いた。彼は侯爵からの手紙を赤いパジャマのポケットに突っ込んでアトリエの窓を開け、窓枠から大きく身を乗り出して通りのほうを見おろした。冷たい空気とサイレンの甲だかい音と、どこか遠くの機関銃の発射音までが部屋のなかに侵入してきた。
「いらっしゃい、そこの窓からはなれて、あんた馬鹿ね! おっこちるわよ! あんたも弾に当たるわ、ねえ! いいから、もう、こっちへいらっしゃいよ!」
 ベッドから誰かがこんなふうに彼にむかって叫んだ。私たちはその声ですぐそれが小さなゾエだということがわかる。それに、このベルリンでこれと同様のパリの俗語をしゃべることができる者は彼女のほかにはあるまいということからもいえる。
 当然、作家が自分の国の言葉でこのような外国の俗語を再現するのはほとんど不可能である。だから、このようなロマンではすべての登場人物が同一の言葉をしゃべることにな
る。その結果、表現がなんとも貧しくなってしまうのが考えものである。
 もしクレモナ人がポー川低地地方のイタリア語で語ったら、どんなにか活気をおびてくることだろう。ほかにも同様のことがドイツ語、フランス語、英語、ロシア語、イディッシュ語についてもいえる。そのうえ、これらの言語のすべての方言もくわえるとしたらどうなるだろう?
 私だけの問題なら友人の力をかりて、この難問をなんとか乗り越えることができるかもしれない。しかし親愛なる読者のみなさん方は、最初か二つ目の未知の慣用句に突き当たったところで早くも投げ出し、ほこりが舞いあがるほど力一杯、本を閉じてしまわれることだろう。
 そもそも、そんなことは最初からできはしない。だって批評家がまず第一に本を閉じてしまう。そして編集者も理解不能の烙印を押す。私はその方法によってしか、私の主人公たちの口から出た本当の声をお聞かせすることができないのだと、たとえみなさん方が理解してくださろうとも、今、小さなゾエが私たちの言葉で話すよう無理強いするとき、それはストラディヴァリのバイオリンの音を言葉によって再現しようとするのと同様に、非常なむなしさを感じるのである。
 ただし、どんな芸術分野もそれぞれ国境をもっている。そして誰かがその国境を越えようとするととき、彼は実体のない芸術という幻影を追いかけるようなことになってしまう。それは願望のように、イデーのように甘美ではある。そして、少なくとも手のとこかない遠い彼方に、そこではすでに物質が存在せず、あるいは、無限のなかへ消滅するかしている。超現実的世界がちらちらとまたたいて見えるだけである。
 この超現実の地の果てから、私は静かなあきらめの気持ちで、今、もどってきたところだ。だから、人物たちのあらゆる言葉を、私の愛する、美しい母国語で代用することにしよう。
 その言葉では小さなゾエがかわいらしくしゃべるパリの街のごろつきどもの俗語を再現することはできないかもしれない。しかし、そのかわりよく切れる鋼鉄の刃のように鋭く響かせることはできる。太陽の光を反射する金のように輝かせることもできる。綿雪か夕べのそよ風のようにやわらかくふるわせることもできる。嵐のようにびゅうびゅうと荒れ狂うこともできれば、野原に敷きつめられた野生の花の絨毯のように色あざやかに聞かせることもできる。だから今は、ゾエ    ヴィヤン・ジシ、ヴュー・シュミノーと言うのもやめて、単純に言ってしまおう。
「いらっしゃいよ、このおいぼれの悪党!」と。
 下ではさらに何発かの銃声が響き、反響が尾を引き、商店の引きおろされたブラインドをゆさぶった。クルトは窓を閉めた。そして広くて、やわらかいベッドのゾエのかたわらにもどってきた。二人はバッチャルキ(シガレット)の箱から一本ずつ抜いて火をつけた。
 将校付従卒は二本の長い吸いかすを暖炉の火のなかに放り込んだ。彼はこの古いアトリエの住居で、忠実にクルトを待っていたのだ。
「あの下で、社会秩序についてのちょっとした見解の相違があったようだよ、ゾエ」
「で、あの人たち、何がしたいの?」
「専制主義者と共産主義者とが撃ち合っているんだ。鉄砲弾と手榴弾が一番決定的な論争だとでもいうんだろう」
「あたしの国ではそんなこと、もうとっくに卒業したわよ、おじいちゃん。それは、ただ、あんたたちがずいぶんと時代遅れだってことの証拠ね」
「おまえの言うとおりだ。パラス・ド・グレーヴ(広場)で貴族たちの首がおっこちていたとき、パパ・ゲーテは『ヘルマンとドロテア』を書いていた」
「それ、何よ?」
「いや、たいしたことじゃない。朝飯に、何かうまいもの食いたいな」
「あんた、うまいものって言ったの? いったい、あんたにうまいものってわかるのかしら? 今なら、リュ・ド・リヴォリ(街)の『グーレ』の店で出すようなヤマウズラのパイなんか悪くないわね。ピカルディー(州)風のベーコンと合わせたキジ料理、つぎは有名な……、でも、まったく意味ないわ。あんたたち戦争に負けたんだものね、窮乏にたえなくちゃ、それだけだわ」
「おれは戦争に負けちゃいない。おまえだってそうだよ、ゾエ。おれたちゃ窮乏なんてくそくらえだ。おれは侯爵を一人知っている。おまえも知っているだろう、シャリテからあの交換列車でおれのかわりに帰国した人さ。その人がいまおれたちを自分の領地へ招待しようっていうんだ。ポケットのなかにその手紙がある。あそこに行けば何でもある。そしたら、おまえが、おれたちみじめなゲルマン人に料理をしてくれ、おれたちにうまいものが何かわかるようにね。覚えてるだろう、あの盲目になった大尉だよ」
「あたし、目の見えない人って、こわいわ。そこへ行くの、よしましょうよ。それよりここのあらびきソーセージ食べてたほうがいいわ」
「やれやれ、おまえも馬鹿だな。どうして目の見えない人がこわいんだ? おれたちは本物の小さな楽園に行くんだぜ、よく考えろって。おい、ドラール、どっかから時間表もってこい!」
 従卒はかかとを合わせ、物差しで計ったような正確な敬礼をした。
「承知しました、少佐殿」
 彼が出ていったとき、クルトは大笑いをした。
「ほら、全ドイツ陸軍のなかで、あれこそが今や唯一の軍人の見本だ、ハハハ。博物館ものだ、まったく原生動物だ。だが、その点を少し話し合おう。端的に言って、目の見えない人を恐れる理由はなにもない」
「でも、あの人たちこんな風に空をさぐるでしょう。そして杖で自分の前をたたくのよ。あれじゃ奈落の底までだって降りていけそうだわ。あたし、あの人たちがあたしを突き刺すんじゃないかとか、あたしをつかまえるんじゃないかとか、あたしを突き飛ばすんじゃないだろうかって、なんだかそんな気がするのよ」
「やれ、やれ、おまえともあろうものが。おまえは、たしか、看護婦だったじゃないか!」「あたし、そのこと、よく説明できないわ。それはそうと、おなか空いたわ」
「ドラーレがすぐにもどってくる。あいつがもう何か作ってるはずだ」
「覚えといてちょうだい! あたしにはそれが悩みの種なのよ。あの人が下で銃に撃たれたら、あたし、ケチャップをそえたすごいハム・アンド・エッグを作ってあげるわ。あの人の料理なんて、とてもじゃないけどいやだわ」
 彼女は身軽にベッドから飛びおりると、唇に口紅を塗って、毛皮のコートをひっかけて、台所へ駆けこんだ。クルトは微笑を浮かべながら彼女を見つめていた。彼女のどんな動きも愛していた。その瞬間、彼は、ホーエンシュヴァンガウへ行くまえに彼女を家に連れていき、妻として母に紹介しようと決心した。そうすることで彼女の親切に感謝を示そうと思ったのだった。
 それからさらに赤毛の女のことも考えた。彼女とはつい最近、ハチドリ酒場で会ったばかりだった。彼の目には、この小さなハチドリにくらべると彼女は、なんと野暮ったく、老けて見えたことだろう。おまけに、かつての自分ののぼせあがりようにも、つい苦笑が浮かんでくるのだ。
 玄関の間でドラーレの長靴の重々しい靴音がした。
「つつしんで申し上げます、少佐殿。ここに列車の時間表があります。列車は動いてはおりませんが、それにもかかわらず、ここにもってまいりました」
「動いていない?」
「時間表通りにはであります。動いているのは装甲列車だけで、男たちをなんとか故郷へ送り返そうと、軍部があちこちで方面ごとのグループを編成しています。しかし選抜は慎重であります」
「なーんだ、列車は動いているのか。その時間表をこっちへよこせ。下での銃声は何だったんだ?」
「政府軍の機動部隊が何人かのスパルタクス団のメンバーをとらえて、そのリーダーと年配の女を、ちょうどこの窓の下にとめてあった二台の車のなかでたたき殺したのであります。念のために、さらにもう数発、その二人に食らわせました」
「年配の女? その女が何をやらかしたんだ?」
「なんでも、ローザとかなんとかいうコミュニストの大物だったそうであります。狙撃部隊の伍長の話では、二人はホテル『エデン』から引きずり出されたのでありますが、そのときすでに弾の雨をあびていたそうであります。動物園の方角にむかって行きましたが、あとのことはわかりません」
「ローザ?」
「はい、そう言いました。なんでも、ローザ小母さんにも罰をくだしてやったんだと」
「中央駅か動物園に行って、列車がどんな具合か見てこい。おれはもう何もかもが神経にさわる。それから荷造りをしろ、そしたら出発だ」
 ドラーレはこの調査にすごく時間がかかった。やがて廊下に重い足音が聞こえ、体をふるわせ、長靴までとどく長い灰色の外套をぱたぱたとたたき、軍帽の上についた雪を払い落とした。そして彼がベッドがわりに使っているマットの上に外套を放り出すと、キッチンのほうをのぞいた。キッチンが空なのをたしかめると、ドアをノックして待った。
 つい先程までの彼を知っている者には、この初老の反逆者、私服を着た郵便局の下級職員が数時間の経過のなかで急に変わってしまったことに気づくだろう。彼はかかとを打ち合わせることもせず、困惑してドアのところで咳をしながら、妙な笑みを浮かべながら自分のまわりを見まわして、待った。
「どうしたんだ、ドラーレ? おしになったのか、それとも酔っ払ったのか?」
「少佐殿、ここではみんなどうかしています。歩道の上にも、車道の上にもたくさんの死人でいっぱいです」
「死人だと? 何かあったのか?」
「少佐殿、自分にもよくわからんのであります。戦場ではたくさんの死体を見たことがあります。マルヌは死体の山でした。それにはもう慣れました。ただ、ここでは、道路の上では、まったく事情はちがいます。ちょっと、考えてもみてください。ニュルンベルガー広場では二人の婆さんが倒れていました。一人はうつぶせに、もう一人はあお向けです。一人はちぎれた赤いネッカチーフとすり切れた灰色の夏服をつけていました。身につけているものはそれだけ、それに灰色の髪は血にぬれていて、口も目も開けたままでした。それは弾で引き裂かれた年老いたカラスのように見えました。
 もう一人は黒い毛皮を着ていました、やわらかい子羊の毛皮です。普通なら真っ先にそのコートをひっぺがしていくところでしょうがね。だって死んじまった以上、その女にはなんの役にも立ちゃませんやね。
 しかし、ここは敵国じゃありません。ここではそんなこたあできません。そのまわりに立っていた国防軍の兵隊たちだってそんなことはしません。それにノッレンドルフ・ストラッセでは小学生の女の子まで倒れていました。そのちょっと先には水兵と、こんな蜘蛛の足のようなもののついた緑色のホテルの制服を着たボーイです。
 少佐殿、どうしてこの連中はあそこの雪の上に並んで出ていたのでしょう? どうしてこんなことが起こるのです、まさに軒を連ねた商店と宮殿の建物の真ん前でですよ?」
 クルトは長いこと答えなかった。ただ、従卒から哲学者に変身したドラールを見つめているだけだった。それはハンサムな赤い頬をしたドイツ人だった。彼は賢そうな目をして、均整のとれた顔立ちの成熟した大人だった。大臣にだってなれそうだ。
 しかしこの男は郵便局の下級職員であり、反逆者だった。そして七人の小さなドイツ人の父親だった。クルトは今、その子供たちのことを思い出し、むしろ彼らを訪問したくなった。
「どうだろう、一度、君の子供たちを見たいんだが、ドラール」
「これはこれは、子供たちはきっと大喜びするとおもいます、少佐殿。私どもは光栄に存じます……しかし……どうしてわたくしの子供などにそんなことを? それともほかの子供たちのためでしょうか? なんてことでしょう、少佐殿がわたくしの家庭を訪問してくださるなんて、そんなこんなことがあるなんて!」
 クルトは以前、ゴッビ・エーベルハルトに語った子供時代に思いを馳せた。ゴッビはいつも彼をグレーネンのところに招いたが、子供たちは遠く、無縁だった。そして一度もその子供たちのなかにこに子供を見いだしたことはなかった。こんな思いのなかにも、彼はひたすらゾエを見つめていた。
 彼女は綿入れの中国服を着て窓のそばにすわり、『ナナ』を読んでいた。子供がほしいという病的な願望が彼を勇気づけた。ゾエを母親にしたかった。それはいったいどんな子供だろう。半分ドイツ人で、半分フランス人、だから彼はゾエをナナのかわりに豊穣の手にゆだねたかった。
「そうだ、ドラーレ、おれたちが戦った戦争はクルップ(企業)のためだった。今度、おれがするのはおまえの子供のためだ。戦争はおまえの仕事じゃない。いま、こうしていること、これこそおまえの仕事だ。だからおまえはあの死者たちに同情したのだよ、ドラーレ。列車はどんな具合だった?」
「大変な混雑です。この数日間は全然家から出ないのが一番いいのではないかと思います。たとえ将校だろうがなんだろうが誰も敬意を払いません。私は一人の障害者が大尉の頭を松葉杖でぶんなぐるのを見ました。その後で大尉の前につばを吐きかけました」
「おれも同じ目に会いそうだな……、早い話が、将校連中のなかにも障害者になったものがずいぶんいる」
「それはそうでしょう。でも、いずれにせよここ数日間は旅行に出ないほうがいいでしょう。わたくしは家の者にも家から出るなと言ってあるんです。わたくしも家のなかにいましたよ、少佐殿。どうかそのことでわたくしを怒らないでください。うちの者に言っても無駄なのです。家内はマーガリンを買うために行列に並ばなくてはいけません。一人の子供はパンのために、二人目はミルク、それも缶詰のひどいミルクです。三人目は……、まあ、わたくしらは実際、行列に並ばなくてはならないのです。そのとき近くでは銃撃です。ここ数日間は旅行に出ないようにしてください、少佐殿」
「よし、わかった。今日から四日間の休暇をやろう。給付伝票を書くから、そいつをもって兵営に行け。そしてそこでくれるものを家族のために受け取れ。それから、いつか午後におまえのうちを訪問する。ここにおまえの住所を書いてくれ」
 ドラーレとクルトはそれぞれ同時に書いた。それから従卒は何かを探すように周囲を見まわした。
「なにをぐずぐずしているんだ? 給付伝票はここにある。さあ、もう行ってよろしい」「ありがとうございます、少佐殿。二十日の朝、出頭いたします」
 ぎこちなく、恥じらいながらドアから出ていった。クルトは彼のあとからびっこをひきながら行き、前室とのあいだのドアを閉めた。浴室のなかでシャワーの饗宴のための準備をととのえ、氷のように冷たい水から受けたあのずっと昔の陶酔をふたたびよみがえらせていた。火花のような水滴が、すりへった体と義手と義足とを打った。
 クルトはゾエに、従卒に休暇を与えたこと、そして旅行を延期しなければならなくなったことを告げた。
「あの銃撃のせいなの? あんな弾の二三発でこわがることないでしょう、年寄りのわんぱくちゃん。あたしたち、二人とも前線にいたのよ。だから、あたしたちそこで何もかも見たわ。そうでなくちゃ、ここで、すごくこわい思いをしたかもしれない。だから、あたしたち二人には、これからはもっとよくなるわよ。そんな変な人訪ねたってなんにもならないわよ! そんな人のこと忘れなさいって。あたしたち二人にとって、それがいいことだって言うの? あんた、あたしがあんたを愛しているってことわかってるの? あんたを愛してる、愛してる、愛してる! あんたはあたしのかわいい、スケベイなドイツ野郎だわ。だから、あたしあんたを、いやんなるくらい好きなのよ!」
 ゾエはケラケラ笑いながらクルトに飛びついた。そして息がつまりそうなほうど、しっかりクルトを抱きしめた。鋭くて堅い舌がクルトの唇を割って入ってきて、長いあいだその舌をはいまわらせていた。やがて二人はほほ笑み合い、忘我の境にひたっていた。
「なあ、ゾエ、おれはおまえとのあいだに子供がほしい。半分がドイツ野郎で、半分がゴール族だ。ちっちゃなアルマン−ゴルワーズというとこだな、ヘヘ。おまえをおふくろのところへ連れていこう。その子はそこで成長する。その子はきっと本当の人間になる。もちろん、ほかの人間の子供たちよりずっとかわいくて、強くて賢い子供になる」
「あんた、なに言ってんのよ! そうなったら、あたし、スタイルがだめになる! ぶくぶくにふとっちゃうわよ! それにオッパイだって、どうなると思う? あたし、そんなに馬鹿じゃないわ!」
 クルトはゾエの裸の腰をなで、小さな固い乳房をなでた。
「そのとおりだ。そんな犠牲を払うには値しないな。それにこの次のフランスとの戦争に行かなければならないかもしれないんだものな。よし、そんことは忘れよう」
 ゾエは短い冬の昼下がり、アトリエの窓を横切っていく赤い球体を長いあいだ見つめていた。しばらくすると、そのなかに穴があき、シュプレー川の氷の上に落ちた。それから遠くのほうへころがっていき、氷の穴のなかに沈んだ。
 しかし明日になれば、誰かがその奈落の底でその球体に息を吹き込んでふくらませるだろう。すると、その球体は風船のように冬の空に舞いあがる。子供のふくらんだ顔のように霧のなかに光線を放つ。
「フランスにたいして? そうならなくちゃならないんだったら、そうなるしかないわね」 ゾエはそういって悲しげにほほ笑んだ。
 クルトは不思議な気がした。こんな微笑をちょと上向きかげんの小さな鼻をした快活なゾエの顔にまだ見たことがなかったからだ。
「どうしたの? おまえは……もしかしたら……」
 ゾエは勝ち誇ったように笑った。その笑いは鈴をつけた馬に引かれて、沈みゆく赤い球体の下をすべる橇のように響き、きらきら光るその鈴は炭火のように赤茶色の馬のたてがみに反射する。
「あたし、もう、三カ月なのよ、おいぼれのお馬鹿さん。もう、三カ月よ!」
 クルトは急になにかこみあげてくるものを感じた。彼は手をのばして火のように赤い夕日をつかまえて、この小さな妖精に与えたいような衝動にとらわれた。だってそれ以上に価値のある贈物は思い当たらなかったからだ。
 彼はどうしようもなく涙がこみあげてくるのを感じた。彼はびっこを引きながらベッドのほうへ行き、頭から掛布をかぶって、泣きだした。
「何してんのよ、お馬鹿さん?」
 ソエは掛布をクルトの頭からはぐと、彼のほうに身を投げ出した。彼女は彼の明るい金茶色の髪にキスをしながら、その昔、テッサリアの葦の茂みがささやいたような、たわいもない言葉を彼の耳に楽しげにささやいていた。
 クルトも笑わなければならなかった。だから涙のなかで笑った。彼は手をのばしてベッドの掛布の上においてあったギターを取った。ギターには相変わらず、おなじみのリボンがつけてあった。彼は楽器のネックを木の腕の下に突っ込み、無傷のほうの足をベッドの上にあげて、ギターをぼろんと鳴らして、うたいだした。
「アロン・ザンファン・ド・ラ・パトリ……(行け、祖国の子らよ……)」
 シャルロッテンブルガー・ショーッセは聞き耳を立てた。ときどきこの歌をメーデーの日に聞いたことがある。しかしドイツ語でだ。
 そこの床の上に放りだされた本の頁のなかに横たわっているナナも注意を向けた。
 ゾラのパリは汚らしいホテルのベッドの上で何度も彼女を泣かせた。そして、その下の通りでは赤いズボンのフランス兵がセダンへむかって行進していく(プロシャ・フランス戦争、一八七〇−一八七一)。
「ベルリンへ! ベルリンへ! ベルリンへ!」群衆は喚呼の声をあげていた。
 しかし、いまベルリンのシャルロッテンブルガー・ショーッセは相好をくずして笑っている。あのとき以来、セダンはドイツ領になっている、ヘヘヘ。とはいえ、だからここまであの歌が伝わってきたのだろうか。
 今、その歌を、ギターをぼろんぼろんと鳴らせながらクルトが歌っている。太陽の球体は沈み、通りではまたもや銃声がとどろきはじめた。
「アロン・ザンファン……」
 玄関の鈴が鳴った。クルトはギターを鳴らし、うたい続けた。未来の小さなアルマン−ゴルワーズのための歌を。フランス語の歌詞のなかにドイツ語が混じった。ゾエは笑っていた。すると前室でまた鈴が鳴った。
 クルトはうたい続けた。ちょっとそこから玄関をのぞいてくれ。ここにおまえがいてはまずい。前進、前進……」
 ゾエは笑いながら駆けていった。そしてドアを開けた。廊下には、ほとんど真新しいテンの毛皮のコートを着た赤毛の女が立っていた。
 クルトは二つのドアを通して彼女を認めたとき、リボンのついたギターのネックを鹿皮の手袋をはめた義手の下からはずした。そして二重のドアのパースペクティーブのなかを透かすようにして注意深く赤毛の女を観察した。
 白い顔、真紅の唇、毒々しいグリーンのジョッキー・キャップが薄やみのなかに、トゥールーズ−ロートレックの華やかな色のパステル画の複製のように浮かんでいた。しかし二重のドア枠のなかには水平面と直線とが交差するキュービストの世界空間が口を開けている。
「見てらっしゃい、この殺伐とした将校のアトリエも、いまに小さな心地よい愛の巣になるわよ」
 以前、あの真紅の唇の奥からそんな声が聞こえたものだった。
 クルトは身動きもせずに、待っていたが、やがて、どんな危険をも絶対に排除してみせると言わんばかりに、ゆとりをもって笑いだした。
「君は、自分がいかに正解をだしていたかもう覚えてもいないだろうな」
 彼らはゾエも理解できるようにフランス語で話した。赤毛の女は毛皮を脱ぎ、一インチほどの長さの真紅のガラス製の吸い口にさし込んだシガレットに火をつけた。そして鯨の背中から間欠的に吹き出す潮水のように、ぴくぴくする鼻の穴から二本の青い煙の帯を吹き出していた。
 彼女は自分の家ででもあるかのように、アトリエのなかをわがもの顔に歩きまわった。電気のスイッチをまわして、彫りのある大きな安楽椅子の横から肘かけ越しに、後ろ向きに身を投げ出した。足の先ははその肘かけからたれさがり、彼女の短い服のすそは太もものところまでめくりあがり、ストッキングの奥のほうには固い肉の張りつめた美しい肌がこれ見よがしにちらついていた。
「あなたはクルトの愛人なのね、マダム?」
 彼女はクルト・フォン・ティーッセンにぴったりくっついてベッドの上にすわっていたゾエにたずねた。
 その声には嘲笑の響きはなかったものの、斜めに切れた彼女の目はゾエのほうに、なんとも鋭い視線を走らせ、全身を敵意にみなぎらせていた。この女の頭に短くカットした豊かな赤毛の髪をかぶせるとどうなるかと品定めでもするかのようににらみつけていた。すると、こんな小娘は部屋の隅にでもころがっているほうが最も身分相応だというような気がしてきた。
 一方、ゾエのほうも腹をくくっていた。けっしてこの女にいつまでもつべこべ言わせておかない。そして今は、この誘うような意味ありげな頭に一発食らわせてややったらどうだろう、などと空想していた。
 赤毛の女は言った。
「もし、あなたに興味があるんなら、言ってあげるわよ、かわいいこちゃん。だったら『イエス』だわ。あたしもこの人の女の一人だったわ。でも、もうおわったことよ。あたしを警戒しなくてもいいのよ。あのころとはあたし好みが変わったの。そんなことって、もうあきあきしたわ」
「じゃ、なんでここへ来たの? あたしと知り合いになるためかしら?! あたしのことがそんなに知りたい? じゃあ、ごらんなさいよ、これがあたしよ!」
 彼女はキモノを脱ぎ捨てた。そして裸のまま立っていた。彼女の小さな乳房は敵意をむき出しに尖った先端をやや外側に向けていた。それからゾエは体をまわして、背中も見せた。
「あたしって、こんななのよ。わかった? こんなのよ、あたしは。あんたがそのために来たっていうなら、ようく見たらいいでしょう!」
 彼女は手を真っ直ぐ上にのばすと、円錐のようにくるくるまわり、こぶしをにぎりしめた。クルトと赤毛の女は涙が出るほど笑った。二人はゾエをとらえて、なにかおかしなことをした子供のようにゾエにキスをあびせた。やがて、ゾエも一緒になって笑った。
「じゃあ、あたしたちこんなに仲よしになったんだから、そのお祝いにハチドリ酒場で飲みましょうよ」
 赤毛の女は勝手にきめた。
「あたしも、もうずいぶん長いことあそこには行ってないのよ。さあ、何かめずらしいことがないか見にいきましょう。あたし、下に車を待たしてあるの」
 ハチドリ酒場の三つの部屋は騒々しい音や笑い声や言い争う客たちの声で充満していて、すべては濃密なタバコの煙のなかをただよっていた    ピアノの音、料理のにおい、飲み物の色、突き出したりひっ込んだりする拳や掌、払い落とされた水兵帽、ベルトの上で跳ねる手榴弾、街の娘たちの赤い唇の投げキッス、たくさんの目の輝き、言葉や話の断片、しわがれ声の悪態、ヒステリックなくすくす笑い。
 ゾエはすっかりおじけづいてクルトの義手につかまった。彼女は全身をふるわせている。そのせいで木の腕までがふるえた。
「こんなとこ、出ましょう。なによこれ、なんて場所なのここは。この向こうにはビア・カウンター、あそこではアパッチのとっ組み合い、これじゃ、モンマルトルの幼稚園だわ。行きましょう、あの女の人、あたしたちをこんなところへ連れてくるなんて、まったくどうかしているわ」
 クルトでさえこんなハチドリ酒場をこれまでにも見たことがなかった。以前は、ここでは秋の午後のおそい昼食どきには、画家や音楽家だけがそれぞれのコーヒーを飲み、兵士たちはビールを飲んでいた。
 今はまるで汚水が通りから流れ込んできたようなものだ。そして、ここにはその沈殿物だけが残っている。だれも刑事のことを気にしていない。警官たちは最もいかがわしい人物とも握手をし、女装をして化粧を塗りたくった男たちは、女を模倣する才能をヴァラエティーの演目のなかで実演してみせる。海軍の水兵も陸軍の兵隊も、酔っ払いも、傍若無人なやつも出たり入ったりしている。
 つまり、こんなのが例の革命というやつなのか? クルトは考え込んだ。
 椅子の一つを引いて、ゾエをすわらせた。やがてもう一つの椅子も空き、クルトも席についた。テーブルには狙撃部隊の伍長と二人の水兵もすわり、三人とも大きな葉巻を吸っていた。
「おまえ、どういうなわけでここにやってきたんだ、ルンゲ?」
 水兵が伍長にたずねた。
「今日はちょっとばかり息ぬきがしたくてな。おまえ見たか、あのルンペンのリープクネヒトとローザ小母さんをぶちのめした男。棍棒で、まるで野良犬をぶんなぐるみたいだった。おれたちはショーッセを巡回中にやつらを見つけて車のなかに押し込んだんだ。おれもやつらの頭をほんのちょっとつかんだがな。するとフォーゲル中尉とリップマン中尉がレヴォルヴァーでやつらに数発ぶっぱなしたんだ。それからローザ小母さんを運河へ放り込んで、男のほうは霊柩車に乗せた」
 水兵たちは無言で聞いていた。クルトは伍長の目をにらみつけた。その男は牛首で、太っていて、動物の目つきをしていた。
「おまえはそんなことが、そんなに自慢なのか?」
「あたしゃ、あんたには話してませんぜ、少佐殿。あたしゃ、あたしの同郷の友人に話してるんでさあ。あんたにゃ、関係のないこった。あの二人は腐ったコミュニスト野郎だった。どうだ、ちがうか、ハンス?」
「全然、ちがうな。おまえはその連中が何を望んでいたか知りもすまい」
「そんなこたあ、ようくわかってるさ。ロシアのあのルンペンどもがやったのと、まったく同じことをやらかそうとしているんだと、フォーゲル中尉殿が言っておられた。もし、われわれに、いつやつらが仲間をわが国に送り込んでくるかがわかったら、われわれだってやつらに、目に物言わしてやるんだが」
 そこへもう一人の水兵が口をはさんだ。
「おい、ルンゲ、おまえもずいぶんと偉そうなこと言うじゃないか。だけどな、おまえはロシアでやつらが何をやったか知ってるのか、どうだ?」
「連中は全部の人間から何もかもかき集めている。だから、そんなことをやるならやってみろだ」
「誰が?」
「あのうす汚ねえユダヤ人のトロッキーと、誰だか名前は知らんが、あと三人のユダヤ人だ」
「このあほう。どうして四人のユダヤ人で一億四千万人もの人間から何もかも巻きあげられるんだ? それに、彼らの国を四方から包囲する六カ国の軍隊と、いったい誰が戦うんだ? その四人のユダヤ人か?」
「おまえたちはみんなでおれを馬鹿にしたいらしいな。しかし、おれたちドイツ人はロシアの間抜けどもとはわけがちがう。馬鹿にするのもいいかげんにしろだ。おれたちドイツ人ははあいつらとは出来がちがうんだ。おーい、チーフ・ウエーター! チーフ! このうすぎたねえ飲み屋でもシャンパンくらいはあるだろう? 金はたんまり払うぜ!」
 彼は胸のポケットからぶ厚い革の財布を出すと、数枚の紙幣を抜いて、その札を振りかざして叫んだ。
「それがローザ小母さんを殺した報酬か?」
「それともう一人のやつとな、ヘヘ。国防軍射撃部隊の払いはいいんだぜ。軍資金はたんまりある!」
 ピアノの音が煙りと騒音の海を突き抜けてきた。ウィーンのピアニストはウィーンの流行歌を力まかせに弾きはじめた。
「空に最後の青さが去りゆかば……さあ、もっと飲もうぞ、シャンパンを、子供はベッドのなかで……」
 やがて水兵が口を開いた。
「ルンゲよ、もし、今度はおれたちがおまえを痛めつけてやるといったら、どうする?」 ルンゲは体を固くした。それからへらへら笑いだした。
「おまえ、まさかスパルタクス団じゃあるまいな?」
「そうだったら、どうだというんだ?」
「そうしたら、いいか、この三個の手榴弾にもの見せてやる! ここで、おれもろともお陀仏だ。それと、もうちょっとばかり無関係な人も一緒にな」
 ルンゲがハンスと呼んだ水兵が唇を噛み、まともに憎悪の目をルンゲに向けた。
「こっから消えろ」
 伍長の首筋の筋肉が張りつめた。そしてこめかみが明らかに脈打つのが見えた。くしゃくしゃになった髪が額の上にたれた。
「なんだと? おれはここでまわりのみんなにシャンパンをおごろうとしただけだぜ。それなのに貴様たちは……」
「消えろ!」
 もう一人の水兵がこだまのようにくり返した。
 ルンゲは血管の浮き出た手をにぎりしめて言った。
「おれにどうしようと言うんだ? 行きたきゃ、自分が出ていきゃいいだろう、もし……」 すばやくベルトに触って、急に青くなった。彼がしゃべっているあいだに、クルトが手榴弾をはずしてそれを氷の入った桶のなかに放り込んだのだ。クルトは言った。
「ようし、じゃ、フォーゲル中尉とリップマン中尉だな……。万が一のときには、おれがこの名前を知っているのは有利だな。そして貴様の名前はルンゲか……」
 すべての目が伍長にそそがれた。彼は飛び上がり、ウェーターを一人突き飛ばして、部屋の入口のカーテンを引きちぎって、逃げ出した。回転ドアから飛び出そうとしたとき、二人のウェーターにつかまった。
「何するんだ? おれはなんにも飲んじゃいないぞ。おれを放せ、さもないと……」
 彼のあとからウェーターの一人と水兵の一人がついて出た。ウェーターはルンゲにまだ何も飲んでいないことをたしかめ、水兵は彼の顔に唾を吐きかけた。ビア・カウンターの二人のウェーターはげらげら笑った。
 ルンゲは腰のレヴォルヴァーをさぐったが、すぐに思い直して、立ち去った。
 キッチンのなかからはまだ叫びが聞こえた。
「このくそったれども! 今すぐにでも全師団を連れてくるからな!」
 ゾエはクルトに、いったいここで何が起こっているのかとささやき声でたずねた。
「シーッ、フランス語をここの連中に聞かれたらどうする。今度はおれたちを袋だたきにするかもしれないぞ、かわいい子ちゃん。いいかい、戦争に負けたときには」
「当然ね、憎むわ。でも、あたし、もうしゃべらない。ここから出ましょうよ。どうしてあの赤毛の狐はあたしたちをここへ連れてきたのかしら? それにあの人、まだ……」
 ちょうどそのとき、赤毛の狐が緑のジョッキー・キャップをかぶり、ブロケードで縁取りをしたテンの毛皮のコートを肩にかけてやってきた。二人の水兵のあいだに腰をおろすと、古い知り合いででもあるかのように親しげに挨拶をかわした。
「ハンス、ご覧なさい、あたしたちのところは誰もサービスに来ないの? 悪いけど、行って、シャンパンを注文してきてちょうだい。あーら、まあ、もうフランスものが来てたのね」
 彼らはセクト(発泡ワイン)を飲んだ。隣のテーブルで鋭い目をした若い男がスケッチ帳になにかをくしゃくしゃと描いていた。しばらくしてクルトは彼のそばにすわり、スケッチ帳をめくっていた。一枚の紙の上にモノクルをかけた少佐のスケッチを認めた。彼の隣にはゾエ、それから二人の水兵のあいだにテンの毛皮のコートを着て、ジョッキー・キャップをかぶって、一インチの長さの吸口をもった女が描かれていた。それはクルトがいつかはこういう画家が出現するだろうと待っていた素描画家だった。
 彼の本来の風刺画はレントゲンの目で見られた社会分析に似ていたし、ハチドリ酒場のお人好しのバルトリーニのような野性的精気をそなえていた。これらの素描は新しい地獄の断面図だった。そして心の底まで、骨の髄まで、汚れた血や泥や金や、脳みそや筋肉のの毒々しい混ぜものでみたされていた。また、戦争や殺戮の底無しの渦もあった。それはまさに大地の胎内にまで押し込まれた新しい漏斗だった。
 クルトは新しい『神曲』を書く必要を感じた。そしてゲオルク・グロスと称するこの若者はもしかしたら、この若者を口を開けた漏斗の底へ送り込むべき、あのラテンの詩人の影なのかもしれない。やがてラテン詩人の影は彼に別れを告げて言った。
「この素描は画集として出版します。それは一部ずつ手で色をつけた、通し番号つきの、五十部限定版となるでしょう。マリク出版社で注文を受付けています。では、アドュー! アウフ・ヴィーダージーン!」






ストラディヴァリの秘密      インジフ・ケレル


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