おぼえがき


 サーントーはイタリアのバイオリン製作者の生涯や作品について、今日、私たちがもっているよりもはるかに少ない知識を駆使している。ロマンのなかにちりばめられた伝記的事実や事件は今日では古くなった文献から取られている。したがって私たちは、好奇心の強い読者たちがこの本のなかに取り込まれた知識を訂正することができるように、最も新しい研究成果によって基本的なデータを少なくとも簡単に紹介する必要があると思う。し
かし、すべてのことが知られているというわけではないこともご了承ねがいたい    たと
えば、何人かの親方については伝記的データは四種類も見られる。

 バイオリン    古い文献ではバイオリンを創案したのはガスパロ・ダ・サローと述べら
れている。同様に、バイオリンの創案者の第一位に十六世紀の後半にリヨンで活動していたカスパロ・ティーフェンブルッケルをあげているものもある。
 実際には、バイオリンは楽器の論理的発達の産物であり、中世のフィドゥラによってはじまり、ヴィオラ・ダ・ブラッチョ、リラ・ダ・ブラッチョをへてストラディヴァリとグァルネリ・デル・ジェスゥが最高の、究極の形態を与え、現代のバイオリンの形にまでたっしたのである。
 すでにバイオリンと呼ぶことのできる楽器の最初の絵は、ガウデンツィオ・フェラーリ(一四七一/七一−一五四六)がヴェルチェーリで一五三四−一五三六年に描いた。現代まで伝わっている最古のバイオリンはガスパロ・ダ・サローの工房から出ており、専門家は一五六〇年ごろの作だろうと推定している。私たちの知るかぎりで、確実に製作年が特定できる最初のバイオリンはジロラモ・ダ・ヴィルキが一五六五年に製作したものである。
 ブレッシア    十六世紀には非常に豊かなロンバルディアの町だった。クレモナから約
五十キロほど離れている。十六世紀のはじめには、すでにここでバイオリン製作者ジョヴァンニ・ジロラモ・デラ・コルナが仕事をしていた。ブレッシアのバイオリン製作業の創立者で製作者はガスパロ・ベルトロッティ(一五四〇−一六〇九)である。多くの場合、彼が生まれた近くのサローという小さな町によって、ガスパロ・ダ・サローとして知られている。
 彼の最も有名な弟子はジョヴァンニ・パオロ・マッジーニ(一五八〇−一六三〇)である。ブレッシアとクレモナのバイオリン製作者はお互いに自分たちの作品を知っており、影響を与えあった。

 クレモナ  豊かなロンバルディアの町で、ここにはすでに十五世紀にはリュートの製
作者が住んでいた。バイオリン製作者の町の名声はアマーティ家になって確立された。町では絶対的優位の地位を占め、その他のこの地のバイオリン製作者を育てた。百五十年間、バイオリンの突出した製作者の役割を演じてきた。
 ニコロ・アマーティの後はアントニオ・ストラディヴァリがクレモナのバイオリン製造
者の指導者的人物となった。(類比的に推定しうるのはバイオリン製作者たちも    他の
職業と同様に    同業者組合に統合されただろうということである。しかしクレモナにつ
いては、その点にかんする記録はない。したがって、このロマンの作者が想定しているように、ストラディヴァリがその組合の会長であったかどうかもわからない)。
 彼の個性と彼の芸術の影で、そのほかのバイオリン製造者の一家も仕事をしていた(グァルネリ、グァダニーニ、ロジェーリ、ルッゲーリ、グランチーノ)。ストラディヴァリ家とグァルネリ家との反目については直接的な資料はない。しかし、人間のねたみがクレモナのバイオリン製作者相互の関係をそこなっていたということは、十分ありうることである。(ロマンのなかの敵対関係の動機は全面的に作者のフィクションと見なすべきである)
 古典的時代になお加えることのできるクレモナの最後のバイオリン製作者は、カルロ・ベルゴンジ(一六八三−一七四七)である。現在、クレモナではバイオリン製作者の町としての名声を回復しようと努力している。そこには若いバイオリン製作者養成のすばらしい学校がある。そしていつも国際的バイオリン製作者のコンクールがおこなわれている。
 フュッセン    インスブルックのすぐ近くにあるこの町はバイオリン製作の初期の中心
地だった。一四三八年にはすでにそこに最初のリュート製作者が記録されている。そして一五六二年にはそこにリュート製作者の同業組合が設立され、後にはバイオリン製作者の組合になった。
 ここで一番有名な家族はティーフェンブルッケル家であり、この家は近くのロッスハウプテンの集落の出である。十六世紀のあいだにはこの一族の多くの血縁者が外国に働きに
出た(カスパルはリヨンに、ヨハンはパリに、ヤコプはジェノヴァに、マグヌスはベネチ
アに、レオンハルトとヴェンデリンはパドヴァに)。
 ほかの一家のものもしばしば外国へ出ていった。プラハのバイオリン製作者学校の設立者(エドリンゲル、エベルレ、ヘルメル、ラウフ)も同じくフュッセンかその周辺の出身である。北イタリアとアルプスのバイオリン製作者との接触はしばしば証明されている。しかし、全体としては彼らのバイオリン製作作品の分析のほかに証明することはできない。
 ミッテンヴァルト  南ドイツの町であり、今日では名人の製作によるバイオリンや工
場生産のバイオリンの中心地として知られている。ここにはバイオリン製作者の専門学校があり、バイオリン用の材木の取引も集中している。
 ここに定住した最初のバイオリン製作者はマチアス・クロッツで、それは一六八三年のことだから、ストラディヴァリや彼の同世代の同業者が経験を積むために彼のところを訪れたというのはありえない話である。

 アマーティ家  この一家はバイオリン製作者の町としてのクレモナの名声を築いた。
最初のバイオリン製作者はアンドレア・アマーティである(生まれは一五二〇−一五三五年のあいだ、死んだのは一説によれば一五七五−一五八〇年のあいだ、他の説では一六一一年以後)。彼の二人の息子もバイオリン製作者になった。アントニオ(一五五〇−一六三八、他の説では一五五五年ないし一五六〇年から一六四〇−一六四九年まで)とジロラモT(一五五一−一六八四年、他の説では一五五六−一五六二年から一六三〇年まで)
 両兄弟は最初は一緒に仕事をしていたが、一六二四年から各自、自分の標章をはるようになった。彼らの芸術を受け継いだのはジロラモの子供、ニコロ・アマーティ(一五九六−一六八四)だった。ニコロの工房には当時の大部分のクレモナのバイオリン製作者が通過していった。彼の息子ジロラモU(一六四九−一七四〇)もバイオリン製作者になったが、質的に彼の先人たちの域にまで到達できなかった。
 バイオリン製作者の辞典のなかにはさらにいろいろとほかのアマーティが出てくるが、文書記録のなかで確認できないし、彼らの保存された楽器もアマーティ家の高い水準にはたっしていない。

 ストラディヴァリ家    アントニオ・ストラディヴァリは一六六七年に未亡人のフラン
チェスカ・フェラボスキ(一六四〇−一六九八)とはじめて結婚した。彼女とのあいだに
次のような子供が出来た。ジュリオ(一六六七−一七〇七)、フランチェスコ(一六七〇、誕生後一週間で死亡)、フランチェスコ(一六七一−一七四三)、オモボノ(一六七六年から一七四八年まで)、アレッサンドロ(一六七七−一七三二)、オモボノ(一六七九−一七四二)。
 二度目には一六九九年にアントニア・アンベッリ(一六六四年から一七三七年まで)との結婚によって次の子供をもった。フランチェスカ(一七〇〇−一七二〇)、ジャン・バッティスタ・ジュゼッペ(一七〇一−一七〇二)、ジャン・バッティスタ・マルティーノ(一七〇三年から一七二七年まで)、ジュゼッペ(一七〇四−一七八一)および、パオロ(一七〇八−一七七六)である。
 バイオリン製作に携わったのはフランチェスコとオモボノだけであり、三人の息子は司祭になり、一番下のパオロは布地商になった。知られているかぎりではストラディヴァリには一人だけジュゼッペという二十一歳年上の兄がいた。(このロマンではジャコモとして登場する。この名前がもう一つの洗礼名か堅信礼の名前であったという推測は、必ずしも全面的に否定できない。もともとアントニオはジャコモ・アントニオという名前でも洗礼を受けている)
 上にあげた伝記的データはヒル兄弟が構成した家系図から引用した。

 グァルネリ家  古く、多くの分家をもつクレモナの一族である。正確にはグァルニエ
リ Guarnieri であるが、私たちはすでに、バイオリンの商標に自らもちいた短縮した形になれている。(クァルネリ Quarneri という形もしばしば出てくるが、誤りである)
 一族のなかの最初のバイオリン製作者はアンドレア・グァルネリ(一六二六年以前−一六九八)である。彼はニコロ・アマーティのもとで修業した。彼の仕事は息子たち、ピエトロT・ジョヴァンニ(一六五五年から一七二〇年まで)とジュゼッペT・ジャン・バッティスタ(一六六六年から一七三九−一七四〇年まで)。
 ピエトロTは同時にすぐれたバイオリニストであり、マントーヴァ公爵の楽団の音楽家として、またバイオリン製作者として住みついた。彼の作品としては五十丁ほどのバイオリンと数丁のヴィオラが知られており、いずれもすぐれた楽器である。クレモナのバイオリン製作者とのちがいはスタイネルの要素も取り入れていることである(ロマンのなかでは模倣者として性格づけられているが、これは極端な、誇張された性格づけである)。
 ジュゼッペTはクレモナにとどまり、彼の後継者はピエトロT(一六九五−一七六二)と、とくにジュゼッペU(一六九八−一七四四まで)がなった。古い資料では一六八三−一七四五年。ジュゼッペU・グァルネリ、いわゆるデル・ジェスゥは美しいバイオリンの製作というクレモナのバイオリン製作者の努力を頂点にもたらした人物である。
 彼の師匠は知られていない。アントニオ・ストラディヴァリの弟子であったという推測は、何かがストラディヴァリに似ている彼の楽器の研究にもとづいて出てきたものにすぎない。彼は気性の激しい、熱血漢だった。口承の伝説では、ほかのバイオリン製作者を殺した。相手はたぶんヴィンチェンゾ・ルッゲーリだったと思われる。しかし裁判記録は発見されていない。彼が一時期監獄にいたという仮説は現実性がある。しかし、いわゆる監獄のバイオリンの伝説は信憑性にとぼしい。
 一七四〇年に絶頂期にたっする。この時期にかれはストラディヴァリとはことなる最良のモデルを確立した。彼の作品のうち約二百丁が保存されている。グァルネリの名前を有名にしたのはニコロ・パガニーニで、彼が一七四三年にグァルネリのバイオリンを弾いて、それを「カノン」と称した。
 現代のヴィルトゥオーゾたちはストラディヴァリの楽器と同様にグァルネリの楽器を探している。チェコスロヴァキア共和国はこの名匠の生涯の晩年のすぐれたバイオリンを所有している。このバイオリンはその色のゆえに「プリンツ・オランジュスキー」(オレンジのプリンス)と呼ばれている。
 辞典にはここに名前あげた人たちのほかにもまだグァルネリたちがいるが、彼らの存在はほとんど楽器によってのみ証明されているにすぎない。それらの楽器にしてもその真偽のほどについては疑念をもって述べている。

 スタイネル    ヤコプ・スタイネル(一六一七以前−一六八三)は作品の質によってイ
タリアの古典的作者たちと比肩しうるイタリア以外の唯一のバイオリン製作者である。それゆえに、それにたいする信頼に足る証拠がないにもかかわらず、彼がバイオリン製作の芸術をイタリアで学んだということが広く言われている。(彼がストラディヴァリと個人的にまったく面識がなかったというのは本当だろう)
 バイオリンの製作の方法もイタリアのものとははっきりとことなっている。むしろフュッセンのバイオリン製作者から出ている。反対に彼のニスは、その成分と使用法においてクレモナで使用されているものと非常によく似ている。
 ヤコプ・スタイネルの運命も多彩である。インスブルックの近くのアプサムの出身である。若いころはかなり旅をしていた。ある旅のとき、キルヒドルフの村で金貨十五枚を借りた。それによって長期間、自分の生活を複雑にしている。彼は借金のために投獄の判決を受ける。そしてバイオリンの現物で債権者に返済する。彼はそのときかなりだまし取られた。なぜなら元の借金はいろんな裁判費用や強制的な取り立て費用とともに何倍にもふくれあがってしまっていたからだ。
 バイオリン製作者としてのスタイネルの名声はすばらしいものだった。彼は代表的な貴族の宮廷に楽器を提供して、大公バイオリン製作者と宮廷音楽家の称号を得た。たぶん、ねたみから異端の罪をきせられ、教会は彼を公開の贖罪を宣告した。
 生活の混乱と絶え間ない仕事のせいで健康を害し、ついには精神にも異常をきたした。借金と孤独のなかで死んだ。
 スタイネルの楽器は十九世紀の初頭までは、イタリアの巨匠の作品よりも、かえって求められていた。その鈴のような透明な音は音楽が貴族の館の小さなサロンから大きなコンサートホールに移行したとき、もの足りなくなった。現在では最先端に立つバイオリニストたちはスタイネルのバイオリンを実際的にはまったく使用しなくなった。なぜならバイオリンの音の理想が別の方向へ行ってしまったからである。
                                J・K・