(29) 侯爵の館へ通じる、ぶどう蔓のアーケード  一七〇一年


 一六九八年、フランチェスカ・フェラボスキが数回にわたる瀉血治療の成果もむなしくこの世を去ったとき、アントニオ・ストラディヴァリが間もなくニコロ・アマーティの娘を婚礼の祭壇の前に導くだろうということは、誰もが知るところとだった。ただ、死のみがそのことを知らなかった。死はやってきた。一度だけ威嚇の手を突きつけたが、やがて死もまたベアトリーチェとの結婚を祝福した。
 私たちは、ベンヴェヌートとわれわが友ジャコモとの話をすでに聞いているから、何が起こったかについてのおおよそのことは知っている。だから今は、アントニオの悲しみについての報告だけが残っている。しかしそのことについては、私たちもほんの少しのことしか知らない。
 私の父は家族の者の葬式のときにもけっして人前では涙を見せたことがないとよく言っていた。アントニオもベアトリーチェの葬儀のときに泣かなかった。そのことは物見高いクレモナの住人たちの誰もが見ている。そしてやっと一年間の喪が明けるやいなや、またもや結婚したのである。
 それにもかかわらず    ニコロ・アマーティの娘が何度、彼の夢のなかに現われたか、
一年間の日々に、どれほど彼女のことを嘆き悲しんだかは誰にもわからない。私たちが知りうるのは、ベアトリーチェが葬られたのは、けっしてクレモナではなく、ラヴェンナの墓地であったこと、そしてアントニオは彼女の遺体をジャコモとジロラモとともにその墓地へ運んだことだけである。
 なぜか?
 それを知っているのは、その三人だけであろう。
 一年間の喪が明けると、われわれの奇妙な、理解しがたい主人公は古い愛国者の家庭の娘アントニア・ザンペッリを婚礼の祭壇へ導いた。
 私は、夫婦はお互いによく似てくるものだということをこれまで何度も見てきた。小説は通常そのことを、夫婦の心は長い年月の絶え間ない共同生活によってお互いに影響しあい、やがて外見までが似てくるほどのだというふうに説明する。
 共通の考え、共通の心配、共通の喜び、それは夫婦のあいだの共通分母であり、それぞれの運命が分子だというのだろう。
 しかし、私は必ずしもそうとはかぎらないことに気がついた。しばしば相反するものが
お互いに引きつけあい、同一性もまた引きつけあう。男も女もお互いに相手を愛する  
たしかに、せむしの男も、それ自体、神秘なる理想であることをさまたげない。だから、もしみなさんがアントニア夫人をご覧になれば、けっして同化の理論ではなく、同一性もまた引きつけあうという私の意見のほうが正しいと判定されるだろう。
 アントニアは、実際、彼女の夫の女性版とでも言えそうだった。しかも、その名前からして運命の悪戯を如実に物語っていた。同じ背丈、真っ直ぐのびた姿勢、水平な肩、誇らしげに反らした首筋、きっちり彫り込まれたような変化しない表情、骨っぽい左右均当の鼻、そして、これまた同じ金茶色の大きな目、その目の輝きだけが、まれに思考の動きを表わすだけだ。それにこのカラスのぬれ羽色の豊かな黒髪はあらゆる流行や習慣にもかかわらず、かつらとは絶対に似合わないものだった。
 手もまた同様だった。能動的で、大きく、堅い、それでも美しく形づくられている。長い筋肉質の指は神秘な黄昏や夜明け時の森の伐採地で絡みあった二本の樹木のように、しっかりと生命を支えあい、かたく相手をとらえて、それぞれの祈りをつぶやいている。
 子供も生まれ、バイオリンも生まれた。これらの子供たちの場合、アントニオはフランチェスカが産んだ子供たちの場合のように、それが妻の子供とは感じなかった。そして妻もアントニオのバイオリンを単なる売物とは、また、かつてフランチェスカの生きがいでもあった金貨をもたらすものとは感じなかった。
 彼女はアントニオと同じく、そのバイオリンたちとの別れがたい思いをつのらせていた。そしてなんとしてもそれらのバイオリンを手放そうとはしなかった。
「このバイオリンは残しておきましょうよ。ニスがこんなに輝いているし、この形のどの線だって上品だわ。それにとっても魅惑的な声をもってる……、いやよ、あたしこのバイオリンと別れることできない。アントニオ、このバイオリンあたしにちょうだい、あたしこれに恋しちゃったわ。これは、ずっとあたしたちのものよ」
「子供たちだってわたしらだけのものだ。それでもいつかは世の中に出ていく。いいかね、あれたちは、わたしらの人類への贈物として生まれたんだ。もし、わしが鍵をかけてこの家の部屋のなかに閉じ込めておいたら、これらのバイオリンはどうやって人に喜びを与えることができるのかね? わたしらをさえ喜ばしてくれない!
 さあ、このバイオリンたちを果てしない旅へ送り出そう。王様も乞食もこのバイオリンを聴き、寒い闇の中に光と暖かさを与え、哲学者にも賢人にも新しい真理を示す。すると
わたしの手からは次々に新しい、よりよい、そして美しいバイオリンが生み出されてくる。
まるで母なる大地が豊かな実りをもたらすようにだ。いいかね、わたしはお金が欲しいから言っているのではないんだよ」
 こんな会話がしばしばかわされた。そしていつもお互いにたずね、お互いに答えあっていた。そんなわけで、外見上は、このような日常がアントニオとアントニアとの幸せな生活だった。
 しかし、いつしか、ラヴェンナへのじぐざぐの道が薄明のなかに浮かび出ていた。いつしか、冥界の川が炎をあげていた……。アントニオはいつも夕飯のまえにはベアトリーチェとピエトロ・グァルネリとのあいだの赤毛の娘の顔を見に、ジロラモ・アマーティのもとを訪ねた。
 娘は見る見るうちに成長した。アントニオは娘の体のあらゆる部分が成長する様子を見ていた。彼女のあらゆる動作のなかに、あらゆる叫びのなかに、あらゆる赤い髪や目の輝きのなかに、彼が何を見ていたかは、誰にもわからないし、誰も言うこともできない。それらのものの、なんとアンナ・マリア・オルチェッリを思い出させることだろう。
 アントニオがこの娘を理解するほど、他人を理解できる者がほかにいるだろうか? ま
た、『春』の旋律と「青い白鳥」酒場の秋のおとぎ話のメロディー    このメロディーに
はピエトロの暴飲と、アンナ・マリア・オルチェッリのクリスタルの輝きにも似た愉悦の
叫びという途方もなく激しい二つの和音にともなわれている  とがアントニオの心のな
かでどのようにもつれ合っているかを推し量ることのできる者がいるだろうか?
 日々に成長する子供心の神秘なクレッセンドの前奏をバイオリンで演奏できる者がはた
しているだろうか? それができたのは    もし自分のねぐらの秘密のなかに閉じこもり
さえしなければ  おそらく老ジャコモだけだったかもしれない。
 しかし彼はそのなかに閉じこもった。そして、あの日の朝、円柱の根元に凍死死体として発見されたときには、ただほほ笑みを残しただけで、もはや答えなかった。その問に答えるにはテッサリアの葦の茂みはあまりのも遠すぎた!
 ジャコモ小父さんが四阿のそばで死体で見つかったという報告を、オモボノが父に知らせたとき、アントニオは、いま、彫りにかかろうとしていた頭部を置き、白い皮の前掛けをはずし、白い毛糸の帽子を脱ぎ、ゆっくりと着替え、縁取りをした黒テンの毛皮のコートを着て出かけた。彼はジャコモのお気に入りのオモボノと工房のなかでのもっとも目をかけている職人だけをともなっていた。
 古い屋敷の庭に集まってきていた群衆を通りに出して、門を閉めた  そして、その後
で、不思議な、不可解なことが起こった。アントニオは雪だるまの周りをまわり、それから庭のはずれまでいって、そこで案山子の周りをまわった。そして長いことそれを眺めていた。そのあとで、やっと、まだ円柱の根元に横たわっている兄のところにもどってきた。 アントニオは何かを解読するかのように兄を見つめ、そして兄がほほ笑んでいるのを見
た  アントニオもまたジャコモにほほ笑みかけた。雪の上から彼を抱きおこし、なにか
悪戯をした小さな子供でもあるかのように彼をかかえあげ、今度は、ほこりの積もった家のなかへ運んでいった。ジャコモを食堂に運び込むと、厚くほこりにおおわれたテーブルの上に寝かせた。
 アントニオは職人にすべての暖炉に火をくべるように言いつけ、父の死以来、まる二十年ものあいだ足を踏み入れたことのない家の掃除にとりかかった。職人はシャベルで何杯ものほこりや蜘蛛の巣を掃き集めた。掃いてはごみを暖炉のなかに放り込んだ。そしてまたもや掃いて、またもや燃やした。
 立派な若者に成長していたオモボノは地下室から屋根裏までを歩きまわり、すべてを点検した。暗くなりはじめたとき、父親は息子に何か食べる物を取りにいかせた。
「うちに行ったら、だれもこわがらなくてすむように、今日、父さんはここに寝ると言っておけ」
 オモボノは夕飯を運んできた。そしてローソクももってきていた。職人は横たわっているジャコモの真上にさがっている彫刻のあるシャンデリアにローソクをさし、十本の枝のすべてに火をともした。
「じゃ、おまえたちはもう行ってよい」
 アントニオは二人とともに行き、彼らが出たあと門を閉めた。それから玄関のぎしぎしと鳴る階段をゆっくりとのぼっていき、木片を数本、暖炉にくべて、書斎で夕食を味わった。食べおわると、死者のほうに近づいた。古い虫にくわれて穴のあいた毛皮を脱がせて、それを死者の下に敷き、その上でジャコモの体を真っ直ぐに寝かせ、赤いカーテンを引きはがして死体の上にかけた。
 肘掛椅子をテーブルのほうに引きよせる。その椅子に身をうずめて、ローソクの火がすべて燃えつきるまでローソクの火を見つめていた。ローソクの火が一本また一本と消える。すると消えた瞬間ローソクの芯は死体の上方で煙をくすぶらせる。やがて最後のローソクの炎がそのはためく光をジャガ芋ほどの大きさの、滑稽な鼻の上に投げかけていたが、そ
れも消え、あとは暖炉のなかの燃え残りの薪の火だけとなった。
 暖炉の火も消えた。しばらくしてアントニオは毛皮のコートを自分の体にかけて、真っ暗闇のなかで、さも何かを待っているかのように目を覚ましていた。
 彼が古い家か、それとも、ほかの何かと、何について語っていたのか、知るよしもない。
ただ一つたしかなこと    次の日、司祭の立ち会いもなく、円柱の下にジャコモを葬った
こと、そして三日目に壁職人を呼び、彼らと話し合ったことである。それから職人たちは、家のなかのものすべてが運び出されるのを待って、家を取り壊した。
「おまえたち五人に新しい家を与える」
 アントニオは最年長のジュリオに言った。
「この家におまえたちは各自、二部屋ずつ取ってよろしい。カテリーナはどうせ結婚することもあるまい。すでにもう家のことも、おまえたちの面倒も見ていることだからな。おまえたちは広い世界のことだ、どこを放浪しようとかまわん。わしは、おまえたちが疲れはてて家にもどってきたときに、横になる場所があるようにしておいてやりたいだけだ。一階は仕事場もかねる。フランチェスコとオモボノのためだ。二人ともろくなバイオリンも作れはしまい。フランチェスコはその点にかんしては阿呆だ。オモボノはなまけものだし、無神経だ。しかしそんなことはどうでもいい。オモボノはアレッサンドロと壁職人の仕事でも見張っておれ。どっちみち、一日じゅうぽけーと見ているだけだ。どれもこれも、阿呆ばっかりだ」
 三日たったころ、オモボノが工房に卵形の革の袋をもってきて父に渡した。父は革を切り裂いて、ジャコモの遺書を取り出して、長いあいだ見ていた。
「どこでこれを見つけた?」
「地下室の角です、そこを掘り返していたときに」
「もどって、その掘り返したあたりを調べてみろ。そこにまだ長持ちがあるかもしれん。ジャコモ兄が自分の指輪の封印を使ったのかどうかは知らんが、この字はおまえたちのジャコモ小父さんのものだ。さあ、行け」
 一時間後、オモボノとアレッサンドロは鉄の箱とともにもどってきた。二人の壁職人の若者が苦労しながら二輪の手押車で運んできた。その後には野次馬の群れが続いていた。そして老婆が大きな声で話し合っていた。
「ストラディヴァリ家の財宝を運んできたんだと。掘り返した地下室から見つかった。あそこじゃ、ほれ、ジャコモが悪魔と直接話しおおていたというじゃないか。あそこから炎
が吹きあがった  それで財宝がみつかったんじゃ」
 春には新しい家に屋根がかかった。そのそばを通りかかったものは誰もが、流行のロココ風の建物の表をながめていた。家が完成し、アントニオが真新しい家具を入れたとき、その家に引っ越してきたのはカテリーナだけだった。四人の息子たちはてんでばらばらに四散していった。
 もし、なにか『フォーサイト家のサーガ』<ジョン・ゴールズワージー・一八六七−一九三三>みたいな、何巻あるのか知らないが、そんなものを書こうというのなら、今がちょうどいい機会かもしれない。
 これらの五人の子供と、さらにアントニアが産んだアントニオの五人の子供たちが提供しうるような興味ある運命の綾織りや心理学的研究がどんなものか想像してもいただきたい。これら十人の人生の軌跡を、たとえばチクルス『ルーゴン−マッカール家』<エミール・ゾラ・一八四〇−一九〇二>のような膨大な家族叙事詩だけでなく、同時に広い意味でのその時代の歴史研究ともなるような、そんな手法で織りなすことができるだろう。
 手法はよく知られている。そのためにはゾラのような天才は必要ない。しかし私はそのような踏み荒らされた道はほかの人にゆずって、たとえアントニオの十本の苗木がなんらかの意味で私に興味をいだかせるとしても、バイオリンにかんするロマンという観点からいえば彼らのことを取り上げるのは断念せざるをえない。というのも、これらの子供たちのうちアントニオ・ストラディヴァリの後継者となった者は一人もいないからである。
 音楽家や楽器製造者の家庭では遺伝と考えられるケースがかなりしばしば現われる。しかし、それにもかかわらずアントニオ・ストラディヴァリの場合は、「後継者がなければ、幸福な先人ではありえない」というアンドレ・アディの告白がまさしくあてはまる。
 その外見は父親のシニョーレ・アレッサンドロから受け継ぎ、多くの子供たちに引き継がれたといえる。話しぶり、身ぶり、歩き方、それに目つき。ただ一つだけ受け取らなかったもの、そして伝えもしなかったものがある。それはカエデやトウヒをどうやって理解するか、どのように描き、切り、にかわづけをし、ニスを塗るかだった。
 アマーティ家やグァルネリ家では、その四世代のすべてが生まれくるバイオリンの産婆役をはたし、揺籃となり、そしてそれらのバイオリンを成熟する生命のゆるやかな坂道をとおって導き続けた。
 アントニオの息子たちのなかではフランチェスコとオモボノだけが父親の職業を不器用に受け継いだ。そして新しい家をヴィア・ディ・サン・セバスティアーノに得たとき、フ
ランチェスコはまさに修業の旅に出たのである。
 しかし、いたずらにフュッセンやミッテンヴァルト、それにブレッシアへと父親の旅修業の足跡をたどってさまよっただけだった。もどってきたとき、技術の面ではいぜんとして未熟だった。アントニオは息子をあざ笑った。
「じゃあ、おまえは工房も家も金も得たのだ。結婚だってしようと思えばできる。ただ、誰がおまえを親方として認定するかだ。わしが認定しないことはだけはたしかだ」
 フランチェスコは父の顔を見ようともせずに、無関心にバイオリンのネックをけずっていた。そして単調な、無表情な声で言った。
「ぼくは美しいヴィオラ・ダ・ブラッチョを作りました。ジロラモ小父さんも、ジュゼッペ小父さんも気に入ってくれました。その音だって小父さんたちにはよく聞こえました。だから小父さんたちはぼくに認定書をくれました。たとえお父さんが反対でも、ぼくには十分です。お話ししたかったのはそれだけです」
「当然だ。おまえはもうほかの人からは認定を受けたというのならな。今やおまえもF・ストラディヴァリのサインを貼りつけてもいいだろう。その事情のわからん者はFが何を意味するかもわかるまい。わしの名前だけを見る」
「ぼくはフランチェスコと名前を全部書きます  大きな字で。そしてストラディヴァリ
は小さく書きます。それでいいでしょう?」
「書きたいように書くがいいさ。おまえの名前を否定するわけにはいかん。おまえの出生
簿にはその名で記入されているのだからな。だがな、一つだけ教えてくれんか  どうし
ておまえはこの職業を選んだのだ? それに、どうしてオモボノの例にならわんのだ?」 オモボノは新しい家の建設現場の周辺を長いあいだ見てまわっているうちに、建築の現場監督の仕事に興味をいだくようになった。ある日、自分の作ったチェロやヴィオラや、それに一台のコントラバスをたたき壊して、父に遺産の分け前を要求して、パドヴァの知り合いの建築の親方のもとへ出ていった。アントニオはこのことを本心から喜び、一度ならず見習うべき手本としてフランチェスコに示した。
「たしかにいい職業はたくさんある。だから、自分に最も適した職業を選べばいいのだ。わしにはどうもわからんのだが、どうして、おまえがだ、よりによってバイオリン作りという、おまえにはまったく向いておらん仕事を選び、その仕事のために無駄な汗を流すのだ?」
 この言葉のなかには残酷な棘がある。それを聞いたものは誰もがそう思った。しかしアントニオは堅い木から彫り出されていた。だから、先だっての自分の師匠ニコロ・アマーティの、自分の息子のジロラモを何がなんでもバイオリン製作者に育てあげようという弱みさえも理解していなかった。
 アントニオの父はたしかに生地商人だった。息子のフランチェスコが生地商人になって悪いわけはないではないか?
 ジロラモは、夕暮れどき、アマーティ家の腐った木の支柱に支えられたぶどう棚の下にすわってアントニオと話し合っているとき、この意見に賛成した。
「そうとも、ぼくにはわかるよ、アントニオ。ほかの人間だったら、あんたのことを父親としての情がないと言うだろう。だが、ぼくにはあんたの気持ちがよくわかる。たしかに、ぼく自身が、ぼくの全人生はなんと無駄だったかが分かるんだ。そして、ぼくだけが知っている、あんたは五人の子供に金を均等に分け与えたことをな。ジャコモはジュリオとフランチェスコには遺産を与えなかった。死者の遺言は絶対に変えてはいかんというのが常識だ。しかし、あんたはジャコモよりもずっと正義を重んじる。だからこそぼくはあんたが好きなんだ。あんたは相手が誰だろうと、その相手の目を見返す勇気がある。ところが、ぼくには、それができないんだ。さ、その勇気を祝して、今は、飲もう」
 彼らは飲んだ。そしてワインの味に、この古いぶどう棚の下でワインを飲んだいろんな人たちの思い出の味が加わった。
「わたしの後を継ぐバイオリン作りが、たった一人だが、すでに、現われたよ。そいつは若いジュゼッペ・グァルネリだ。昨日、そいつのバイオリンを見たがね。それは名づけ親のところはおろか、ほかのどこでも学び取ることのできないようなものだった。彼はその技術を心と手のなかにもっている」
 ぶどう棚の塀のむこうで赤毛の娘が喜びのあまりほとんど叫びそうになった。彼女は隠れて聞いていたのではない。ワインのいっぱい入った壺をもって、ちょうど来たとき、その言葉を偶然耳にしたのだ。美しい白い腕のなかで壺がふるえ、水車の輪のテーブルに壺を置くときにも、まだふるえていた。
 アントニオはそれに気がついた。
「どうしたのかね、ベアトリーチェ?」
「どうして、そんなことおたずねになるの、アントニオ小父さま?」
「ほかのときには、おまえの手がふるえたことはないじゃないか」
 ベアトリーチェは笑いだした。そしてぶどうの蔓におおわれたアーケードの坂道を駆け
おりていった。彼女はぶどうの幹にそって小道を駆け抜け、大きな庭を抜け、門のアーチ
の下まで来て、門の階段をおりた。その上には小さな赤い斑岩の獅子像たちがほほ笑んでいた。獅子たちは階段の下の通り抜けの通路にオリーヴ・ブラウンの顔をした黒い目の少年が彼女を待っているのを知っていたのだ。
「ジュゼッペ、ジュゼッペ! アントニオ小父さまが何をおっしゃったかわかる?」
「そんなに息を切らせて何だっていうんだい、おばかさん。何を言ったの?」
「バイオリン作りで、アントニオ小父さまのあとを継ぐことができるのはあなただけだって。あなたのバイオリンを、昨日、見たんですって。あんな仕事はあんたの名づけ親のジュゼッペ・グァルネリのところでも学ぶことができないだろうって」
「ぼくだってあの人のところで学んだんじゃない。それは本当だ」
「それに、それは誰からも学ぶことができないって。あなたは心と手のなかにそれをもっているんですってよ」
「ぼくの心とぼくの手って、何か共通するものがあるの? それに、まったく  心って
何?」
 彼の質問はカビのはえたアーチのなかで鈍くこだました。そしてベアトリーチェはなんと答えていいかわからなかった。それに、何よりも答えたくなかった。彼女はしめった唇をジュゼッペの赤ぐろい大きな口に押しあてて、少年が息をつまらせそうなくらい強くその首をだきしめた。
「お馬鹿さん、放してくれって! 君って、ほんとに熱狂家だな!」
「アントニオ小父さまがおっしゃったことのせいよ。あたし美しいバイオリンを愛しているわ。あたし……あなたと同じくらいバイオリンが好きよ。ちょっと行って、またもどってくるわ。もう壺のワインがなくなっているころだから。あたしまたもっていかなきゃならないの。あそこの小父さんたちって、まったく底なしなんだから。ここに待ってて。夕飯のあと逃げてくるから、川のほうへ行きましょう。アンジョーラ伯母さまも逃げ出すのよ。どこかの将校さんが伯母さまを待っているですって」
 通り抜けの通路から抜け出すと、走りながら赤い獅子の微笑に応え、ワインを取りに地下室に駆け込んだ。やがて壺を坂の上まで運んできた。
「あら、アントニオ小父さまもういらっしゃるの? どうして、いつもそんなにお急ぎなんですか? もう少しここにいらっしゃればいいのに」
「もう少し、いてくれよ」ジロラモも説得した。「せめて、この最後の壺を空けるまで!」
「わしは夕飯を食いに、モフェッティのところに行くと約束したんだ。そのあとで一緒に
侯爵のところへ行くんだ」
「よし、ぼくも君と一緒に行こう。ただもう一つ壺を空にしよう。それから途中でジュゼッペのところに寄ろう。ぼくは「三女神」酒場である人と交渉がある。それから侯爵のところへ一緒に行こう」
「いいだろう、異存はない。こっちにおいで、かわいい魔法使ちゃん」
 ベアトリーチェは鈴の杯を拭いた。それからアントニオを抱き、その両頬に子供っぽい大きな音を立ててキスをした。
 アントニオは彼女の堅く柔軟な腰のまわりをつかんだ。ワインが彼の隠され、抑圧され
た願望を解き放した  いま、彼はこの燃えるような、強く細い若い体のなかに、彼女の
母親か祖母を抱くように、自分の罪を自覚する運命の手を感じているかのようだった。
 のどかな秋の夕暮れのなかにいて、彼の体内では秋の曙光が、一瞬、ふるえたかに見えた。この痛々しい青春の余燼は早々に踏み消されざるをえない。なぜなら彼はすでに「アントニオ小父さま」と呼ばれているのだから。
 この娘は、彼女の母親のように輝くような魅力も、祖母のアンナ・マリア・オルチェッリのように一種魔女的な謎めいた魅力もなく、あらゆる点で平均的だった。顔も体も心も
    。しかし彼女のこもった声、煮えたぎる健康、荒々しい血、若駒のいななきにも似た
鋭い笑い声には、老いゆきつつあるどんな男の心の深淵までも貫き通すものをもっていた。 彼女の祖母は葦の茂みの上をふわふわとただよう鬼火だった。母親は無限に通じるラヴェンナの曲がりくねった道路の上の、ボッティチェリやモンテヴェルディの『春』だった
    そしてこの娘は暑い夏の太陽の照りつける丘の斜面に咲く燃えるような赤いヒナゲシ
の血の斑点だった。
 アントニオはこの娘を高くさし上げたかったのかもしれない。このように高くさしあげて、神聖な祭壇として彼女を示し、熱い涙にくれながら、叫ぶか、ささやくか、あるいは
バイオリンを弾くかしたかったのかもしれない  この娘こそ、まさしくこの娘こそ……
と。
 しかし、そうするかわりに、ティツィアン・レッドの髪をなで、彼女の熱い、なめらかな、しっかりした手をにぎっただけ、彼女の視線を一瞬とらえただけで、ジロラモとファレルモ・ワインを飲み干し、それから「三女神」酒場へと出かけていった。
 その日は土曜日の夜だった。聖チェチーリア広場の大きな三角形の空間は群衆であふれんばかりだった。サンタ・アゴニスト教会の塔の古い鐘が大きな音をとどろかせると、マルキザーナからは水夫たちの歌声が聞こえ、要塞のなかの兵舎からはさらに皇帝軍の帰営のラッパが鳴り響いた。
 「三女神」酒場から出た客は広場のほうへあふれ出していった。帰営ラッパはだんだん近づいてきた。やがて通りの先の角に十六人のラッパ手を乗せた馬の白い斑点が現われた。六つの分隊になって胸甲騎兵部隊が近づいてきた。
 先頭には二列のラッパ手が進む。長いたてがみの大きな馬のひずめの音を響かせながら広場を横切り、運河ぞいの道を進んでいった。籠かきは籠の前の松明に火をともした。笑い声とギターの響き、嬌声と悪態、愛のたわごとと口論、そのすべてが広場じゅうを満たしている。
 アントニオとジロラモはまさにワインの飲み友だちといったところ、いいご機嫌で広場や大きな庭園を横切って歩いていった。これらの大きな騒音の反響が鈍くこだまする廊下から螺旋階段のほうへ曲り、階段をのぼって、楽器の製造者や旅まわりの歌手、ダンサー、俳優、オルガン奏者、バイオリンやハープのヴィルトゥオーゾ、チェンバロ奏者たちのたむろする部屋に着いた。
 いま、ここは、世界中を流れ歩く旅行者でいっぱいだった。剣を腰にさげた伊達男をはじめとして、かつらもかぶらず、汚れた服を着たあらゆる種類の旅回りの喜劇役者から、汚れくさった乞食にいたるまでが満ちあふれていた。
 ここでは外見や衣装などはあまり意味がない。彼らは「今日は元気に飛び跳ねていても、明日はお陀仏になっているかもしれない」ということが、ほかの誰よりもよくわかっていたからだ。
 だから大勢のカストラートが館で王侯貴族を前にしてうたって大金を得たとしても、そんな金は一週間ももちはしない。それというのも彼らは稼いだ金をすべてカルタや闘犬、闘鶏ですってしまうからだ。あるいは突然、山道で山賊に襲われ、一年間苦労してためた金をみんな略奪されてしまうこともある。
 こんな盗賊を合わせたよりも、もっと始末におえないのが社会だ。昨日までは、まだ芸術家たちに気前よく金貨を与えていたというのに、今日になると、もう悪い病気もちとして芸術家を避けて通る。
 彼らは飲み、カード賭博をし、サイコロをがらがら鳴らし、かぎタバコをかぎ、かみタバコをかみ、パイプをくゆらせる。彼らは食い、舌づつみを打つ一方、口笛を吹き、歌をうたい、笑い合い、旅の風景を巻き取りながら旅を続ける。包みのなかにはいろんな未知の土地のめずらしいものがつめ込んである。
 彼らの瞳には郵便馬車の窓の万華鏡がゆれながら映っている。女郎屋の看板は彼らの手を浮かせ、館の塔の風見鶏が馬車の窓を横切って帽子のリボンの後ろのほうに押しやられていく。パイプの柄のなかでふくよかな香りの煙りと安食堂のにおいとが入り混じる。彼らの祈りは修道院の丸天井に生えた緑色のカビの花のなかに層をなしてたまっている。
 真っ暗な地下の穴蔵や、人気のない通りで、彼らの心臓ふかく、錆の生えたナイフが突
きささり、ドスがきらりと光ひかっている  しかしどこへ彼らが行こうとも、それでも
常に、聖チェチーリアが彼らを導き、彼らは神聖なる天へむかってオルガンの音、人間の声を送り、バイオリンを鳴らし、道化芝居を色あざやかに演じ出す。
 彼らの心のなかでは舞台の明りの炎がゆれ、演技のなかには不吉な運命を予感させる煙のタールと煤のどす黒いロマン主義的緊張があふれている。だが、どんな汚濁も自分には無関係だ。だって、生や死にむかって手をふりまわしているのは、自分のためではなく、単に他人のためだからである。
 だから、そこの酒場の大広間にたむろしているのは、そういう連中ばかりである。そして、私はほこりにまみれた彼らの額に一人一人キスをするために、テーブルからテーブルへと彼らのあいだを歩きまわっている。
 以前、アントニオが彼らのあいだをさまようことは、ほんのまれにしかなかった。最近はしょっちゅうである。彼はいつも夕食のあとやってきた。そして一ピンタ<一・四リットル>のマデイラ酒がなくなるまで、そこにねばった。
 彼はロンドンではバイオリンがどれくらいの値段か、パリのリリック劇場ではどんなオペラブッファが上演されているか、また、レオポルド皇帝は『オルフェウス』の一回の野外公演で十万金貨を使ったとか、あるドイツの小領主がヨハン・セバスチァン・バッハという神童を発見した、その子供はいま十六歳だが、あらゆる音楽形式を自分のものとしている、ロシア皇帝は世界最大のオーケストラと合唱団とバレー団を作ったなどというような新情報に耳を傾けた。
 やがて、よろよろと家路につく。そして横になり、その話をすべてアントニアに聞かせるのだった。アントニオとアントニアはしばしばベッドの上で話をかわした。
 ジロラモもよく通っていたが、彼はいつも恥じているような、そして何か重要な交渉ごとや仕事があるかのような顔をしていた。今も、深刻な顔をしてすべてのテーブルをまわり、やがて二人のダンサーとともに角のテーブルについていたジュゼッペ・バプティスタ・グァルネリをつかまえた。
「やあ、ジュゼッペ、いまあんたに気がついたところだ。ここにはアントニオも来ている。モフェッティのところへ行くことになっている。そのあと侯爵のところへいく。あんたも歓迎されるだろうよ」
 鷲鼻の、ずんぐりとした体躯のジュゼッペは鋳型で鋳たように、父親のアンドレアにまったくそっくりで、オルチェッリ家の側からのいかなる不純物も入ってはいなかった。彼は不機嫌にジロラモにつかまれた手をはなした。
「その点にかんするかぎり、このレディーたちと一緒のほうが、モフェッティや侯爵邸の音楽的馬鹿騒ぎより、はわたしには快適ですな。あんたもわたしらと一緒に残ったほうが気が利いていますよ、すぐに場所は作らせます。それにあんたの親友のアントニオはどっちみち、地獄にでも落ちあがれです」
「なぜかな?」
「あんな苦虫をかみつぶしたような木からは、苦汁が出るでしょうよ! なんだって腐らせてしまう! うぬぼれ返ったロバだ! いつもコジモの椅子か馬車に乗っているような気でいやがる。そんなもの、あいつの頭んなかにぶち込んでやればいいんだ。それに、またスペイン宮廷にも……。ああ、ごめんよ、ドンナ・エレーナ、たぶん、そんな話、君にはまったくおもしろくないよね」
「あたし、ちょっとのあいだ、すわってもいいかしら。それがあたしに一番興味のあることよ。あなた、バイオリンを作ってらっしゃるの? じゃ、すぐになにか椅子を作ってちょうだい。あたしがそこにお尻を乗っけられるように、グァルネリ親方。あたしのお尻をよ、聞いた?」
 全員が笑った。ジロラモは顔を赤くした。たとえ酒場の美女の口からとはいえ、当時はそんな言葉はまれにしか聞かれなかったものだ。
 彼らのほうへアントニオがやってきた。帽子を小脇にはさんで、グァルネリに優雅にあいさつをした。そして静かなへりくだった態度で自己紹介をした。
「ジュゼッペはぼくたちと一緒に行かないそうだよ」
 ジロラモが訴えた。
「それはまったく当然の話じゃないか、こんな人たちと一緒なんだから。もし、この二つのうち選ばなければならないとしたら、わたしもやっぱり同じ選択をするな。ただし、物
事は二者択一ではなしに、解決することもできる」
「どんな?」
 グァルネリが問うた。
「要するに、この二人の美しい芸術家も、よろしければ、モフェッティのところへご招待
すればいい。いずれにしろ、ここには場所がない    それに、わたしは保証しますよ、む
こうではここよりも上等の夕飯が待っているはずです」
 ジロラモは口ごもりながら、何か言おうとした。アントニオはおもしろがった。
「たぶん君は、自分だって招かれざる客なのに、そのほかにも呼ぼうというのか、と言いたいんだろう?」
「いやあ、そんなことはない。パオロは喜ぶだろうよ。もし、このご婦人方も、君も、ご同意いただけるなら、ジュゼッペ、行こうじゃないか」
 ドンナ・エレーナと彼女の友だちは笑いに息をつまらせて咳をし、ジュゼッペに両側からぶらさがって、一行は進みはじめた。今はもうジロラモも笑っていた。彼にも勇気がわいてきたのだ。そしてちょうどいま、来たばかりの有名なハープ奏者ジェラルディーン・ドゥ・モントを目にすると、一言の説明もなく彼女も仲間に引き入れた。
 アントニオの予想もしなかった気紛れは全員に伝染した。ジュゼッペは中庭に籠を発見
した    その担ぎ棒のあいだの地面には籠かきの下男が酔っぱらってすわりこみ、籠によ
りかかっていびきをかいていた。
 ジュゼッペはほかのものにも合図をしてから、ゆっくりと籠を遠ざけた  下男は地面
に大の字になり、いびきをかき続けた。
 アントニオはエレーナとジェラルディーンを籠のなかにすわらせ、前棒のところに立ち、ジュゼッペはその例にならって後ろの棒についた。籠を担ぎあげると、ジロラモは触れ役人のように籠の前を進んだ。もう一人の踊り子はそのまわりを跳ねまわり、ジロラモの尻をつねった。
 こうのようにして通りをとおって要塞の下までたどりつき、籠を置いたときはアントニオもジュゼッペもふうふうと荒い息をはずませていた。一行のうち女たちははしゃぎながら飛びあがり、顔から汗を拭いている二人の中年男を笑った。
「こんないたずらは若い人のすることよ、お父さんたち。これからどこへ行くの?」
 ジロラモはふうふう言いながら階段をのぼっていくと、ほかの連中も冗談を言い合いながらあとに続いた。階段の手すりの上のほうでニンフたちが瞳孔のない石の目で彼らのほ
うを見つめていた。大砲の台座のそばでは二人の歩哨が目をさまして、彼らの前に銃剣を
十字に組んで、進行をさまたげて叫んだ。
「止まれ、そこにいるのは誰だ?」
「仲間だ」彼らは大声で答えた。
「合言葉!」
「そいつを聞くのを忘れたんだ。しかし上のモフェッティのところえ行けば、おれたちに
教えてくれる    そしたら、あんたがたに向かって上から合言葉を怒鳴るよ!」
「駄目だ。いますぐ言え!」
 二人の兵士は頑固に主張した。
「だけど、わたしたちは侯爵の招待で来たんだが」
 ジロラモは重々しく言った。
「それじゃ、合言葉を知っているはずだ」
 ドンナ・エレーナは二人のマスケット銃兵の口にキスをすると、やっと兵士たちも彼らに道をあけた。このような方法で長い階段をすべて通り抜けた。そして一行全員が騒々しくモフェッティ家に突入したとき、エレーナは自分からパオロ・モフェッティにその経過を物語った。
 二人のモフェット兄弟もぐずぐずしてはいなかった。入口ホールの壁に掛けてあった武器のコレクションのほうに飛んでいき、金の打ち出し模様の飾りのあるトルコの銃と漏斗形の銃身をもった銃を取って、食堂の入り口で銃を交差させて道をふさいだ。
「合言葉!」
 二人は声をそろえて叫んだ。
「晩御飯!」
 ドンナ・エレーナが答えた。
 中央のテーブルにはすでにどこかの丸々と太った男とボナヴェントゥラ神父とがすわっていたが、ドンナ・エレーナがモフェッティ家のご主人たちに見事な反撃を食らわせたのを見て、大笑いをした。
 召使たちはすぐに追加の食器の運んできた    ジロラモのためにはすでに用意ができて
いた。パオロが三人のご婦人方に同席の人びとの紹介をしている間に、一座のものたちは興味しんしんと彼女らのほうを見つめてから、お互いにわけ知り顔にうなずき合った。
 真っ先に、神父。次にそこにすわっている、まるまると太った男。
「マエストロ・アレッサンドロ・スカルラッティ殿です」
 彼はどんな効果が現われるか待っていた。しかし太ったハーピストだけが、彼女の最近のレパートリーのなかにマエストロのすばらしい作品を取り入れたことを述べた以外に、たいした反応はなかった。
 モフェッティ家のフランス料理のコックは、この有名な客人に敬意を表するためにとくに肉パイ料理の領域で腕をふるった。そしてマエストロは非常にくだけた人物だったので、ある肉パイにはコンチェルト・グロッソという名をつけた。それはヤマウズラその他の鳥肉をきざんで、卵とトマト、それにいろんな種類の香辛料を混ぜ合わせたものであった。 別の肉パイは、その味から受けた印象によって、トッカータ、ソナチネ、マドリガル、あるいは、シャコンヌと名づけた。そして彼の胃の弦には、かなり雑多な気分が嵐を巻き起こしていた。それというのも信じられないほど多くの食べ物を食べたからだ。コックはドアのところから彼の様子を観察していた。そして自分の料理芸術の勝利に興奮した。
 一方、女性的な顔をしたマエストロは太陽王の宮廷直伝の、くすぐったい、優雅な小話でご婦人方を有頂天にさせるために、その料理の一つ一つにたいして、たっぷりと時間をかけていた。
 その話というのは、かなりきわどいベッドの秘話で、クリノリン・スカートのしたに隠れた小姓、小さなサラセンの召使、愛の七十二通りの方法に熟達した古兵の神父、鹿の角をはやした枢機卿、庭園の大理石のファウヌスと愛し合っていた奥方付きの女中の話といったものだった。
 女性たちは顔を赤くしながら、それでも熱心に聞き入っていた。だから、その間、彼女たちは肉パイのソナタのことなどすっかり忘れていた。そのあげく、あまりの興奮から、とくに太ったハーピストなどは口のなかがすっかりからからになり、ワインでたっぷりと湿りを与えなければならなかったほどだ。
 やがて矛先が男たちに向かってきた。マエストロはブレッシアのバイオリンに言及することによって、絶えず目の前の三人のクレモナのバイオリン製作者を挑発した。
「ガスパロ・ダ・サローはモンテヴェルディーのバイオリンです」
 マエストロは言いいながら、骨の髄のペーストをこんがり焼いたロール・パンに塗り、ロブスター・マヨネーズをつけ足した。
「もし、ダ・サローがモンテヴェルディーのバイオリンなら、わたしどもクレモナのバイオリンはスカルラッティのものということはできませんか?」
 アントニオは謙虚に答えた。マエストロはロブスター・マヨネーズを前にして夢想していた。ブレッシアのことが話題になると、バイオリンの王者ストラディヴァリでさえ、ジ
ュゼッペ・グァルネリやジロラモ・アマーティ  自分の父親の未熟な模倣者であり、は
っきり言って、あわれなエピゴーネンにすぎない    とともに共同戦線を張ることが、マ
エストロには気に入った。
 彼らはアマーティとグァルネリの最後の苗木であり、実際のところ、コジモ三世とその息子のジョヴァンニ・ガストとの関係に似ている。だから、ストラディヴァリが「わたしたち、クレモナ人」と言ったとき、彼は自らエピゴーネンの仲間に加わったのである。
「わたしはマッジーニも高く評価しています」マエストロは批評を続けた。
「彼は師のガスパロ・ダ・サローを模倣しなかった。その師と同様の開拓者でした。彼はカエデのかわりに、プラタナスやポプラ、それに梨の木も試しました。おそらく二十回もバイオリンの新しい形を描いたでしょう。クレモナのバイオリン作りがすでに完成したものを引き継いだくらい、そのバイオリンはすぐれたものでした」
「その点にかんするかぎり、マエストロ、祖父のアンドレア・アマーティは彼よりも年長ですから、祖父の最初のバイオリンは、マッジーニから何ものも受け継いでいないことを証明しています。とくに二重の縁取りです」
 この発言には本人をもふくめて、クレモナ人が三人とも苦笑した。
「そうです、あなたがたの場合は形は家族のなかにとどまっています。すべてがこのように家庭的な仕事なのです」
「わたしの父は布地商人でした。わたしは自分の息子たちもバイオリン作りに引き込もうとは思っておりません」
 アントニオはやや反発的に言った。
「じゃあ、弟子たちはいかがです? クレモナの覇権を保証できるような者がいますか?」「わたしたちは、まだ墓の下に入っているわけではありませんよ、マエストロ。グァルネリにはひとり甥がいますが、彼なら……」
「もう、そんなバイオリンの話はたくさんだわ!」
 コンキートの女友だちのエレニーナが叫んだ。彼女もおなじように喉にたっぷりとしめりを与えて、元気をとりもどして、自制心をアンダルシアの激情にゆだねていた。
 ガエタノ・モフェッティはじりじりしながら時計を見ていた。時計がちょうどそのときルュリのメヌエットを演奏しはじめた。彼はテーブルの下でパオロの足を踏みつけて、女
性たちのほうを向いて目くばせした。スカルラッティがそれを見逃さず、椅子から立ちあ
がると、パオロは出席者全員に呼びかけた。
「親愛なる淑女ならびに紳士諸君、わたくしどもはこの親密な集まりのなかでもっと楽しみたいところでありますが、いま、ここで魅力的なるニンフのみなさん方に、今後はバイオリンについての言葉は一切口にしないいことを、お誓いいたします。しかるに、ただ今、地方総督閣下におかれましては総督邸において、わたしども全員をお待ちになっているの
でであります    よって、閣下をこれ以上お待たせするわけにはまいりません」
 彼はこのコメントのなかで、ガエターノにたいする答として「わたしども全員」という言葉を強調した。ガエターノは招かれざる三人の女性にかんする秘密信号をそっと送っていたのだ。パオロは同意してうなずいた。そして、拡大された一行は上機嫌で月光のふりそそぐ庭園を通って地方総督の館へと向かった。
 金の縁取りのあるお仕着せを着た下男が玄関の広間から中国風のサロンへ案内した。そこでは召使頭が絹張りの表紙にとじられた記名帳に客たちの名前を記入し、ドアを通って隣の青の部屋に入っていった。
 そこには執事が待っていて、黒檀の杖で床を三度打った。まえの部屋から続いていたざわめきは静まり、執事が召使頭から名簿を受け取ると、来客の名前を順番に読んでいった。それからふたたび杖の音がして、コンサートと芝居の上演がおこなわれていた部屋へ入ってもいいという合図をした。
 スカルラティーは嵐のような拍手で迎えられ、侯爵自ら歓迎するために彼のほうへ急いだ。そのあと、来客の全員、一人一人と言葉をかわした。彼の気さくな無駄口は、当時の宮廷の定型であったスペイン流の作法とはまったく相反するものであった。
 本当なら、ジョゼフ・フォン・シュヴァルツェンベルクをいまさら紹介するまでもないところだ。彼はラーコーツィの攻撃部隊の反乱者たちに二丁のバイオリンごと捕らえられ、柳の林のなかで学生のヤヴォルカの慈悲によって助けられた戦争以来の古いなじみだからである。
 侯爵はマエストロの腕をとって楽長台へ導き、自ら譜面台の上の総譜をなおし、マエストロの横のオーケストラの真ん中に腰をおろした。スカルラッティは三度杖をついて、演奏開始の合図を送った。
 このオーケストラはこの名誉ある機会のためにガエターノ・モフェッティが編成したものだったが、マエストロの作曲になるオペラ『テオドーラ』の序曲に大きな意欲をもって
取り組んだ。最初の一拍を聞いただけで、マエストロは自分が指揮しているのは本物の音
楽家たちであることを知った。
 おそらく、それに寄与したのはこのサロンのことのほかすぐれた音響効果のせいもあるだろう。しかし、いずれにもせよ、このような音楽家、かくも高貴な音の色彩と陰影は、まさしくこの楽器の町においてのみ産み出しうるものなのかもしれない。
 アマーティ、グァルネリ、ストラディヴァリのヴィオリーノ・アラ・フランセーズ、ヴィオラ・ダ・ブラッチョ、ヴィオラ・ダ・ガンバ、ヴィオラ・ダモーレ、コントラバス、ヴィオロン・チェロはシャンデリアの暖かいローソクの光のなかで、そのニスや色にたいするあらゆる賞賛をほしいままにしながら輝き、まるで生きもののようにクレモナの楽士の手のなかでうたい、うなり、泣き、笑っていた。
 それらの楽器のこの世のものとも思えぬ弱音のビブラート、そして無限をめざす楽の音の放浪のあとには、全楽器のフォルテがホール全体にみなぎり、宇宙のどんな片隅にも浸透していった。
 マエストロは自分の作品の音の流れにそってただよっていた。それはまるで春の花咲く岸のあいだの、暖かい、クリスタルのように清らかな水のなかを泳いでいるかのようだった。マエストロはこんなすばらしい音を作り出す魔法使たちがブレッシア人たちに馬鹿にされのを非常に残念に思った。そして自分のそばの侯爵を見たとき、ほとんど子供のような笑いがこみあげてきた。それというのも、侯爵もまた彼とともに春の岸辺のあいだを流れる暖かい波の上をただよい忘我の境地にひたって長い手をふりまわしていたからだ。
 金の房のついた真紅のビロードのカーテンは両側に大きく開かれ、そのあとには静かな風景を描きだしている絹のカーテンがあった。そして舞台の上では去勢され、性のない歌
手が習いおぼえた身振りで手をふりまわしている。規則どおりに作られたアリア    その
豊かな構造は、当時すでにレシタティーヴォから切り離されていた    を歌手たちはほと
んど機械的な正確さで完璧にうたった。彼らの歌唱は悪魔的スパランツァーニ<十八世紀の自然科学者>の「うたう機械人形」になりそうなくらい、下のF音から高いC音まで超人的な正確さだった。おまけに彼らのなかには、たいした苦労もせずにさらに三度上の音まで出せる者さえいた。
 だが、それにもかかわらず、彼らの歌はナポリ人の歌にくらべると、すべてが色合いにとぼしく冷たい印象を与えた。ナポリの歌手は歌をうたうが、ここの歌手は歌を奏している。もしクレモナのオーケストラとナポリのソリストや合唱団とを結びつけることができたら世界で最も完璧な演奏団体が出来るだろうと、マエストロはそんな感慨にふけっていた。
 広間の中央にさがっている金塗りの木のシャンデリアとムラノ産ガラス製の大シャンデリアには何百本というローソクが燃えていた。客席の列のなかにはロンバルディアの貴族、皇帝軍の将校、役所の高官たちが自分の夫人や娘たちのおしゃべりの真ん中で嗅ぎタバコをかいでいた。
 きらきら輝く軍服や、金で装飾されたビロードや絹のはなやかな色彩のなかで、長いかつらをかぶった司教の僧衣だけが黒かった。かつらの森は粉屋の倉庫からここにさまよい出てきたかのように、目もくらむ白さだった。唇は枢機卿の法衣のように、その手袋のように、また手袋の上からはめた指輪の大きな宝石のように赤かった。
 舞台の袖では、一方の側ではガエターノ・モフェッティが、もう一方側ではパオロが、マエストロ・スカルラッティの目に入らないようにして歌手たちを指揮していた。
 休憩になって司教は白い手袋の大きな手をふり、士官、貴族、貴族夫人たちはカストラート歌手のどんな発声練習にも、その度ごとに嵐のような拍手を送った。
 ジロラモ・アマーティ、ジュゼッペ・グァルネリ、アントニオ・ストラディヴァリの三人だけがホールのなかで市民的身分を代表していた。彼らは緊張しながら、ややぎこちなく、市民の威厳をたもつという自分たちに課された使命をはたしていた。
 公演がおわると、召使頭にともなわれて執事がカーテンの前に登場し、黒檀の杖を三度打ち鳴らして、ドイツ語、イタリア語、スペイン語、それにフランス語でオペラの上演がおわったことを告げた。
 観客の大部分は宮殿から出ていった。そしてコンサートへの招待状のほかに、さらに特別の招待をを受けた者たちだけが残った。彼らは中国風のサロンに集まり、そこから執事が召使頭とともに軍隊式の秩序のもとに、緑のサロンへと案内した。
 侯爵は自ら、マエストロと三人のバイオリン製作者、モフェッティ兄弟、ハーピスト、二人のダンサーを緑のサロンの隣の小さな応接サロンへ連れ出した。
「さあて」侯爵は満足げに大きな息をした。「ここにいるのは、少なくとも、わたしらだけだ。隣のほうは妻がわたしにかわってもてなしている」
 侯爵があるいたずらを思いついたとき、みんなは子供のように笑った。そして侯爵が自分の言葉の効果をもっとよく味あうために、下男にこの楽しみをまかせずに、緑の部屋へ通じる金塗りのドアのほうへ近づいて、ドアをどんどんとたたいた。
「すばらしい」
 侯爵はそう言って、ドンナ・エレーナの肩に手を置いた。
「わたしたちがこうして一緒になれたとは、すごいじゃないか。ねえ、君、あとでわたしらのために、少し踊ってくれないか?」
 みんなは赤ワインを混ぜたシャンパンを朝まで飲み続けた。緑のサロンの客たちが帰っていったとき、残った全員が勝利の喚声をあげた。コンチータはフープの入ったスカートを横にさばいて、ひと跳びでテーブルの上に飛びあがった。
「ファンダンゴ!」(スペインの早い三拍子の踊り)
 彼女は叫び、かつらがおっこちるほど勢いよく頭をさげた。するとかつらの下から黒い髪の巻毛の滝が流れおちた。
 ガエターノはギターをもってこさせ、野性的なアンダルシア地方の舞曲をメランコリックに弾いた。コンチータは小さな絹の靴で大理石のテーブルを小刻みに踏んだ。侯爵は酔ってやわらかな口ひげをふるわせ、両腕をふって指揮をした。
「侯爵殿は、わたしからすべての名誉を奪おうとなさっておられるようですな」
 スカルラッティは叫んで椅子の上に立ちあがった。
「すべての名誉をです!」
 みんなの大笑いのなかで、スカルラッティは自らファンダンゴの指揮をした。それはコンチータがテーブルの上から直接彼の首に飛びついたところでおわりとなり、二人は床の上にころがった。アントニオはマエストロを立ちあがらせて彼を高くさしあげた。
「エッヴィヴァ!」アントニオは大声で叫んだ。
「エッヴィヴァ、ファンダンゴ!」
 ジロラモはおどろいて年長の友人を見つめていた。これまでかつて、このような彼を一度も見たことがなかったからだ。アントニオはだだ笑い、叫び、マエストロをテーブルの上におろした。それから窓の一つをぶち破り、そこから朝の冷気のなかに飛び出してふたたび笑った。
 それは、かつてジャコモが「かわいいシラミ」酒場で飲んで酔っ払ったときに笑ったよ
うな、心の底からの笑いだった    ジロラモには、アントニオの死んだ兄ジャコモが笑っ
ているかような気さえした。そしてアントニオが、太陽の金色の曙光のなかで水浴びをしているかのような庭園のほうを見わたしている姿を見ていると、彼のなかで、なにか多くのことがらが、まったく計り知れない方法で不意に変わってしまったような気がした。
 アントニオは夕日のなかのぶどう棚の下で、あの赤毛の娘のキスのことを思い出していた。そして老いゆくファウヌスの貪欲な熱望によって娘に恋いこがれた。彼はあの娘が自分の娘だと思い込もうとした。すると、この奇妙な一日のいろんなカーニバル的なナンセンスな出来事が渾然一体となって彼の心のなかで嵐のように荒れ狂うのだった。
 彼はドンナ・エレーナに駆け寄って、その肩の    このらんちき騒ぎのはじめに日焼け
した侯爵の白い手袋の手が置かれたのと    まったく同じ場所にキスをした。それは彼が
侯爵からまさに彼女を奪い取ろうとするような、まさにそう思わせるようなキスだった。アントニオはこのキスによって封建的領主支配に終止符を打ったのだ。やがて封建体制に大きな変化が起こる。
 侯爵は窓の棚に腰かけて、足をぶらぶらさせていた。彼は近衛師団胸甲騎兵の血のように赤い外套を着ていた。その裾の角は折り返されていて、太ももまでたっする、やわらかなエナメルの長靴の上方には、ぴったりした鹿皮のズボンの一部がてのひらほどの幅で光っていた。長かつらは朝の風にたなびき、そこからかつらの化粧粉が風に舞っていた。
 侯爵は飲みながら話した。
「諸君には、わたしが君たちのあいだにあってのみ幸福になれることがおわかりだろうか?いや……笑わないでいただきたい。いま、しばらく………わたしの話を聞いてくれたまえ。わたしはワインに酔った……から言っているのではない。要するにワインだけではないということだ。そして、もし………もし、ワインだけが話しているのだとしたら、そうしたら、……ワインにも真ありだ。そしてわたしはそれに音楽もまた真なりとつけ加えよう。それにしても、諸君がわたしに……かくも幸福をもたらしたというのは、どういうことか?要するに単純に言って……。わたしはおとぎ話のような小さな館をもっている。わたしは夏になるとそこへ出かける。今年はそこへ行かなかった。皇帝が軍に待機命令を出し、わたしは命令を待っているからだ。なぜなら、たぶん……、わたしはきっと連隊の指揮を取らなければならなくなるだろう。ここの執務、この地方総督の仕事は年寄りの廷臣にまかせておけばいい。要するに兵士が必要だというのだ」
 彼はたて続けにナイルの水  これは真珠色のシャンパンにブルグンド産赤ワインを混
ぜた飲物の名称である    を二杯飲んだ。
「わたしはまったく軍隊に参加する気はないのだ。むしろ諸君とともにわたしの小さな魔法の城に逃げていきたい。わたしと同行するものは、君たちと小さなオーケストラ以外にはいない。わたしはそこでおとぎ話のように生きたい、ヘヘ。もし今月中にわたしが軍隊に入らなくてよいことになったら、わたしといっしょにあの館へ行くと約束してくれ。約束してくれ、親愛なる諸君」
 彼は懇願するように言い、大きな灰色の目は、そのとき、涙にうるんだ。その言葉にはスカルラッティも感動した。
「それはきっとすばらしいでしょう。それで、そのおとぎ話のお城というのはどこにあるのです?」
「フオシンから歩いて一時間のところです。シュヴァンゼー湖の上です」
 侯爵はイタリア語になじませるために、フュッセンのことをそう呼んだ。
「この城をわたしは数年前、ババリア人から手に入れたのです。古い住居でしたが、ホーエンシュタウフェン家がさらに建設したのです。だからホーエンシュタインとも呼ばれています。わたしはこの場所にすっかれい魅いられて、山の斜面の森のなかに狩猟の館を建てたほどです。たしかに小さくはありますが、この人数なら十分入れます。そして、音楽のみに集中しましょう! そこでなら、誓って申しますが、音楽ができます。それからフオシンにも出かけましょう。きっとすばらしいですよ」
 アントニオは旅修行のことや「青い白鳥」酒場のことを思い出した。
「このように権力のある貴族でいらっしゃれば、そうしたいと思うだけで実現するのではありませんか」
 アントニオはお追従を言った。
「いやいや、わたしはもう何となく軍隊からもお払い箱になりそうなんだよ。しかし、諸君の意に反してまで自分の意志を通そうとは思っていない」
 ガエターノは大理石のテーブルの上にクリスタルのグラスを勢いよく置いた。
「明日、準備をして、出発しましょう、侯爵!」
「行きましょう、全員で」
 ドンナ・エレーナが言った。そして耳をつんざく喚声のなかで二つのグラスをテーブルに置いた。
「行きましょう、全員で!」
 そして二日後、彼らはオーケストラとともに十台の馬車に分乗して出発した。





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