(32) 常に愚かもの一人分だけ多い  一九二三年<br>


 テオドール・グレーネンが世界中でもっとも薄いブリュームヘンコーヒーをスプーンですくいあげていると、ちょうどそのとき玄関の呼び鈴が鳴り、長い間があってゴッビがレンヘン夫人とリスベットをともなってグレーネンの部屋に入ってきた。ゴッビは脇の下に二丁のバイオリンのケースをかかえ、レンヘン夫人とリスベットもそれぞれ一丁ずつケースをもっていた。
 グレーネンはバイオリンのケース以外には何も見なかった。ゴッビのほこりにまみれた顔さえもまったく目にもとめなかった。それから笑いだした。
「どうしたんだい? 家庭音楽会でもやろうというのかい?」
「とんでもない。差押えの執行だよ」
「なんだと! そのことならドクトル・キュールベルクが解決したはずだぞ」
「なんのことだ?」
「差押えさ。執行は一カ月延期になったじゃないか」
「きみい、おれんところは差押えだ!」
「君のところだって? おれはてっきりここのことを言っているのかと思った。どっちにしろ、そのバイオリンのケースはおろせよ。そいつは没収じゃないのか?」
「心配ない、君は差押え物品の隠匿者にはならない。差押えの執行中、おれはこいつを召使のトイレのなかに隠しておいたんだ」
「オー・ライ。じゃ、おれたちは差押えの問題はおしまいだ。一カ月間は、おれたちここにいることができるんだ」
「じゃ、今度は笑うなよ。おれもここにとどまる」
「君も? だと? どこに?」
「要するに、どこかだ。たとえば、台所に。それとも風呂桶のなかか。ほんのちょっとの隙間でおれには十分だ。バイオリンを一丁売る、そうすりゃ、君だって助けられる」
「もう、いいから、そのバイオリンのケースを置けって。待てよ、だが、おれのところにだってそのバイオリンのためのすばらしい場所があるぞ。おれの小さな兵隊たちがそいつを守ってくれるだろう」
 彼らはあやつり人形の並んでいる大きな戸棚のほうへ近づいた。その戸棚は部屋の右側
の壁全体を占めていた。正面のガラスの戸を開いて、棚の中央の部分から人形を取り出し、
戸棚の奥の壁を横にずらすと、その奥にはもう一つ黒い木の壁があった。
「さあ、ここに平らに並べてくれ」
 二人は四個のバイオリンの入ったケースを平らに並べると、グレーネンは奥の二重の壁の手前のほうを閉めて、また人形たちをもとにもどした。グレーネンは顔を真っ赤にして、鼻メガネをふるわせ、くしゃくしゃの髪が頭頂の円形のはげのまわりでゆれていた  彼は魔法使の親方のように働いた。
 やがて戸棚のガラス戸を閉めると、咳をして啖を吐くと、うずたかく積み上げられた書物の塔の載った巨大な書卓の要塞の陰にかくれた大きな木彫りの肘掛け椅子にぐったりと腰をおろした。
「さあ、楽にしたまえ、この老悪党、君はここを自分の家だと思ってくれ。レンヘン、熱くて、うまいコーヒーをもってきてくれ。かれは濃いのがお好みだ。彼にブラックを一つ……。ここに葉巻がある。おれの教え子が何やかやと送っくるんだ。おれのことを何かと心配してくれている。そうでなきゃ、それだってなかったんだ。さあ、取れよ。残念ながら折れてはいないがね。しかし、なんならそれを床にたたきつけてもいいんだぜ。それともその上に寝っころがるか。君はまともなものより、そっちのほうが好きみたいだからな」 ゴッビは雷のような大きな声で吹き出した。すると彼のはれぽったい顔につやが射してきた。しかし笑いのおわりは何かしらにがい、不自然な、ある種の規則的な、取ってつけたような規則的な「ハッハッハッ」という声となり、それがこの上もない悲しげな印象となって響いた。
 沈黙。
 秋の朝、部屋のなかにただよってくる太陽の光のなかに浮かぶ葉巻の青い煙の輪  そ
れは老いて、ぐったりと疲れはてた男たちのようにも見える。かつて、この男たちが言いよっていた美女たちも、いまはすでに色香もあせて……
 しばらくして、グレーネンがまたもやにがにがしい笑いをもらした。
「何を笑っているんだ?」
「わたしが? ああ、ただ笑っただけさ。君はこのほんの少し先に住んでいた。それが、会わなくなってかれこれ四年にもなろうというのに、変じゃないか? で、現われたかと思ったら、四個のケースだ。それが笑わずにいられるかい」
「たしかに、おれだってそういうふうに考えれば、笑いたくなる。歳月はすぎていくんだよ、テオ。それどころか、もうすぎてしまったんだ。たしかに、そりゃあ、お笑いぐさだ、ヘヘ。ところが、おれにはまるで昨日会ったかのような気がするんだ。なんとなくおれの前にある時間とおれのなかの時間とが融合しているんだな。君……、もしかして、これは脳梅毒じゃないかな?」
「血液検査をしたって害にはなるまいがね、しかし、それがもし末期的段階なら、どっちにしろ手遅れだ。それにしても……、この四年間、どんなことをしてきたかだ!」
「その四年間はさようならも言わずに、去ってしまった。しかし、まて。跡形くらいは残っているさ、ばらばらになってはいるがね。それを再構成してみよう。あのとき革命的なことが起こった。クルト・ティーッセンが来たんだ。そしておれをおとぎの国へ連れていった。以前、ホーエンシュヴァンガウと言われていたところだ。その後が、狂気のルードウィッヒだ……」
「わたしも知っているよ。あそこにシュヴァンゼー湖がある。ルードウィッヒはそこへ飛び込んだんだ。一緒に自分の医者までも引き込んだ。城はノイシュヴァンシュタインと呼ばれている。じつに神々しい。昔、フュッセンに行ったとき、わたしもその城をを見た。そういえば、あそこから絵葉書を送ったじゃないか」
「たぶんな。だけど、おれはもっとしばしば君のことを考えていたぜ。おれは戦争で失明したある侯爵シュヴァルツェンベルクのところに滞在していた。すばらしい人間のサンプルだったよ。おれたちはそこでまるで天国にいるみたいに住んでいた。彼の母親は……おれの母親みたいだったよ。君も知っているだろう、ユダヤ人の母親がどんなだか? どんな貴婦人だろうと彼女にはくらべるべくもない!」
「わかってる。おれの母親だってそうだった」
「その侯爵の妹は幅がそのドアくらいあったが、おれは彼女にほれてしまった。おれたちはお互いにすごく気に入った。おれは生涯のおわりまであそこにとどまろうかとさえ思った。おれは幸福であるということが、どんなものかわかったよ。彼女はヴァルハラだった。そのうちおれは馬鹿なことをやらかしてしまった。侯爵に金を借りて、フュッセンに出かけたんだ。おれは完全に狂っていた。ヴァルハラの天国に神のように住むことができたというのに、カビの生えた古文書のなかにグァルネリ・デル・ジェスゥの痕跡を見つけ出すとはな……まったく、馬鹿なやつがすることだ。
 グァルネリ・デル・ジェスゥのサインのI・H・Sの文字の上のほうに十字架が現われたんだ。その途端、ヴァルハラが一挙に崩壊した。おれはフュッセンからマントヴァに行
き、そこからブレッシアへ、そこからクレモナへ、ジェノヴァへ、そのあとはさらに自分
でもわからない、どこかへ行った。
 いいかい、おれの母親はイタリアのユダヤ人だった。イタリア語もドイツ語も同じくらいにしゃべった。たぶん、それがおれを駆り立てたのだろう。おれは何カ月もさまよった。もう、おれ自身、それがどれくらいの長さだったかわからない。糸がのびていく。おれはそのあとについていった。いろんなものをたくさん巻き取ることに成功した。すべてをは
記録した。ここにそのメモがある  メモした紙はバイオリンのケースの一つに入れてあ
る。いつかひまが出来たら、それを本に書くつもりだ。一丁のバイオリンの後に何があるか、みんなにわかるように。その前のことは……もう、わからない」
「それをどう理解すればいいんだ?」
「おれにもちょっとつかみきれないところがある。まだそのことについて確信がない。しかし……わかるだろう、現在、本物のバイオリンが誰に作れる? 誰も作れやしない。暗い部屋で古いバイオリンと競い合うことのできるバイオリンが作られているのはたしかだ。そういうバイオリンをヒルやそのほかの連中が作っている。
 しかし、そんなバイオリンがなんだっていうんだ? そんなものはスタイネル、マッジーニ、グァダニーニ、ストラディヴァリ、グァルネリ、アマーティのモデルのコピーか組み合わせじゃないか。むこうにいるのが創造者なら、こっちにいるのは模倣者だ」
「何年もまえに十分話したじゃないか、君の弟子たちについて、あのポーランド人のカシミールだか、なんだかそんな名前だ」
「ウィシュニョウスキだ。待て、あいつについてもそのうちに話そう。ところで、どこまで話したんだったかな? ああ、そうだ! 彼らはコピーイストで、創造者ではない! というところだった。そして、実はコピーすら、やつらにはできはしないのだ。
 聞いてくれ、まさにそのウィシュニョウスキがどうなったか。
 それはそうと、ヴラックの息子のエーリッヒだが、あるとき郊外のどこかで天才的な子供を発見した。おれはエーリッヒがすごくいい耳をしていることを知っていた。彼の話だと、その娘は誰だかヴィルトゥオーゾのレコードにならって『ラ・フォリア』を弾いていたそうだ  ところが、それがすごい演奏だったっていうじゃないか。
 おれは天才少女なんて聞いただけでもヘドが出そうだ。君だって知ってのとおりだ、ゲルトルード・ゼーヴィッツが結局、どうなったか。
 だがエーリッヒのやつ、ねばりにねばって、とうとう、彼と一緒に行って、その娘の演
奏を聞くと約束させられてしまった。それで、おれは行ったんだ。小さな青い顔をしたユ
ダヤ人の娘がスペイン風邪にかかって、高い熱を出して寝ていた。結局、聞かずじまいさ。 そうこうするうちに、クルトが現われて、おれをヴァルハラへ誘惑したんだ。そのあげく、おれはイタリア放浪ということになった。おれは侯爵のところへもどるのが恥ずかしかった。おれはアマーティのチェロを一丁売って、借りた金を送った。それで……要するに、おれの全財産を置きっぱなしにしていたところで、またはじめたというわけだ。ただし、弟子もなしにな。
 だって、昔の弟子は戦争がみんなばらばらに吹き飛ばしてしまった。そして戦争中の弟子たちは、おれのほうからお払い箱にした。いったいどこの汚らしい鉄道の転轍手が、おれのところで子供にバイオリンを習わせるというんだい? だいいち、そんなこたあ、おれのほうから願い下げだ。
 おれはエーリッヒを探して、またローゼンヒューゲル区へ出かけた。おれは道々、あの娘はスペイン風邪できっと死んだと思っていた。ところが死んではいなかった。彼女はおれのためにバッハのシャコンヌとケルビーニ、ボッケリーニを弾いてくれた。そのほかにも弾いた。おれは魅惑された。おれはところかまわず彼女にキスをした。彼女のなかにはおれのこれまでの弟子をみんな合わせたよりももっと多くのものがあった。ごく普通のか
つらをかぶった母親と、ユダヤ人特有の長めの髪をした父親  ユダヤ人大虐殺<一九〇
五年以後の帝政ロシア、ルーマニアで>のまえにウクライナから逃れてきていた    はう
れしさに涙を流して喜んだ。
 おい、ワインを買いに誰かやってくれるわけにはいかんか?」
「グレーテが行ってくれるだろう。すぐに言おう」
「ここに五億マルクある。一リットル買わせてくれよ」
「そいつはしまっておけって、わたしのところにはまだ何十億かくらいはあるよ、ヘヘ」「君は将来こんな金額の金をチョッキのポケットに入れて歩くようになるなんて思ったことがあるかい? ちょっとばかり興味があるのは、あの、ライオンの頭のついたスタイネルのバイオリンがいくらになるかだ。おれはこいつを売り飛ばそうと思っているんだ」
 グレーネンは手をこすり合わせながら、ワインのことを言いつけにいった。やがてもどってきて、寒さにふるえながらあくびをした。
「ほんとなら、今日なんか火をたくべきなんだがな。ただ……」
 彼はあきらめたように手をふり、同時に身ぶるいした。
「そう悲観するなって。とにかくワインがおれたちに火をつけてくれるさ。
 要するに、おれが彼女の父親のユダヤ風の髪形を見たとき、ゲットーから一人また一人と抜け出してくる様子が思われたものさ。サスカ・カルバートソン、次に、エフレム・ジンバリスト、ミッシャ・エルマン、エリカ・モリーニ、そしてあのヤッシャ・ハイフェッツ。まるでバイオリニストの大洪水だ。どれもこれもすごいやつばかりだ。そして今度はラシェル・グリューンだ。この子は、このおれが必ず檜舞台の乗せてやる。
 それに、おれは以前から、考えざるをえなかったことがある    これらのバイオリニス
トたちのなかで一人くらい、単なるヴィルトゥオーゾ、ないしは、再現芸術家以上の何ものか、つまり大バイオリン・コンチェルトを作曲できるようなバイオリニストかなんかが
出てきたっていいはずなのに  とな。
 ブラームス、チャイコフスキー、グラズノフ以後、バイオリン・コンチェルトは書かれていない。作曲家の系列もバイオリン製作者の系列と同様に分離してしまった。おれは記憶のなかを探してみた。ゴールドマルク<カール、一八三〇−一九一五>がいた。彼はおそらく大バイオリン・コンチェルトを書いた最後のバイオリニストだろう。しかしそれだってもう三〇年まえの話だ。
 おれはもう死の予感を感じている。それなのに、ここに及んで、おれはいったいラシェル・グリューンに何を期待しているんだろう? おれはバイオリンそのものに何を期待し
ているんだ? パガニーニはこそは唯一無比だ  彼のようなものは、もはや多くは出な
いだろう。じゃあ、あのゲットーから抜け出してきた幼いヴィルトゥオーゾたちは?
せめて、そのなかの一人でもパガニーニが作りえたようなそんなバイオリン・コンチェルトを書いたとしたら! それともヴィヴァルディ、ヴィターリ、コレッリ、トレッリ、タルティーニ、プニャーニ。この連中はみんな、古いバイオリン製作者たちと同様に、ただたまたまヴィルトゥオーゾだったにすぎないのだ。しかし同時に創作もした。バイオリン
の奇跡、コンチェルト・グロッソ、彼らはバイオリンの響きも作った  しかもそれは単
なるコピーではない。もはやバイオリンの命運は尽きたということなのか? なぜだ?」 グレートヘンがワインをもって入ってきて、二人についだ。それから人形たちのほうに、それから二人の旧友たちのほうにほほ笑みかけて出ていった。
「乾杯! そして、おれがこんなことを考えているとき、近くのどこかの家からレコードが鳴り出した。おれはこの機械音楽をにくむ、たとえそれがコレッリをやっていたとしてもだ。だが、今度はおれを完全に怒り狂わせた。なにか黒人のラグタイムか、それともジ
ャズか、いまそう言われはじめているようだが、そんなものをガーガーやりだしたんだ。
おまけに、だんだんひどくなってきた。文字通り猫のわめき声の寄せ集めっだ。ありとあらゆる不協和音、きちがいじみたシンコペーションの塊、キーキー声に大騒音。君はまだ聞いたことはないのかい?」
「ああ、わたしの教え子の一人から聞いたことがある。ある若者だ、ヒンデミットという、何かそんな音楽を書いている。きっと黒人音楽から取り入れたんだろう。おれはそれを聞いているうちに駄洒落を思いついたよ。ヒンデミット、ヒン・ダーミット!<そいつをもって、消えやがれ>」
「ハッハッ! おれたち一度、どっかのバーにでも行かなきゃならんな。おれたち、黒人の音楽を聞かなきゃいかん。真っ先におれたちは最前線に立つ。やつらはおれたちに向か
ってやつらの音楽をもって襲いかかってくる    タンクと火炎放射機のかわりにな」
「で、ラシェルは?」
「おれは、そのジャズのレコードを聞いたとき、戦おうと決心した。本当の音楽はまだ死に絶えてはいない、バイオリンもまだ死んではいないということを証明するために! おれはラシェルのために大バイオリン・コンチェルトを自分で書こうと決心した。そのなかにバイオリンの誕生から現代にいたるまでのすべてがあるようにする。おれたちのすべて
の喜び、すべての苦しみ。もう半分は出来ている。三年間、ラシェルを教えている  あ
と二年、そうしたらそのコンチェルトをもってデビューだ」
「すごい! そいつは戦うだけの価値がある!」
 下の通りでトラックの騒音がして、戸棚のなかの人形が寒さにふるえているかのように震動した。戸棚のガラスににぶい秋の陽射しが光った。そして二人の老人はワインで暖まった。
「カシミールはどうした? 彼についてなにか話すといったじゃないか」
「彼が飛行士で、撃墜されたことを知っているかい? 彼は足と手と、それに肋骨までいろんなふうに痛めたんだ。だからもはや、ステージに立つことは絶望的だ。もともと彼はずっとまえから、バイオリン作りに興味をもっていた。彼はそのなかに一種の錬金術を見たんだな。彼は相当勉強したし、そのことに熱中した、こまかな点まで調べた。
 そのうち、モアビットからおれのところに手紙をよこした。食い物とタバコをもって来てくれというんだ。そして、目下、警察に拘留中だと書いてあった。おれはそのころ旅中だったから、ジェノヴァからもどって、その手紙を見たときにはもう半年もたっていた。
おれはいろんなものを買って、モアビットに飛んでいった。やつはもう監獄のなかにいた
    二年の禁固をくらったそうだ。だからタバコも食い物も渡すことができなかった。そ
れというのも彼は反抗的な態度のゆえに拘束を厳しくされていたんだ。
 監獄を訪ねているうちに、何が起こったのかがわかった。彼はある女、たぶん女中だろう、その女の助けをかりて、ある銀行家から非常に高価なストラディヴァリを盗んだ。そのへんのところがどうも複雑なんだが、一つたしかのことは、やつはそのストラディヴァリを一センチ幅に輪切りにしたということだ。
 ヒル商会はそのバイオリンを四万五千ドルと評価したそうだ。そんなわけで裁判所ではカシミエシュに保護検束のほかに二年の禁固を求刑した。ところが、これでおわったわけじゃないんだ。これを聞いたら驚くだろう。
 その銀行家というのが法廷でカシミエシュを釈放するように要求したというんだな。
 その言いぐさによると、これはマニアのやったことで、この男はたしかにそのバイオリンを切り刻みはしたが、それで利益を得ようとしていたわけではない! というわけだ。当然のことだが、そのころにはすでに起訴された犯人は詐欺と窃盗と横領という犯罪の証拠を完全につかまれていた。そんなわけで銀行家はこの事実の前にはなんとも手の出しようがなかったというわけだ。
 もちろんこの銀行家はいろんなところにコネをもっていたから、鉄格子のなかでバイオリンを貼り合わせることくらいはいいだろうというところまでは、なんとか漕ぎつけた。そのうえ、銀行家はカシミエシュの指示にしたがって材料までそろえてやった。
 二年がすぎて、カシミエシュが監獄から出てくるときには、完璧なストラディヴァリを七丁ももって出てきたというんだ。いまは、以前、住んでいたシッフバウエルダム街の没収物件の部屋に住んでいる。現在は例の銀行家の所有だそうだ。
 やつはクレモナ商会というのを設立した。このカシミエシュの商会は才能のある貧しいバイオリニストに経済援助をし、彼らがデビュー・リサイタルや演奏旅行の計画をしているときには、ストラディヴァリのコピーを貸し与えている。その連中は楽器と名声を勝ち取っている。手っ取り早く言えばバイオリンの宣伝をしているということだな。
 やつはいま、おれにまつわりついて、ラシェルをやつの贋ストラディヴァリをもって演奏旅行に出すようにとせっついている。おれがそんな阿呆だと思うか? ここの一つのケースのなかには嘘いつわりなしの本物のストラディヴァリが入っているというのに。
 おれは一枚のカードにすべてを賭ける。おれは女の子の弟子を一人だけしかもっていな
い。おれはいかなる商会のバイオリンも実験しない。どうだい、そうだろう?」
 二人は黙り、飲み、そして葉巻を吹かした。グレーテがワインをもって、さらに二度入って来た。
「当然じゃないか。おれだってカシミエシュみたいに多少は正気じゃないところがあるがね。だいいち、古いバイオリンに多少は関心のあるものはみんな同じだ。何か知らんが、おれたちのなかには隠れた力が震動しているんだ。その銀行家は、もしおれがその商会に入って、おれの名前を自由に使わせてくれるなら、おれの財政問題の面倒を見ようと提案してきた。
 しかし、おれはそんなもの相手にもしない。儲けたけりゃ儲けるがいいさ。おれはかまわん、値をつりあげたけりゃ、つりあげればいいんだ。ところが、おれには、ひょっとしたら、あの悪党野郎、おれの振り出した小切手をみんな買い集めているような気がするんだ。おれの弁護士、あの汚いレートベルクだが、あいつなら、やつらと手を組むことだっ
てやりかねない  それでおれを崖っぷちに追いつめようという気らしい。
 えーい、おれはもうそのおかげで偏執狂になってしまったみたいだ。だが、いいかい、テオドール、気が変なやつというのは、普通、みんなが知っているよりは、いつも一人だけ多いんだ。あのクルトだって、ほら例のティーッセンだ、あいつだって……」
「彼がどうかしたのか?」
「ああ、捕虜になっていたとき、パリですごくかわいいフランス女と知り合った。そりゃあ甘ったるい感じのおしゃべり女だ。彼を看護したんだと。ホーエンシュヴァンガウの侯爵のところで、すばらしい男の子を産んだ。おれはそのあと、旅に出た……」
 ゴッビは何について語ろうとも、話はいつも彼が旅に出たというところにかえってきた。それは犯罪者が犯行現場にもどってくるというのに似ている。彼自身もそのことを感じてか、長いあいだ押し黙っていた。それからとまどったように、話を続けた。
「おれは要するに旅に出た。何年間かのあいだ、おれは彼らのことについては何も知らなかった。先週、おれはウェスト地区を歩いていた。おれにもどうしてだかわからん。たぶん、だれかを探していたんだろう。そして、突然、コーヒー店の窓のむこうに、鹿皮の手袋をした麻痺した手をおれのほうにふっているのが目に入った。おれはピンと来た。こん
な義手をしているのはクルトのほかにない  おれは彼の顔を見るまえにわかった。いい
年をした例の赤毛のめす犬と一緒だった……」
「覚えているよ。彼女は……」
「おれはあの年増の尻軽女が、窓のうこうで笑っているのを見て驚いた。彼女はかつてなかったほどにエレガントで、熟れきっていた。おれは店のなかに入らざるをえなかった。フランス女は消えているのがわかった。クルトがそれを肯定した。子供は、彼はジギと言ったが、チューリンゲンの実家に連れていった。赤毛の女は夫と別れ、いまは二人一緒に、どこかの近代的なペンションに住んでいる。これだってちょっと正気とは言えないんじゃないか?」
 リスベットとレンヘンが昼飯の支度をした。グレーネンは彼女たちのほうを見ていた。
ふたりとも善意にみち、老けていた    年老いた妻とオールドミス。彼女らは教会の儀式
でもあるかのように、いそがしげに立ちまわっていた。そしてグレーネンはあらかじめわかっていた。昼飯はささやかであるばかりでなく、この四十二年間常にそうであったように美味でもなければ、気が利いてもいない。
 彼は裏切られたような気がした。むしろ自分の本も人形もみんな焼いてしまったほうがせいせいするだろう。最後には、ただ、笑うのみだった、今朝のゴッビのように苦々しく、切れ切れに……。やがて、たずねた。
「どうだい、わたしだって変じゃないかい?」
 ゴッビは彼を理解した。本も人形もそこに、あたりじゅうに、何列にもなって、ほこりをかぶり、みじめに、この何年来と同じように。
 そして、リスベットとレンヘンはこの太陽の下、まさに最悪のスープをついでいた。





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