(35)牢獄のバイオリン  一七一七年


 要塞の下で郵便馬車のラッパが鳴ったとき、パオロ・モフェッティは朝食のテーブルについていた。
 これは火曜日と金曜日に毎週、同じようにくり返されることだった。パオロは八時に朝食を取っていた。彼は召使が郵便を受けとりに行って、もどってくるまで待っていた。やがて送られてきた手紙を見て、分類し、最後に兄の手紙をこの二人の老独身兄弟が寝ている隣の寝室にもっていった。
 ガエターノは手紙や楽譜をベッドのなかで読むのを好んでいた。ドイツやイギリスの出版社から出版されているあらゆる新作楽譜にたいして前払いをしていた。そして要塞内や侯爵館の音楽サロンで演奏される作品の作曲家たちとも文通していた。
 今回は鋼板印刷による四作品が、一曲はロンドンから、二曲がライプチッヒ、第四曲目はどこか知らない町から来ていた。そのなかに手紙も挿入されていた。パオロは獲物を兄のところにもってきた。
 彼は三回あくびをして目をこすり、象牙の縁のメガネをかけて、楽譜を見て、はさみ込まれた手紙を読んだ。

 一七一七年三月十八日、ケーテンにて。
 高き尊敬おくあたわざる楽長殿にして親愛なる御同僚!
 最新作『パッサカリア』の鋼板印刷による楽譜を謹んで贈呈いたします。この楽譜がこのような晴れがましい装丁をされるにいたりましたのも、ご厚意にみちたワイマール侯のお指図によるものであります。どうかこころよくお受納いただければ幸いです。
 この度、わたしは最も恵みぶかき庇護者の願いによりワイマールを去り、当地の合唱指揮者の死により空席となった地位につくことになりましたことを、この機会にご報告しておきます。したがって、以後、新しい住所宛てに手紙をお送りくださるようお願いいたします。それによって、あなたさまも、わたしのほうからの郵送物を正確にお受け取りになることができるでしょう。
 あなたを尊敬してやまぬ
                     ヨハン・セバスチアン・バッハ(自署)

 ガエターノは楽譜のほうに手をのばした。咳払いをして、喉をきれいにすると同時に、しわがれた、粗い低音でうたい、うなり、口笛を吹きながら主旋律をたどり、左手ではすでに指揮をしていた。パオロもただ後ろに控えてはいなかった。ベッドの頭のほうに立つと、この対位法音楽の第二声部をうたった。
 しかしガエターノは最後にはベッドから飛び出して、音楽サロンのほうへ駆けていき、チェンバロの木製の譜面台の上に置いた。やがて『パッサカリア』のすべての音がその美しい響きを満開にして響きはじめた。
「すばらしい!」
 朝のコンサートは通常、これと同じような叫びでおわった  そしてそのあと二人での
朝食がそれに続く。そのとき、兄弟は前日の出来事について語り合う。なぜなら一日のうちに顔を合わせるのはまれにしかなかったからだ。
「今日は、新しい大司教ネッリ猊下を正式にお迎えすることになるだろう。話によると、猊下は教養もあり、自由な思想をおもちの方で、自分の教区内では異端裁判などというものは廃止しようとのお考えだそうだ。今度こそ、もしかしたら、ぼくの『殺人者のオラトリオ』を上演できるかもしれない。ぼくはまだそのことでその方と話をしてはいないけどね。その方の就任のミサのときはパレストリーナを演奏する。おまえも来れるといいんだけどね。おまえだってきっと感激すると思うよ」
「もちろん、行きますよ。マエストロも呼ぼびましょう。彼はあと一週間はいるそうですから。ほとんど一日中、下の監獄のなかにいるようですよ」
「グァルネリのところに?」
「そう。あそこへバイオリンをもっていって、彼のためにずっと弾いているんです。奇跡的なバイオリニストだ! もし兄さんがあのひどい監獄のなかで彼の演奏を聞いたら!」「マエストロの顔にはなにか悪魔的なものがある。あのまがった鷲鼻、すごくとがった顎、
光を放つ目  それにあの笑い! あの不幸な人間に、何を望んでいるんだ?」
「またバイオリンを作れと説得しているんですよ。そのことを侯爵と一緒に思いついたんだそうです。だからマエストロは彼のところにアントニオ・ストラディヴァリの新しいバイオリンとか、ロレンゾ・ガダニーニの最新作などをもっていっているそうです。アントニオはこのグァダニーニほどの才能をもった弟子をもうけっしてもつことはないということを確信させようしているんでしょう」
「グァダニーニの仕事はすばらしい、それはたしかだ。それに、あの不幸なグァルネリが本当は常に自分自身の道を進んでいたことを考えると、彼がアントニオ・ストラディヴァリの弟子だということはできないと思うな。だからグァダニーニがストラディヴァリあらゆる職人のなかで最高なんだ、それははっきり言える」
 二人はロレンゾ・グァダニーニのバイオリンの特徴をこまかく分析し、つぎにガエターノがアントニオ・ストラディヴァリの新しいバイオリンに話題を移した。
「おれの考えでは、彼は頂点にたっしたとおもう。仕上がりは一見それほど見事ではない。色もにぶいし、それほどニスの問題には気を使っていないようだ。しかし形は完璧なまでに精神的深みを示している。胴部の輪郭、f字孔、渦巻き……。それはギリシャ彫刻の巨
匠フェイディアスにも匹敵する形の極致だ  加えて、その声……。いままで、かつて、
あれほどまでの圧倒的な声を、自らのなかから発したバイオリンがあっただろうか!」
 召使が入ってきた。が、マエストロの来訪を告げる間もなく、シュヴァルツェンベルク侯爵の客人が駆け込んできた。
「おはよう、おはよう! いまの言葉はどんなバイオリンのことです? わたしはもう三つ向こうの部屋から聞こえましたよ。当然ですよ、ここはクレモナですからな! いつもバイオリンのことばかり。まるでこの世にはそれ以外には、なにも存在しないかのようじゃありませんか、ハハハ。もちろん、わたしも少々バイオリンは好きでしてな。自分の命よりもずーっとです! やあ、これは失礼、ここにはほかにもまだありますな、ご婦人がた、ご令嬢、山、地面、雲、それにありとあらゆるものが……、みーんな、みーんなです! だから、あのいまいましいバイオリンのことなど、あえて語る必要などなど、ほんとはないはずです。ところがどうです、すべてを語りつくせるのはバイオリンをおいてほかになし! ほかのものでは駄目です! しかし……。これはなんです?」
 これだけのことを一気に言ってしまうと、指の先で新しい楽譜をつついた。そのすべてに目を通し、ケーテンの合唱指揮者の手紙を読み、それを放り出し、窓のほうへ歩いていった。ながいあいだ窓の外を見つめていたが、やがて、なにか深く思案してでもいるかのような憂鬱そうな顔をして、言った。
「そーだ、やっと、わかりましたよ。わたしはオリーヴを忘れていたんです。ヘイ! 貴様、なんでおれの顔をぽけーっと見ているんだ、この頓馬め! 案山子野郎! あんたがたは、なんでこんな召使どもを置いておくんです? 文字通りカルタゴ人の面ですよ! ハミカル。ということは、おまえはハミカルと呼ばれているんだな、この悪党? 行け、
ハミカル、そして、おれにオリーブをもってこい。磁器の入れ物じゃだめだぞ、陶器の入
れ物に入れてもってこい、わしの故郷のカンパーニア地方でやっているようにな。わかったか? じゃあ、急げ!」
 ハミカルの名前をちょうだいした頓馬は駆けていった。モフェッティ兄弟は心の底から笑った。タルティーニは大きな茶色の鼻の穴をうごめかし、その下にかぎタバコのケースをあてがって、その香りをかいだ。
「あなたのお友だちはいかがです? 最初のバイオリン用のトウヒの板をけずる決意をもう固めましたか?」
 ガエターノは微笑を浮かべながらたずねた。
「まったく、あいつは気ちがいです。それもただの気ちがいではなく、わたし以上の、大気ちがいです。しかしわたしは、やつが最初の監獄のバイオリンを完成するまではここから動きませんぞ。後の世のバイオリン収集家はそれを見て言うでしょうな。こんなバイオ
リン製作者は二度と出てこんだろうとね    と、それを言うのはわたしです、このジュゼ
ッペ・タルティーニです」
「じゃ、ストラディヴァリは?」
「彼はもっと完璧です。しかし、わたしの好みではありません。彼にはすべてのことがそなわっています。それにたいして、もう一人のほうはまったくひどいバイオリンも作ります。しかし、うまくいったときには、それこそ、そのバイオリンはまさに悪魔的です。わたしのもっているグァルネリは何がなんでも絶対に手放しません。
 やれやれ、またぞろバイオリンの話になりましたな。バイオリンなんて地獄にでも落ちあがれだ。みんな悪魔にもっていかせましょう! で、その汚らしい尻軽女てえのは、いったいどうなったんです、あの阿呆者が地獄へ送り込んだというのは本当ですか?」
 ガエターノはオリーブをもってきた召使にうなずいた。いまや召使にとって最もいやな
時間    シニョーレ・ガエターノの洗顔と着替え    がその後にひかえているということ
ことだった。召使は絶望的な顔をして楽長のあとにしたがった。
 パオロはパイプに火をつけて、二十五歳のタルティーニを見つめていた。この恐ろしい貪欲さでオリーヴをがっついている男こそ、当時、最も天才の誉れ高きバイオリニストであることをパオロは知っていた。
 その広い肩幅に細い骨っぽい体つきのこの男は、いったいどうして、頭から爪先まで黒ずくめの衣装をまとっているのだろう? それにまた、どうして、いつもいつも悪魔とか
地獄とかいう言葉を口にするのだろう? どうしてオリーブを食べるのにスプーンなんだ?
どうしてかぎタバコを魚のエラで作った容器に入れてもちあるいているのだろう? いったい、グァルネリに何を期待しているのだろう? グァルネリは下の監獄のなかで横暴だし、まるで檻のなかの猛獣のように吠えかかっているだけではないか。
 パオロはこの二人の男のあいだに、ある種の共通点があるのを感じた。この男もきっと人殺しができるだろう。それとも、もしかしたら二人の共通点は、肩の上までとどく長くて黒い髪を、ほかの人の長かつらのような髪形にととのえているということだけかもしれない。それとも、二人のげじげじ眉毛だけかもしれない。眉毛の末端がとんがって、ほとんどこめかみのほうまで跳ねあがっている。
 それ以外のところは外形はおろか、身ぶりも、話し方も似てはいない。
 タルティーニは長い茶色の指で鼻の穴にかぎタバコをつめ込んでいた。
「シニョーレ・モフェッティ、そもそもその女はどうだったんです? 老ストラディヴァリの愛人だったというのは事実なのですか?」
「事実です」
「だから彼女を殺したんだ。おわかりですか、そうなんです、だからです! もしほかの人間のものになっていたのなら、彼にはたいしたことじゃなかったでしょう。その女はバイオリンが弾けたんです。わたしはトスカーナ大公ジョヴァンニ・メディチから聞きましたよ。わたしがいま客になっている侯爵のところで、以前、会ったことがあるそうです。 その優柔不断の人物について何かご意見は? いや、しかしいまは、そんなことは、どうでもいい……、いま重要なことではありません。ちょっと待ってくださいよ、そう、そ
のメディチが……早い話、いいですか  このことをよっくご理解いただかなくてはなり
ません! 彼は自分の妻を殺した。なぜならストラディヴァリは  わたしは昨日、彼と
一緒でしたがね、それはともかく  その女、彼の妻から、つまりその女のなかにあった
彼のバイオリンを奪ったのです! 彼のバイオリンをですよ!
 わたしの言うことおわかりいただけますか? ここで問題になっているのは、バイオリン製作者、しかも天才的なバイオリン製作者なのです。彼は演奏はあまりうまくない。しかし、たとえ彼がうまくなくても、もしその妻が自分の作ったバイオリンをうまく弾けるということになったらどうでしょう? それがどんな持ちつ持たれつの協力関係を生むか、どんな一心同体の関係になりうるか思ってもみてください!
 おわかりですか? ええい、今畜生。ここんところをよーく理解してもらわなくっちゃ
ならんのですがね!」
 彼はそのとき身動きもせずに椅子にすわっていたが、いきなり両手を頭の上のほうに突きあげると、その手を縦横にふりまわしはじめた。やがて不意に窓際へ駆けより、誰かを探してでもいるかのように体をこわばらせたまま外を見やった。
 しばらくして、かかとの上でくるりと体を回転させると、大声で言った。
「わたしは一度、最初から終りまで女の手で作られたバイオリンを弾いてみたいですよ。わたしは一日中そのバイオリンを弾いてやる。そしてその女をこの上もなく狂喜させてやる。そうしたら彼女のバイオリン同様、その女もわたしのものになる……」
 彼は声をあげて笑い、ソファーにどっかりとすわり、パオロを見つめた。二人はまるでお互いに心の底の秘密を探り合ってでもいるかのように見つめ合っていた。
 ハンサムな老騎士パオロは疲れたようにほほ笑んだ。
「ストラディヴァリにはフランチェスカという娘がいましてね    その娘はときどきバイ
オリンを作っているんです。彼女はすごく病弱でしてね  いまやっと十七歳です。彼女
のバイオリンは特別にどうと言うほどのものではありませんよ」
 タルティーニはどこかの糸が切れた操り人形のように飛びあがった。
「あの青い顔をした美しい娘ですか? じゃ、彼女がバイオリンを作るんですか? わたしが昨日、あの家へ行ったとき、バルコニーの上を歩いていた? なんですって? 特別にどうと言うほどのものではないですか? でも、このわたしが手にしたら、たちまち特別のものにしてみせます! 聞いて下さい、わたしの手にかかれば、どんなにすごくなるか!」
 彼は出ていった。パオロはほんの少しまえ彼が立っていた窓際に近寄って、あの変人の出てくるのを待っていた。しばらくして要塞の下に、平常心を失った人のように白い道を町のほうへ駆けていく彼の姿が見えた。
「おれはあの男の耳のなかに火のついた火口を突っ込んでしまったようなもんだな。そんなつもりじゃなかったのに。それで不幸が一つ消えるかもしれないが……もしあの娘が、せめて病気でなかったらな。だが、あんなふうに?
 それにしても春じゃないか。この季節にはバイオリンの木も花咲いていいはずだ。あの変人は彼女自身と同様に貧血性の彼女のバイオリンを弾くだろう。たぶん、彼の腕のなか
でそのバイオリンは血の気が差してくるだろう。おれも年をとったな  なのに、いまは
春だ。本当に……」
 彼はゆっくりと寝室に入っていった。大きな花柄の部屋着を脱ぎ、非常に注意ぶかく着替えをした。それから床屋にひげを剃らせ、かつらの手入れをさせた。年齢的にはもう六十三歳というのに、彼はいぜんとして矍鑠とした騎士であり、その高貴な顔には善意に満ちた陽気さがあり、柔軟な身体には永遠に若い童心がやどっていた。
 彼にくらべると二歳年上のガエターノは完全に老人になりきっていた。しかし、彼はそのことを気づいていなかった。いつもの習慣にしたがって家のなかを見まわり、監獄長と看守長の報告を聞き、それから彼らにともなわれて、日々の獄房の巡回のために獄舎に向かうのだった。
 彼は囚人一人一人のもとに足をとめた。ある者にはただ目を向けるだけだったが、ある者とは長い会話を交わした。犯罪にいたるまでの彼らの運命をこまかな点まで知っていた
    それにもかかわらず、彼らにたいする思いやりが鈍ることはなかった。
 それらの運命の過程のあいだにはどれ一つとして同じものはなかった。そしてそのすべてを弟に語った。このようにしてモフェッティ兄弟は生涯にわたって人間の魂の深淵や泥沼の底ので渦巻くどす黒い秘密を見続けてきたのだ。
 彼らは誰にも罪を着せなかった  犯罪者にも、社会にも    。もし誰かが、やむにや
まれぬ理由からであれ、激情からであれ、たとえすでに殺人を犯していたとしても、彼らはそれを同じ運命的な必然とみなし、さまざまな悲劇的環境の結合の結果であるとみなした。彼らはそのすべてを音楽によって描写した。
 終身刑の宣告を受けた囚人たちの窓一つない地下牢は地獄と言われ、上の階の獄舎は煉獄と言われた。そこから広々とした神の空の下に出てきたものは、あらゆる地上的貧困と苦労にもかかわらず、楽園に来たと言われている。
 なんらかの弦楽器または管楽器を演奏する才能を授かっていないものには、うたうことが教えられた。つまり、それをおこなっていたのはモフェッティ兄弟だった。だから侯爵もまた誰よりも彼らを愛していたのだ。
 兄弟の願いによってジュゼッペ・グァルネリにも慈悲があたえられた    そのための適
当な法令も発見された。侯爵は彼にたいして鎖による拘束を解いた。そして悪魔的シュトルフはそのことについて結局、宮廷への内密の報告さえ送らなかった。
 その結果、クレモナの領地内ではその時から首切り役人の剣には血なまぐさい仕事がなくなった。そのすべては毎朝、パオロ・モフェッティの巡回コースが最初に導く一人物のゆえだった。
 以前、私が語った男は七年間、地下の独房に生きながらえた。彼はほかの地獄の住人たちのように壁に鎖でつながれていなかった。そして獄吏は彼のところには絶えずオイルランプがともっているように気を配らなければならなかったし、床屋は毎日彼のひげを剃り、黒くて長い髪の手入れをしなければならなかった。
 耳の悪い父親、酔っ払いの母親、ボナヴェントゥーラ神父は日曜日に訪問することを許されていた。そして彼に着替えや、彼が欲しがるエレガントな服をもってきた。ただ音楽のことについてだけは、この監獄のなかでは聞くのもいやがった。だからその点では、楽
器の製作や楽器の演奏において巧みな技術をもっていた  またはモフェッティ兄弟を喜
ばせるために歌をうたう  他の連中とはことなっていた。
 パオロが彼のところへやってきた今でさえ、ジュゼッペは彼の唯一の読書、聖書を読んでいた。

  「わたしは彼らを、世界のあらゆる国々の恐怖と嫌悪の的とする。彼らはわたしがお   いやるあらゆるところで、辱めと物笑いの種、嘲りと呪いの的となる。わたしは彼   らに剣、飢饉、疫病を送って、わたしが彼らと父祖たちに与えた土地から滅ぼし尽   くす!」                  (エレミヤ書・二四・9−10)

 ジュゼッペは低く声を出して読んでいた。そしてランプの火が彼の息でゆれていた。
 パオロは言った。
「エレミア書だな。でも、ぼくは君のために新しい予言者を連れてきたよ。ほら聞けよ」 彼はポケットから豚革の装丁で金の飾りのある本をポケットから取り出して、読んだ。
   私たちの人生行路のなかば頃
   正しい道をふみはずした私は
   一つの暗闇の森のなかにいた。

   ああ、それを話すのはなんとむずかしいことか
   人手が入ったことのないひどく荒れた森のさまは
   思いだすだに恐怖が胸に蘇ってくるようだ。
                 (ダンテ『神曲』地獄篇・第一歌・野上素一訳)

「それはなんです?」
「読みたいかい?」
「読みたい。ぼくにください」
「『神曲』だよ」
「ぼくにください」
 パオロは彼がその本に飛びつくさまを見ていた。この男は七年間、新旧の両聖書以外にいかなる読書も好まなかった。ほんの最初の二句の三連詩が、彼にとってそれが第三の聖書となることを感じさせたのだ。パオロは心に喜びを覚えながら外に出ようとした。ジュゼッペが彼を引きとめた。
「ちょっと待ってください、典獄閣下。あの悪魔野郎を、もう、ぼくのところにはよこさないでください」
「タルティーニのことかい!?」
「名前は何でもかまいませんが、あいつは悪魔です」
「ちょっと役者を気取ってるだけだ。こわがらなくてもいい。あれだって君の幸運を願っているんだよ」
「いいえ。ぼくはここですごく幸せです。ぼくはどんな修道院にいても、こんなに幸せを感じたことはありません。それにあの男は地上の王国をちらつかせてぼくを誘惑するのです。彼のバイオリンの虜にしようとして、彼のバイオリンなかにこの世のすばらしさが輝くようにと、ぼくに望んでいるのです。悪魔だけが、あんなふうに四本の弦の上で……、黄金と愛と、野心と名声の四本の弦の上で、演奏することができるのです」
「わかった。もう、彼を君のところによこすのはよそう。なぜなら、君の王国はすでにこの世のものではないのだからね」
 外に通じる扉がきしみながら開いた。すると一陣の風がランプの火をほとんど吹き消しそうになった。
「新しいバイオリンをもってまいりました。女の手で作ったバイオリンです。このバイオリンが男の手のなかでどんなに鳴るか聞いてごらんなさい!」
 タルティーニは弾いた。
 地下王国の主は硫黄の炎のなかには現われず、溶岩流も無限の暗黒のなかに火の手をあげなかった。拷苦に落とされた救いなき者たちの叫びも、また呪わしき鎖の音もなかった。
ただ、強き男とやさしき女の魂だけが甘くせつない、永遠の抗争のなかでしっかりと抱き
合っていた。
 古いトラッツォの鐘の音にまじって鳩たちが飛び立ち、ポー川の上の日の光の降り注ぐ斜面には一面に咲き乱れた花々のほかにはなにもない。金の装飾をほどこした豚革装丁の本のなかのどこかでは、たぶんアルノ川の急流が音をたてて流れているだろう。
 パラッツォ・ピッティ(宮殿)やポンテ・デッレ・トレ・グラーツィエ(三女神橋)の石は永遠にうたい続け、チマブエ(一二四〇頃−一三〇二)の絵はその子供っぽい色彩の天使のあいさつをはなやかに告げている。
 ポンテ・リアルト(橋)の下にはおおいのかかったゴンドラが流れ、ポンテ・デイ・ソスピーリ(ため息の橋)の上では囚人たちがため息をつく。フォーロ・ロマーノ(ローマ広場)の石柱は地下で息をつき、ナポリのオレンジの木々の上ではヘスペリデス(ゼウルの妻ヘラの金のリンゴを守るニンフたち)の金のリンゴが輝く。
 シエナのある古い教会の下の硝石でおおわれた壁に魚の形が現われる。氷におおわれた巨大な山のなかのどこかでは、新たに彫られた不屈のキリストたちが、ふたたび旅へ出発する。どこかの滝のしぶきの虹の下で、その天国的な光の筋に照らされて聖チェチーリアがハープを弾いている。そして苦行僧たちの笞打ち、ほとばしる血、そして極限の笞の音。 これらのすべては、ひと気のない修道院の中庭で響くのみ。異端審判の長は大理石の宮殿の青い影のなかで、乞食の子供をだくために身をかがめる。雲は要塞監獄の住人一人ひ
とりにほほ笑みかける    するとジュゼッペが飛びあがる。
「なんてひどいバイオリンだ。おれが作ったバイオリンを弾いてみろ!」
 誰かが笑った。
 ジュゼッペはランプの光のなかでバイオリンを見た。変な形をしている。
「まるで女だ」ジュゼッペは言葉を続け、嘲笑的に笑った。「ネックは細く、尻はばかに広い。誰が作ったんだ?」
「フランチェスカ・ストラディヴァリ」
「フランチェスカのつぎはぎ細工としか言いようがない。おかしな形だ」
「おかしくはない。誰もが自分に合わせてバイオリンを作る  」
「じゃ、わたしのバイオリンは……、どうでした? そして、どうなりますかね? なぜなら、こうなった以上、ぼくも、さっそくバイオリン作りはじめる気だからです。しかし、別の人間が、別のぼくがです。今日にも、いますぐにも、製作にかかりましょう。新しいぼくが最初のバイオリンを作るまで待っていてくださいますか?」
「待つとも。そのために必要なものはみんなわたしが自分でもってこよう。それから……そのバイオリンをわたしが暗い部屋で弾く。侯爵と二人のモフェッティ夫人が審判者だ。わたしはガスパロ・ダ・サローの楽器をひとつ、マッジーニのものをひとつ、アンドレア・グァルネリ、ニコロ・アマーティのもの一丁ずつ、それにストラディヴァリの一丁とヤコプ・スタイネルのバイオリンを一丁、それに君のバイオリンだ。七丁のバイオリンの競争になるな」
「それにもう一丁、あのストラディヴァリの新しいバイオリンを一丁加えてください。あの……」
「グァダニーニかな? いやあ、彼はなかなかいいバイオリンを作る。しかし、あれはまだのびるな。いまのところは未完成だがな。ここには七丁のバイオリンしかない。全ロンバルディー地方の宮廷とロンバルディーの楽器の専門家を招待しよう。侯爵はその六人の製作者のなかの最高の作品をもっておられるのだ」
「いいでしょう。七番目のバイオリンも他の楽器に遅れは取りませんよ」
 ジュゼッペはその同じ日には、はやくもバイオリンの製作に取りかかっていた。それは実に見事なバイオリンだった。そのよさは、後にリヴォルノのフランスの商人がパガニーニに与え、今日までジェノヴァ市役所のガラスの鐘のなかにだいじに保管されているほどのものであった。





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