(30) 聖杯の城のビール・ジョッキと、ビロードのコートを来たヴォーダンの別れ
一九一九年
ポケットをかきまわして折れた葉巻を探し出し、タバコの巻紙で破れを貼りあわせて火をつけた。それから彼の前に召使が置いていった館の訪問者名簿をめくった。彼は羊皮紙の表紙が気に入った。
四頁目には総司令官ハイステルのあとに、ゴッビの興味を非常に引きつける署名が続いていた。
アレッサンドロ・スカルラッティ、ナポリ
アントニウス・ストラディヴァリウス・クレモネーンシス、西暦一七〇一年
ジュゼッペ・グァルネリ・ディ・クレモナ
ジロラモ・アマーティ、一七〇一年
コンチータ・ディ・トレド、m.p.<自署>
ジェラルディーナ・ダ・モンテ
エレーナ・ターニ、パリ・リリコ劇場プリマバレリーナ
ガエターノ・モフェッティ、クレモナ
パオロ・モフェッティ・ディ・クレモナ、一七〇一年
「小さいが、すごい顔ぶれのグループだ。インクから見ると、どうやら一緒にきて、順番に自分の名前を署名したらしいことがうかがわれる」とゴッビは考えた。
その後にはまたおもしろくない名前があった。ド・パールフィ伯爵、ウィーン植民地枢機卿、フェルディナンド大公。これらの人びとはすでに一七〇五年の日付を自分の名前とともに記している。したがって、この館は四年間、ほかの来客がなかったことになる。
侯爵はテラスに出た。白い亜麻織りのシャツと黒メガネの組み合わせは、ゴッビのなかに悲劇的葛藤の印象を強く呼び起こした。彼は沈んだ調子で朝のあいさつをした。
「おはよう、お客人、おはよう! ところで、わたしどものところはいかがです? いま、もうここに来られたことを後悔なさっているのでなければいいんですがね」
ゴッビは侯爵が昨日、はじめて声を聞いただけなのに、声ですぐに彼だとわかったことにおどろいた。しかも、これまで知っているほかの目の不自由な人のように杖もついていない。それどころか、たしかな足どりでテーブルのほうへ来て、柳の枝で編んだ庭椅子にすわったのだ。
「わたしがここに来たことを後悔しているですって? いやあ、わたしにはまったくの天国ですよ、侯爵。むしろ、ご招待もなしに、わたしまでが厚かましくやってきたことを恥じているくらいです。でもわたしはあの悪友のクルトには何一つ断りきれないのです。だから彼が思いつくことはなんでもやっているのです。
いずれにしろ、わたしはずっとまえから、もうフュッセンには来るつもりだったのです。ここはクレモナやブレッシアと同様にバイオリンの揺籃の地ですからね。わたしは訪問者の記名帳のなかでそういう人たちの名前に出会いましたよ……そのおかげで、なんというか、ちょっと混乱しているのです」
「ああ、それはきっと、わたしの先祖のヨゼフの客のことでしょう。彼のところには大勢のバイオリン製作者や音楽家や歌手が訪ねています。彼がベネチアとクレモナの地方総督をしていたころです、ヘヘ。彼は芸術にすっかり夢中になっていましてね、とくに音楽に」 朝の太陽がそのあらんかぎりの光輝でもってテラスを満たしていた。ゴッビはその光と熱を吸収し、葉巻からのびてまばゆいばかりに白いテーブルクロスの上に落ちる煙の影を見つめていた。もし澄んだ冬空のなかをさまよったとしたら、雪の野原に落ちる雲の影も同じように見えるだろうなどと思いをめぐらせていた。
やがて彼は黒メガネを見つめて、この陰りのない、もの静かな巨人がのろわれた暗黒のなかに生き、テーブルクロスの上で演じられる、オパールのような青い葉巻の煙の戯れを見ることもできないのかと想像していた。こんなことを考えているとき、ビロードのようにやわらかいゴッビの目に涙が浮かんできた。
「ねえ、侯爵、医者はあなたに角膜の移植を試みなかったのですか?」
「どういう意味です?」
「つまり……、そのことについて、わたしが語るのは、あなたにとって苦痛でしょうか?」「いいえ、お気遣いの必要はありません。はじめは……あの当時は、盲目という言葉さえ聞くのが耐えられませんでした。でも、いまは……要するに、いまはそのことにかんして何でも話されてかまいません」
「一つだけ申しあげたいのは……もし、誰か医者が移植手術をしようという決断をくだしたとしたら、私の片方の目を提供いたしたいということです」
侯爵は夢想した。やがて黒メガネの下から太陽にむかって笑いだした。
「昨日、クルトがあなたのことについて長いこと話してくれましたが、クルトが夜中までかかっても話しきれなかったことを、いまの一言があなたもちおて、すべてを語ってくれましたよ。このゴッビ・エーベルハルト、こいつは……両手で自分のもっているものを、自分の血も、自分の脳みそも、自分の金も、自分の心も、必要とあらば自分の目の光さえもばらまいてしまうと。だから、わたしは、いま、ゴッビ・エーベルハルトを抱擁し、口づけをしてその心情にたいして感謝を表したい」
侯爵は長身の体をいっぱいにのばし、ゴッビの大頭を大きなてのひらにかかえ込み、身をかがめて、くしゃくしゃのライオンのたてがみにおごそかにキスをした。そのたてがみには黒い髪がいちじるしく少なくなっていた。
ゴッビは何か低くうなり、咳をした。なぜなら涙があふれだし、喉のところまでたれてきたからだ。
「あの阿呆者のクルトが……、わたしを好いてくれていて、わたしにかんしていろんな馬鹿なことを言ったんでしょうが、そんなのはいいかげんな作り話です。ええ、ほんとです。わたしは不潔で、罪ぶかい人間です。ほかの誰とも変わりありません。ときにはこの汚れから抜け出したいと思うこともありますが、まあ、それだけの話しです。ただ……こういう瞬間というのは誰にもあることです」
そう言ってゴッビは麻痺した左手をふった。こうも自嘲的に手をふることができるのはこの大きな熊公の手だけだろう。このぎこちない肘の動きのおかげで、一人の人生が完全な形で保たれたのだ。
「わたしたちはすごく親しい友人になりましたね、侯爵。そのためには、時には、ほんの一瞬間で十分です。ですから、それをよりどころに一つだけ質問させてください。あなたはどうしてこんな遠くまでいらっしゃることになったのです? あなたはこんなにもの静かで……」
「いらっしゃい、少し唐檜林でも散歩しましょう。そのあいだにご説明しますよ。わたしに手を貸してください。わたしはあなたにすがりながら歩きますから、あなたは何も気にせずにゆっくり進んでください。まったく自由に、わたしがここにいるなんて気遣いは無用です。それじゃ行きましょうか。なかなかいいですよ……こんな具合にして、朝の散歩をしましょう。少しくらいゆれたって大丈夫です」
二人は館の庭園のなかを進んだ。二匹のブラッドハウンドと体に斑点のある三匹のダルマシアン犬、赤錆色の三匹のダックスフントが彼らのまわりを飛び跳ねた。中庭をかこむ建物から下男たちが二人に朝のあいさつをを陽気に叫んだ。
侯爵は犬を一匹一匹なでてやり、犬の頭の形を手さぐりして、犬の名前さえ呼んでやった。それから犬たちに言った。
「おまえたちは、今日はうちにいなさい。さあおとなしく行くんだ」
犬たちは悲しそうに身を引いて、クルトがゾエと侯爵の妹とともに現われたテラスのまわりで吠えていた。しかし二人の男。リンネンのシャツを着た大男とビロードのジャケットを着た大男はそのまま歩き続けた。それというのも、トウヒ林と鬱蒼とした樹木にかこまれた小高い丘が、神が太古の幻想を太陽の画筆と絵具で描いたワーグナーの四部作『ニーベルンクの指輪』の舞台装置にでもありそうな魔法の雰囲気で彼らを包んでいたからだ。
「あなたが自分の片方の目をくださるとおっしゃったときには、心底からの確信をもって言っておられるのを感じました。それはまさに、わたしを真っ暗な闇のなかから、安らぎの世界へ導いてくださった瞬間でもありました。
お聞きください。わたしはこの不幸に見舞われ、それでも生き続けようと決心したとき、最初から、わたしは自分をあざむいていたのです。おれは目が見えるのだと。おなじみの場所では記憶に頼り、未知の場所では、あちこちに散在する目印をたどり、用心ぶかく説明にしたがい、それらのものを自分のものにしていきました。
わたしがパリに着いたとき、すでに目が見えなくなっていたので、パリの何も見てはいないのです。それでも、わたしは人にパリについて語りました。わたしは何としても目の見える人たちの大きな世界に仲間入りがしたかったのです。
わたしは目の見えない人たちの小さなグループを恐れていました。これらの人たちは無限の暗黒のなかでよろよろしながら、手探りをし、杖の先をコツコツと不安げにたたいています。彼らは施設のなかで生活し、閉鎖的な、区別された悲喜劇的生活という地獄を体験しているのです。
わたしはこれらのこの不幸な少数派とのかかわりを一切もちたくありませんでした。わたしは夢想の深淵へ、世界と克服しがたい壁で隔てられたこの幻覚の世界に墜落しないように、現実世界にしがみついていました。
わたしは過去の世界からわたしを隔てるものすべてをモグラの世界、のろわれた地下の世界と考えていました。ですから、わたしのつぶれた二つの眼球がわたしの世界を正常な軌道からはずしてしまったのだと、わたしは何度も涙の発作に襲われました」
二人は静かに森のなかの小道を歩き続けた。そして侯爵はなにか遠い昔の、関心のなくなったものごとについて語っているかのように、淡々とした抑揚のない調子で話していた。あたりではクロウタドリ<ヨーロッパのツグミ>が「同感だ」と言わんばかりに陽気にさえずってる。
「今日、わたしには、そんな考えが病的な状態だったことがはっきりわかりました。わたしは日記を読み返すことによってこの病的な状態から抜け出したのです。日記はわたしの医者になり、司祭になり、医者になり、聴聞僧になりました。子供時代をはじめ、わたしは日記をとおしてすべてをあらためて経験しました。
その結果、自分にたいしてより正直に、より厳しくなることができました。わたしは日記のなかで心身ともに真っ裸になりました。そして自分自身を認識したのです。つまり、ギリシャ人たちが大課題と考えていたものです。わたしが告白し、自らを生け贄に捧げたとき、盲目の暗い小道が大きく開け、わたしの行く手に日の光が射しはじめたのです。もはや自分の身体のつぶれた目で見たいとも思わなくなりました。
ロマン・ロランに手紙を書きました。この聖なる人物は、わたしが自分ではどうしても解決できなかった苦悩を一言で解消してくれました。彼は書いていました、『友人よ、魂はけっして盲目ではありません!』とね。
この瞬間、わたしの迷いは解消し、自分の心の目でものを見はじめたのです。移植は成功しました。わたしはロマン・ロランから目をもらったのです」
大男は立ちどまり、ほほ笑んだ。その黒メガネは大きな二つの黒い目のように輝いた。それからホーエンシュヴァンガウ城のほうをめざして歩き続けた。
彼らは「バイロイト祝祭」の際の円卓の騎士のようにゆっくりとした厳かな歩調で歩いていた。すると城はあたかも聖杯の城に変わりファフネルとファソルダという人物となって二人のパルシファルが苦難の道を登っているかのようであった。周囲の森のざわめきはジークフリートの角笛の合図を待っていた。
やがて、谷間から頂上にいたる道の途中で雲が一つまた一つと重なり合っていった。あたりはだんだん暗くなり、だんだんと恐ろしげな様相になってきた。遠くのほうで雷神の声がとどろき、荒々しい雲塊が天を射た。やがて雲が静止すると、天の神殿の群衆たちが無限の高みからすべてを下のほうに見おろしていた。稲妻がジグザグに走る。ヴォーダンの槍は地面に突きささる。虹の二重の半円は樹木におおわれた高山の上空を飛び越え、その虹を通って神々はヴァルハラへ去っていく。
銀色の年ふりたトウヒの木の下では、ゴッビが笑いながら侯爵の背中をたたいていた。
「わたしたちはそれほどぬれませんでしたね。でも、たとえずぶぬれになったとしても、
それだけの価値はあったというもんです。すばらしい舞台装置でしたよ。巨大な雲の塊はすでにところどころ太陽の光を通している。二重の虹は色あせたヴェールのように溶けて消え、山の尾根は森の緑がぬれて光る。すべては青春の女神フレヤが鹿の足をしてここを駆け抜けていったかのように新鮮だ。しかし今は彼女の姿もない。なぜなら太陽が勝ち誇ったように雲のヴァルハラの殿堂をけちらして、城に光をそそいだからだ。城は山頂に、いま、まさに聖杯のように燦然と輝いている。わたしがこんなことを言うのは、あなたにも見ていただきたかったからですよ、侯爵」
「それにしても、あなたは実にうまく表現しましたね。ほんとに目で見ているようでしたよ。それも驚くにはあたりません、この場所は、あの狂気のルードウィッヒ<二世>が選んだ場所だからですよ。あのワーグナー崇拝者です」
「その人が城を建てたのですか?」
「改築したのです。そこはもともとホーエンシュタウフ家の居城でした。それが愛国者と農民の手に落ちたのです。一人の農民が二千ターレルで買ったのです。その後、バヴァリアの王家がその農民から買い取ったのです」
「そして、いまは聖杯に属している。だから、あんなに城の上に太陽がきらめいているのですよ! わたしたちを乾かし、さらに遠くへさまよえるように。今日は家にもどらないことにしましょう、侯爵」
「よし、誓って、家には帰らないことにしましょう。わたしも少しさまよってみたい気がしてきました。わたしたち二人は、なんて気が合うんでしょう! もし、あなたがわたしのところに住んで、ここにとどまってくださると、ぼくは本当に幸せなんですがね」
ゴッビは笑い声がこだまして森からもどってくるほど笑った。
「そんなに急にわたしの手を放さないでくださいよ。そしたら、あなたはぼくがここにとどまっていることを、たしかめられたはずです」
そう言って、また侯爵の背をたたいて、わきばらを拳骨でつついた 二人は子供のように笑った。曲がりくねった山道は手入れはいきとどいていたものの、さすがに驟雨のあとは、すべりやすくなっていた。それでも、たいした苦労もなく城にたどりついた。
グレーのジャケットを着て、鼻メガネをかけ、豚のような顔、ブロンドの髪がいやに目立つチュートン人<ゲルマン民族の一部族>の城の管理主任は非常な敬意をもって歓迎し、横のほうにずれていた黒いネクタイをなおしながら城の前庭まで迎えにきた。
もともとこのチュートン人のネクタイはいつも横にずれ、絶えずネクタイを流行おくれのハイカラーの中央の正しい位置に押さえつけなければならなかったのだ。彼のこの不幸な戦いは一日中続いていた。同時に、威厳をもってしゃべり続け、学生っぽいジョークを飛ばしては、自分から雷鳴のような大きな声で笑っていた。それは彼の亜麻色の髪の、色素欠乏症的人柄には何となくそぐわないものだった。
「侯爵閣下、あなたのお客さまを城内の各部屋にご案内するまえに、よろしければ軽いお食事でも差しあげたいのですが、いかがでしょう。そうすれば家内も喜ぶことと存じますが。どうぞ、こちらへ、ご案内いたします、閣下」
彼は客たちを古いドイツ風の部屋へ導き入れた。床は緑色の板張り、ファヤーンス焼きの暖炉、切り出された角材の梁。壁は古いゴチック書体の文字の文書で装飾されている。二人の召使が大きな丸テーブルにテーブルクロスをかける。数分後には錫の蓋のついた焼き物のジョッキのなかで、すばらしいミュンヘン・ビールが泡を吹いていた。
黒ハツカダイコンと混ぜた伝統的なキャベツ料理が黒い色彩をそえ、粗びきソーセージも赤みをそえていた。
「本物の修道院醸造のビールです。お席にどうぞ、閣下。あなたもどうぞ、尊敬おくあたわざるマエストロ」
管理主任はそう言って、すばやくネクタイを引っぱった。それから侯爵の手にHBという文字の記されたジョッキの取っ手を握らせた。
「ヴァルハラとビアハラ<ビア・ホール>だ」
ゴッビは笑い、ジョッキの中味を喉に流し込んだ。
「この二つのあいだを埋めているのがドイツ精神ですな、ハハ」
「それこそ、まさに真理です。わたしどもの主人、ルプレヒト公はホーフブロイよりも修道院醸造のほうを好んでおられます」
落ち着きのわるいネクタイの主は重々しく言った。
二人がすごい食欲で食べているあいだに、管理主任は古い大学生組合<一八一五年エーナで組織>の歴史を語った。ここにはいかなる戦争もなく、いかなる革命もなかった。ここには絶対的有効性をもって歴史が形成されている。白鳥の英雄の間とホーエンシュタウフ家の間ではピロティやシュヴァントのフレスコ画によって過去が永遠のものとなっている。武器を飾った廊下はちょっとした楽しい博物館といったところで、数えきれないほど多くの武具や狩猟のトロフィーが陳列されているが、狂ったルードウィッヒの霊はここには一度もさまよい出たことはなく、至福の死の安らぎと静寂をさまたげるものはない。
客がたっぷりとビールを飲み、ワインを飲み、ブランデーでお開きとし、別れを告げて、家路についたとき、あたりには夕闇がせまっていた。日中は深く謎めいた緑色をたたえるシュヴァンゼー湖は、いま、巨大な一個のダイアモンドのように湖の底からこの世のものとも思えぬ美しい光彩を発して輝き、鏡のように平らな水面は、沈みゆく太陽の燃えさかる悲劇の火にさえ、自らの静謐を乱されるのを拒んでいるかのようだった。
ゴッビはそこで何が起こるかを観察していた。彼は、ぴくとも動かない雲の群にむかってやや不安定な足で立ち、深みを見つめ、それからふたたび空の高みを見晴らした。
「ここになかなかいいベンチがありますよ、侯爵。少しここにかけましょう。わたしたちは森のはずれです。わたしたちの前には伐採地があり、まわりには山の影の大きな輪が出来ていて何かを待っています。それとも、いまは、そのままにしておきましょう。しばらく休みましょう。わたしたちのまわりで何が起こっているか、わたしがお話ししますよ」 侯爵は身動きもせずに聞いていた。そして彼の黒メガネのガラスが赤い光を反射した。「わたしたちの前には奇妙な雲がとまっています。両側に大きく広がり、巨大な腕ですべての山の頂きを抱きかかえようとでもするみたいです。中央のところは、鷲の紋章をつけた鉄兜のように、まだ高くもりあがっており、その下には夕日がなおいっそう赤く燃え、なにやらの神の顔を照らしています。
すでにトウヒの林も真っ赤な岩の絶壁もこの赤い火でおおわれ、山の斜面も、このときまで、冷ややかにきらめいていた湖も赤茶色の光で燃えあがり、銀の剣にも似て、いまはその跡に赤く焼けた炭火のように散らばっています。音もなくはじけていますが、わたしにはこの火の魔法によって呼び起こされた声が聞こえます。炎魔<古代ゲルマン神話>よ、ここへ! 炎魔よ! ここへ来れ! 聞こえますか、侯爵?」
「聞こえます」
ゴッビの声は、まるでロキの火炎の射手を呼び覚まそうとするかのように、静寂のなかに鳴り響いた。そしてその瞬間、彼らのまわりのすべてのものが、上も下も、不意にめらめらと火の手をあげたかのように見えた。
「ヴォーダンの別れです。彼の顔と一つの目は雲の鉄兜の鷲の羽の下の雲の赤茶色の髪で焼かれています。山々の上に腕をひろげ、こうして彼の愛するワルキューレと別れるのです。別れゆく血にぬれた心臓の和音が聞こえますか? 火柱の和音が、侯爵?」
「聞こえます」
ゴッビはよろよろとベンチから立ちあがり、燃える雲の顔を見つめ、両手を大きくひろげて張り裂けんばかりの声で、古代ゲルマン神話の神の高貴なる教訓を叫んだ。
しかし、すでに下の深みでは湖は静まりかえり、そこにはただ白鳥の首の、いかにも意味ありげなクエスチョン・マークだけが光っていた。そのなかの一羽はローエングリンの小舟を金の鎖で引いて新しい岸へと向かっていた。
小舟のなかにはローエングリンが金の兜を頭にかぶり銀の武具で身を固め、大きな剣の柄に肘をかけ、自分の使命にたいする幸福感にひたりながら立っている。
こうして、その上の方では、ビロードのジャケットを着た年老いた一人のヴォーダンがぐったりとベンチの上にのびていた。頭がベンチの端からはみ出して、のけ反るようにたれていた。