(31) 問題は簡単  一七〇七年


 ジュゼッペ・バプティスタ・グァルネリが「三女神」酒場の客用の一室で脳溢血に襲われた。それが起こったとき、その部屋の係りの女中の証言では、グァルネリのほかに、さらにもう一人、太った女がいた。それも単に部屋のなかにいただけでなく、まさにベッドのなかにいたというのである。
 ひとつ、たしかなこと  皇帝警察から調査官が来たとき、上記の女性の痕跡はまったくなかったこと、別の言葉で言えば、その女性の人となりについては、だれ一人確かなことを証言することはできなかったということである。
 しかし、私たちにはできる。私は読者の好奇心をいたずらにかき立てるようなことはしたくない。だから、これ以上の細かな点は省略して、その婦人、一人の女中が、記録にはまったく触れられていない場所、つまり鍵穴をとおして、長いあいだ観察していたがハーピストのジェラルディーン・ダ・モントであるとを言っておこう。彼女については疑いなく私たちはすでに知っている。
 この女性の芸術家が、ある種の生まれつきの性格からして興奮しやすいジュゼッペ・グァルネリの思いがけない突然死の直接の原因であることは間違いないとしても、それでも、彼女にその責任を全面的に問うのは必ずしも公平とはいえないのではあるまいか。だから、もし彼女に良心の呵責などといったものがあるとしたら、その分だけの免罪を神や人間の正義に照らして与えることができるかもしれない。
 たしかに、聖チェチーリア<ローマの殉教者で音楽の守護神>もまたこの件に関与していた。なぜならこの女流芸術家は同夜、地方総督邸におけるハープのコンサートにおいて大成功をおさめていたからである。
 ジュゼッペ・バプティスト・グァルネリは遺書のなかで、自分の名付子で「またいとこ」でもあるジュゼッペ・アントニオ・グァルネリを主要な相続人として指名し、後見人としてジロラモ・アマーティとアントニオ・ストラディヴァリを立てていた。
 また豊かな遺産贈与によって「三女神」酒場でしばしば会っていた四人の女性のことも忘れてはいなかったことを証明した。彼女らのなかにはハーピストとエレーナ、それに彼女の友だちの美しいダンサーもふくまれていたが、このような状況は当時の道徳観念が現代とくらべて、けっしてかんばしいものではなかったことを物語っている。
 私がより率直であろうとするなら、それは私の「自我」のよい部分の現われの一つでもあるが、若いジュゼッペ・アントニオ・グァルネリは年長の「またいとこ」の思いもかけない死を大喜びで受け入れたということを告白しなければならない。
 なぜなら、彼は自分にたいする好意的人物にたいしても、なんらの血縁の情愛などといったものを感じたことなどまるでなかったからである。その上、自分の師匠としても尊敬していなかった。もし「もう少し我慢して遺産相続のチャンスを待つべきである」という実の父親からの忠告がなかったら、もうとっくにアントニオ小父さんの工房に入れてもらうよう頼みこんでいただろう。
 その上、彼はベアトリーチェを婚礼の祭壇に導くつもりだった。そのことについての彼の決意はもはやゆるぎなきものであった。
 いまや、これらのすべての問題が、たった一度の脳溢血の発作によって一挙に解決したのである。これでジュゼッペは世界的に有名なストラディヴァリの工房に移ることができるし、ついでに、彼が心から選んだ赤毛の恋人を祭壇に導くことだってできるだろう。
 こういった問題を遠くから見る人間には、物事はこんなにも造作なく解決してしまうものなのか! と思われるかもしれない。
 このジュゼッペ・アントニオ・グァルネリとは、ほんのちょっとのあいだだったが数年前に二度ばかり。最初は太陽の光のふりそそぐ丘の斜面で、二度目はアマーティ家の階段の下の薄暗い通り抜けの通路で会ったことがある。
 作家は、自分のロマンのなかのある人物、またはその人物の性格、あるいは、自分のほかには誰にも言うことのできない何か独自のもの、作品のなかの他の人物とはっきり区別できる何かをすぐに口に出して言うことができるものだ。
 あるいは人物に立体感や力動感を与えるいくつかの特徴的な性格や、身振りや、色などをかいつまんで述べて性格づけをする。
 たとえ私がその手法を十分に理解していたとしても、私はそのようなことをしないと正直に申し上げておかなければならない。たとえば、いいですか、私たちはこのジュゼッペともう二度も会っているのです。だからといって、私たちは彼の何を知っているといえるでしょう?
 知っていることと言えば、彼はオリーブ・ブラウンの肌と黒い髪をしていること、着るものには凝っていて貴族の子息にもふさわしいぜいたくなものを着ていること、ベアトリーチェを愛していること、たあいもない恋の悩みなどを告白して彼女をわずらわさないこと、彼女に不器用にキスをしたことくらいである。
 こんなことは彼特有のものでもなければ、彼の性格を示すものでもない。
 では彼特有のものとか性格とはどういうものかという点になると、私自身が今のところ、彼についてあまり多くのことを知らないばかりか、読者のなかに生き生きと息づいているほどには、私のなかには強い印象を与える人物として生きてはいないのである。
 それに彼の運命はこのロマンの構成に依存していない。彼は私のなかで瞬間瞬間に造型されている。たとえあることが明らかになったとしても、私はその事実をことさらに強調するつもりはない。
 私たちが最初に出会ったあの時から七年がすぎた。そのうちの三年をジュゼッペは旅修行についやしている。だから、そのことからしても、もはや、今の彼が、例の丘の斜面や、通り抜けの通路でキスをしていた少年ではないのである。
 もうちょっと近くから彼を見てみよう。彼の深く、悲しげに響く声が、だんだんとはっきりと聞こえてくるようだ。彼の筋肉質の茶色の手がはっきり見えてくる。指は太くて短い。鼻は丸っぽい。唇は厚い。ただ黒くて、大きな、燃える目だけが、たしかに、なんらかの魔力が、かつての変化のない、陰鬱な、暗い顔を、ハンサムで、魅力的な、生気ある表情に変えている。
 かつらはかぶっていない。ふさふさとした夜のように黒い髪は、別のかつらででもあるかのようにきれいにカールがかかっている。このナチュラル・ウェーヴの長い黒髪は、親愛なる読者のみなさんがこの人物を識別するのに役立つ究極的な手がかりとなるだろう。 さらに、旅修行の放浪の時代の彼についてささやかれていたことがある。
 うわさではフオシン<フュッセン>の道路に面した居酒屋で、人を殺したというのである。なぜ、どのようにして殺したかは誰も知らない。記録によると、その罪で投獄され、旅修行の年月を監獄ですごしたというのである。
 その後、彼は赦免されて、家にもどった。名付親にはこのうわさを簡単にくつがえしてみせた。彼は名付親の親方に、彼の作品についての評価を述べた修行先のバイオリン製作の親方からの四通の認定書を見せた。フオシンのものは一通もなく、すべての認定書は南フランスのいくつかの町からのものだった。
 名付親はそれ以上問いただすことはできなかった。詮索屋には勝手に詮索させていた。しかし、それと似たような話が「三女神」酒場ではうわさがうわさを呼んで、まことしやかに語られていた。
 ジュゼッペが自分ではフオシンに滞在したことを否定したにもかかわらず、実際には、私が友人のゴッビ・エーベルハルトから聞いて知ったように、彼は本当にフオシンにいたのである。もしみなさん方がよく覚えておられなかったら、第一楽章アレグロ・コン・ブリオの第四章をもう一度ひもといていただきたい。そこではブロンドのクラーラ・ヴァン・ゼルフホウトが技術的には完璧にパガニーニのバイオリン協奏曲を弾いている。しかしその内容にかんするかぎり、彼女の演奏には感情的共感というものが露ほども感じられない。
 ゴッビは彼女を見つめ、それから、かつてジュゼッペの手によって作られたバイオリンを見た。彼は物事のかくれた関連性について考え、クラーラ・ヴァン・ゼルフホウトにグァルネリ・デル・ジェスゥの生涯について、つまりジュゼッペの生涯について語った。
 バイオリン製作者にかんする専門的文献はそのことについてほとんど知ってはいない。ゴッビ自身、若いころ、三つの神秘的な文字の意味について研究したことがあった。それらの文字をジュゼッペはまだ十字架とともに自分の名前に書き加えていた。
 そのことにかんして、ゴッビがそのときクラーラに何を言ったか、私は知らない。しかし、その後、彼は年老いた足をたよりに、もう一度、調査の旅に出た。ホーエンシュヴァンガウからしばしばフュッセンに出かけ、あるときあるカビの生えた紙の束のなかにジュゼッペの足跡をつかんだのである。
 それから招待主の侯爵にいくらかの金を借りて、町から町へ、その足跡が導く方向へさまよったのだ。クレモナでは二週間滞在して、ときどき近くの村々に出かけていった。やがてジェノヴァに行き、若いころのように、今度もガラスのおおいのなかに保存されている愛するパガニーニのバイオリンのところへ立ち寄った。
 そのバイオリンはグァルネリ・デル・ジェスゥこと、われらが友ジュゼッペの忘れられていた名前を、彼の死後七〇年後に、あらためて輝かしい栄光の光のなかに照らし出したのである。パガニーニはそのバイオリンをリヴォルノのある崇拝者から贈られたものだった。ゴッビはそのエピソードも発掘していた。
 ゴッビは数年前、ベルリンの「ロマーニッシェス・カッフェ」でそのような話をみんな私に語ってくれた。そのとき彼はかなり酔っていた。そして、そのことを私に書くようにと厳しく命令した。彼は酔っ払いのしつこさで、同じことをくどくどとくり返していたが、その低い、うなるような、葉巻でいためたがらがら声が今でも私の耳に焼きついている。
「おまえは書かなくちゃいかんよ、その話を、え、このくそ野郎、おれから聞いた通り正確に書くんだ。だからだ、おまえはその話を書かなきゃいかん! おれが自分で書けさえすりゃ、この泥沼からはい出すことができるんだがな。おれは聞いたんだ、あんたは本が書けるって、え、どうだ、こいつ。もし、おまえの野蛮人の言葉がおれに理解できりゃ、なにか、おまえの本を読んでやってもいいんだが……。もちろん、おれはこの十年来、本なんてもの読んだことがないがな。まあ、そんなことはどうでもいい。つい、このまえのことだ、それでももう、かれこれ四、五年になるかな、あのピシュタに会った。ピシュタ・バボチャーニュィだ。やつは、あんたがなかなかいい本を書くと言っていた  もっとも、あいつにあんたの本がわかるのは当然のことだ。あんたと同じハンガリー人だからな。おれはあいつの言うことを信じる。やつはおれに五〇マルク貸してくれたよ。あのころはもう……例のインフレはおわっていた。だからそいつは正真正銘の五〇レンテン・マルクというわけだ……。要するに、だから、おれはあんたに話す、一晩中、声がかれるまで、少なくとも、理解はできないが、おれは、おまえの国の言葉を非常に愛している。なぜなら、ピシュタのやつがおれに、その言葉でうたってくれたからだ  その未知の言葉で、おれが話したことを、あんたが書くように……。あんたが書いて、それがよければ、誰かが翻訳するだろう。だが、何より、まず書かないことには話しにならん! わかるか? いや、いや、バイオリンのことじゃない……、バイオリンなんて、くそくらえだ……、そうじゃなくて……運命についてだ、バイオリンにまつわりついて、うごめきまわっている……その運命だよ、友人、神秘についてだ、おれが探り探り、跡をたどった……。そのなかにあるもの、そのまわりにあるもの、そのまわりであえいでいるもの、そのまわりで宇宙の力のように、エレクトロンのまわりでも、すべての惑星のまわりでもふるえ、振動しているものについてだ。そいつを書け!
 だって、グァルネリの証票に書かれているのがキリストの名前の最初の文字I・H・S<=IHΣ、ギリシャ語読みをすると「イエース」>であるか、それとも、それが『この印によって(汝、勝利すべし)』<in hoc signo(vinces)>を意味するものかどうかはどうでもいいことだ。しかし……しかし、なぜそれをそこに書いたかは理解する必要がある。問題はこの『なぜ』だ! この問題こそ、おれが一生をかけて、バイオリンに、飛行機に、神について問い続けてきたことだ。いいか、神についてもだぞ!」
 彼は二〇年前、バルトリーニの店でやったように右手をテーブルの大理石の板にたたきつけた。それから三日後、彼は死んだ。この件にかんしてはもう一度、触れることになると思うので、いまのところは私が彼から聞き知るにいたったジュゼッペについてのみ物語ることにしたい。
 ところで、ジュゼッペは本当にフュッセンにいたのである。たぶん、上記の殺人も犯したのだろう。なぜならここでジャコモ・グァルネリという名前のもとに登場するからである。しかもこの名前を、本名はジュゼッペであったにもかかわらず、さらにその後も外国で何度も使っているのである。
 この二重の名前は二重の生活をも意味している。だから二百年の砂や泥や耕地や腐った木の葉やごみの層の下から少しずつ現われ出てきたいろんな事実を総合してみると、やがて彼の二重生活と二重性格が徐々にその輪郭をはっきりと現わしてくるのである。
 たしかにロマンティックな二重生活や病理学的二重生活というものがある。ヨーカイの『ロラーント・ハーツェギ』はロマンティックなタイプであり、バビッチュの『カリフ・チャーペム』は病理学的タイプである。そのいずれも詩的想像から生まれた人物ではない。 ロラーント・ハーツェギの内部では意識のなかにファティア・ネグラも生きている。両者にたいして一つの生活形式では不十分であった。だからもう一つの生活形式を探し、その生活を体験する。
 一方、カリフ・チャーペムの二重生活の半分は夢のなかの生活である。ここでは目覚めた状態が夢の状態に変化し、逆に、夢もまた強い覚醒状態のなかに照射する。
 ジュゼッペ・グァルネリの二重生活は第三のタイプに属する。それは神秘的な二重性であり、バイオリンの重音である。
 私はこのような生活も知っている。以前に触れた例はパウル・ブッソンである。彼はたまたま作家であったが、あるウィーンのコーヒー店ではっきりと彼の記憶のなかに根づいている彼の前世について語ってくれたことがあった。
 彼は前世にはフリードリッヒ大王(一七一二−一七八六)の時代に生きていて、その身辺護衛の任にあたっていた。あるとき彼はこの専制君主がサンスーシ宮殿のコンサート・ホールでフルートを演奏しているのを見たことさえある。そして「カフェ・ベートーヴェン」でこの出来事をジエテンのマジャール騎兵の攻撃の描写とともに語ったとき、私の目の前にはメンゼルの絵が浮かんできたほどだった。
 ブッソンはこれらのことを微に入り細をうがつ描写に没頭し、オウムのこと、自動機械人間のこと、仮面舞踏会、兵営の小話、宮廷貴婦人の温泉保養地での行跡やアヴァンチュールといった際どいエピソードなどを物語った。
 私は彼の言葉や行動のなかにとくに異常なものを見つけることはできなかった。彼はかなり控え目であり、着るものにもよく気を配った小市民だった。もともと彼はある大きな新聞社の編集部でまじめに勤務していたのだ。死の前年、彼は自分の前世の物語を『メルヒオール・ドロンテ男爵の転生』という小説のなかでも描いている。
 この本はかなりの成功をおさめた。その後、ブッソンことメルヒオール・ドロンテは新しい生活形式を選んだ。もし彼を信じることができるとするならば、彼は私たちのあいだのどこかで、たぶん、どこかの企業の支配人か、どこかの政党の代表か、あるいはビルのガラス拭き作業員として生きているはずである。
 コーヒー店でも本のなかでも、彼はどのようにして新しい転生の可能性を保有するかの方法について述べている。もし誰かが死の恐怖に打ち勝つことができ、死の瞬間に自分の身体のなかのすべての精神的力を集中することができたら、ある種の死の踊りをおどることができる。
 あとに続く生命のための自分の記憶を保持することができれば、その結果、死はその人間にたいするあらゆる支配力を失う。なぜなら死は以前の生活形式の完全な記憶喪失以外の何ものでもないからである。
 ゴッビが別のカフェでジュゼッペについて語ったとき、私の耳のなかでこの言葉が聞こえてきたものだった。だから、私はこの両者に神秘な関連性を感じたのだった。例のジャコモも、あるときジュゼッペに言わせたことがあるが、何百年という暗黒の深淵のなかで本当に生きていたのである。彼はブッソンの方法であの死の踊りをおどることができた。そしてもし完全に生きることができなかったとしたら、彼は完全に死ぬこともできなかったのだ。
 ジュゼッペはしばしば前世の生活を思い出していた。だからそのような瞬間に自分の性格を失ったのである。この点にかんしては、彼の説明不能な行為をあてはめることができるとおもう。もしかして読者のみなさんがこれらのすべての問題についての前口上にうんざりするとか、退屈されたとしても、それでも、ジュゼッペの性格を描写するにあたって犯さざるをえない、以下に続く一連の不合理性に批判者たちが笑い出さないように、私としてはなんとしてもお願いしなければならないのです。
 どこかの安酒場で特別の理由もなく殺人をおかすような誰かが、最大のやさしさをもって、すべての人の目の前で、水溜まりから酔った自分の母を助け起こすということを説明するのは、なかなか容易ではない。でも、想像してみていただきたい!
 グァルネリ家のたった一人の相続人、ストラディヴァリのたった一人の後継者、地方総督モフェッティ家やクレモナの貴族社会の最高のお気に入りが日曜日のミサからヴィア・ディ・サン・セバスティアーノ(通り)を通って家に帰ろうとしている。
 サクランボ色のビロードの帽子、メノウのボタンのついたクジャクの青色の生地で仕立てたコート、満開のサクラの模様をあしらった中国絹地のヴェスト、膝下までのアップル・グリーンのズボン、白い絹の靴下、薄黄色の靴と鹿皮の手袋、金の柄の短刀、象牙の飾りのついた乗馬鞭、すべてはみごとなパーフォマンスである。
 町の上流家庭の若者たちはジュゼッペ身振りを何から何までまねた。五月の太陽は輝き、町の美女たちも皇帝軍の将校たちも籠に乗った。馬車の通る路上には、朝の雨がまだかわききっていない。路上ではあちこちの水溜まりが光を受けて光っている。水溜まりには空と白い雲が浮かんでいる。そのなかのひとつの水溜まりのなかに酔っぱらった女がのびている。
 アンジョーラ・マリア・グァルネリ。
 街の悪党どもが彼女に泥をひっかけては、そのまわりではやし立てている。
 黒い髪の紳士の暗い目がきらりを光る。彼の短剣が鞘から飛び出す。一人の悪党の尻を刺す。ほかの者は散り散りに逃げていく。大勢の人だかり。
 紳士は水溜まりの上にかがみ、女をかかえ起こす。彼女を自分のほうへ抱き寄せ、こうして彼女を家まで運んでいく。彼の絹も、レースも中国のヴェストもキジのコートも泥だらけだ。誰も笑わない。紳士は女の泥だらけの顔にキスをする。そして彼女の耳にささやく。
「なんでもない、なんでもない、お母さん。まったく何もなかったんだよ。さあ、すぐにうちに着くからね。さあ、もう泣かないで。お母さんが、どうしても飲みたいんだったら、飲んでもいいんだよ。だって、お母さんはジュゼッペ・グァルネリの母親なんだからね、何でも好きなことをしていいんだよ、お母さん。さあ、泣くのはやめて。もう、家に着いたよ」
 二人は門のほうに向きを変える。かつらをかぶった猫背の小男がフエルトの靴をはき、赤い部屋着を着て手探りしながら迎えにきた。細めた小さな目には恐怖があった。
「なんてことだ、また逃げ出したのか。わしの耳にも困ったもんだ。わしのすぐ後ろでがさがさやってても、わしには聞こえんのじゃ。まあ、怒らんでくれ、ジュゼッペ。わしとしてもどうしようもないんじゃ。このところいつも逃げ出していく。こんな恥じさらしをしおって!」
 それから二人は女の汚れを拭いてやり、ベッドに寝かせた。父と息子はお互いに顔を見合わせた。ジュゼッペは汚れた服を脱ぎ、仕事場へ入って、仕事にかかった。彼は気に入った材料の木を取り、そのカエデの木の木目にじっと見入った。この板にニスをかけると、くさび形に走っている板の木目は虎の縞のように見えるだろう。
 いつか、彼の手になるバイオリンはジェノヴァの市役所のガラスの鐘のなかに収まることになる。だが、このバイオリン製作者が街路の泥水のなかから抱きおこした、一人の酔っ払いの女については誰も、何も知りはしないだろう! それからしばらくしてジロラモ伯父さんのところからもどってきたベアトリーチェが自分の部屋の片隅で泣いていたことも。
 金で縁取りをしたお仕着せを着た召使が、重々しい足どりで庭を通ってくる。手袋をした手でドアをノックして、ジュゼッペに手紙を渡す。
「地方総督閣下からのものであります」
 下男はそう言って、頭をこっくりさせた。
「その帽子も取るんだ、無礼者!」
 ジュゼッペは喉も張り裂けんばかりに下男を怒鳴りつけ、ついさっき渦巻きを彫ったばかりのバイオリンのネックをつかんだ。下男はおどろいて黒いビロードの花形帽章のついた白い絹の帽子を脱いだ。
「ちきしょう、このイタ公め!」
 下男は心のなかでそう言って、ドア口まで身を引いた。
 ジュゼッペは怒りでさらに真っ赤になりながら、にかわのついた手を皮の前掛けでぬぐってから、手紙の封印をほどいた。ざっと目を通してから、下男の足元に金貨を放り投げた。
「どなたにお目にかかる名誉にあずかったか、よく覚えてくんだ。消えろ。侯爵に今晩おうかがいすると伝えておけ」
 下男は金貨を拾うために、かがむべきかどうかためらった。彼は金を拾うことでいっそう面目を損なうことになるかもしれないと判断した。彼はかかとでくるりと体を反転させた。ジュゼッペは急いで金貨を拾うと、その金をお仕着せのポケットのなかに突っ込んだ。その後、ぶっちょう面のオーストリア人の尻を膝でけって、耳を引っぱった。それがアッという間の出来事だったので、下男が思わず笑い出したほど滑稽に見えた。だから通りに出てからも、まだ、つい吹き出したくなるようないい気分を押さえることができなかった。そして、道々つぶやき続けた。
「あのイタ公のやつ、なかなかやるわい、フッ、まったく、なんてやつだ……」
 ジュゼッペは仕事を続けた。やがて、住まいのほうに行って、着替えをした。
「ベアトリーチェはどこ?」
「まったくいい天気になったな」
 老人は鍋から何かを食べながら、応じた。
「ねえ、お父さん、ベアトリーチェはどこにいるの?」
 彼は声を出さずに話した。老人は注意を集中して息子の唇を見つめた。理解したとき、やっと鉄砲の弾が見つかったといわんばかりに、いきなり大声を発射した。
「ベアトリーチェか? 自分の部屋にいるじゃろう。天使はきっとあそこにいる」
 ジュゼッペはまだベッドのなかでいびきをかいている母親を見にいった。彼はほほ笑み、母にキスをした。それから太陽の光のみなぎる大きな部屋を通り抜けていった。
 ベアトリーチェの部屋に入った。
「今晩、総督から招待を受けた。トスカーナ大公が訪問していて、ぼくに会いたいと言っているそうだ。ぼくはバイオリンを一丁もっていくことになっている。今はストラディヴァリのところに行く、そこで君を待っている。君は黒いビロードの服を着るといい。それから籠に乗っていこう    籠は今晩、貸し切りにしておこう」
 彼は妻のふっくらとした白い手ににキスをして、出ていった。
「錆びたピストル」酒場の横を通りかけたとき、彼は今日は一日中なんにも食べていないことを思い出した。それに今は午後もかなり遅くなっていた。酒場に寄って、仕切りのある席に入っていった。彼は特別のご馳走を注文した。しかし彼はあまり食欲も示さず、ちょっと味見した程度で、若い給仕女を呼んで、残りをみんな食べさせた。彼はこの小さな猫の目をした太った大女がすごい食欲で食べるのを、あぜんとして見つめていた。
 そのとき彼はバイオリンをもってくるのを忘れたことに気づいた。ベアトリーチェ宛てに二、三行したためて、はち切れんばかりに詰め込んだ娘にその手紙をもたせた。彼はテーブルの上に金貨を投げ出して出ようとしたが、思いなおして、酒場の主人にいくらかかったかと聞いた。受け取った釣銭をポケットに突っ込み、家の前の乞食にその金を与えた。 外に出ると、彼はパイプに火をつけ、短剣の柄を肘の下にかかえるようにして、乗馬鞭を左の手首に掛け、大きな煙の雲をはきながらゆったりとピアッツァ・サン・ドメニコ広場を歩いていった。
 この広場の二番地の家の手すりのあるバルコニーから、昔、フランチェスカ・フェラボスキが地上の人間を見おろしていたが、今はアントニア・ザンベッリが娘のフランチェスカとともに立っている。娘はアントニオの最初の亡くなった妻にたいする敬愛の念からその名を取ったものだ。
 日曜日にはストラディヴァリ家のもう一軒の家からカテリーナとフランチェスコ、オモボノがやってくる。父は彼らと庭のなかを散歩する。ジュリオとアレッサンドロはジェノヴァに住みつき、近況報告もたまにしかよこさない。
 ジュゼッペが庭に入ってきたとき、カテリーナは一番若い若枝、三歳のマルティーノと二歳のジュゼッペの世話にかかりっきりになっていた。アントニオはツタのはいまわった四阿で、フランチェスコとオモボノとともにワインを飲んでいたが、オモボノが壁に古い絵を発見して、ジャコモ伯父さんのことに話が移っていった。
「伯父さんは、あのころ、この勇ましい兵士をアレッサンドロに描いてくれたんだ……。伯父さんはぼくたちをすごくかわいがってくれたよ。もちろん、ぼくはみんな覚えているよ、それに伯父さんの冗談もね。ジャコモ伯父さんはぼくたちの乳母だった。それに乳母の仕事をけっして忘れなかった」
「まったくその通りだ。この四阿のかげでおまえにオシッコをさせたときなんぞは、そりゃあ、もう大喜びだった。いやあ、とても高貴な心の持主だった。それに、わしの乳母でもあったんだぞ」
 アントニオはグラスを一口で飲み干した。すると夕日に映える窓ガラスに、ジャガ芋の鼻をした年老いたファウヌスがちょうど顔をのぞかせたような、また口を耳から耳まで大きく横に広げた微笑で彼らのほうを見ているかのような感じさえした。
 ドアのところでジュゼッペが、いつものおおげさな身振りで帽子をぬいで。あいさつをした。
「これはこれは、ご機嫌いかがです、シニョーレ・エ・マエストロ・グァルネリ?」
 フランチェスコが才能のないものの敵意に満ちた苦笑を浮かべながら声をかけた。
「さあ、どうぞ、こちらへ、君のためにもグラスはここにあるよ」
 オモボノは彼の兄の嫌みのこもった言葉を取りなすように言った。
 アントニオは「三女神」酒場に行くべきかどうか、ちょうど思いあぐねていたときだった。そこにはコンチータの妹、スペイン舞踊の新スター、目もくらまんばかりの美女が彼を待っているのだ。彼は何か言い訳を探していたところだったのだが、ちょうどいい具合にジュゼッペが来たというわけだ。
「やあ、君、ここにすわってジュゼッペ伯父の思い出に、ワインの壺をひとつ開けようじゃないか。わしもジュゼッペと話がしたいと思っておったどころだ。ところで、その手紙、どうしたんだ?」
 ジュゼッペはドアのところからすでに出していた地方総督の手紙をアントニオに渡した。アントニオは目で手紙をざっと読んだ。それからジュゼッペを探るように見てから、彼のグラスにワインをついだ。
「このことのためにも、わしらは飲まんといかんな。おい、みんな、侯爵がジュゼッペをトスカーナ大公に紹介したいそうだ、それにバイオリンも一丁。わしは呼ばれておらん。ふん、わしのバイオリンはもう知られているからな。ジュゼッペは今や新しいスターだ。ジョヴァンニ・メディチに『よろしく』と伝えておいてくれ。わしは彼のご尊父の玉座にすわったことがある、ピッティ宮殿でな。要するに……大公によろしくと、それだけだ」
 フランチェスコとオモボノは生涯にはじめて父が怒ったのを見た。みなは木で彫ったように表情を微動だにせぬこの大男をおどろいて見つめていた。
「うん、そうとも、たしかに、おまえのバイオリンのいくつかはその音も仕上げも、わしのバイオリンとも競うことができる。それに……本当は、おまえはもうわしから学ぶことは何もありはせんのだ。おまえは、もう、学ぶべきことは学んでしまっておる。それなのに、おまえは何でまだわしのところに通うのかね?」
 四阿のなかには息苦しい沈黙がただよった。壁からはかつてジャコモ伯父さんが真っ赤な色で描いた戦士が敵意をあらわにして見つめていた。
「アントニオ小父さん、もしぼくが来るのが迷惑なら、ぼくは一生、あなたの仕事場の敷居はまたぎません」
「もし、そのことを人間がとことん考えたとしたら」
 長い沈黙のあとでアントニオがふたたび話しはじめた。
「本当は、おまえにだって理由はないのだ。考えてみりゃあ、これまでだっておまえはわしからは何も学ばなかったからな。おまえは自分の最初のバイオリンから自分の道を進んでいる。わしにはよくわかっている。おまえの名付親からだって何も学んではおらん、ニス以外にはな。わしからだって、おまえはほかには何も盗んではおらん。ただ、アマーティの場合にもなんとなく似たようなことは言える。しかしジロラモはもうニスのことさえもうわかっちゃいない。おまえにそこここで何やかや言ったのはアマーティのところのあの古い職人だろう、ちがうか?」
「そうです、マリオです」
「そうれ、見ろ。わしの形はおまえには気に入らんらしい。もともと、わしにはそんなことはどうでもいいことだ。それは、おまえがときどき、目も当てられんようなひどい仕事をするからというんじゃない。見てくれ、この若者、フランチェスコを、こいつは決してひどい仕事をするわけではない。しかし、また、よくもない。だから絶対によくはならん。わしは三〇年間、バイオリンを火に放り込んできた。そうする者もあるだろう。そうしないやつもある。わしのところでおまえはもう学ぶことは何もない。いいバイオリンを一丁選んでそれをもって大公のところへでも誰のところへでも行け、ヘヘ。しかし選ぶんならどれか相当いいものを選ぶんだな、わしのよりいいやつをな、ヘヘ」
 ジュゼッペの目がキラリと光った。
「アントニオ小父さんが、そのようにご忠告くださるのでしたら、まさにそのようなものを選びます。ほんとはもう選んであるのです。ベアトリーチェがぼくを迎えに来ます、そのときもってくるはずです」
 彼らは長いあいだ飲んだ、言葉もなく、敵意をあらわにして。ポルト・ワインがオモボノの頭にのぼってきた。そしてもし着飾って短剣を腰にさした若者を少し痛めつけてやっても悪くはあるまいという思いが浮かんだ。フランチェスコに目くばせるると、彼の表情から彼もナイフをもっていることを読み取った。しかし、その瞬間、ベアトリーチェが現われた。彼女はバイオリンのケースをもっていた。
「あたし、これを籠に置いておきたくなかったの」
 彼女は説明のために言った。
 あたりは暗くなっていたが、まだ月は出ていなかったので、人影だけが語り合っていた。ジュゼッペはケースからバイオリンを取り出すと、弓に松やにを塗り、それから音を合わせて、引きはじめた。それは乱暴な、なんのつながりもない荒々しい音だった。そのあとにどんな音が続くのか誰にもわからなかった。
 だが、こんな荒々しい弾き方のなかにも、バイオリンの音そのものは思いもかけずすばらしい響きを発した。それはストラディヴァリ家の二人の若者が思わず強くナイフをにぎりしめたほどだった。ジュゼッペも弾きながら鯉口を切ってもいない剣をがちゃつかせていた。
「あたしに貸してごらんなさいよ、ばかね、それじゃ、誰にもわかりゃしないわ」
 ベアトリーチェはそういうと、鈴の音のような声で笑い、ジュゼッペの手からバイオリンを取った。
「あたし、いつもこの人に言ってるのよ、バイオリンの弾き方を習いなさいって。そうでないと、自分でもどんなものを作ったのか試すこともできないわ」
「ぼくは、試したりなんかしない」
 彼はふきげんに言った。
「うまくいこうが、いくまいが、いったん出来たものは出来たものだ。それは誕生したんだ。それは、あるがままにあればいいんだ。子供が生まれたあとになって、子供をけずったり、張り合わせたりできるかい? それとも妊娠したときから? なるように、なるさ。試し弾きがなんになる」
 アントニオにはそれが自分の方法にたいするあけすけの挑戦だということがわかっていた。彼は自分で試し、改良した。たとえこれ以上はないと思える作品でも、さらに改善することができるのだという原理原則を彼は守ってきた。彼は勘とか偶然につけいるすきを与えることを好まなかった。彼は合理性を、手を、そして規則的な、持続的な、熱心な仕事を、十分考えぬかれた道具を尊重した。
 彼はこの挑戦を受けるべきかどうかを、一瞬、考えた。そして思いもかけず、招かれてもいない侯爵邸に現われ、一座のものに暗い部屋でおこなわれるコンテストへの投票を申し入れる。しかし、それにはどうも具合の悪い時だと感じた。おまけにメディチ家のあの阿呆の前でみんなをあまり高尚ともいえない競争に巻き込むことになる。
 ベアトリーチェはすでに弾きはじめていた。それは、かつてジロラモがポー川の岸辺で弾いていたあの曲だ、モンテヴェルディの『春』だ。
 アントニオは胸がしめつけられるような思いがした。闇のなかで手さぐりでワインの壺を探す。壺の取手に触れたとき、彼は一気に飲みほした。こめかみが激しく脈打つ。彼の胸を締めつけているのは、このバイオリンの音ではない。そうではなくこのバイオリンの音の背後のどこかで、赤毛の女がその煮えたぎる若さで、自分の雄(夫)の仕事を勝利に導こうと念願しているのだ。
 アントニオにはこんな女にはめぐまれなかった。彼のベアトリーチェはその若さをほかの男に与えてしまった。彼の最初の妻はバイオリンで商売することしかできなかった。二番目の妻はバイオリンをそれなりに評価することはできた。しかし自分の妻が彼の作品を演奏したり、一緒に合奏したり、競演するようなことには一度もならなかった。そしてもはやそういうことにはけっしてならないだろう。
 そのあいだにも『プリマヴェラ』は魅惑的な夜にまるですばらしい音の花のように、また、百年に一度しか咲かない「アロエ」の花のように花開いていた。
 老いつつある男は宵闇のなかを逃走した。庭を駆け抜け、屋敷の外に出た。通りに、そして広場に、「三女神」酒場へ。ジュゼッペとベアトリーチェは籠に乗り、要塞の上に出かけた。侯爵は彼のハンガリーでの冒険物語を愚かなジョヴァンニ・メディチに語っていた。
「本当のところ、あのハンガリー人というのはちょっと不可解な、野蛮な民族だな」
 愚かなジョヴァンニが言った。
「もし、わたしに間違いがなければ、わたしの先祖の祖母の誰かがハンガリーの王か、まあその類いの一人に嫁入りしましてな、それゆえ、私の先祖の一人はハンガリーの毛皮を着たポートレートが描かれておりますよ」
 ベアトリーチェは青の広間で彼らのためにバイオリンを演奏した。ベネチアのレースの飾りのついた黒いビロードの衣装を着た彼女はことのほか美しかった。ジョヴァンニは彼女を賞賛し、侯爵に自分のもっとも愛の願望を表明した。一方、アントニオは三日三晩「三女神」酒場に入りびたっていた。問題は、一見してそう見えるほどには、簡単ではない。
 歴史的信憑性をたもつために、さらに次のことを記述しておかなければならない。つまり、ジュゼッペが尻をけとばした例の下男は、侯爵がアントニオにあてた招待状をポケットに入れたまま忘れていたのである。それは侯爵がストラディヴァリのことをたずねてわかった。執事は召使頭のほっぺたをひっぱたいた。召使頭はその下男に同じような平手打ちを二十五発食らわせ、おかげですんでのところで死んでしまうところだった。それからアントニオを呼びにやった。
 すっかり恥じ入ったアントニア夫人は使者を「三女神」へ行かせた。なぜなら彼女は夫の弱点をよく心得ていたからである。使者は酒場の部屋や廊下までも駆けまわった。そしてストラディヴァリ親方がどこに隠れているか明かさなかったら首が飛ぶぞと酒場の亭主を脅迫した。酒場の亭主はこの一週間、アントニオ親方の顔を見ていないと誓ったが、ちょうどそのとき、外の騒動は何事かと酒場の一室から顔をのぞかしたのがアントニオ親方だった。
「何の用だ? 誰だ、おれを探しているのは?」
「地方総督閣下の執事殿が宮殿までご来駕いただきたいとのご要望でございます」
「そんなら、そやつに言ってやれ、おれはいそがしいと。また次の機会にどうぞだ。しかるべきときに招待状を寄越せばだ」
「この遅延の責は下男にあり、その男はもっかびんたを二十五発食らって、自分の血の海のなかでころがっています」
「じゃあ、ころがしておけ。おれはどこにも行かんぞ。消えろ!」
 アントニオはドアをばたんと閉めた。するとドア枠の周囲の漆喰がばらばらとこぼれた。使者はもどっていった。その報告を召使頭に告げると、召使頭は執事に、執事はまたもや召使頭にびんたを食らわせた。最後に執事は足をふるわせながら、事情、かくかくしかじかと侯爵に報告しなければならない。
 侯爵は腹の底から大笑いをした。
 そのころ、すでにトスカーナ大公はベアトリーチェの手をにぎっていた。そしてベアトリーチェはテーブルの大公の隣にすわっていた。
 すべては簡単、ものごとを離れてみているかぎりは。






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