(34) ペンション『優雅』荘 一九二五年
たぶん、みなさん方は、私のバイオリン協奏曲の最後の楽章で重音と重音パッセージの使用がだんだんと多くなってきたことをお気づきだろう。ちょっと思い出していただきたい。開放的な自然のなかでの二人の恋人たち、ホーエンシュヴァンガウでの二人のシュヴァルツェンベルク、いわゆる現実世界の狂気性にかんするグレーネンとシュトルフの同種の考察、カジミエシュとジュゼッペの投獄、二人の赤毛の女の罪深い情事、そのほか私が読者だけに打ち明けた秘密の関連性などである。
四本の弦は一本ずつ順に張られ、緒止板から駒をへて、カエデやトウヒの本体部分の上部の黒檀の指板の上を、上駒まで平行に走る。弦と弦とのあいだには一世紀か二世紀かのへだたりがある。やがてそのへだたりに馬の尻尾の毛を張った弓で橋をかけ、二つの時代の声を同時に響かせる そして左手の指は二本の弦のしかるべき位置を押さえながら急速に上下する。
親愛なる読者のみなさん――あるいは、むしろ聴衆のみなさんというべきだろうか。なぜなら、ここではバイオリンが話題の中心なのだから――私がこのような平行的な二つの話の進行をだんだんと多く作り出しているのは、大向こう受けをねらったロマン作家の華麗な技巧やトリックを見せつけるためというふうには思わないでいただきたい。
人間の運命は、どこであれ、多種多様な聖なる誕生の瞬間からそれぞれ別の方向に進み、世代や歴史時代の恐ろしい原始林のなかのどこかで、ばらばらになり、あるときふと出会い、その運命の遍歴はしばらくは楽器に張られた弦のように平行して進む。
やがて、どこかで同じ隘路に流れ込み、神経の隅々までしのび込んでくるファウスト的孤独のガラスの音のなかで――私のバイオリン協奏曲の結末と同様に――一体化する。
そこから、アントニオ・ストラディヴァリやゴッビ・エーベルハルトと同様に、また私と同様に、あるいは無数のことなる人生形式や人生内容と同様に無限の宇宙のなかへ消滅する。そして、みなさん方も最後には太陽の光に照らされた前人未到の山の急斜面を登っていくガラスの音を聞くだろう。
私は人間の生命とロマンを、音楽の救済的作用と、人間を幸福にする音楽の純粋性をその頂点にまで高め、喜びと悲しみのなかで最後の大バイオリン協奏曲の創造し、天上の愛の前に、また聖チェチーリアの前にひざまずき、彼女の足をいだき、くちづけと涙の熱い露で彼女の膝をぬらすこと、それ以上のことを私は望んではいないのだということを、どうか信じていただきたい。
ゴッビはバイオリンの死が間近に迫っていることを予感したとき、最後のバイオリン協奏曲の作曲にとりかかった。しかし運命がその成功を許したのははゴッビにではなく、シマノウスキというポーランド人の若い作曲家にだった。
なぜ、どのようにして その点については、もっとあとで述べることにする。いまのところはゴッビとともにゆっくりと彼の十字架に登っていくことにしよう。荒い息、疲労、絶え絶えな息、彼のように、私たちの心も彼の心と喜びをともにしよう。彼もまた頂上にたどり着くことはなかったとはいえ、それでも、少なくともそのまえに、彼にもまたヴェロニカ<勝利をもたらす女性>がいたのだから。
彼のヴェロニカは名前をラシェル・グリューンといった。彼女もまた汗をかいて、悲しげな先生の顔を彼女の心のネッカチーフで拭いてあげたのだ。そして、ほら、彼の頬はいつも、そして拭い去りようもなくこの純白のネッカチーフの上にある。その顔はナザレのラビ<ユダヤの律法学者>の顔ではない。
その顔は青く、しわの顔、アルコールではれぽったい。それに目の下には肌のゆるんだ袋がたれている。いまは青ざめているその顔も、かつては暖かいブロンズ色に輝いていたものだ。
しかし、キリスト教者が常に高貴でうるわしく、父なる主の若々しく、輝くがごとき表情の写し絵でなければならぬとはどこにも書いてない。私はすでに大きな腹をして、ワイン飲みの赤くなった鼻をした彼らを見たことがある。
静かな通りの通り抜けの小道の闇のなかでで酔っぱらってのびているのを、袋を風になびかせながら先っぽに釘のついた棒っきれで船着場のごみ捨て場をあさっているのを、煙突を掃除して煤で黒くなったキリスト教者を見たことがある。
私は黒人のキリスト、ジプシーのキリスト、日本人のキリストを見た。
人間だれしも自らの十字架を背負って生きているというのが本当なら、いまのこの瞬間にも現世のゴルゴタの丘に、六億の千倍のキリストが、それと同じ数のことなった姿をして生きているのだ。
だからラシェル・グリューンの外見については、二個の子供っぽい茶色の目には、かつてのいつも何かに驚いているかのような輝きがいぜんとして宿っているということだけで満足しよう。
ラシェルとゴッビは同じ色の目をしていた。おなじビロードの深み、夢見るような茶色の一組の目。ある瞬間には子供っぽい素朴な輝きを見せながら、自分自身の人生を生きていた。二人の視線が何かの拍子に出会ったときなど、それぞれが目以外の部分は映らない魔法の鏡のなかに自分自身を見ているかのように、お互いに目と目を見合わせるのだった。それはまた自分のなかに、その計りがたい自らの存在そのもののなかに、四つの目の輝きのなかにおいてのみ出会ったかのように、自分自身を相手のなかに読み取るのだった。
そのような瞬間には、ともに自分たちだけの孤独を感じ、時間の深淵が彼らの前で口を開け、出口を示しながら語りかける。これらの目のなかには古い共通の家系のメッセージがある。二つのことなる道、彼らの先祖たちはそれぞれの別の道を進んでいたが、それでも最後には同一点にたどり着いたのだ。
娘の先祖はたぶんカバル族やハザル族とともに黒海北岸の草原地帯をさまよっていたのだろう。そこからウクライナのハリコフのゲットーに行きついたのにちがいない。ペトリュラ隊長による大量虐殺の波が押し寄せてきて、その嵐はハリチュ地方にまでおよび、やがてオーストリアやベルリンにまでたっした。
ゴッビの先祖は東方からの旅で大きな地中海沿岸にそって二度の移動をした。長期間、ギリシャのスロンに住んでいたが、その後、イタリアのいくつかの町とスイスを通ってベルリンへたっした。これらのことはすべておぼろげに推測するだけで、かつてイスラエルのテベリア湖に発し、ローゼンフリューゲルの丘でおわる二度目の地中海沿岸の長旅について頭を悩まそうとは思ってもみなかった。
しかし、いま、この異国の地にあって、根を張り、魔法の木に花を咲かせるような何かを、抽象的な形式で、死滅し、消滅してしまった、ある民族の生の権利について語るような何かを彼らは共に力を合わせて、やりとげようとしているのである。しかし彼らはそのようなことは何も知らない。ただ最後の力をふりしぼり、また自分のもてる才能のあらんかぎりをつくして仕事をしようとしているにすぎないのだ。
ゴッビは協奏曲の四つの楽章を何度も何度もこねまわし、たとえば十回も副主題を書きなおした。そして、うまくいったときでも、オーケストラの部分にくり返しくり返し手を加えた。バイオリンが支配するところでは、ラシェルの技術が高まるにつれて、技術的要求も高めていった。彼女の鉄の意志はあらゆる困難を乗り越えていった。そしてあるところでは、非常な不安感をもちながらもバイオリン演奏技術のさらなる可能性を求めて、さらにいっそう高度な技巧を要求した。
また技術的にそれほど困難ではないところでは、ゴッビ自身さえもしばしば驚くほどの内面的深みを表現した。
とくに大カデンツなどでは、絶えず新しい技術的水準を高めることを求め、あるときには自分から即興的に弾いたアダージオ・コン・フオーコのテーマのあまりのすばらしさに、ゴッビ自らそのテーマを自分のアダージオ楽章に取り入れたほどだった。
このようにして二人は結びつきながら、一つの作品のなかで成長していった。だからバイオリン・コンチェルトのどの部分も、野花の咲く山の草原のように色あざやかに、かぐわしく咲き誇っていたのである。
ラシェルは毎日、ローゼンフューゲルの家からゴッビのところへ通っていた。彼女はゴッビの弟子がだんだん少なくなるのに気づいていた。そのかわり、二人の楽しみとレッスンはその分多くなっていった。あるとき彼女はゴッビに提案した。
「あなたは経済問題はあたしの父にまかせるべきよ。父はお金のことわかるし、あなたは駄目ね」
ゴッビはほほ笑んだ。
「だってねえ、うちの小さな経済なんて! そんなもの気にしないでくれよ、お嬢ちゃん。わたしの財政問題なんて誰も気にしやしないって」
「どうして? どうしてしないのよ?」
「もう君に言ったろう、カシミエシュのこと、それにクレモナのG・m・b・Hのことも。何としてもわたしを受け入れたくないんだよ。あのうさんくさいレーヴィスゾーンはわたしのまわりに網を張っているんだ」
「だからあたし言ってるのよ、うちの父は……、うちの父はもうスティンネスやベーゼルやカスティリオーネのためにも仕事をしていたのよ。証券取引所でもグリューンの名前を知ってるわよ。信用してよ、うちの父を」
「でも、手遅れだよ。そんなもの放っといて、むしろアレグロ楽章の重音パッセージを見てみようよ。わたしが君に見せるから、そこをさらっておいで」
ラシェルは次の日やってきたとき、ちょうど競売をやっているところだった。虎の毛皮、S字の刃のついた長槍、銅版画、絨毯。ラシェルは競売で売れてしまうまえに、みんな買ってやろうと思いついた。電話一本ですむ。老グリュンは十五分でここに来るだろう。すると、そのとき誰かが言った。
「彼は逃げたぞ。バイオリンも隠している。差押えのときに、きっとどこかに隠していた
んだ。わたしは彼がバイオリンをもっていたことを知っているんだ。すごい高価なやつで、古いイタリアのものだ、以前、わたしは見たことがある」
ラシェルは聞こえないふりをした。そして気づかれないように、出口のほうへ向かった。ちょうど階段のところで、いったいどこに行けばゴッビに会えるのだろう? という疑念が彼女の脳裏をかすめた。もしかしたら、外国に逃げたのかもしれない。もしもう二度と会えないとしたら……?
そのころ、彼女は愛とは何かを認識しはじめていた。ゴッビなしには自分の一生は破滅してしまう。自分のなかのすべて、自分のまわりのすべてが、もはやあの人がいなくなったら、きっと壊れてしまう。
彼女はタクシーに飛び乗った。そしてローゼンフリューゲルへの途中で、どうやってゴッビを見つけ出すか、そしてどのようにして彼を助けるかについて、少なくとも百通りの方法について思いをめぐらせていた。
ラシェルは母にすべてを語った。そのすべてが彼女のなかから抑えようもなくほとばしり出てきた。茶色い顔をした母親は絶望的に彼女の話を聞いていた。
「あたしにはわかっていたよ。どうせそんなことだろうと、まえからわかっていました。あんな年寄り、あんな酔っ払い! あの男がバイオリンであんたをまるっきり狂わせることが、わかってました。あたしはまえからわかってたよ。バイオリンなんてみんな悪魔に食われてしまえばいいんだよ」
そのときグリュン父さんが入ってきた。その日の取引がおわったのだ。ユダヤ人の頬ひげはなくなっていた。ピケ織りの白いヴェスト、グレーのジャケットを着て、金縁の鼻メガネをかけていた。
彼は腹が出ていた。自分のまわりに信頼感をひろげ、ゲットーも集団虐殺もともに年齢のなかに吸収されていた。一瞬にして、彼には家庭内の状況がはっきりし、一瞬にして決断した。
「そんなに悔やむな、サーリ、おまえにはこのことは理解できん。エーベルハルト氏は偉大な芸術家だ。もし、わしらの娘を嫁にというのなら、わたしはもうこの件をきれいに片づけてやる」
これは、なにか汚い問題を処理する必要があるときにもちいる彼の好きな口癖だった。反対のことをするときには「わたしはそいつを排除する」と言う。
ゴッビは一週間のあいだ、完全に消息を絶った。二つの探偵社でさえも、彼のこれまでの家からほとんど百歩ほどしか離れていないグレーネンの家でさえも彼を見つけることができなかった。しかし、間もなく、ローゼンフューゲルの家に突然自ら姿を現わした。
「ほうら、わたしはここです。おい、ラシェル、お父さんはどこだい?」
ほっそりとした娘は泣きながら、ゴッビの首にすがりついた。彼女は体中をふるわせ、ゴッビの顔に熱い、不器用なキスを押しつけた。このキスがすべてを語っていた。
「おまえ、どうしたんだい? どうしてふるえているんだ? ばかだね! こんな年寄りの変人をどうしようっていうんだい? さあ! たしかに、わたしはおまえから……なくならなかったぞ! それとも、もしかして……やれやれ! で、父さんはどこなんだい?」 茶色の妻は敵意のこもったまなざしで彼を探るように見つめていた。彼女は苦々しく言った。
「この時間でしたら、グリューンはカフェにいるはずですわ。あの人に何のご用ですの?」「プライベイトな問題でして。いつ、おもどりで?」
「あなたがお望みなら、すぐにあたしが呼んでくるわ」
ラシェルが申し出た。
「だけど、そんなに緊急な話でもないんだ。わたしはひどい値段でバイオリンを一丁売ってしまったんだ。ほかのバイオリンは君の父さんに委任したいんだ。わたしはまだ三丁もっている」
ゴッビはもうグレーネンのところにはもどらなかった。彼はこの家にとどまり、バイオリンは徐々に売られていった。パパ・グリュンはそのことさえもよく心得ていた。ゴッビは最後のバイオリンの代価として得た金さえもひっつかむと、いろんな夜の盛り場をはしごして朝帰りしたが、そのころにはラシェル・グリューンのデビュー・コンサートがすでに公表されていた。
音楽界は注目した。プログラムの第一部はゴッビ・エーベルハルトのバイオリン協奏曲となるはずだった。その当時は、この名前をまだ大勢の人がまだ忘れてはいなかった。「あの人は六〇歳か七〇歳にもなろうというのに、いまになって作品1をひっさげて登場するというのは、いったいどうしたことだ?」
人びとはある種のセンセーションを期待しながらささやき合った。
「ラシェル・グリューンというのは新人ね。きっとあの人の弟子よ」
パパ・グリューンは広告費に一マルクも使わなかった。要するに記者たちがうちに押しかけてきたからだ。
ゴッビは若返り、顔は輝いていた。ビロードのジャケットを四着、一流の仕立屋に仕立てさせ、新しい毛皮のコートも新調した。毎日ひげを剃り、酒も飲まず、練習では自ら指揮をした。
バルトリーニ時代の古い知人たちも顔を見せた あの当時はまだ汚い襟のシャツを着た青二才だったが、いまでは有名な音楽美学者や批評家になっていた。やがて小さな家では不足だということがわかった。ゴッビはパパ・グリューンと計画を立てた。
「コンサートのあと、ラシェルがわたしの妻になったら、ウェスト区に引っ越しします。こういった連中をなんとか受け入れられるような大きな家が必要です。音楽興行師やマネージャーとも交渉しなくてはなりません。かなりおおがかりな演奏ツアーになるでしょう。ぼくは新しい曲も作曲します。そのためには特別のアパートメントの部屋が必要です。一度アメリカにツアーに行けば、すべてはうまくいきますよ。お父さんも株の取引なんぞで汗をかいたり、叫んだり、走りまわったりする必要はなくなりますよ。ねえ、お父さん、私はこれを生涯待っていたのです」
ゴッビよりもおそらく十歳は若いパパはピケ織りのヴェストのポケットからブラジル輸入の大きな葉巻を二本取り出して、一本を未来の義理の息子の口に巧みに差し込み、もう一本の葉巻の端を自分で噛み切った。
「これこそが葉巻というもんです! あんたのつぶれたキャベツとはわけがちがいます。葉巻とはこういうもののことですよ! どうです?」
彼はまるで自分で作ったものでもあるかのように葉巻を自慢した。
「当然ながら、わたしはずっとまえから、わたしの娘にすごい才能があることは知っていましたよ。それで、あなたがここにはじめて来られたときに、あなたが大芸術家であることがわかりました。この人ならわたしの娘をヴィルトゥオーゾにできる、ほかの人ではだめだと! もう、あのころからアメリカのツアーのことを考えていましたよ。なぜなら、グリューンはこう見えても馬鹿じゃありませんからな。どこかで何かがなしうるのなら、ここでそれをやればいいのです。そんなことくらいわけはありません。じゃまなものは、脇へ押しのければいい。わたしはもう何人もの人を脇へどかしましたよ。そうする必要があったからです。わたしはそういうこともできるのです。乾杯!」
二人は昼飯のあとにいつもするように、マデイラ・ワインをすすった。その日グリューンは場末のあやしげなカフェに出かけるつもりでいた そこでゴッビはラシェルに言った。
「昨日、ぼくはある古い友人に会ったんだ。ぼくは彼に君を紹介したい。彼は恩給生活をしている大尉で、木製の手と足をしている。君が驚かないように前もって言っておく。彼は下宿屋「優雅」に住んでいる。行ってみよう」
コンサートまであと二日しかなかった。ゴッビはあらゆる手段をもちいて彼女の関心をよそへそらそうと努めていた。
この二人がいま言ったペンションに着くまえに、この芸術的施設内の状況についてちょっとした観察をしておこう それはかなり興味ぶかいものであることをお約束できる。
ウィットにとんだ画商フレヒトハイムはそのころ『現代の断面』というタイトルの雑誌の発行をもくろんでいた。この雑誌は私たちに新しい様式「新即物主義」を紹介するものであり、したがって私もこの精神においてペンション「優雅」の断面を読者のみなさん方に呈示することをお許しいただきたい。
第一号室、エーリッヒ・ヴラック。彫刻家の息子で、ラシェル・グリューンを発見した。および、グレーテ。彼女はグレーネン家の女中だった。また操り人形の愛好家である。 この私たちの断面の瞬間に、部屋のなかで蓄音機「ヒズ・マスターズ・ヴォイス」がジョゼ・パディラの「サ・セ・パリ!」を音量いっぱいに鳴らせていた。ザ・サヴォイ・バンドの演奏。エーリッヒはひらひらする幅広ズボン(二〇年まえの流行がもどってきた)をはいて野性的なチャールストンを踊っている。たとえれば聖ヴィートが電気ショックにかかったように痙攣的に体をひきつらせておどる踊りだった。昨日、バー「蛾」の平土間である混血男がデモンストレーションに踊ったのを見て覚えてきたのだ。
グレーテは鼻の下に小さなエナメルの容器を押しつけてコカインを鼻から吸っている。同様にして、かつてヴェルサイユの貴婦人方がタバコをかいでいた。コカインの吸入によって彼女は何がなんでも手足を振りまわさずにはいられなくなった。それで青と白の縞のセーラー服のような、幅広のズボンのパジャマを着たままベッドから飛び出すと、エーリッヒと踊った。立て続けにレコード六枚分踊った。
第二号室、フォン・ハーセ夫人、このペンションのオーナー。壁にはヒンデンブルク、ルーデンドルフのポートレートの油絵の複製、さらに、皇帝ウィルヘルム二世、皇太子、大選挙侯、そしてフリデリクス・レクスと続く。それらのうち、いくつかの絵は三色刷りで刷られていた。
もう一方の壁には額縁入りのジャワの写真がたくさん掛かっていた。そのすべての写真で主役を演じているのはフォン・ハーセ夫人だった。鼻メガネをかけ、ヴァイキングのような大柄な女である。彼女のまわりにはオランダの植民地の役人、マレー人、東洋風の竹製の装飾品が取り巻いている。そのなかの何枚かには彼女の死んだご主人も写っている。同じく鼻メガネをかけ、白い南洋のヘルメット、果てしない青藍栽培の農園だ。やがて彼は死ぬ。そこで裕福な未亡人は祖国に帰る。
今は机に向かい、鼻メガネの上のほうでは本を読み、鼻メガネの下のほうではカサノヴァのなかの夜の門番である、二メートルもあろうかというソマリアの黒人を観察している。そしていま、嵐のような愛の報酬としてものすごい勢いで腹のなかにつめ込んでいる。彼女には一つがいの馬のようだ。そしてひどい植民地英語で食事に難癖をつけている。
「ドイツ人はビーフステーキが何かも知りゃしない。イギリス人は知っている。こんなのはまるで鉄板だ。ビーフステーキなんていったもんじゃない。ロンドンのバーカレー・ストリートのメイフェアー・ホテル、あそこにはビーフステーキがある。ほんとだ、あそこにあるのこそ本物のビーフステーキだ。こんなのはビーフステーキじゃない。あと四枚、ビーフステーキ、急いでほしい!」
フォン・ハーセ夫人は彼をけっとばすべきどうかを考えていた。しかしやがて何かを思いつき、それにかわるものはないという気分になった。そんなわけで、悲しげに台所のドアをばたんと閉めて四枚のびふステーキをもってきた。黒人はビーフステーキをつめ込みながらつぶやいていた。
「バーカレー・ストリート、そうよ。こうなりゃ料理女が要る」
「あーら、驚いた、あたしだけじゃもうご不満なの? 二人の女中と下働き女でも? 今度はもうひとり料理女というわけかい?」
「必要ない。ジョン、行きます。あなたもう二度とぼくを見ないね。いいとも、ダンシングガール二人も望んでいます。カサノヴァのなかでは美しい娘。シスター。オクラホマ・シスターズ。わたし、行きました」
「いいわよ。その娘、あんたのところへ行かせる。その子に二〇マルク渡すわ」
「ヘヘ、奥さん、渡す! おれ、あの女から二〇マルク、取りあげる。うまくいった。ヘヘ」
第三号室、ゾエとクルト。同じ黒と白の縞のフランネルのパジャマを着て、長ソファーにすわっている。二人は、ついこのまえ、ゾエがこの下宿からはたき出し、おまけに彼女の髪を半分引き抜いて階段から突き落とした赤毛の女のことを話している。それからチューリンゲンのクルトの母のもとにあずけてある、かわいらしい六歳になるジークフリートのことに話がおよぶ。それからまたもや赤毛の女の話。彼女のかつての夫は彼女のせいで自殺した 彼女はいまサーカスのある男と同棲している。それから「ねえ、いいかい、おれは、昨日、食堂であるパリジャンと知り合った。中佐の位をもつ植民地の医者だ。すごく君に会いたがっていた。彼の奥さんにアメリカ人の大尉がつきまとっているらしい、知ってるだろう、あの馬鹿なやつさ」
第四号室、フレデリック・ド・サント−ブーヴが「ル・マタン」を読んでいる。頭は完全なはげ、真っ黒にそめた鼻ひげ、それにナポレオン三世風の顎ひげ。
第五号室、彼の妻ジジは化粧室に行くふうをよそおって、いまこの部屋でアメリカ大使館付武官O・M・T・ポドロック大尉の腕のなかであえいでいる。著者としての立場から、このシーンをこれ以上詳細に記録するのは控えよう。
第六号室、M・ミラー牧師。スコットランド宣教師団の一員で大学の英語講師。まったくそわそわしながら金髪の女中エルラッヘンが来るのを待っている。彼女に堅いイギリスの金を渡すと約束しているのだ。目下のところはゴビノーの『ルネサンス』のドイツ語訳を読んでいる。
第七号室、バルコニーとタウエンツィーンストラッセの見晴らしをもつ大きな部屋。バルコニーのよれよれのオランダ国旗はここがオランダ領事の事務室であることを宣言している。いまこの瞬間に部屋のなかは空である。しかも部屋のなかは乱雑をきわめ、異様なにおいまでする。
第八号室、この部屋も空である。ここはコロンビアの商人と娘たちの住居である。彼は夜中すぎまで働き、夜にはものすごいいびきをかく。夜の女性たちには全然興味がない。
第九号室、新婚旅行中のハンガリー人の夫婦。アレクサンデル・ガラミとその妻である。一日中ベッドのなかにいる。夜は酒場を飲み歩いている。
第一〇号室、トリノのシニョーレ・グァダニーニ。有名なバイオリン製作者一家の末裔の一人である。彼は古いバイオリンを二丁とハンマの社名のあるバイオリン一丁をもってきていた。彼はヒルとも文通をし、いまちょうどロンドンのニュー・ボンド・ストリートに手紙を書いたところだった。それから台所に行き、自分でもってきたブラック・コーヒーをいれた。それというのもドイツのコーヒーがだんだんときらいになってきたからだ。彼は気のいい小柄な紳士で、会う人には誰にでも名刺を配っていた。
ゴッビがラシェルを連れて第三号室のドアをノックしたのは、まさにこのような状況のときだった。クルトは「新しい断面」の最新号に手をのばし、ゾエがドアを開けた。クルトは旧友を喜びを微笑に表わしながら迎えいれた。
真新しい黒いつば広帽、ヌートリア(水狸)の毛皮のコートが入ってきた。コートを脱ぐと、その下には立派なビロードのジャケットと同じ生地のヴェスト、アイロンをかけたばかりの光沢のあるグレーのズボン、それには黒と白の絹の筋が入った最新流行型の仕立てで、ほとんど靴の爪先にまでとどきそうである。その靴もまごうかたなき鹿皮のエナメルである。
彼の横にはおかしなほど華奢な、人目を引く東方系の女性が立っていた。可愛らしい関節、シルクのセーターの下から二つのとんがりを見せているおぼこ娘のかたい胸、その表情のビロードの感触、こころよい低い声。洗練されたエレガンス。こんな娘なら何を着たってよく見えるだろう。クルトはそんなことを思いながら、同時に口早に話しはじめた。「やあ、君もやっと来てくれて、ほんとうにうれしいよ。エーリッヒが通りで君たちに出会わなかったら、ぼくたちはまだ当分、会えなかったかもしれないな」
「何を言ってるんだい、君は新聞を読まないのか? 明後日、コンサートなんだ。新聞はそのことでもちきりだぜ」
「君は笑うかもしれんが、ぼくは新聞は読まないんだ。ぼくにはおもしろいことなんかないもの。こいつなら、ぼくはいつもページをめくっている。これはフレヒトハイムの雑誌なんだ。見てみろよ、どんなにおもしろいか。すばらしい写真だろう。そのなかのどれもが何らかの類比を形づくっているんだ。たとえば、善人の税関吏アンリ・ルソーの『フットボール選手』の複製だ。オールド・ファッションの縞の服を着て、長い鼻ひげを生やした若者たち。その写真の下には新しいドイツのチャンピオン・チームがイギリスの選りすぐりの十一人と戦っている。これ、おもしろくないかい?
それとも、もし何かの古い同版画を複製したらどうだろう。タルティーニのバイオリン協奏曲、ジェノヴァ・一七一五年。そして、その下に、最も新しいバイオリンのスター、ラシェル・グリューン、ベルリン・ベートーベン・ザール・一九二五年の写真があったらどうです? それはそうと、あなたは何か芸術的な、まったく独創的な写真をもっていませんか、お嬢さん? そしたら、その写真をあの大鼻のフレヒトハイムに渡しますよ。その写真を『新しい断面』で何か別の写真と一緒に組み合わせて見たいものですね。おわかりですよね、ぼくの言うこと、こんな時間のへだたりのなかに、どれほどの緊張がつめ込まれているか? 神秘的な風刺です」
ラシェルはこの機知にとんだ饒舌家をすぐに理解した。そして彼と会えたことに喜びを覚えた。ゾエとは話すことができなかった。ラシェルはフランス語が話せなかったからだ。そのかわりゴッビは意思疎通の限界など意に介さずにしゃべりまくったので、小さなゾエはイタリア語訛りのフランス語をおおいに楽しんだ。時には、一緒に冗談を言い合い、ゴッビは自分たちのコンサートについて語りはじめた。
「ねえ、ゾエさん、君はあの美しい歌を知ってるかい、覚えているかい、あそこのシャルロッテンブルガー・ショーッセでいつもうたっていたじゃないか、あの古いフランスの歌さ。いいかい、君はぼくがあのバイオリン協奏曲のなかで、本当は何を追いかけていたかを理解してくれなくちゃだめだよ。ぼくはあの歌をもとにして長いあいだ作曲に取り組んできた。なんたってオーケストレーション、つまりオーケストラ・パートの楽器編成とか組み合わせというのは、そりゃ大変な仕事でね、ぼくはこんな仕事、これまでやったことないよ。
要するに、いまや、コンチェルトは完成した。バイオリンの誕生、その生命の青春、古いイタリアからここまで、この部屋まで張られた四本の弦。わかるかい?」
ゴッビは語り、その話しをせいいっぱい大きな身振りで強調した。クルトも彼の話を聞きはじめた。そしてラシェルのことは完全に忘れてしまった。ゾエは熱心に聞き入っていた。そして彼女の本能的存在は言葉の意味を踏み越えていた。
「四本の弦だよ、ハハ、たったの四本の弦だ。しかしその四本の弦は四つの楽章のなかで、ハハ、たったの四楽章だよ、それによって地球上の国々や何世紀という時間に橋を掛けることができるんだ。
アレグロ・コン・ブリオ(早く、元気に)。この楽章でぼくはバイオリンがいかにさまようかを語っている。君はまだ覚えているかい、クルト? 君のストラディヴァリの経歴さ。クレモナからモスクワへ、モスクワからカリフォルニアへ、そしてベルリンへもどってくる。そこからさらにヴェルダンへだ。古いイタリアの主題とカルマニョラ(フランスの革命歌と踊り)、ヘヘ……、カルマニョラだ! それからマルセーエーズ、ロシアの小歌。オールド・ミシシッピ・ソング、イッヒ・ハッテ・アイネン・カメラーデン(我、古き友をもてり)、そしてダーンス・マカブル(死の舞踏)、コンパラウィット・モルス・インペラートル(死の帝王所有)、ハハ。これらのすべてが融合した音がいくつかあるだけだ。そしてオーケストラによる変奏。これが第一楽章だ、ハハ」
「ちょっと待った、ゴッビ、古ダヌキ、こいつはすごいぞ。ワインをもってこさせよう。ここに葉巻がある。おれはパイプでやる。そして、もっと話してくれ。わかるだろう、ゾエ? 『ヴィヴ・ル・ソン・デュ・キャノーン、ダンソーン・ラ・カルマニョール』だよ。こいつはすごいぞ、古き友、何かまったく新しいものがある!」
「同時に、まったく古きものでもある。第二楽章はラルゴ・ソステヌート(ゆったりと、音を持続させて)だ。バルトリーニの店やクレモナでの美しい夢の生活。クルト、昔、おれたち二人はクレモナに住んでいたことを思い出してくれよ。たぶん、おれたちは違う名前だったかもしれんがね。しかし、そんなことは問題じゃない。これが第二楽章だ。そしてこの楽章にには大カデンツァがある。だが、それはカデンツァ・アド・リビトゥム(演奏家の即興によるカデンツァ)ではない。ただ『かくあらねばならぬ』というやつで、こういったカデンツァは許される可能性はただ一つしかない。ここではすべてが必然的にあらねばならんのだよ、クルト君! 乾杯!」
彼らは飲んだ。ソマリアの黒人ジョンと同種のマデイラ・ワインだ。クルトはパイプを吹かし、ゴッビは葉巻を、二人の女はシガレットを吸った。煙の色は初冬の夕闇のなかで混じりあい、虹の弓に張られた血のように赤いオパールのような人生のメロディーがただようように、ただよっていった。
「第三楽章はアダージオ・コン・フオーコ(おそく、火のように激しく)だ。ヘヘ、ウィズ・ファイヤー、大きな炎だ。古いバイオリンも情熱も、時代も戦場も焼き尽くしてしまう。破壊と生殖をつかさどるシバ神のように破滅させ、生命をあたえる大きな火炎。それはアマーティたちの愛のなかにも、同じく、このマデイラのなかにも現在するものだ。
火はわれわれとも悪魔のように戯れる。われわれも悪魔のように火と戯れている。ヴェルダンでも、下宿屋のベッドのなかでも、ハハ、ウィッズ・ファイヤー、火とともに、コン・フオーコ! そういうわけだ、親愛なる諸君。ハハ」
だれかが部屋のなかに入ってきたが、だれも気がつかなかった。ゴッビは第四楽章の描写にかかった。
「プレスト・アジタート(急速に、せきこんで)、これが大フィナーレだ。革命、機関銃、殺人者たち、バリケード、ハチドリ酒場の腹、ハハ。二重音のパッセージ。最後の楽章。最後の入場券。それともコッティングブルンの第七レースのラストストレッチにすぎないのか。レース、二重音のパッセージ。最後の楽章、最後のチケット。それがなけりゃ、すべてはないも同然! 最後の客を追い返すわけにはいかない。最後の突撃はくり返せない。ゴールのテープは最後のG線のようにふるえている。それが切れたら、その弦でのヴァリエーションはもはやありえない、ハハ。プレスト・アジタート、プレティッシモ。フィニス。やがて、すべてはぐにゃぐにゃになり、見てごらん、すべては溶解してしまう。われわれは上のほうから自分の喜びや苦しみの場所を見て笑っている。フィナーレ・クァージ・ウナ・ファンタージア(空想のような終曲)」
静寂と闇。誰かがスイッチをひねった。「こんばんは」とあいさつする。カジミエシュ・ウィシュニョウスキ。部屋付き女中が郵便をもってくる。シュヴァルツェンベルクからの手紙。ゴッビはもっとワインをもってくるように、うなずいて指示をする。
カジミエシュはバイオリンのケースの蓋をあける。ケースから楽器を取り出してゴッビに渡す。
「これは君の一番新しい作品かい?」
「いいえ、ぼくの手で仕事をしているのはストラディヴァリです。ぼくはただ彼の意思にしたがっているだけです」
ゴッビはバイオリンを眺め、まるで新しい女をものにしようとでもするように、そのあらゆる部分をやさしくなでまわした。
「おまえは悪党だ。だがミステリアスな悪党だ。こんな不思議な巧妙さというものが存在するんだなあ。そしてこのような神秘的悪党というものもいる。このバイオリンは本当にあの巨匠の第三期の、最も円熟した時期に生まれたものとそっくりだ。これを弾いてみたまえ」
「ぼくはだめです。むしろ……このお嬢さんに。あなたはあたらしいお弟子さんなんでしょう?」
「新しいだと? とんでもない、最初にして最後の弟子だ。いいかい、君たちは……弟子でもなんでもなかった」
「そこには何かがあるんですね。そのためにはゲットーから抜け出してくる必要がある。そのなかには何百年というあいだ人間が保存されていた。ぼくたちは自由な海のなかでうごめいていたのです。ぼくたちは少しばかり色があせ、少しばかりふくらんでいた。少なくともバイオリンの演奏にかんするかぎりは。しかしバイオリンを作るということは、違った何かです。それはゲットーのなかでは無理です。たしかに一日に二〇時間練習はできます。怒らないでくださいね、お嬢さん。ぼくはゲットーを悪く思っているわけではないのです。ぼくが言いたいのはそこが特殊な、閉鎖的な世界であるということです。そして、いま……ユーフディ・メニューヒン、最もあたらしい天才です。彼のまえには大勢のヤッシャ、サッシャ、ミッシャ、エフレム、その他がいます……。でも、ごらんなさい、ここにバイオリンがあります」
ラシェルは弓に松やにをぬって、調弦をして、弾きはじめた。
最初はタルティーニのソナタ『悪魔のトリル』、それからパガニーニの協奏曲ニ長調。それからバイオリンを置いた。だれも一言もしゃべらなかった。ゴッビは目から大粒の涙を流していた。そのくせ顔は笑っていた。
「ハハ! どうだい、君たち全員あわせたって彼女に太刀打ちできはすまい! あのイタリア人のお人好しや君が! それにあのピシュタにしても! それにゲルトルードやハロルド、それとも何といったかな、あのアメリカ人のくそったれだ。クラーラ・ヴァン・ゼルホウトもこの演奏を聞くべきだよ。おれは一度、彼女にグァルネリ・デル・ジェッスゥの話をしてやったことがあるがね、ハハ。この子のためにも、おれは生きたかいがあったよ」
娘の額をとらえてキスをしたとき、彼の大きな手がふるえていた。そのとき、だれかがドアをノックした。全員がドアのほうを注目した。ジプシーのような顔をしてまるまると太った小男がドアから入ってきて、お辞儀をすると、全員に一枚ずつ名刺を渡した。ダブルの背広の上着ははち切れんばかりにぱんぱんに張りつめている。椅子にすわった。彼はイタリア語で話したから、ゴッビ以外にはだれも理解できなかった。ただ、バイオリニストならだれでも知っている名前だけを名刺から読みとった。
アレッサンドロ・グァダニーニ、トリノ、ヴィア・サンタ・テラサ、十五番地。
「こんな具合に侵入してきて申し訳ありません。わたしはちょうど廊下にいたのです。すみませんがね、わたしはどうもドイツのコーヒーというのが我慢なりませんでね、それに食べものもです。そんなわけで、わたしは、要するに、コーヒーをいれるという目的でキッチンに行ったのです。ところが、そのときわたしはタルティーニを耳にしたんですな。そのバイオリンの音はわたしの古いおなじみのものでした。ストラディヴァリです。わたしひはそのバイオリンを見るまでもありません。巨匠の第三期のすばらしい作品群の一つです。それに疑いなし。でも、場合によっては見せてもらっても悪くないと、まあ、思ったわけです。ふふーん、こんな下宿屋に しかも、ストラディヴァリだ! よし、なんとかそいつを見なければならん……、いいですかな、わたしはその最初の音を聞くやいなや、それがわかったのです。たしかに、わたしの先祖のロレンゾとジャン・バッティスタはアントニオ・ストラディヴァリ親方の弟子でした。わたしはその二人の先祖の作品のなかでも最高にすぐれたものを一丁ずつもっています。わたしはハンマとヒルの商会と取引しているのです。要するにその時代からわが家ではロレンゾとジャン・バッティスタの伝統が、したがってストラディヴァリの伝統が支配しています。わが家こそ古いバイオリン製作者の、もはや最後の家系といえますな」
言葉の洪水がゴッビを巻き込んだ。やっと口をはさむ機会が来たとき、ゴッビは笑いながら言った。
「シニョーレ、あんたはわたしを覚えていないんですか? つい数年まえのことです。わたしがトリノのあなたのところへ、グァルネリ・デル・ジェスゥのことで訪ねたのは。あのとき、あなた方はわたしのまえで店を閉めてしまいましたね。なんた方はどこかのバイオリンの製作工房が秘密をさぐりによこしたんだと思ったんですな。しかし、そのあとでわたしたちはキャンティ酒をしこたま飲んだじゃありませんか……」
「そう、そう、やっと思い出しました。わたしの兄弟はそろって、あんな具合にいつも疑いぶかいんです。わが家の古いニスの秘密を心配しているんです。その秘密を知っているのはこの地球上でも、はやわが家だけとなりましたからな。まあそのための恐れなんですな。わたしどもは新しい化学薬品はいっさい使っておりません。それだけの話です。ほかのものにはいずれにせよこれらの古いもの、鉱物や生物から作ることはできませんよ……」
カジミエシュはこのイタ公がいったい何をべらべらしゃべっているのか、見当がつきはじめた。それで彼の肩を軽くたたいた。
「親愛なるシニョーレ……、このバイオリンを見てください。これは売物です」
シニョーレはゴッビと同じような手つきでバイオリンをなでていた。やがて値段を聞かれたとき、カジミエシュは胸をたたいて言った。
「フェキット・カシミエシュ・ウィシュニョウスキ、アンノ・ドミニ・一九二五。さらにサインもしてあります」
そこでゴッビは笑いながら驚嘆しているシニョーレに説明した。彼は信じられないというふうにしばらくバイオリンを点検したかとおもうと、今度は携帯用の鏡で証票を検査した。ゾエは呼び鈴を鳴らしてワインのお代わりをもってこさせ、追加の分の夕食も注文した。部屋付き女中がテーブルの準備に入ってきたとき、ソエは開いたドアから新しい知人ムッシュー・ド・サント−ブーヴを認めて、彼を呼んだ。
「どうぞ、お入りください。奥さんはどこですの? うちにいらっしゃいよ、すごくすてきな国際的なお友だちの集まりですのよ。奥さんも連れていらっしゃればいいのに、きっと楽しいわよ」
「どうもご親切に、マダム、でもぼくたちアメリカの駐在武官と夕食の約束があるんですよ。だから、すごく残念ですけど……」
「かまいませんわよ、気になさらないでその方もご一緒にどうぞ。部屋はたっぷりですから、みんな入れますわよ。それに、音楽のたのしみもありますのよ……、あなたはバイオリン界の最も新しいスターの演奏をお聞きになれるんですよ。彼女は明後日、コンサートを開くことになってますの、フィルハーモニー・オーケストラと……」
「バイオリンですって? その言葉にまいりました。ぼくもジジもまったく、もう、バイオリンと聞いたら目がないんです。ジジは自分でも弾くんです。それに、ぼくも。早い話、もしよろしければ、ぼくたちも仲間に入れてください。あなたのご招待に甘えることにします」
この会話はドア口でなされたが、一方、部屋のなかでは言葉の滝がすざましいしぶきをあげていた。廊下では呼び鈴が鳴り、電話がけたたましい音をたて、食器の打ち合う音が通りの車のクラクションと混じり合った。
ゾエは軍医中佐を招き入れ、彼を順に全員に紹介した。フレデリック・ド・サント−ブーヴは家の主人としてのクルトに家の主婦の招待に応じて妻とポドロック大尉を連れてきてもよいかと了解を求めた。クルトはいぜんとしてガウンをまとったまま、相当にマデイラ・ワインに酔っていた。
彼はサント−ブーヴ夫人と大尉の迎える名誉に応えるべく、それなりの服装に着替えるために十五分の余裕を求めた。猶予は得たものの、クルト・ティーッセンは急いだあまり、こともあろうに一組の軍服からパレード用の上着が腕に落ちてきた。彼は襟をつけたり、ネクタイをする億劫さをさけるためにその軍服に腕をとおした。
階級章でごてごて飾られた派手な青色の上着と、たまたま衝立の上からおっこってきた白黒のチェックのズボンにはまったく合うはずがなかった。この間違いに気づいたとき、彼は健康なほうの足も木のほうの足もすばやくテーブルの下に突っ込み、この防御陣地にがんとして頑張ることにきめた。
その瞬間、ジジが背の高いほっそりとしたヤンキー――このお陰でアングロサクソンは常に有利な立場にある――にともなわれて入ってきた。さらにエーリッヒとグレーテまでが加わってこの騒動はさらにいっそう大きくなった。彼らは女中からティーッセンのところで大酒宴がはじまろうとしていることを聞きつけてやってきたのだ。
ひどいドイツ式の食事のわりには、夕食はきわめてにぎやかな雰囲気のなかで進んだ。ジジにたいする大きな戦果に酔ったポドロック大尉はゾエにたいして攻撃をしかけ、シニョーレ・グァダニーニはラシェルに、カジミエシュはジジに強襲をかけていた。ゴッビはまさに父親的ならざる態度でグレーテの魅力的な部分をなでていた。一方、エーリッヒは廊下の隠れた暗がりのなかに女中のエラッヘンを連れ込んでいた。
ただクルトとサント−ブーヴだけがテーブルから離れずに、ひたすら飲んでいた。これらの魅力的な女性たちと同席しながら、クルトはそのチェックのズボンのゆえにテーブルから離れるわけにはいかなかったし、男盛りのはずの軍医中佐は火の消えた火山だった。 それにしても、彼には最も新しい友人が気にいった。彼らは前線での出来事や報復政策について、世界経済のこと、USAの役割、被植民地民族の知識人世代の誕生について、マルクスや二人がちょうど読んだばかりの『西洋の没落』の著者シュペングラーについてなどについて語り合った。
彼らの周囲の気分はさらにいっそう盛り上がっていた。ドイツ語、英語、イタリア語、フランス語の流れは混ざり合ってカオスとなり、それに加えて、だれかがラジオのスイッチまで入れた。ラジオのスピーカーはそのときまるで一大センセーションのような作用をもたらした。しかしこの二人は彼らのほかに部屋のなかにはだれもいないかのように話し合っていた。
サント−ブーヴ=あの宗教的哲学体系はもうたくさんです。ぼくはただ数学の真理だけを信じます。マルクスの真理は数学の真理です。
クルト=シュペングラーはどんな文化も自分自身の数学をもっていると主張しています。ちょっと思い出してみてください。いろんなことについてもそうですが、数字についても古代の文献はただ有限と正数のみを知っていました。ゼロと平面三角法はインドから取り入れたのです。幾何学はアラビアから、無理数と虚数、数学的概念としての無限、解析学は、それはもはやヨーロッパ的頭脳のなかにおいてのみ生れえたのです。ユウクリッド幾何学の次には何があるのです? だから、マルクスの数学に対応しうるのはただ一つの文化にしかすぎません。それはどこかの文化における問題ではあるでしょう。しかし、それを絶対的なものと見なすことはできません。
カジミエシュ=ラシェルさん、あなたは明後日、ぼくのストラディヴァリで演奏するを約束してくれなきゃだめですよ。明日、一日あればその楽器に慣れることができますよ。
ラシェル=そんなこと、あたしに決められないわ。あたし自分の楽器よりも気にいったわ。でも彼にたずねなきゃ。ゴッビ先生、ちょっと来てください。
カジミエシュ=彼なんか放っておけって。彼が知らないうちにぼくの楽器で弾いてくれって頼んでいるのはぼくなんだから。いいかい、グァダニーニの子孫でさえ間違えたくらいなんだよ。
ゴッビ=どうしたんだい?
グァダニーニ=わたしがコーヒーを入れますよ! わたしが自分で入れます!
ジジ=あのラジオったらありゃしない、まるで破れ鍋みたいにひどい音よ。
ゾエ=機械音楽ね、レコードよりもひどい。
エーリッヒ=どうしようもないさ、未来の音楽なんだから。バイオリンは死んでしまう。ジャズと黒人がやってくる。ジョゼフィン・ベーカーとダグラスのショーを見たかい?
彼らは体と足で踊っている。自分の体のなかに機械をもっている。そんな古ぼけたバイオリンで何をしよってんだい?
グレーテ=あたし五〇ドル必要なの。あなたにとって、それが何か意味がある?
ポドロック=オーケー。明日の午後四時、ぼくの部屋で。
ゴッビ=どういうことかわかってるのか? おれに異存はない。自分のバイオリンにお墨付きをもたせるといい。
カジミエシュ=ありがとうございます(廊下で銀行家のレーヴィゾーンに電話をする)。
ラシェル=あたし自分のことには自信あるわ。あたし……
サント−ブーヴ=『社会契約論』はただマルクスのみにつながっています。そして『資本論』は人類の最大の時代、永遠の平和へです。人類の百分の一が働かせ、その残りが働きます。こんな具合にはいきませんよ。歴史的唯物論に唯物弁証論ですか……
クルト=あなたは最大のエネルギーを計算に入れていませんね、人間の精神をです。もし人間が機械のように単なる頭脳と手だけというのなら、そうしたら本当に算術の問題となるかもしれません。しかし一人の人間のなかに別のもう一人のなかにあるよりも何千倍もエネルギーがあることがしばしばあるかぎり、そのときまでに……
明りがついた。みんなそれぞれ一組ずつ消えていった。ただクルトとサント−ブーヴだけが、なんらさまたげられることもなく議論を続けた。ゾエとジジは残りの酒をみんな飲み干したポドロック大尉と片隅で無駄話に余念がなかった。最後に大尉が言った。
「親愛なるムッシュー・サント−ブーヴ、わたしどももそろそろお別れしたほうがよさそうですな」
フレデリックは打ちひしがれたように立ちあがった。いまはじめてくルトは彼の名前を耳にした。
「こいつは奇遇だ。ちょっと待て、ぼくはどこかで君の名前と出会ったことがあるぞ!」「たぶん、ぼくの一族のなかの一人が子孫のために宗教哲学の本を残しているんだ。そいつはひどく退屈な本だがね。君はひょっとしてそれを読んだんじゃないのかい?」
「いや、違う。だけど……。ぼくはイタリアのバイオリンをもっていたことがある、ストラディヴァリだ。その所有者の署名のリストのなかにガストン・ド・サント−ブーヴというのが書いてあった。そのバイオリンはフォート・モーベージュ要塞で大砲の弾が命中して木っ端みじんになった。そのバイオリンと一緒にぼくの手と足を一本ずつ吹っ飛ばしあがった」
彼は立ちあがり、チェクのズボンのなかの義足をぶらぶらさせた。だれも笑わないというのは、なんと悲しい喜劇だろう。しかし司令部付軍医はまるで目の前に幻覚をみたかにように突進した。
「聞いたかい、ジジ?」
「聞いたわ。そんな話って、本当にあるのかしら? ムッシュー、あなたのバイオリンは……現在のところは、あたしたちの所有になっていますわ。リュ・リヴェイユのうちにあります。もちろん、もし……もし、このガストンがまだ一丁のストラディヴァリをもっていなかったら」
クルトは笑った。
「どこで……どうやってそのバイオリンが君のところへたどりついたんだい?」
「ちょっと待て」
フレデリックは言って、駆け去った。
「よし、そのために乾杯だ」
ポドロック大尉が言った。
サント−ブーヴは自分の部屋からもどってきて、紙切れをひらひらさせた。
「これがそれだ。名前のリストの写しだ。オリジナルはバイオリン・ケースのなかに保管してある」
クルトは一目で十分だった。コンパラウィット・カヴァリエーレ・サルヴァトレ・ディ・トスカーノ。アンノ・ドミネ・一六八一。
「ここにみんなある。ぼくは破片になった あれは健在だったのか」
「ぼくはあるズアーヴ人の軍曹から買ったんだ……」
フレデリック・ド・サント−ブーヴは詳細にすべてのことを語った。
第二号室ではソマリアの黒人ジョンがフォン・ハーセ夫人を締め殺していた。バーからは酔っ払いと女装のホモ男がよろめきながら出てきた。すると鞭をもった女たちが彼らにウインクを送った。
そしてカント・ストラッセのある交差点で若い女が車道で足をすべらせてころび、そこへちょうど走ってきた車の下敷きになった。その女はラシェル・グリューンだった。
ゴッビとカジミエシュはわめき、彼らの周囲には大きな人垣ができた。彼らは車を止め、酔っ払いの運転手を血海のなかにたたきのめした。