(28) 若いカップルについて、オイゲン公について、および

              無名兵士についての二重唱 一七〇〇 ―― 一九一九年




 ポー川流域の低地では、そのころ草刈りがおこなわれていた。二人は手を取り合って丘の斜面を駆けまわっていた。少年の右手を少女の左手はお互いに相手をしっかりにぎって、自由な手にはかつらがゆれていた。それはついさっき汗のにじんだ頭から帽子といっしょに脱いだものだった。かつらを脱いだとき、二人はお互いの顔を見つめ合って、笑いだした。
 娘の髪はティツィアン・レッドで、少年の髪は墨のように真っ黒だった。二人の髪はかつらが安定してのっかるように後ろのほうでしっかりと束ねてあった。いま彼らははじめて相手の髪の色を見た。そして裸の相手を見るように、まぶしそうに見つめ合った。
 それから飛び跳ねながら進んでいき、高い草のなかにすべり込んだ。体中を熱くして丘の頂上にたどりつくと、二人は草のなかに寝ころんで体をのばした。そして、かつらも帽子も脱ぎすてて、レースのハンカチで汗でぬれた額をぬぐった。身を起こすと、またお互いの顔をを見て、またもや無邪気で素直な、心からわき出す真夏の笑顔でほほ笑み合うのだった。
 野ばらの茂み、無限にひろがる小麦畑、太陽の光の降りそそぐ町、青い空、それらのすべてのものが彼らとともに笑っていた。そして私までもが、その笑いに誘われて思わず笑みを浮かべる。
 私は古いパレットを手に取り、読者のみなさんのお許しを得て、今から絵に取りかかることにしよう。絵はすでに大部分、素描はおわっている。その二人は丘の頂上にすわっている。細部の描写はまったく必要ない。
 私は大自然のなかにある。私がいま準備しているのは印象派の画筆だ。その生き生きとした、色あざやかな色彩を私はパレットの上で次々に混ぜ合わせて、心をはずませながら、かつて私が画家であったころのように画架にむかって腰をすえる。
 町はオリーブの木の茶と緑、丘の頂上のエロー・グリーン、それに小麦畑の黄金色を背景にした白やグレー、薄黄色や赤茶色からなる陰影の色の音階だ。煉瓦の色は太陽の光のなかで赤みをおびる。この長くのびた赤い線をさえぎっているのは、城門の濃い影と城壁だけだ。四十本の大理石の円柱の上に鎮座する建物の正面は上部が半円形になった窓がつき、四角形の基盤の上に起立する八角形のトラッゾの鐘楼下部の空間を取りまいている。
その塔の高さは巨大なサンタ・アゴスティナやサン・ピエトロ寺院の塔をもしのぎ、その鐘の音によって古いふるい諺を告げひろめている。
「一人のペトルスはローマにあり、一つの塔はクレモナにあり、一つの門はアンコーナにある」
 パラッツォ・プブリコ(宮殿)をおおう丸屋根の上の白いレース、八角形のバティステロ洗礼堂の装飾、それに夏の午後の光に映える窓のガラス。ポー川やクレモネッロ運河やマルキザン運河へ通じる曲がりくねった通りは、その気紛れな線で広場を不規則な多角形に区切っている。
 壁の漆喰の白は突如として青に、かと思うとすぐに黄色に変化する。影の紫色は刻々と変化し、きらきらとまたたくポー川の帯を新しくかかった茶色のはね橋がさえぎり、同様に二本の運河も茶色の筋が横切っている。
 丘の頂はその半円のなかに壁や家や塔を抱きかかえ、その輝く緑は無数の陰影によって太陽に照りつけられた町を、ほのかな夢幻的迷宮へと変幻させている。麦畑は丘の斜面へと続き、斜面はかがやく天空へとつながる。
 あの二人はその天空の下にすわっている。
 黒い斑点と赤い斑点、それは彼らの髪である。黒い斑点の下にオリーヴ・ブラウンの顔がある。二本の黒い線の下には二個の黒い点がある。それはジュゼッペ・グァルネリの目だ。赤い斑点の下には白い色と、唇の真紅の線がある。薄紫の絹のブラウス、めくれたクリノリン・スカートの下から白い靴下と黒い靴が光っている。
 オリーヴ色の顔の下には白い幅広のネクタイ、アップル・グリーンの絹のヴェスト、青いビロードのジャケット、膝までの赤茶色のズボン、グレーの靴下。
 二人の背後には野ばらの花が咲き、青い空には真っ白な雲塊が浮かんでいる。彼らの下のほうには明るい緑の草、燃えるように真っ赤なヒナゲシの花の二輪の点、黄金色の大金魚草、ヒナギクの白、ルリシチャの青紫、ハマナデシコの淡いピンク。
 そして絹やビロード、顔、風景にあたる光、草や花や低木の茂みに、空に、頂上や壁や水のパースペクティーヴに当たる光。あらゆる物質に、あらゆる物の表面にことなる光。光は一つの物のうえで光れば、他の物の上では輝き、きらめき、あるいは、まばたき、ふるえ、また、燃えあがり、叫び、それとも、流れ出し、あふれ出し、あるいは、慈愛の目で愛撫し、奔放に駆けまわり、跳ねまわり、目をまばゆくさせ、最後には、たとえば、濃紺のビロードのジャケットに当たるときのように、息絶えてしまう。
 それは最も暗い斑点だ。そして何よりも雲がいちばん目をくらませ、ヒナゲシがいちばん赤く燃えあがる。そしていちばん輝かしく光るのはあのティツィアン・レッドの髪と藤色のブラウスだ。
 美学者たちは、このようなロココのカップルやその周囲の情景を描くのに、どうしてマネ、ドガ、シスレーといった印象派の画家の手法をもちいるのか  たしかにいい趣味とは言えないがと、私を非難することもできるだろう。また、私が現代の画家たちの様式で描くように、つまり、考えうるあらゆるイズムのいい点だけをかき集めたような最新の画法を取り入れて描くようにと要求することだってできるだろう。
 しかし、あのカップルが、いま、私の目にはそのように見えたのだから、私としてもどうしようもないのだ。私は言われたことを即座にこなせるほど器用ではない。私は素早くカンバスの上に色を置いて、消え去るまえに瞬間をとらえる。なぜなら、それはあらゆる赤やピンクや、赤茶色、黄金色、紺碧の空の色、濃紺、エメラルド・グリーン、または輝くような白色によってとらえることのできる瞬間だから。また、それは落ち着きなくはばたき続ける蝶だから、蝶の羽の紋様はただ色のみがとらえることができる……!
 じゃあ、言葉や線や、声や内容には、何の意味があるのだ? だって蝶はそのいずれをももっていないじゃないか! 止まれ、色の時よ! 止まれ、蝶よ! たしかに、おまえは美しい、そしておまえの羽のなんと軽やかなことか!
 蝶よ、すべてのものを挙げてくれ、だが本当にすべてだぞ  あのヒナゲシの真紅と雲の純白のあいだで、息をつき、あえぎ、飛び跳ね、溜め息をついているものを……。さあ、言ってくれ、おまえたちの目や心のなかで無数の色の音楽が大声で笑っているのだと……。言ってくれ、その一瞬のために生きることは、まさにそうするに値することなのだと……、そして感謝をこめて、涙をあふれさせながら、草に、雲に口づけをすることを許してくれ、トラッツォ鐘楼の鐘が晩祷の時を告げるまで……と。
 今は、まだ、晩祷の鐘までにはたっぷり時間がある。
 ベアトリーチェ・グァルネリとジュゼッペ・グァルネリは丘の頂上で笑い合い、語り合っている。彼らの話に耳を傾けよう。
「もし、このことをジロラモ伯父さまに知れたら! 伯父さまはまだ我慢してくださるかもしれないけど、でもアンジョーラ伯母さまが……。伯母さまはきっとあたしたちをぼりぼり食べちゃうわよ  真っ先に、あたしたちを生きたまま皮をはぐわ、それから、どこかの山奥であたしたちを鉄の釜でゆでて、食べるのよ、ハハハ!」
「それゃ、魔法使いの婆さんのことじゃないのか?」
「とんでもない! 魔法使いのお婆さんは箒にのって飛びまわるのよ。伯母さんの悪だくみったら、まるでヤガ婆さんみたい。あたしまえに見たことがあるの。でも、とても口では言えないわ……」
「わかってるよ、どっちみち、ぼくだってもう聞いたことがあるよ、あんなに年をとって、醜い顔をしていても、いまだに男好きだって……。それに伯母さんは、たまたまそこにいただけの誰でもいいんだって。たとえその男が、どんな職業や身分のものであれ、年を取っていようが……。だって女ってかつて一度も満足したことがないと、つまり一度も……、あ、いいよ、いいよ、そんなことで急に赤くなったりしなくたって、そんなにかつらで顔かくさなくたって……。そんなこと、嘘にきまってるよ」
 娘は草の上からかつらを取って、自分の小さな顔を隠した。そして、そのかつらの下からジュゼッペの顔をのぞいた。
「でも、伯母さんなら本当かもしれない」
 二人はその言葉に長いあいだ笑い続けた。そして屈託のない陽気なジュゼッペは長いかつらをベアトリーチェの頭の上に落ちてこないように気をつけながら空高く放り投げた。そして、それがもとでまたもや笑いだした。
 やがて少年はビロードのリボンを編み込んで、高く梳きあげた女性のかつらを自分の頭の上にのせた。するとベアトリーチェは彼のかつらをかぶるにちがいない。二人は三角帽と野花を飾った大きなフロレンス製のむぎわら帽子とを交換した。そして息が切れるまで野ばらのまわりを飛び跳ね、また丘の斜面に横になった。
「ねえ、聞いて、ジュゼッペ、あたしたち、いったいどんな親戚なの? あたしの姓もやっぱりグァルネリなの?」
「ちょっと、待った。このもつれを解くのは容易じゃない。ぼくの知るかぎりでは、ぼくの父さんと君の亡くなったお祖父さんのアンドレアという人は従兄弟だった。ということはこの二人の父さんたちは兄弟だったというわけだ。だから、いま……、待てよ、こいつはそんなに簡単じゃないぞ、要するにぼくの父さんと君のお祖父さんは……」
「あんた、もう言ったじゃない。従兄弟同士なのよ……」
「混乱させないでくれよ。要するに、君の父さんのピエトロとぼくは、じゃあ、また従兄弟だ」
「じゃ、あたしたち二人は叔父と姪ということね、三世代目の?」
「うん、まあ、そんなところだ。それじゃあ、ぼくたちは親戚のキスの権利がある」
 娘はあお向けに寝た。すると少年は自分の唇を彼女の唇に押しつけた。このようにして長いあいだ鳩のように口を閉じたままキスをしていた。
「ねえ、ジュゼッペ、あたしたち愛し合っているのかしら? あんた、あたしを奥さんに……」
 少年の黒い目が燃え、オリーブ色の頬に赤みがさした。
「こんなのはまだ本当の恋じゃないよ。こんなのただの子供の遊びさ」
 ベアトリーチェは遠くのほうを見た。
「じゃ、どんなのが本当の恋なの?」
「そんなこと、ぼくたちが結婚したら言ってあげる。みんなは、結婚って、友だち同士になることだって、ぼくに説明するけど、その人たちだって自分の娘とこんなふうにはあそばないだろう」
「じゃあ、どんなふうに?」
「結婚したら子供が出来るってこと」
「じゃ、キスだけじゃ、だめなの?」
「それだけじゃ、だめだよ。アンジョーラ伯母さんがするみたいな、そんなことしなきゃ」「だけど、伯母さんは子供ないわ。一人いたけど、子供のころ死んじまったんですって。ずっとまえの話だけど……それ以来、子供ができないのよ」
「なぜなら……、よし、ぼくがそのことを友だちに聞いてみる。ぼくを信じろって、みんな教えてあげるよ。ぼくはいつも物事の本質的なことは全部知りたいんだ。ねえ、いいかい、たとえば、バイオリンのこと、ぼくの名づけ親のジュゼッペ(バプティスタ・グァルネリ)叔父さんがぼくに教えてくれることって、ぼくはまるっきし不満なんだ。そんなバイオリンだったら、どこのだれだって作れる。それにたいして君の二人のお祖父さん、ニコロ・アマーティとアンドレア・グァルネリ、この人たちは本当のバイオリンを作ることができた」
「ジロラモ伯父さんには出来ないの?」
 ジュゼッペは美しいオリーブ・ブラウンの手をふっただけだった。
「なんにもできやしない。いま世界中でただ一人のバイオリン作りの本当の親方ス
トラディヴァリだ!」
「アントニオ小父さんのこと?」
「そのとおり。ぼくはあの人のようなバイオリンが作りたい。ぼくは名づけ親の工房から出たいんだ。そしてアントニオ親方の弟子になりたい。見習いの年期があけるまで」
「でも、そのことであんたの名づけ親のジュゼッペ・バプティスタ叔父さまが怒ったらどうするの、ジュゼッペ・アントニオ叔父ちゃま?」
「怒りたきゃ怒れだ。怒り狂ったってかまうもんか!」
「でも、叔父さんには子供がないのよ。工房や何もかも、あんたに譲るかもしれないわ。それに、アントニオ小父さんには子供がたくさんいるのよ!」
「何人いようが、そいつらのだれ一人、バイオリンを作れやしない。せいぜいフランチェスコだけだ。でも、彼だって本当のバイオリンは作れない。工房を受け継いだからって、それだけじゃ、なんの意味もない。ぼくはアントニオ親方からバイオリン王国を受け継ぐんだ!」
 娘は起きあがり、すわりなおした。驚いたようにそのオリーブ・ブラウンの顔を見つめた。その顔は何かがまったく変わっていた。そして彼女のほうをふり向こうともしなかった。
 ジュゼッペ・グァルネリは立ちあがり、丘の頂上から下の町を見おろしていた。町の影は長く尾を引いていた。そして運河と川が形づくる二重の十字架は近づく夕暮れを予感しながら真珠のような光を放っていた。
 ポルト・ディ・サン・ジョルジオ(門)を通って馬に乗った皇帝軍胸甲騎兵の連隊がきらきら光る白い太陽のなかに姿を現わした。彼らの鉄兜や胸鎧に夏の太陽がダイヤモンドの雨をそそいでいた。
「行こう、ベアトリーチェ」
 頂の下では刈り入れをする農夫たちが歌をうたい、遠くから胸甲騎兵隊のラッパの音が聞こえてきた。真っ先に一本のラッパが『高貴なる騎士・オイゲン公』のメロディーを吹くと、それに続いて八本のラッパがくり返した。やがて騎兵たちは胸も張り裂けんばかりに、大きな声でうたった。
 そして『高貴なる騎士・オイゲン公』という歌は新しい編曲で蓄音機から流れている。
私たちは二世紀と十九年を一気に跳び越えよう。軍歌は続く。ある家の窓のなかに蓄音機が置かれ、ローゼンヒューゲルの丘の草の上には愛するカップルがすわっている。
 郊外の平面に放射するキュービスト的距離のなかで融合する二個の点。立方体の頂点から発する斜面の上の八百屋の屋台、役人の別荘、鉄条網の柵でかこまれた空っぽの空間にまき散らされたガソリン・スタンド。
 ぽつんぽつんと立つ三軒のアパート。そのなんの飾りもない壁の上を光の筋が七階まで走る。それに隣接するものは何もない。先が細くなった円錐形の煙突、それに八角形の工場の煙突のピラミッド、その角と面、それに大きな工場の広間に投影される青い影。
 ばらまかれた家は遠くになるほど密になり、町のなかに入るともっと多くなる。敷地の区画、相互に交差する道路の角と影から受ける印象。運河の岸の起重機の鉄の構造物。取り残された教会の塔や丸天井は自分以外のどんな建築様式も嘲笑している。鉄筋コンクリートのビルは教会の建物。
 煙の雲、入道雲の下の二羽の鉄の鳥、トラックのエンジンの音。汽車の警笛がガラス張りの駅のなかで反響する。高架鉄道と地下鉄の交差点、戦争から帰還した鉄材が平和の顔してお目見えする。砂利道とコンクリートの土手、電車の軌道と信号機、目的意識と新しいキュービズムの美学。
 はね橋と陸橋、平面と直線、小さな庭のなかの断面、そのど真ん中に重油の貯蔵タンクばら。それがローゼンフューゲルだ。その上空の雲はほほ笑んでいる。
 雲は南から来て、もう何世紀ものあいだただよっている。あるときクレモネッロとマルキザーノをいう名の運河、トラッツォ鐘楼やポルタ・ディ・サン・ジョルジョ(門)の上をただよったことがあるかもしれない。そしてサヴォイのイオゲン公の胸甲騎兵連隊が長いたてがみの茶の連銭葦毛の馬にまたがって駆けていき、いま蓄音機から聞こえてくるその歌をうたっているのを聞いたかもしれない。
 そして、いま、愛し合うカップルが語り合っている、その場所には二個の大きなかつらが残っていた、黒い三角帽、ビロードと絹、クリノリン・スカートと膝下までの細いズボン、アントニオ小父さんのすばらしいバイオリン。そして胸甲騎兵、路上の喧嘩についてうたう胸甲騎兵、それらはかつてあったこと。
 彼らは斜面を見渡し、雲にばらと二本の真っ赤なヒナゲシの花を指し示す。二本の素敵なヒナゲシの花、それは誰かがその堅い茎から花を摘もうとするやいなや、開いた花びらを散らしてしまう。歌と恋、それは花があとに残したもの。
 誰かが新しいレコードを蓄音機の回転盤の上に置き、針をかえる。すると黒人の歌が鳴りだす。やがてまたあたらしいレコード、機械の音楽、ジャズ。
 誰かが、あそこの窓べに立っている見える。暗い部屋のなかの蓄音機のそばに、誰だろう? 誰だ、何世紀も古い回転盤の上に新しいレコードを置いているのは? 二本の手。たぶん銀行員の手か、たぶん、神の手だろう。
 そしてジャズが騒音を奏ではじめる。そしてエンジンと汽車の耳をつんざく音、線路の地響き、起重機と信号機の甲高い音、機械の鳥の爆音、トランスミッション・ベルトのぺちゃぺちゃ鞭の音。雲はただほほ笑むばかり。そして、またも次の古いレコード。
 コレルリの『ラ・フォリア』    アントニオ小父さんのバイオリン。
 愛し合う二人は立ちあがる。するとその瞬間、別荘やアパートや工場の煙突、土手の斜めの平面は大きく膨脹し、時間も無限に膨脹する。いま、それらは『ラ・フォリア』とジャズのレコードとのあいだで演奏されるものすべてを満たすほど大きな空間となった。
 それは血のように真っ赤な二輪のヒナゲシまでが見とれるほど美しい。陸橋と電話線とのあいだで、ばらの蕾が花ひらく。
 夏の午後。白いリンネルの服、白いリンネルのズボン、二人の若い体をおおう二枚のゆったりとしたシャツ。そして、それですべてだ。物たちは立方体に単純化される。蓄音機のなかのバイオリン。それにもかかわらず、アントニオ小父さんなしにはこのレコードも生まれてこなかった。
 たしかに『ラ・フォリア』を演奏したミッシャ・エルマンはストラディヴァリをもっていた。彼はゲットーから抜け出してきた。そこで彼は非常に長いあいだ練習を重ねていた。やがて、アントニオ・ストラディヴァリ親方がコジモ三世のために作ったバイオリンを長い何世紀かあとになって購入した。そのことは象牙の象眼細工が証明している。
 そのゲットーからはい出してきた者にサッシャ・カルバートソンもいる。彼はメンデル(ダヴィッド・ダヴィドヴィッチ・一八四九年の節参照)の背中のこぶをはずし、ユダヤ人の頬ひげを剃り落して、一枚のレコードの録音にたいして「ヒズ・マスターズ・ヴォイス」(ビクター)から五千ドルを受け取った。
 そして、その少年と娘は手を取り合って、丘の斜面を駆けおりた。
 私たちはすでに彼らとテオドール・グレーネンの「子供の日」で出会ったことがある。そのとき、そこでは聖チェチーリア広場のコメディア・デラルテが突然やってきていた。つまり、クレモナのピアッツァ・ディ・サンタ・チェチーリア(広場)の出来あがったばかりの舞台の上で腕をふりまわしていたタルタッリア、ブリゲッラ、黒い鼻のドットーレ、パンタローネ、スカラムッツォ、その他がガラス戸棚のなかに押し込められていたのだ。
そのあいだに子供たちは成長し、彼方の舞台のほうへ出ていった。だが前線の方角は避けられた。そしてもし彼らがロール・パンが何かを知らないとしたら、一斉射撃がどんなものかだって知りはしないだろう。
 また、たとえ彼らが、父親のすり切れた野戦服を着ていたとしても、そのグレーの布地は、血痕や汚れをきれいに洗いとり、お針子としての創造意欲を喪失した母親の手のなかで小さな上着やズボンに変わっていた。
 たしかに、みじめな大麦入りのブラック・プディングをあてがわれて、まだ前線に立っていたとしても、そのかわり、大量虐殺のゆえに愚かな動物になりさがった、われわれのようにではなく、目を大きく見開いて、鋭く未来を見つめていた。
 だからといって、彼らにいたずらな同情は見当違い。
 だって、子供部屋のドアをとおって、彼らのところへしのび込んできたのは、欺瞞だらけのおとぎ話の妖精の影ではなく、燃えあがる都市の炎の影だったのだから。だから彼らは、鳥の足の力で鍵はまわらないが、油圧の力をもちいれば、ボタンをひとつで、地下の鋼鉄の砲塔を大砲もろとも根こそぎにできることをいちはやく学びとったのだ。
 ロールパンでは小屋は建たないこと、砂糖の家にはソーセージの窓枠はないこと。しかし、総司令部のテントでシャンパンの滝が流れるようにするためには、自分たちは堅パンを代用コーヒーにひたして食べなければならないことも学んだのだ。
 そして、いろんな点をつぶさに点検する必要があることを、これらの若者は見たし、学んだ。だから、誰かが自分たちを馬鹿にしようとするときには、どう行動すればよいかも知るだろう。その一方で……彼らの心のなかでは憧憬と希望の金の信号ラッパが鳴っていた。
 ブロンドの髪のエーリッヒはブロンドの髪のグレーテの手を取り、ローゼンフューゲルの丘の建築中の、また完成したばかりの家々のあいだを駆けていく。庭のなかからはルシタニア号への魚雷攻撃から生き残った人びとのように、わずかなリンゴやナシたちが、梢の合間から二人にほほ笑みかけている。
 今までのところでは、子供のポートレートについて語ったとき、エーリッヒについては、彼がグレーネンの息子であり、したがって彫像やあやつり人形がどのようにして生まれるかを知っているということだけ指摘した。
 また、グレーテは救貧院の子供であり、料理女と荷馬車の御者との娘で、リスベット・グレーネンのお気に入りだったことも。だから彼女のどんな夢のなかでも人形たちは生きていた。今は人形たちのほこりをはたいている。それというのも彼女はグレーネン家の女中になったからである。
「昨日、あたしわかったの、エーリッヒ、ニッケルマンとロイテンデラインがどこから来たか」
「たぶん、君はハウプトマンを読んでないな?」
「なによ、それ、とてもきれいだわ! 一晩中、あたし『沈める鐘』に夢中になってたわ」「もし、君が『織工』を読んでいたとしたら、もっとよかったのにな、本の虫ちゃん。きっとそこからだよ、人形が出てきたのは! そしていつもいるし、いつも数がふえる。そんなに数が多くならないように、しばらく、戦場に送り出してやろう。でも、もうまた機械の問題が出てくる。最初のうちは、彼らも機械ともうまくやっていく。しかしやがて機械の数が増してくる。すると今度は彼らと機械との戦争がはじまる」
「その話、あたし理解できないわ、エーリッヒ。あたしには井戸の底のニッケルマンのほうがいい、ひげに藻くさをからませて、手には野生のツタの巻きついたぬれた小枝の杖をもっている……」
 二人は育ちの悪い果樹の林と野菜畑のあいだをとおって頂上にたどり着いた。そのあたりの地面を労働者や役人たちが熱心に掘りくりかえしている。戦争中、妻や子供たちが放りっぱなしにした数平方メートルの地面を彼らが引き継いだのだ。
「『カンディド、または、オプティミズム』」エーリッヒは言った。
「なあに、それ?」
「これを書いたのはフリードリッヒ大王の友人だったフランスの悪党だ。彼はそんなふうな皮肉な顔をして笑ったのさ。彼はカンディドという主人公にあらゆる地上の地獄をくぐり抜けさせたあと、結局は、唯一の幸福とは自分の庭を耕すことだという結論にたっするのさ。だから、そこを耕している連中もあらゆる戦争の地獄をくぐり抜けてきて、今は、イプルもヴェルダンも、ゴルリツェもドベルドも、まるでなかったみたいに、ジャガ芋を掘っている。うまく仕事がはかどることを願うよ、カンディドの諸君!」
「ヴェルダン? ドベルド? なに、それ?」
「このまえの世界大戦の激戦地の地名さ。それらの地名について父がぼくに語ってくれた。イプルではドイツ軍が歴史上はじめて戦争に毒ガスを使った。父は全部で六つの戦場にいた。だから父のところにはたくさんの記念メダルの注文がくる。父が像を彫った将軍の数は、少なくとも、もう、すでに二〇人にもなる!」
「あたし、聞いたことがある。グレーネンの小父さまは、一度、おひるご飯のときおっしゃったわ。おい、考えてもみろ、このヴラックが突然、怒れる戦争彫刻家になったらしいぞ! って」
「スピノザ主義者、それだけじゃ生きていけないさ。今ではたくさんの記念碑がそのことを証明している。獅子と無名兵士! そして商売! 父は自分でもそれをどうしようもないのさ。父はぼくを助手にしている。だから、ぼくもまた父から学んでいる。今すぐ、君に無名兵士を作ってあげよう。見ててごらん」
「なんですって?」
「なんだい、君はぼくをよく理解していないみたいだな、ヘヘ、ただ、ちょっと土で作るのさ。さあ、おいで」
 二人は建てかけの家の土台に腰をおろした。エーリッヒは一人のカンディドにバケツを借りて新しく掘り返された粘土質の土に水をそそいだ。それから袖まくりをして、形を作りはじめた。娘のグレーの目が輝く。彼女は人間の創造にとりかかった神を見るような目で、彼を見た。
 一時間ほどたって無名兵士は完成した。手榴弾の一撃が兵士の膝をくだき、鉄兜をかぶった頭は前にたれ、兵士の顔は見えなくなった。両手は後ろに残ったま、この身振りのなかに死が表現されていた。
 カンディドがバケツを取りにきた。メガネをかけた不器用そうな、半白の頭をした小学校教師。彼は無名兵士を見つめた。
「すごい。戦死した戦友ブルーノ・フランクの最後そのままだ。いや、まったくこの通りだった。あんたも戦場に行ったのかね?」
「ぼくは、まだ、徴兵検査の年齢にもなっていません」
「ああ、そりゃあ、そうだ。わたしとしたことがとんだ馬鹿なことを聞いてしまった。それにしても、本当の話、誰だってこれを見たら、あんたが戦場で、こんな場面を見たにちがいないと思うだろうよ……。うん、まさしく芸術作品だ」
「お気に入りましたか? どうぞ、これで彼を撃ち倒してください」
「どうも、ありがとう。でも、これをプレセントとして譲ってもらうわけにはいかんだろうね? ああ、お金か……、よしよし、どうか気を悪くせんでいただきたいのだが、どうだろう、このアンズの実を籠ごと受け取ってくれんかね。見たまえ、美しい、つやのある、みごとな出来だろう。わたしが自分の手で苗木を植えたんだよ。だから、いま、取り入れているところだ。さあ、どうぞ。それはそうと、よろしければ自己紹介をしたいんだが、私はルドウィッヒ・フランクです」
 二人は握手の手をかわした。そしてメガネの男はつけくわえた。
「小学校名誉校長、第四歩兵連隊退役軍曹」
 さらに十五分ほど話は続いた。やがてグレーテはアンズの籠を取りあげて、歩きはじめた。彼らはぶらぶら歩きながら、さっきレコードを聞いた場所までまたやってきた。窓のところで、あお白い痩せた少女がバイオリンを弾いていた。
 その少女は、彼らがぎょっとして足を地面に釘づけにしたほど、非現実的で、しかも、あの蓄音機のそばにいた、今にもこわれそうなくらいきゃしゃな、夢のような女の子だった。そして二人はアンズをかじるのも忘れて聞き入った。
 彼女はコレルリの『ラ・フォリア』を弾いていた。それはまるで、部屋のどこかでレコードがまわつていて、彼女は弓を宙に浮かせて動かしているだけのようにさえ思われた。「ゴッビ小父さんにあの子の演奏を聞かせるべきだな。小父さんをここへ連れてこようよ、グレーテ。ここの場所をよく覚えておいてくれよ。ぼくは彼女の演奏はすごいと思う」
「あたしも、そう思うわ、エーリッヒ」
 二人はさらに長いあいだ聞いていた。それから町のほうへ帰っていった。空の籠は途中
でカンディドに返した    無名兵士のまわりにはすでに三人の女性と二人の男性と七人の子供たちが足を止めて見つめていた。
 エーリッヒは自分の成功に得意になり、太陽は真っ赤な夕日の色に変わっていた。そして盛土のうえの列車は太陽にむかって敵意をこめた煙の柱を吐き出していた。
 グレーテは自分で作ったニッケルマンの歌をうたっていた。
 信号が青になった。





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