(36) ガラスの鐘が壊れたとき 一九二九年
そんなわけで三年前「ローマン・カッフェ」で、あの晩、ゴッビ・エーベルハルトの口からそのことを聞いたのである。そのことについては、すでに一度触れたことがあるが、いまここでその話にもどることにしよう。
「いいかい、これらのことはガラスの鐘の下に収められてるグァルネリ・デル・ジェスゥの一丁のバイオリンの裏に隠されていたことなんだよ。あるとき、旅行案内を手にしたイギリス人の娘たちがやってきた。そしてそのバイオリンを見ていた。二重顎のテノールたちが来て、それを見ていた。クララ・ヴァン・ゼルホウトたちが来て、それを見ていた。そして音楽アカデミーの給費生たち、銀行家たち、水兵たち、事務員たちが来て、それを見ていた。ガラスの鐘は輝き、沈黙し、何百年か支え続けてきた。
しばらくして、左手が麻痺したのでバイオリン教師になった中途半端なバイオリニスト
がやって来た。彼は自分の運命的な大きな愛を バイオリンの痕跡を イタリアの町
々の博物館や図書館や、大きな役所の公文書館のなかに追い求めるためにホーエンシュヴァンガウから逃げてきたところだった。
すると彼の前で、突然、ガラスの鐘が開き、すべては闇となり、クレモナの地方総督の音楽サロンのなかで、七人の最高の巨匠が自作のバイオリンのなかに吹き込んだ魂が響きはじめた。闇のなかのむこうにはメディチ家最後のトスカーナ大公が宮廷の全員とともに、アントニオ・ストラディヴァリが妻や娘、ふるえているジロラモ・アマーティ、モフェッティ親子、ボナヴェントゥーラ神父、「金の輪」酒場の「真の祖国の息子たちの部屋」の愛国者たちがすわっている。「三女神」酒場の旅芸人たち、口やかましいロレンゾ・グァダニーニ、すごく化粧粉をふりかけたかつら、皇帝軍の胸甲騎兵の将校たち、黒鞘におさまった銅柄の剣や短刀。タルティーニが演奏する。
要塞監獄の独房のなかではオイルランプの炎がゆれている。「予言者の書」と『神曲』が、ほかの六丁のバイオリンにたいして勝利をおさめるべき第七番目のバイオリンの誕生を見まもっている。いまや悪魔的模倣者はすでにどのバイオリンを弾いているのか自分でもわからない。ただ弾きに弾いているだけだ。
なぜなら宮殿のサロンでは金塗りの木とムラノ製のガラスのシャンデリアのなかでローソクの光がゆれているからだ。マルキザーナ運河やクレモネッラ運河の上では、平底舟の
松明が燃えている。ポー川の鏡には星の光がまばたき、夏の夜は月の顔をしたポン引きの
ように恋人たちを酔わせている。そして私も酔った。しかしそれはここちよい酔いだった。 わたしの前の鐘が大きくなった、ローマン・カッフェは記念礼拝堂ごと鐘の下にはいり込んだ。何かが私の胸の左側をハンマーでたたいている。それは、保護ガラスの鐘の下の例のバイオリンのトウヒの木の上板と木目の入ったカエデの裏板とのあいだを突っ張っている木の細い棒だとわたしは想像した。
ジュゼッペ・グァルネリのバイオリンの勝利が告げられた。たくさんのローソクが燃え、
炎は拍手の嵐とブラヴォーの叫びのなかでゆれている わかるかい、これはみんなこん
なガラスの鐘の下とガラスの杯のなかであったことなんだって? さあ、そのためにわれわれは乾杯しなくちゃ!」
「乾杯!」
私たちは長いあいだ黙っていた。
カッフェはしゃべっていた。隣のテーブルでは看板の絵描きがロシアの捕虜生活の体験を、大きな効果をあげるためにまったく時代錯誤のツルゲーネフやプーシキンを引き合い
に出しながら とくに、女性体験について 大声で得意げに語っていた。このくせさ
えなければいい男だった。彼はチェコスロヴァキアから来たハンガリー系ユダヤ人の才能のある若者だった。
エルネ・ロルシは親しいイレーシュ・カツェールに、ユナイテッド・プレスのベルリン支局長になったこと、そしてそのことでは彼が車にはねられたことを感謝しなきゃならんと控え目に自慢しながら語っていた。
病院のなかでは自分で自分を信じる以外にはないのだとつくずく考えさせられ、その後は仕事に真剣に取り組んだ。その結果がユナイテッド・プレスの支局長だった。
イレーシュ・カツェールはその日の「ベルリーナー・ターゲブレッテ」に掲載され、百マルクを得たある短編小説の内容にを語っていた。そのタイトルは『千一料理の手引き』
だった 難破した船のフランス人の料理人が人食い人種につかまる。檻のなかに入れら
れて酋長の食事用に飼育される。命を長らえるために、とうとう人食い人種に人肉の料理
法の伝授をして、生きのびる 笑い。
ベーラ・バラースはキーペンホイエル社から『神の手の上で』サブタイトルが『不思議な人間』というロマンを出版したばかりだと話している。この作品によって彼の世界観が多少変わったことを知ってもらう必要がある。だから彼の古いロマンには新しい結末の一
章と新しい世界観をつけ加えた、云々。笑い。
二流の映画スターたちが入ってくる。最初のトーキー映画について一人のプロデューサーと話し合ってている。タウエンツィーエン・パラストががら空きだそうだ、トーキー映画はまったく失敗だと言っている。
真っ赤なチョッキのロディー・ロディーも現われた。誰かが彼について、彼は自分の映画に自分で出演している、そして、いまちょうどノイバベルスベルクから到着したところだと語っている。赤いチョッキはコニャックをダブルで注文した。
「ぼくたちの文学論の邪魔をしないでくれませんか!」
「ロココ・バー」でライントホター・ガールズが使うような、ていねいなハンガリー風アクセントで言う。彼女らは少し年のいった、ごく普通の家庭の母親で、毎日、娘と一緒につくろいをしなければならない汚らしいタイツで飛び跳ねている。
「君の国でも家のなかに、こんなにハンガリー人はいないだろうという気がするね」とゴッビが言う。「『ハンガリー人のベルリン襲来』を描くために新しいムンカーチ(ミハーリ、ハンガリーノ画家、一八四四−一九〇〇)が必要だな。おれは複製だがいい絵を見たことがある。おい、あの鼻メガネをかけた男が白い馬に乗ったところをちょっと想像して
みろ 」
そう言って、ちょうどフェリ・ヴィドルとあいさつしていたエルネ・ロルシのほうを示した。
「放っておこう。むしろぼくたちはガラスの鐘の話をしよう」
私がゴッビに言う。
「もちろん、もちろん。君はそれを本にしなきゃならん。じゃあ、いまからそのガラスの鐘がどのように壊れたか話そう。本当に、鐘はムラノ産のガラスのように粉々になって飛び散った。あとにはガラスの粉さえ残らなかった」
彼はラシェル・グリューンについて語った。次にペンション『優雅荘』でのその夜のこと。そしてカントストラッセでの自動車事故のこと。
「コンサートがおこなわれることになっていた日、あの娘はおれに現われた。病院の彼女のところに行った。もう息はしていなかった。おれは彼女の手を組み合わせてやり、ベートーヴェンザールへ出かけた。用意されていた総 譜をもって、ローゼンフリューゲルの家に行った。おれは自分でバイオリンのソロ・パートの楽譜を捜し出して、総譜と一緒に暖炉のなかに放り込んだ。ちょうどそのときグリューンと奥さんが病院から喪服に着替えるためにもどってきて、おれのしていることを見ていた。何もたずねなかった。そしておれの気持ちを理解し、おれを抱いた。それから二人はそのあたりのスツールにすわって、自分の服を引き裂き、悲痛の嘆きの声をあげた。それはユダヤ人にだけにできる大きな悲しみの表現なのだ。
すると、もう病院からの車のサイレンが聞こえた。ラシェルを運んできたのだ。ラシェルをかかえて、おれがなかに入れた。ラシェルはガラスの鐘のように軽かった。粉々に壊れてしまったのだよ」
すると、私には暖炉のなかでバイオリンのソロ・パートと総譜のすべてが燃えているさまが、はっきり見えてきた。私は死んだ娘を見た。すると、あのペンションで四楽章からなる最後の大バイオリン協奏曲について語っている彼女の言葉が聞こえてきた。
しかし私には、彼女の言葉が語りはじめられたとたん、バイオリンはだんだんと死んでいくような気がした。だって、音楽は言葉がおわるところからはじまるからだ。
「行こう」
ゴッビが言った。私たちは外に出た。そして砕けたガラスの粉を探した。私たちが行くところは、いたるところでバイオリンの弦が一本また一本と切れていった。色あせたニスの下の木も弾けてひびが入り、木食い虫に食われた魂柱も弾けた。
「オイローパハウス」ではテディー・シンクレアのジャズ・オーケストラがものすごい音量で他を圧し、「バー・バジャデール」では五人の黒人が新しいリズムをジャズ・ドラムでたたいて荒れ狂い、サキソフォーンには荒い息を吹き込んでいる。
「カサノヴァで」では三台のピアノが絶妙なポリフォニーの旋律線を織りなし、追いかけっこをしている。街路では大勢の新聞売りが一日に四回発行される新しい新聞の名前を叫んでいる。
「テンポ! テンポ! テンポーーー!!!」
「行こう」
ゴッビが行った。そして、その言葉のなかに、私のコンチェルトの四つの楽章のなかで彼と私が演じてきたもののすべてがあった。
テディー・シンクレアとジャック・ヒルトン、ポール・ホワイトマン、それにレヴェレルだちが黒人の歌やラグタイムから突進するジャズという形式に成長させていった。
バイオリン・コンチェルトやシンフォニーは、精気をいぜんとして喪失していないアフリカ民族の闘争的タムタムとアメリカの巨大マシーンの圧倒的なリズムとを結びつけた。 サキソフォンは大洋航路の旅客船の豪華なダイニング・ルームやホテルのホールのなか、木張りの床のダンスホールのステージの上で、モルモン教徒の礼拝堂のなかで、また町はずれの安酒場のなかでうめき、泣き、わめき、叫ぶ。
ジャズ・トランペット、トロンボーン、アコーデオン、バンジョー、ハワイヤン・ギター、シロフォン、マリンバ、二十種類もあろうかと思われるジャズの打楽器が響きわたる。鋸や鳴子がごしごし、かちゃかちゃと騒音を発し、うなり、荒れ狂い、吹き荒れ、嬌声をあげ、地をゆるがす轟音をとどろかせる。
それは、まるで勝利を確信して勝ちほこり、補強に補強を重ねて着実に戦力を増大させている、高圧的かつ大胆なまでに自信と巧妙さをそなえた敵のようだ。
すると、何千人もの新聞売りが「テンポ、テンポ、テンポ」と新しい合言葉をさけびまわるだろう。その標語に乗って、時代は理性を失ったレヴィヤタン(旧ヨブ記四〇・25/T・ホッブス『リバイアサン』)のように息を切らせて駆けていく。
顔をしかめた黒人たちがミシシッピの川岸からやってきて、ドラムをたたく、まるで、昔、戦いのまえに盾を打ち鳴らしたようだ。
このすべては始まろうとする階級闘争の血なまぐさい雰囲気のなかで、植民地と地球の半部の反抗に立ち上がる前夜祭のなかでののことなのだ。
「行こう」
ゴッビが言った。こんな世界の状況のなかで、独りぼっちの、孤独と無限を渇望するバイオリンの声などに、いったい誰が興味をもつだろう? 暖炉のなかで、もしかしたら最後になるかもしれなかった、あるバイオリン協奏曲が燃えていることも、また、あるガラスの鐘やトウヒの木や魂柱がはじけて壊れてしまったことなどに、いったい誰が注意を向けるだろう?
「テンポ、テンポ、テンポーーー!!!」
蒸気機関車や四本煙突の大洋航海の客船の時代でさえもうおわりに近づいている。
飛行機にはまだエンジンが轟音をとどろかせている。航空母艦の上でも轟音はとどろいている。しかし煙突はもう不要だ。タービンは日進月歩、発電所は物質に圧縮した宇宙エネルギーを何万キロの遠距離の彼方に送りとどける。やがてその物質は調味料か何ぞのように販売されるだろう。
エンジンは博物館に送られ、石炭や石油の世界支配はおわる。生産体系も社会体系も電気の流れか、またはサキソフォンの朝顔の口から吹き出される音のようにコントロールされる。つまり「テンポ」だ。
「では、芸術は? 少なくとも壊れた子供のおもちゃのように回想されるのだろうか?
ほこりをかぶったがらくたとして?」
ゴッビがその晩、疑問を呈した。
私は彼に答えることができなかった。私にはただ車のクラクションと新聞売りの叫びのみが聞える。そして、見えず、音も聞こえない人のように自分の前をステッキでたたきながら、彼と並んで夜の闇を歩いていた。
「行こう」
彼は言った。そして三日後、彼は永遠に行ってしまった。医者が言うところの心臓麻痺が彼を襲ったのだ。そして私はいま涙にぬれた目で彼との別れを告げている。彼は無限の彼方の私の背後のどこかにすわって、私がこの老鷲についてどのように書くかを見ているのだろう。まあ、読んで見てくれ、ゴッビ爺さん。
ぼくたちが一緒に歩いた最後の晩、あんたが何を考えていたか私にはわかる。
「三女神」酒場のことと、バルトリーニの店のことだ。そこでいろんなことが生まれた。それらのものはここで死んだ。そのあいだにあったものこそ、ぼくたちの人生だったのだよ、ゴッビ爺さん。いま、それが壊れた。
パガニーニが死んだとき、彼が愛したバイオリンのG弦、変奏の弦が切れたと言われている。
誰かは、何かは、そのG弦が切れたとき、まさに、そととき、死ななければならないのだよ、ゴッビ爺さん。
あんたは、もう、むこうの岸にいるんだね。それが何だか、あんたにはきっとわかっている。わたしは、まだ、何かを待っている。もし私が待っても無駄だという合図が示されたら、私もあんたの最後の言葉をくり返そう。そして言うだろう。
「行こう」