(38) ダ・カーポ  一九三二年


                       一九三二年十一月十八日・ベルリン
親愛なる友人へ、

 ぼくは君の手紙を読んで大きな喜びを感じている。その喜びは、友情はドイツばかりではなく、ハンガリーにも存在するという認識、そして君が古い友人を忘れていなかったという認識に由来するものだ。
 今度はぼくが、君ならきっと興味を覚えるだろうと思う事実について報告しよう。たしか、ぼくたちが最後に会ったとき、君はバイオリンにかんするロマンを書きたいと言っていたね。そのときからずいぶんたつから、君の手紙にはそのことに触れてはなかったけど、君はすでにその本を書きおえているだろうな。
 そこでだ  先週のある日、非常に上品で、好感のもてるフランス人の紳士がわたしの
ところに来て、机の上にバイオリンのケースを置いた。それからフレデリック・ド・サント−ブーヴからの手紙を渡してくれた。彼とも、もうこの数年来、親密な関係にある。
 手紙には、フォート・モーベージュでフランス軍の榴散弾がぼくと別れ別れにし、しかも彼が非合法的にズアーヴ人の伍長から買い取ったこのバイオリンを記念として受け取ってくれるようにと書いてあった。
 彼によれば、このバイオリンをわれわれ二人の友情と、緊密になりつつあるわれわれ両民族の友情のシンボルにしよう、そしていつか母親がフランス人である、ぼくの息子にゆずってくれるようにというのだ。一方、彼は男狂いの奥さんと別れて、その翌日、またシディ・ベル・アベスに出発する。その任地では外人部隊の最高司令部軍医長の地位につくことになっているそうだ。
 彼はバイオリンの所有者の名簿のオリジナルも一緒に送ってきた。そのコピーは以前彼からもらって、君に提供していたものだ。今度はそのオリジナルも君にお送りしよう。それによって、所有者についての正真正銘のリストをも手にすることになるわけだ。
 バイオリンそのものはガラスの鐘をふせたなかに置いて、その縁にローソクを流して密封して、外の世界と遮断し、これ以上放浪の旅をしないですむようにする。そしていつか息子のジークフリートがバイオリンに興味をもったら息子に譲るつもりだ。
 目下のところは、彼はサキソフォンとジャズ・ハーモニカに夢中になっている。だから同封する名簿も、それを君に送るわたしの気持ちと同様の友情をもって受け取ってくれたまえ。
 そこで次にもう一つバイオリンにまつわる物語をお伝えしよう。
 君はきっと、フーベルマン(ポーランド出身のバイオリニスト、一八八二−一九四七)が有名なグァルネリ・デル・ジェスゥのバイオリンを盗まれたことを読んだだろう。コンサート・ホールの入口のところで守衛の制服を着た何者かが彼からきわめて丁重にバイオリンを受け取り、バイオリンとともに姿を消したという事件だ。
 大至急、彼のために代わりのグァダニーニのバイオリンを探し出してきて、その楽器でなんとかコンサートはしのぐことができた。そして、今度はてんやわんやの大騒動がおこった。新聞はこの盗難には政治的なバックがあると書いていた。
 フーベルマンは全財産をパン・ヨーロッパ運動に寄付していた。だからこの一連の経過にはヒットラーの茶色の制服がちらついていると噂されていたが、わたしはこの推論はナンセンスだと思っていた。
 ところが、先日、シュトゥットガルトの有名なハンマ商会の楽器店に誰かがグァルネリ・デル・ジェスゥのバイオリンを売りたいともち込んだ。ベテランの店員はヒル商会のカタログを取り出して見た。そのカタログには有名なグァルネリがすべてカラー写真で掲載され、その下には持主の名前も書かれている。彼はフーベルマンのバイオリンを発見し、警察を呼んだ。
 未知の男はナチス党員であることを白状し、党の保管責任者からそれを盗んで、今度は自分の手で売ろうとしたのだ。盗人は逮捕され、バイオリンは飛行機でフーベルマンのもとへ送り返された。
 ぼくはいま、バイオリンと飛行機とのあいだの外面的コントラストについて考えている。
両方とも同じ文化が作り出したものだ  もっとも高貴なる楽器と、最も近代的な輸送手
段だ。わたしは、なんとすばらしいバイオリンの音が無限のなかに向かってほとばしり出ているかをラジオで聞き、国境を越えてはてしなく飛んでいく機械の鳥を見ている。
 最初のゴチックの寺院からバイオリンへいたる道、そしてグァルネリからラジオや飛行機への道は大きな道程だった。われわれはこの道程をファウスト的人間とヨーロッパ的人間の文化、権力への願望と無限への願望の入り混じった魔法の雑炊と呼ぶだろう。
 この文化をナチスがわれわれから奪おうとしているのだ。われわれはコンサート・ホー
ル  つまりパン・ヨーロッパないしは、よりよき未来    の入口に立っている。そして、
その瞬間、制服を着たある男がわれわれの手から、何世紀もかかって作り上げてきた高貴な、英雄のごとく美しい作品をすべて奪おうとしている。
 飛行機はすでに彼らのものだ。飛行機が巨大な群れとなって空をおおい、すべてを毒ガ
スのなかに沈めてしまう。だが彼らはそのまえにバイオリンを売るだろう  アームスト
ロング−ウィッカースに、シネデ−ル−クレゾに、クルップに、シュコダに、三井に  。
 こんな破廉恥な盗人が次には何を売るつもりか見通している人間も出てくるだろう。この盗人が何を売ろうとしているかを、いま、すでに知っている人間もいる。彼らはもはや警官を呼ぼうともしない。なぜなら彼ら自身が警官だからだ。そして人類の生み出した高貴な楽器を真の所有者に送り返すこともしない。なぜなら、すべての飛行機もまた盗人たちの所有物だからだ。
 クルップその他は、やがて、顔をしかめながら、すべてを金に変えてしまうミダース王
の血に飢えた手で手もみする。やがて盗人のナチスどもに    鉛や鉄や血やエクラジット
(爆薬)や毒ガスで  支払をするだろう。
 いまは、まだフランスのシネデール−クレゾ社はドイツのヒットラーに金で払い、その代価として守衛の制服を買い、それを着てバイオリンを盗む。しかしバイオリンが盗まれたら、そして金のかわりに受け取ったのが毒ガスだったら、ナチス自身が警察を呼べと叫ぶだろう。
 しかし、間もなくやってくるのは骸骨の顔をした警官だ。その警官は毒ガスをかいで、
ナチスにむかって唇のない歯と眼窩を見せて顔をゆがめる    するとナチスはその顔にク
ルップの冷酷な骸骨のしかめっ面を発見する。
 ジークフリートはいま十四歳だ。もし、いつかガラスの鐘の下のバイオリンのことをたずねたら、このすべてを話してやるよ。
 天が君を祝福されんことを、親愛なる友人。
 もしよかったら、できるだけ早い機会に君の愛する生涯の伴侶とともに訪ねてきたまえ。そしたら「ローマン・カッフェ」で話をしよう。
 アデーレ夫人の手にキスを、そして君を老友が抱擁する。
                         クルト・フォン・ティーッセン


                         一九三三年三月一日、ベルリン

 書卓を引っかきまわしていたら、二カ月以上もまえに君に書いた手紙が出てきた。それがこれに先行する数枚の手紙だ。うっかりして出すのを忘れていたのだ。まったくのところ、これが本当のぼくさ。君のロマンのなかで小さな役がぼくにふり当てられているとしても、少なくともぼくの性格描写などで苦労しなくてもいいよ。手紙を出し忘れたというこの一事がぼくがまったくの愚者だということを物語っているからね。手紙を書きさえすれば、それでその手紙が君のところにとどくと思っているんだからな……。
 しかし、いまはぼくも多少は利口になった。封筒に封をしたら、すぐにジークムントに渡す  こいつは父親とはまったくの別人でね。万年筆を三本もっている。それぞれにちがった色のインキが入れてある。それでもきまって使うのはレミントン・ポータブルの最新型のやつだ。この手紙を彼はオートバイで郵便局までもっていく。だから手紙を渡してから五分後には速達書留で出しているはずだ。
 ありがたいことに、いまや、ボーイスカウト・ジャンボリーや運動場で走りまわっていて、すべてがタバコの煙のなかで泳いでいたバルトリーニの店でのはてしもない討論のことなどまるでご存じない連中が登場してきている。
 以前は、彼らもそのことについて何かを知るべきだと思ったこともあった。何をしてはいけないか……。それとも、われわれが彼らのためにしなければならないことは何かとか。 今日、ぼくは息子をゴッビ・エーベルハルトの墓に連れていった。実を言うと、息子がぼくをオートバイに乗せて、そこまで運んでくれた。そこでびっくりするようなことがぼくたちを待っていた。真新しい、大きな墓石。そのそばにいたその墓石を作らせた女。赤毛の女だ。
 何年ものあいだ、ぼくたちはお互いのことを知らなかった。そして、いま、語ることがたくさんあった。彼女について君に興味かありそうなことを二、三書くことにしよう。この女は自分の夫にはこんな墓石を作らせなかったくせに、ゴッビには作らせたんだよ。
 いまカフェを経営しているが、そのほかにアーティスト事務所とブリッジ・サロンをもっている。かなりの金を稼いでいるらしい。彼女はグレーネン一家のことも語った。一家は貧困から逃れるために、ガスの栓をひねった。彼らを救ったのはカジミエシュ・ウィシュニョウスキで、偶然、台所からガスが外にもれ出した、ちょうどそのときに来合わせたのだ。
 そのときから例の赤毛の女が一家の面倒を見ている。それは慈善行為ではない。そんなものだったらグレーネンはけっして受け取らないだろう。彼の著作全集を彼女が出版したのだ。そして出版社との金の交渉は彼女が自分でやっている。もちろん彼女が自分のポケットから出しているのだろうがね。
 カジミエシュのことについても話してくれた。クレモナ商会は不可抗力の理由でつぶれた。その不可解な事態は、ストラディヴァリのコピーはある期間をすぎると突然声を失ってしまうということから起こった。しわがれ声のテノール歌手みたいなものだ。
 専門家にも説明ができなかった。彼はバイオリンに見切りをつけて、女のところへもどった。いまは赤毛の女のところに住んでいる。そして、最も完璧な楽器は女だと言っているそうだ。彼女のところの事務所で働いている。
 ぼくたちは大きな墓石を見ている。それは黒くて、光っている。かつてのゴッビのようだ。君がこれまでにこんなに輝く黒い色を見たことがあるかどうかは知らない。それはただ墓地でのみ見ることができるものだ。黒大理石の艶のある石板だ。ぼくはその黒大理石を見ているうちに、いろんなことが幻のように浮かびあがってきた。
 まず最初に、その大理石の墓石の上で、鏡に映った雪の結晶のようなものがだんだん溶解していくように見えた。やがてその結晶はバルトリーニの店のタバコの煙の雲にかわっていくようだった。それから黒い雲は明るい本物の雲に変わった。冬空の寒々とした高みから黒い大理石の板に白っぽい影を落としている。
 次には鏡のような表面がシュヴァンゼー湖の水のように深みを帯び、冬の午後に無常の吐息をただよわせる。するとふたたび墓石の上に思い出の閃光のように光りが輝く。
 ぼくの顔も、赤毛の女や息子の顔も、隣の白い墓石、雪の結晶の模様も、そのすべてが一瞬一瞬に気紛れな黒い表面の上で変化するのに、彫り込まれたゴッビ・ヘーベルハルト
の名前の金文字だけが    それと名前の下に石工が彫った金のバイオリンが    変ること
なく輝いていた。ぼくは、これはゴッビだけの墓ではなくバイオリンの墓でもあるような気がした。
 たぶん、ぼくが間違っていたんだ。これらの一行一行を書いているとき、ベートーベンザールで一緒に聞いたバイオリン協奏曲のことを思い出している。あの若いポーランド人シマノフスキーのコンチェルトだ。あのとき弾いたのは、君の同郷人のイェーリ・ダラーニ(一八九五−、ヨアヒムの姪)だった。たぶん、このすばらしいコンチェルトがまだ君の記憶のなかにも生きているだろう。このコンチェルトはぼくたち二人にバイオリンの蘇
りといった強い印象を与えたものだった。
 ぼくは君が言った言葉をまだ覚えているよ    この大編成のオーケストラはきらきらと
輝いている。なにか音の膨大な積み重なりのようなすさまじい響きだ。そしてその上方をバイオリンの声が輝かしく、勝ち誇ったように、金の鳥さながらに飛翔し、敬虔なる高み
を飛び、回転し、輝いている  。
 どうだい、ぼくは君の言葉をよく覚えているだろう。そして今度はその言葉に「バイオリンは世界的大災害の火のなかで清められ、そのあとで死から蘇ることができるように、たぶん、楽器と黒人音楽の野性的リズムのなかで死ななければならないのだ」とつけ加えよう。
 いいかい、親友、これらのことを話題にして、ぼくたちはきっと話し合うことがあるはずじゃないかい? だったら、できるだけ早く来てくれたまえ。そして君が来ないのなら、ぼくがジークフリートを連れて君のアラドに攻撃を仕掛けるからな。
 友情をこめて、君を抱擁する。
             君の友
                         クルト・フォン・ティーッセン

 追伸、先日、ゴッビの弟子の一人と会った。ハロルド・アイゼンバーグだ。たぶん君もこのぶきっちょなアメリカ人の大男を覚えているだろう。われわれとヒンデンブルク・ジークフリート線で戦ったやつだ。そして、いまはシカゴ・フィルハーモニーのコンサートマスターだ。息子をブダペストのイェーネ・フバイのところえ連れていったのだそうだ。第一級のバイオリン教師だ。パトリック・S・アイゼンバーグは、父親の証言によればだが、最大のバイオリンの天才で、普通に行っても、ナタン・ミルシュテインなど簡単に追い越してしまうそうだ。
 見たまえ、パパ・ハロルドのなかには相変わらず、古きよきUSAが生きている。







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