(33) バイオリンの町の皇帝の警察隊長 一七一一年
皇帝レオポルド一世の死の床のそばには王家の親族、高位聖職者、大貴族などが顔を曇らせて立っていた。われわれハンガリー人の全歴史において、この皇帝ほど恐ろしい、にくみてもあまりある敵はいない。しかしウィーン宮廷の人びとにとっては、彼の前に頭をたれる理由もあれば、彼の豪華な棺のまわりで、ぼそぼそと何やらつぶやくそれなりのいわれもあった。
「われわれの太陽王が亡くなった。ハプスブルク家とブルボン家の太陽が同時に勢力の頂点をすぎたのだ。いまや権勢の放物線の西側でも東側でも下降の一途をたどっている」
彼らはこのように嘆き、輝かしいロココの死の予感のなかで、黙示録的怪物の炎の尻尾がどのように失われていくかを注目していた。
それというのも、この王が敵を倒して生きのびたことにはなんの意味もなかったからだ。トリアノン宮殿<ヴェルサイユ宮殿庭園内の大小二つの離宮の名称>は秒刻みの正確さでルイ・ル・グラン<十四世、大王、太陽王、一六三八−一七一五>のお目覚めを告げる伝統的朝のくしゃみを、さらに数年待たなければならなかったからである。
しかし第二の太陽王はもはや来ることはできなかった。そして世紀後半のレオポルド支配も来ない。そしてヨーゼフ大公は、その六年間の短い治世のあいだ王座にあっても、まさに単なる大公にとどまった。彼はハンサムな、こまかい点にもよく気のつく紳士であり、廷臣の喜びの的であった。
サヴォイの公爵は次のように語っている。
「彼は親しみがもてる、思いやりのある親戚だった。大公は麾下の大将たちを今後も存分に活用してよいという許可をくれたので、わたしはその厚意を大いに利用している」
高貴なる騎士オイゲン公はこのように述べた。彼の青白い面長の顔はすごく大きな長かつらの下でほとんど隠れてしまいそうだった。彼は肘までとどくバターのような黄色の鹿皮の手袋をした細い指の手で黒檀の元帥杖をまわしながら、先代の諸皇帝のポートレートの同様のジェスチャーにほほ笑みかけた。その元帥杖の一方の端を金の打出し模様をほどこした胸甲の脇にあてがい、薄い唇の両端を滑稽なほど横に引っぱった。そしてさらにこのことを、たまたまクレモナにおける地方総督の業務にかんする報告のために皇帝のところを訪れていたシュヴァルツエンベルク侯爵にも話した。
「わたしとしてはハンガリーの反乱軍を迎え撃ちに行く必要がないのが何よりだ。いいかね侯爵、わたしはトルコ軍を追放したとき、ハンガリーの義勇兵と協力してずいぶん戦ったものだ。わたしは彼らを愛している。だからたとえわたしを前線に送ったとしても、わたしは彼らと戦いたくない。君が彼らについて話してくれたこと、あれは、まさに彼らの性格を完全に言い表わしている。やつらは実に有能だよ、ヘヘ、それどころかバイオリンまで、君に返したというじゃないか、例の……、実際、やつらはそういう連中なんだよ。それに、あのカルヴィン派の説教師だ! エズイットの誰がそんなことをするかね?
ライタ川の向こうは、もう別の世界だ。東方だ! われわれに彼らは、絶対、理解できん。それにもかかわらず彼らは彼らで、またさらに東と戦争をしている。そして今度は、われわれは長いかつらをなびかせている西側と戦争だ。まったく正気の沙汰とは言えん。ヘヘ」
オイゲン公は手をふった。胸甲の上の宝石のついた鎖をなおし、侯爵に握手の手をさしのべて、金の飾りのついた馬車に乗って遠くの戦場へ出発した。彼はリューマチの足に全力をこめて墨のように黒い軍馬にまたがって、ブルボン地方に進撃し、そこで敵をとらえた。
一方、われらが侯爵はその間、宮廷内の錯綜した陰謀の網の目に翻弄されていた。だが、それでもヨーゼフはあまり気にもならなかった。
領地監督庁の上級役人の一人が、地方総督の地位にある侯爵はまったく役に立たない、自分の宮廷やホーエンシュヴァンガウの館であらゆる種類の喜劇役者の一座とたわむれ、イタリア人と仲良くしているという報告書を発表したときも、皇帝はただ笑っているだけだった。それはまさにハンガリーの戦場から赫々たる戦果が報告されたときだったから、皇帝がかくも寛大であったのは、たぶん、そのせいもあっただろう。
「たしかに、あのシュヴァルツェンベルクは確固たる決断にやや欠けるところがある。わたしにもいつもバイオリンの話ばかりしておる、まるでそれが地方総督の仕事のすべてであるかのごとくにだ。
だからなのだ、まさにあの町への赴任を自ら願い出たのは それが、あれの弱みでも
ある。クレモナはバイオリンの町だと言われている。まあ、それだってたいしたことじゃない。
彼にいかなる点から見ても信頼するに足る警察長官をつけてやれ。そしてバイオリンにいかれたあの大男は、まあ、そっとしといてやれ。あいつはいいやつだ。わしはあいつが
気に入っておるんじゃ」
役人は深々と頭をたれた。こうして全権を委任された役人は警察長官の椅子にエウセビウス・フォン・シュトルフをすえた。そんなわけで私たちもこの人物と近しい間柄になる名誉を得たことになる。
シュトルフは恐ろしい、計り知れない性格の持主であった。大きな足音を立てながらパラッツオ・プブリコ(宮殿)のアーケードの下を歩いているときの彼の足はO字形にたわみそうだし、巨大な胸郭、毛むじゃらの黒い眉毛、陰険な目つき、固くにぎりしめた拳骨を腰にあて、暗紫色のビロードのコートを着た彼の姿を、アルフレッド・クビン(一八七七一九五九、オーストリアの画家、象徴主義の影響を受ける)がE・T・A・ホフマン
(一七七六−一八二二)の『夜 曲』の挿絵に描いたとしても もしこの悪魔的な画家
とこの神秘主義的作家が同じ時代に生きていたのだとしたら おかしくはない。
そんなわけだから私たちとしては自分の想像力を頼りにせざるをえない。
そこでシュトルフの姿を追ってみよう。彼が血のように真っ赤な絨毯を通って大理石の
階段のほうへ急いでいる 周囲を威圧するように、いかにも恐ろしげな顔をして、自分
にたいする挨拶にも応えようともしない。
もしかしたら、カヴァラドッシを拷問にかけさせ、美しいフローリア・トスカ伯爵夫人の悲しみを楽しんでいるような、なにかそんな舞台場面のなかの人物を意識しているのかもしれない。いわば自分をスカルピオという人物に見立てているのだろう。
しかし、いまはそんなことはまったくどうでもいいことだ。私に興味があるのは、ジュゼッペ・グァルネリの運命にかかわりのあることだけだ。
シュトルフは習慣にしたがって「金の輪」酒場で朝食を取る。マルキザーノ運河にそって歩き、川藻のいっぱい生えた黒い水面を見やり、苔の生えた古い平底舟に目をとめる。まるでこのような古い舟のなかにも何かを嗅ぎつけようとでもするように……。
それから物乞いしようと近寄ってくる悪党どもをけとばして、開け放たれた窓のなかをのぞき込む、その部屋のなかではベッドのシーツが風に吹かれてめくれている。なんの理由もなくユダヤ街の暗い地下道に入っていき、やがてピアッツォ・プブリコへの階段をのぼっていく。
自分の書卓の前にすわる。パイプに火をつける。小さな頭と長い柄のオランダ製のパイ
プから吸った煙を吐き出す 彼自身、どこでこんなものを手に入れたかもう覚えてもい
ない。窓越しに下の広場を見つめる。だからといって、晴れわたった夏空の太陽が家々のファサードにどんなに輝かし金の雨をそそいでいかなどにはまるで目もとめない。
やがて長い呼び鈴の音が静けさを破る。スペイン人の秘書官カローネスの日々の報告を聞く。この秘書官の顔も長官と同様に暗く、彫りが深い。
「閣下、昨晩は四件の殺人事件が発生しました。ときにはまる一週間何も起こらないというのに、起こるときには一度に集中して起こるものであります。これはきっと星座の位置によるものでありましょう」
「無駄口はやめろ、馬鹿者! 事実だ!」
「エンリーコ・カラッチ、パン屋の親方であります。ヴィア・ディ・サン・セバスティアーノ、ストラディヴァリ家の真向かいであります。妻が斧で亭主を睡眠中に殺害 嫉妬からであります。妻をここに拘留してあります」
「次は」
「アニタ・カセリオヴァー。「三女神」の給仕女であります。逆上したか、または本物の狂気の浮浪者が彼女を厩のなかで殺害しました。彼女は刺されているのですがその傷の数をかぞえることもできないほど無数であります。その放浪者は名前が不明だそうであります」
「しかし、わしにはもう白状したぞ、ハハ、わしにはもう言った。つぎ」
「さる運送業者であります。平底舟のなかで絞殺されていました。殺人者はユダヤ人街に逃げ込んだそうであります。運送業者の名前はまだわかっておりません。ある漁師の息子が発見しました。いまここにいます」
シュトルフは暗い地下道を思い出していた。あそこでは今朝、はっきりした理由もなくなんとなく妙な風が吹いていた。
「ユダヤ人街を封鎖したか?」
「今朝、夜明け前に。あそこからはネズミ一匹はい出せません」
「じゃあ、どの家を捜索すればいいか言ってやろう。つぎ」
「ベアトリーチェ・グァルネリ。バイオリン製作者ジュゼッペ・グァルネリの妻であります。家はご存じだと思いますが。殺人者は不明。目下のところ最小の手掛かりももっておりません。首を長刃の短剣で突き刺されておりました。短剣はまだ見つかっておりません。家の者は全員、当宮殿内に拘束してあります」
「彼らを一人ずつ連れてこい。だが、そのまえに彼らについてわかっていることを言ってみろ」
「ジュゼッペ・グァルネリ、この二週間ほどこの町にはおりません。わたしは長年彼を見張っていますが、彼はいかなる理由もなくいつも消えてしまいます。仕事のためでは絶対にありません。バイオリンのためだったら遠くの国から彼のところへやってきます。
地方総督閣下はご自分のためにも、皇帝陛下の宮廷のためにもバイオリンをジュゼッペのところで購入されました。このジュゼッペ・グァルネリの旅行というのは常に疑わしいものでありまして、この先になんらかの陰謀があるのではないかと思われます。
しかし常にどこかの修道院のなかで消えてしまうのであります。ところが、イタリアの愛国者どもがひそんでいるという疑いのあるような修道院ではけっしてございません。そのほとんどがエズイット派の修道院なのであります。彼はバイオリンの自分の名前に聖体派の聖なるI・H・Sの文字を書き加えております。彼はカトリックの信者であり、いまもどこかの修道院内にいるものと思われます。
彼の父親ジャン・バッティスタは完全に耳が聞こえません。母親はマリア・アンジョーラで常に酔っぱらっており、まったく正常な頭をもっておりません。たぶん、この女がやったのではないかと。このほかには家のなかにはピアツェンザ出身の女中がおります」
「よろしい。しかし会ってみよう。家を見張らせろ。だが、ユダヤ人街も同様にだ。わたしが行って見るまでもないといいがな」
「すでに見張りを送ってあります、閣下」
ガローネスは頭をさげた。横の小さなドアから出ていき、大ドアから体をがたがたふるわせている干からびた小男とともにもどってきた。小男は室内履きにガウンという格好で、かろうじて立っているという具合だった。
「おまえがジャン・バッティスタ・グァルネリか?」
「わたしは何もわかりません。何もわかりません」
小男は口のなかでもぐもぐと言った。
シュトルフは長いあいだ老人を見つめながら、何かを考えていた。やがて突然、机から身を起こして、質問した。
「おまえの息子はなんの権利があって短剣を差しているのだ?」
老人は理解できず彼を見て目をぱちくりさせていた。そして両手をふって聞こえないことを伝えた。シュトルフはインク瓶に黒い羽根を突っ込んで、大きな紙に質問を書いた。老人は読みおわると、とたんに彼の全存在が異常なほど変わった。
背をぴんとのばし、汚らしいガウンの下のくぼんだ胸まで張って、しょぼしょぼしていた目を大きく見開き、そのなかで火が燃えた。やがて血管の浮き出た拳を脇腹にあてると、おもむろに答えた。
「グァルネリ家のガエターノが教皇からその名字と貴族の称号を授かったのは、実にさかのぼること四世紀になります。グァルネロ湾において一艘のガレー船でもってベネチアの艦隊を撃退したのです。それ以来わが家は貴族なのです」
このすべての言葉をひと息に言ってしまうと、ふたたびもとの姿にしぼんでしまった。シュトルフは第一問の下に書き加えた。
「その短剣でおまえの息子は自分の妻の首を刺したのだ」
老人はそれを読み、笑顔を見せた。
「それはありそうなことです。二週間ものあいだ、うちにはいないことはよくあります。しかし、ときどき夜のあいだにもどってくることがあります。今度の場合にもあてはまるかもしれません。もしそれをしたのなら、うまくやったのです。それには理由があるからです」
「どんな理由だ?」
シュトルフは次の質問を書いた。
「あの女は不貞節な赤毛の尻軽女でした。長いあいだある年寄りの悪党の愛人だったのです」
「誰の?」
「アントニオ・ストラディヴァリの……」
「おまえの息子はそれを知らなかったのか?」
「わたしにはわかりません。わたしは知っていました。でも息子には何も言いませんでした。わたしは注目するだけです。注目して、黙っています。みんなは、わたしのように耳の聞こえないものには何にもわからないと勝手に思い込んでいます。しかし、耳の聞こえない人間には、なまじ耳の聞こえる人間よりいろんなことがわかるものです。
わたしは何もかもよく見ていました。わたしはジュゼッペがそのへんの盗人どもと同じように、あんな赤毛の尻軽女のために死刑台に行くことを望みませんでした。祖国のために……。そうです、わたしにはなんともありません。しかし、毎日、あの汚らしいオス山羊ともつれあっているあんな女のために、そんなもののために……。
でも、どうでもいいことです。もしそれをしたんなら、よくぞやったです。息子は母親を道路の水溜まりのなかから抱きあげても恥ずかしいと思わないで、家までかかえてきた
のです。汚れを洗って、ベッドに寝かせてやりました。家内はいつも飲んで飲んで……、
ですから、そんなわけで……、わが家の紋章からその染みも洗いながしたのです。血です。もし、それが息子だというのなら」
シュトルフは長いあいだ紙を見つめていた。それから、紙に書いた。
「それが、おまえだったらどうする?」
老人は読んだ。長いあいだ答えなかった。何かを考えているふうだった。目でシュトルフの目を探した。目と目が会い、それが長いあいだ続いた。それからジャン・バッティスタ・グァルネリは汚れた赤いガウンのなかで身震いし、唇から言葉がもれた。
「それはわたしでした」
シュトルフはガローネスに言った。
「書記を呼べ。それからカランゾ顧問官を呼んできてくれ。君たち二人は書類に署名をしてくれ。それからユダヤ人街に出かけよう。急いでくれ」
秘書官が出ていくと、シュトルフは老人のほうに近よって、その目をじっとのぞき込んだ。そして老人の筋っぽい手をしっかりにぎって握手をした。紙にも何かを書いた。
「よし、そのほうがいい」
その紙を老人の前に見せた。真っ青な顔の老人はそれを読んで、つぶやいた。
「よし、そのほうがいい」
尋問調書を書きあげると、シュトルフはカランゾ顧問官に言った。
「重罪裁判所が招集されるまえに、この事件にかんする情報が町中にひろまるように手を打ってくれたまえ」
身のこなしの機敏なバルセロナ出身の小男の顧問官は、この種の任務の処理にかんしてはきわめて巧妙なやり手だった。長いこと考える間もなく、仕事に取りかかった。さっそく「三女神」酒場に出かけていった。
午後にはすでにシュトルフの前にジュゼッペが立っていた。どこからやって来たのかは誰も知らなかった。彼はいつもよりも、さらにけばけばしい派手な衣装に身をつつんでい
た 真紅の三角帽には二本のピンクのオストリッチの羽根飾りをつけていた。
「長官閣下、この老人を家に帰してやってください。それに母と女中もです。彼らはこの件にかんしては何も知りません。わたしは窓からしのび込み、妻を刺したのです」
彼は短剣をはずして、シュトルフの机の上に置いた。シュトルフは剣を鞘から抜き、爪でその切っ先と刃を調べた。それから三回呼び鈴を鳴らした。
ガローネスに言った。
「尋問調書は不要だ。この男を収監しておいてくれ」
シュトルフが大広間ほどもある大きなけばけばしい警察長官室のなかに一人になると、窓ごしに外をながめ、それから紙にきれいな装飾文字で四回同じ文章を書いた。
「書類は必要なし。この男を収監せよ。この男を収監せよ。この男を収監せよ。この男を収監せよ。ピリオッド」
「他の三件も手配はなされた。手配はおわった。わたしはそれらの手配をした。ここでわたしは今度は何をすべきか? 一生のあいだ? 何のために?」
彼はこのようなことを考え、そして、そのようにまた書いた 非常に念入りにそれを
書いた。それから紙を破り、同時に、大きな筋張った茶色の手をインキで汚した。インキの染みに唾を吐きかけ、書卓の緑色の布にこすりつけた。インキの染みはなかなか取れようとしなかった。指にもう一度唾をつけて、またこすりつけた。
窓のほうに行き、光のないどんよりとした目で外を見た。このようなとき、彼の目はほかの人間がいるときのように、突き刺すような鋭い目をしてはいなかった。
えーい、もうオリーヴィアのところへ行くのはやめよう。たぶん、明日だ。あの女はきれいな腿をしている。たしかに、それは事実だ……。たしかに、わたしは行けばいいのだ。
しかし、もう行くまい。侯爵のところへ寄っていこう。彼はバイオリンに狂っている
彼にこの話をしてやろう。ハハ、あのスケベ爺のアントニオ・ストラディヴァリめ。まったく気違いの町だ。
だが、おれはどうだ? 人間が安らぐことのできる城のような堅固なオリーヴィアの股のあいだにもぐり込むかわりに、要塞に行こう。おれは狂人だ。それとも、少なくとも、気が狂うことを恐れている人間だ。そういうことだ。
なぜなら、おれはなぜ生きているのかという疑問を、絶えず自分に問いかけているからだ。正気の人間なら、要するに、こういう疑問はいだかないからな。正気な人間なら「おれは皇帝から直接仰せつかわされた重要な地位にあるのだ」と言うだろう。
領地管理庁の主任監査官がおれを推薦したのだ。おれは四件の政治的陰謀を暴いた。おれは戒厳令を布告した。皇帝の名代としてこの地位を守り、堂々とその任を果たしている。ヘヘ、ハハ、だが、このすべてのこと、そしてオリーヴィアの股ぐらさえもが、この人間をうんざりさせているというのはどういうことだ?
マルキザーナ運河の岸を歩いている。すると、ある平底舟のなかで何か起こったらしい
という何かが彼の鼻につんと来る。そこでカビのにおいの充満した地下道に首を突っ込む。
それだけだ 殺人者はあの家のなかでつかまるだろうか? こんなことを皇帝が知って
いるだろうか? おれは皇帝について何を知っているのだ? こんなことはみんな馬鹿げた喜劇にすぎんのだ! なんの味もありゃしない、くそっ!
口のなかがにがくなって、唾を吐いた。この悪魔のようなシュトルフは胃潰瘍にでもかかっているじゃあるまいか? それとも、もしかしたら胆石かもしれない。私にも経験がある。
グァルネリ事件の話がお人好しのシュヴァルツェンベルク侯爵をおおいに驚かせたことはたしかである。彼はシュトルフの指のインキの染みを見つめながら、何度も驚いてみせた。
「いいかね、あのような信仰厚い精神の持主がだ、心の底まで、そればかりかバイオリン
のなかのあの十字架の印と聖なる文字にいたるまで それが、いったいどうして殺人な
どできるのだ?」
「その点にかんしますかぎり、枢機卿猊下もまた信仰厚き方でありますが、それにもかかわらず、宗教裁判所の容赦ない異端糾問の指揮にあたっておられます」
「いいかね、シュトルフ、それとこれとはまったく話が別だ、ちがうか? プロテスタントはつまり……、それにしても、相手は、美しい羽をひらひらさせる蝶みたいに、音楽以外には誇るものをもっておらんような、そんなバイオリン作りだ。どのようにして、あいつは……、もし、せめて戒厳令が布告されていなかったらな、いまや……、たしかに彼を待っているのは剣だ。これは……、これはひどいことだ。来てくれ、君と話がしたい。もう彼はこの要塞のなかか?」
「はい、わたしがここへ送らせました。モフェッティが自ら身柄を受け取りました」
あたりは暗くなった。庭園の大理石のニンフたちは赤みをおびていた。監獄の地下の廊下のほうから、まったく静かに、地下のどこかから遠くの囚人たちの歌声を運んできた。「おお、フィアンメッタよ、おお、いとしい、わたしのフィアンメッタ……」