(39) ほとんど空想的な物語りの終曲
クルトの手紙を妻が読んでくれた。私は葉巻をくゆらせながら聞いていた。私の見えなくなった目は真っ暗な闇と、ぼんやりとした闇のなかに、ゴッビ・エーベルハルトの墓石のような輝きが見えはじめた。そこには雪の結晶、バルトリーニの店のタバコの煙、クルト、ジークフリート、そして赤毛の女の頭、雲、金文字で書かれた名前、それに金のバイオリンが映し出されていた。
この輝く闇は私の前のすべてを満たしていた。そして反射光のパースペクティーブはだんだんと深くなっていく。いまそれらの反射光のなかでロンバルディアの平原、町々、バイオリンが生まれていた工房が無限に枝分かれしていく。
太陽の光のなかには、輝くその岩肌や氷塊をもった山々が見える。その山々からは春になると苦痛に耐える反抗的キリストが列をなしてくだっていく。
森のなかの礼拝堂、その祭壇の木で、かつて一人の山男、祭壇の破壊者が七丁のバイオリンを製作した。丘の頂上、そこではグァルネリ・デル・ジェスゥが愛する娘とくちづけを交わしていた。黒大理石の上には放り出されたかつらが、一つの赤毛の頭が、そして二個の真っ赤なひなげしの花が光っている。
カジミエシュとジュゼッペの投獄、そして監獄のバイオリン。太陽の降りそそぐ円形劇場の廃墟、その真ん中でジャガ芋の鼻をしたジャコモ小父さんが大きく手を振りまわして、ペトラルカのソネットを朗唱している。
聖チェチーリア広場と古いカーニヴァルのコメディア・デラルテの道化者たち。
「ハチドリ酒場」の腹と「三女神」酒場の広間。
グレーネンのあやつり人形と自動車の下の血にぬれたラシェル・グリューンの体。
アンナ・モローニのシチリア巡礼と黄色の騎士。
タルティーニが死せるフランチェスカ・ストラディヴァリのバイオリンを弾いている。 ズアーヴ人部隊がフォート・モーベージュへの逆襲にむかう。
コノヴァロフは金で縁取りした黒のフロックコートを着て冬宮の庭園にぶらさがっている。一方、中庭にはスタニスラフ・ウィシュニォウスキが……。
せむしのメンデルは頬ひげを剃りおとし、背中にアイロンをかけさせ、新しい肺をつけてナタン・ミルシュテインに変身する。
カーテンを引いた広間の闇のなかでウィリアム・エブスワース・ヒルとグァルネリ・デル・ジェスゥが競っている。
雪の結晶が白くなり、ゴッビは麻痺した左手をふっている。シュヴァルツェンベルク代々の侯爵たちはフランドル地方で、また、そしてラコーツィーの攻撃部隊ともで戦っていた。
カルマニョラはバスティーユを攻撃し、ベッポはピエトロ・グァルネリをラヴェンナへの旅に連れ出し、ベンヴェヌートはベアトリーチェについてのうわさ話しをもたらし、ニコロ・アマーティが雲の頂きに到着したときには、雲の上の光りの玉座のまわりには、地上の花が咲きだした。
黒い石はつやつやと光り、その石を、かつてジャコモが二千年の年ふりた円柱をだいたように、私もだく。私には、ゴッビとアントニオがお互いに肩をだきあいながら、ゆっくりとした足どりで、楽しげに歩いていく様子が目に浮かぶ。
ベルリン市周辺地区の極悪犯罪、その汚濁と貧困、奴隷を打つ鞭の音、あらゆるものの恐ろしい堕落、殺人者たちの王国、ガレー船につながれた罪人の引きずる鎖の音、宗教裁判所の拷問具のきしみ、積みあげられた薪につけられた火がちらちらはためく、人間の信仰と人間の運命にたいする嘲笑。
ユグノー派は殺され、戦争は賛美され、武器は輝く。三途の川の轟々たる流れの音、忘却の川のささやき、死者の国は閃光を走らせ、火の川は火の光を放っている。
十字軍は攻撃し、説教師たちはウァレンシュタインにむかって叫ぶ。鷲たちはマドリッドからモスクワにいたる大陸でナポレオンの体を食いちぎる。
織工は織機に抗議して戦い、彼らの空きっ腹のうめきは三千万人の失業者の発生の前奏曲となった。
それは地獄だ。革命の炎は浄化の火。
ゴッビとアントニオは進む ラヴェンナへの道は遠い。
村、町、国、大陸、海 そこでは過去が未来へ、地獄が浄罪界へとつながっている。
なぜなら過去は地獄、現在は浄罪界、未来は楽園だからである。
兄弟よ、彼らと一緒に行こう。美しいのはこの旅だ。酒場の看板、教会の塔、高層ビル、ラジオのアンテナが風にゆれる。ヒバリも機械の鳥も太陽にむかって飛ぶ。
ラヴェンナへの道もまた登り坂となり、上方を目指し、絶えず高みへと登っていく。そらは常に輝いている。
黒い雲の峰では白い天使たちが音楽を奏で、モンテヴェルディの最初のオペラ『オルフェウス』を演じている。音楽の始祖はエウリディーチェかベアトリーチェを求めて地下世界の川を渡る。一つの白い雲の頂きでは黒い天使たちが、クシェネク(エルンスト、オーストリア、一九〇〇−、一九三七年からアメリカに移住)の最初のオペラ『ジョニーは演奏する』 Jonny spielt auf を上演している。
疾走する蒸気機関車、信号機、クレーンのまんなかで駅の巨大な時計が照らし出されている。時計の針はもうすぐ十二時を指すところだ。針が十二時のところにとどいたら、時計は落下し、文字盤ははがれ落ちる。やがて壊れた時計は地球のようにふくれて、その上に大陸と海が出現し、黒人のジョニーが北極の上に飛びあがり、私たちのためにバイオリンを弾き、歌いはじめる。
古い世界の最後の時が告げられと
新しい時間に日がさしはじめる。
兄弟よ、もう、ためらうな、一緒に行こう!
だって、ぼくらはみんな進みはじめたのだから
新しい自由の祖国へ
新しい自由の祖国へ!
ラヴェンナへの旅路は長いな、兄弟よ。オルフェウスとも、ジョニーとも、まるで昨日はじめて会ったかのようじゃないか。