ストラディヴァリの秘密               (インジフ・ケレル)


 真実と仮構。それは二つの極端である。歴史小説の作家はその両極端のあいだでゆれ動いている。その両成分の正しい混合と均衡のなかに成功の喜びと失敗の不安があるのだ。はっきり言って、サーントーはこの正しい割合を選ぶことに成功している。彼のロマン『ストラディヴァリ』はたしかにチェコ語でははじめて出版されるが、翻訳はハンガリー語の二十六版からである。このことは一九三三年にこのロマンがはじめて出版されてから、かなりの版数をかさねているということである。
 このロマンの魅力的なテーマになっているのは、一丁のバイオリンの――その製作者の運命とその持主の運命とを一緒に束ねた――歴史である。主人公はストラディヴァリである。そして彼の生涯の運命について、歴史小説のなかでどこまでが真実で、どこからが仮構であるかについて指摘することができる。
 楽器についての専門的歴史家がこのようなロマンを評価しうるような最もきびしい尺度をもちいるとしたら、ストラディヴァリの生涯から本当に裏づけられる事実は、せいぜい五十頁の中編小説にかろうじてまにあうくらいのものだろう。またこのロマンの何頁かを学者が調べて、その何頁が作家のファンタジーのなかから生まれたものであることを証明することができることも私たちにはわかる。結局のところ……このような評価は大部分が歴史小説のあとがき(解説)の役割である。
 アントニオ・ストラディヴァリにかんする最初の難問は、彼の誕生の状況の特定の段階においてすでにおこってくる。つまり、いかなる公的な記録も保存されていないのである。日付については名匠自身が誇らしげな言葉「九十三歳」 d'anni 93 と一七三七年に有名なバイオリン「白鳥の歌」の標章に書いている。これはほぼ信頼に足る記録である。したがって今日では、一六四四年がとりあえずストラディヴァリの誕生の年と考えられている。もちろん、ほかにもやや信憑性のうすい記録、たとえば、死亡した人たちの出生記録との関連で、彼の誕生の日付を一六四〇−一六四八のあいだと推定するものもある。
 ストラディヴァリの誕生についての出生記録はない。それどころかクレモナに生まれたかどうかについてさえはっきりとはわからない。ただ、自分の工房も自分の家もまだもっていない時代から、すでにバイオリンの証票の自分の名前のあとに「クレモネンシス」と書き加えているという状況から判断できるだけである。
 父親のアレッサンドロはクレモナで重要な地位を占めていたが、母親のことは知られていない。(このロマンのなかでストラディヴァリの母親として登場するアンナ・モローニは、ある同名のクレモナの住民の妻で、その人物と古い文献ではストラディヴァリの父親と取り違えていた)
 ストラディヴァリがニコロ・アマーティの工房で修業したという点については議論の余地はない。そのことは彼自身が一六六六年の初期のバイオリンの商標で証明している。そこには「ニコロ・アマーティの弟子」 Alumnus Nicolaij Amati という言葉で推薦されている。しかし彼の初期の楽器が明らかにアマーティ家のモデルや雛形にしたがって作られているという事実がさらに多くのことを証言している。
 当時の一般的な過程を考えると、見習いには十二歳か十四歳(したがって一六五六−一六五八)で入り、三年から四年で終了と認められる。彼自身の証票をもち、現代まで伝わっている初期のバイオリンは一六六五年からである。
 彼の旅修業については何もわかっていない。職業的キャリアのはじまりについてもほとんどわからない。どこかへ旅修業に出たとすれば、たぶんフッセンには行っただろう。(だが、ミッテンヴァルトに行っていないことはたしかだ。なぜなら、そこでは当時まだバイオリンの製作はなされていなかったからである)
 しかし、ストラディヴァリほどの目的意識をもった人間の場合、経験を積むためにはむしろブレッシア、ローマ、ベネチア、場合によっては南フランスへも行ったと考えることはできる。なぜなら、そのころ、同時代の最高のバイオリン製作者たちはそれらの土地で活躍していたからである。
 一六六四−一六八〇年のストラディヴァリの証票をもったバイオリンは二十二丁が知られている。そのことはバイオリン製作者の作業容量として年に最大二丁か三丁ということになる。このことは一面において伝説の発生につながっている。それによるとストラディヴァリは初期の楽器を焼いてしまったとか、また修業がおわったあと、いったい何をしていたのだろうかという疑念にもつながる。
 意見はまちまちである。伝記作者の一人は、そのころ彼は工芸品の製作者ないしは室内装飾家として生計を立てていた、そしてバイオリンはたまにしか作らなかったのだと主張している。
 最もありそうなことは、ストラディヴァリは修業がおわったあとも親方のところにとどまり、その期間、バイオリンの職人となり、のちにはたぶん工房の職人頭になり、楽器の
張り合わせとニス塗りの仕事をまかされていたのではないかという考え方である。
 一六八〇年はストラディヴァリの生涯における、はっきりとした転換点である。とくにこの名匠がバイオリン製作者たちの居住地区、ピアッツァ・ディ・サン・ドメニコに七千皇帝リラで家を買ったことは注目に値する。それはかなりの大きな金額であった(わが国の現今の通過で考えれば約一〇万こルンというところだろう)。きっとストラディヴァリはバイオリン職人の稼ぎから蓄えただけではすまない額である。
 何かの遺産    その没年は定かでないが、たぶん父親からの遺産    が転がり込んだの
だろうとは推測は、ある程度、根拠がある。この年からストラディヴァリのバイオリン製作者としての活動も活発となる。彼の名前はだんだんと有名になるにつれて、売行きのことなど心配する必要がなくなる。
 最初のうちはきっとアマーティ家の販売ルートを利用していたにちがいない。そのうち買い手のほうが彼を求めるようになる。それらの顧客のなかには、いろんな地位の高い人が現われてきた。ヴィンチェンゾ・オルジーニ枢機卿、この人物は一六八六年にストラディヴァリを宮廷バイオリン製作者に指名した。モデナのサヴォイ公、このロマンでわれわれにもおなじみのフィレンツェのトスカーナ大公コジモV、彼のためにストラディヴァリは二丁のバイオリンとアルトとテナーのヴィオラ、およびヴィオロンチェロを製作した。 外国にも提供している。たとえば、フリードリヒ・アウグスト、ポーランド王、ザックセン選帝侯、あるいはスペイン宮廷。この宮廷の楽長カベズエドは、ストラディヴァリのバイオリンは世界最良ではないと断言した。
 名声があがるとともに、ストラディヴァリの収入も増大してきた。一七二一年には一万四千リラで別の家を買ったことがわかっている。さらに九万リラがこの年月のあいだに支出されたが、そのほとんどは自分の子供たち、その教育のため、生活の費用に当てられた。 伝記作者の一人フランソワ・ジョゼフ・フェティ Francois Joseph Fetis によれば前世紀までクレモナでは「ストラディヴァリのように裕福」 ricco come Stradivari という諺が聞かれたそうである。
 しかし、裕福それ自体は人間についてのロマンが書かれるためには不十分である。彼の仕事、彼の思想が後世の興味をそそるときはじめて書かれるのだ。それではストラディヴァリの場合は何が考えられるだろう。それは彼が二百年来探求されてきた最も適切なバイオリンの形態を完成させた天才的バイオリン製作者だということだ。
 彼の生涯は、当時、まだ比較的新しい楽器だったバイオリンの理想的な音についての、
バイオリン製作者の仕事場の静寂のなかでの劇的な格闘だったのである。
 彼の作品のなかで今日知られているのはバイオリンが約六百丁、ヴィオラが十二丁、ヴィオロンチェロとヴィオラ・ダ・ガンバが五十丁、ギターが三丁、ハープ、ポケット・バイオリン二丁、チェテラ、ヴィオラ・ダモーレ、それに一本の弓である。
 最も誠実なストラディヴァリの伝記作者  ウィリアム・ヘンリー、ロンドンの有名な
バイオリン作者一家のアーサーとアルフレッド・ヒル    は、ストラディヴァリは千丁を、
多少越すほどの楽器を製作したと推定している。彼らのこの推定の根拠となっているものは、もちろん保存されている楽器とバイオリン製作者の平均的仕事量である。
 ほかの人は三千丁の楽器を製作したはずだと推論する。しかしこの最も高い推定は、名匠は工房内に助手をもっていたという前提によってのみ可能である。
 彼の直接の弟子は最初の結婚による息子たち、フランチェスコとオモボノだけだったように思われる。たとえ、仮にグァダニーニ一家のものや、その他が自分の標章に、ストラディヴァリの弟子であると書いたとしても、そのこと自体はわれわれを納得させるに足る、十分な根拠にはほとんどならない。たんなる宣伝上のトリックではないとしても、ストラディヴァリのところで、むしろ賃雇いの労働力として働いていたのだろう。
 ストラディヴァリ工房での仕事の組織化はきっとアマーティの場合と同じだろう。職人たちは材料の木の準備の仕事をし、手直しをしていたのだ。こまかな仕上げの仕事や、張り合わせ、とくにニス塗りは親方自身がおこなっていた。
 職人の誰かがバイオリンのすべてを自分の手で作った場合は、バイオリンのなかの証票に Sotto la disciplina di Antonio Stradiuario という文句を書いて、この楽器が親方の指導のもとにつくられ、親方は一切手を加えていないということを明確にした。
 工房内でのストラディヴァリの息子たちの身分についてはさらにわからない。しかし、父親の圧倒的な個性の影になって、ほとんど目立たない存在だったにちがいない。フランチェスコはたぶん職長の役割をはたしていただろう。はっきりしているのは、息子たちがバイオリンに自分の名前を書いた標章を貼るのは、父親の死後だということである。(オモノボがバイオリン製作者になったかどうかについては、なにもわかっていない)
 専門家たちの見解は、ストラディヴァリの楽器が四つのグループに分けられるということについては一致している。それは彼の生涯の四つの段階を満たしている。
 第一期はおよそ一六九〇年におわっている。この時期にストラディヴァリは師のニコロ・アマーティのモデルを取り入れ、こまかな点に修正を加えて改良しようとつとめている。
しかし一六八七年以後になると、すでに、ジョヴァンニ・パオロ・マッジーニのモデルに
近い楽器を見いだすことができる。
 製作の第二段階では名匠がアマーティのバイオリンの甘い音とブレッシアのバイオリンの力強い響きとを結びつけようと努力しているように思われる。そのことを、とくに本体部分を長くする、しかも上部をやや狭くすることによって試みている。このほそ長いモデルはバイオリン製作の世界ではパトロン・アロンジェ(長い雛形)として知られている。 彼が五〇歳になったころ、名匠はすでに独自の道をなんとしても進まなければならないという認識にたっする。それを一七〇〇年ごろからはじめ、その時期から第三の製作期と見なすことができる。それに続く二〇年間のあいだに、彼は最も美しい楽器を製作した。バイオリン製作努力の頂点を意味し、また今日のバイオリン製作者にとっても不可欠の規範となっているモデルは「大ストラッド」の名誉ある称号を受けている。
 ストラディヴァリの生涯の最後の数年は専門家たちは概して下降の時代と呼んでいる。それは真実ではない。なぜならこの時代の楽器は先行する時期の数々のすぐれた点を保有しているからである。ただ、それらの楽器の音はやや暗くなり、木も悪くなり、のみの使い方もそれほどにはたしかではなくなっている。それにもかかわらず、この時期の楽器も美しい。
 一七三七年十二月十八日にストラディヴァリは死ぬ。彼は長い生涯を満足をもってふり返ることができただろう。彼はその没後もさらに何世紀かのあいだ彼の名を響かせる楽器を何百丁も残したからである。
 彼の楽器の運命はあまりにも華やかである。いくつかのものは探偵小説の題材ともなりうる。音楽家たちは楽器を識別するために、洗礼名をつけた。ときには有名な所有者の名前に由来するものもある(バイオリンの名人にちなんで「ヨアヒム」)。またあるときは、楽器のとくにめだった特徴によって(ニスの色によって「ルビー」)つけられた。実際、名匠の最後の楽器はとくに「白鳥の歌」と呼ばれている。その他の楽器はそれにまつわる
伝説によって名づけられた。なかでもとくに有名なものの一つは  しかも、バイオリン
製作者たちは一番美しいと証言している    「救世主」と呼ばれているバイオリンである。
  この名前は収集家のタリージオがイタリアの最高の楽器をパリのバイオリン製作者ヴュイヨーム(ジャン・バプティスト、一七九八−一八七五)のところに運んでいた時代にできたものだ。パリで楽器の美しさが賞賛されるときは、タリージオは、いつも、こんなものはたいしたことはない、家には見さえすれば、みんなを驚嘆させるバイオリンをもっ
ている。そのうちその楽器もってきて見せてやろうと言っていた。そのようなことが何度
かくり返されたため、あるときヴュイヨームが冗談に、そのバイオリンはまるで「メシア」といるようだと言った。たしかに誰もがメシアを信じてはいるが、見たものはいない。こうして、そのバイオリンの名前は残ったのである。ヴュイヨームはタリージオの死後はじめてその楽器を見た。
 彼はその遺産のなかからそのバイオリンを買いとり、それから別れられなくなった。こうして彼の死後、娘婿のバイオリニスト、アラール(ジャン=デルファン、一八一五−一八八八)が相続した。
 その後、何度か所有者が変わったが、最後には「ヒル&サン商会」が一八九〇年に入手した。現在ではオックスフォードの「アッシュモリーン・ミュージアム」で、しかるべき場所に安置されたバイオリン「メシア」を同商会のコレクションのなかに見ることができる。
 過去、現在のほとんどすべての名だたるバイオリニストにはアントニオ・ストラディヴァリのバイオリンを弾く可能性があり、すべてのバイオリニストがそれ弾くことを名誉と考えている。
 わが国のバイオリニストにもその可能性がある。フェルディナント・ラウプ、フランティシェク・オンドジーチェク、ヴァーシャ・プシーホダはストラジバリで演奏会を開いた。それにヤン・クベリークは「エンペラー」と名づけられた最も有名なストラジバリのバイオリンを自分で所有していた。
 作曲家でチェコ四重奏団の第二バイオリン奏者ヨゼフ・スークは彼の甥の国民芸術家ヨゼフ・スークと同じストラディヴァリの楽器を弾いていた。甥のスークはいまもその楽器を弾いている。チェコスロヴァキア共和国の所有しているものとしては「リボン」と呼ばれるストラディヴァリがある。これは名匠の後期の作で、現在はスメタナ・カルテットの第一バイオリン奏者イジー・ノヴァークに貸与されている。
 ストラディヴァリには在世中に唯一同等のパートナーないしは競争相手がいた    ジュ
ゼッペ・グァルネリ・デル・ジェスゥである。かなり若いこの名匠は自分の道を歩いたが、彼もまたイタリア・バイオリン製作者の古典的遺産の完成者となった。一七四四年の彼の死後、弦楽器製造の歴史のなかの輝かしい時代は静かに幕を閉じ、バイオリンの製作の世界に没落がはじまった。バイオリン製作は芸術であることをやめ、職人仕事なったと言うことができよう。エピゴーネンたちが登場し、工房の伝統は消えた。
 それはまた古い名匠たち、とくにアントニオ・ストラディヴァリの秘密が語りはじめられたときでもあった。彼の仕事について知られていたことは、ほんとにわずかであったが、バイオリン製作者であり理論家のアントニオ・バガテッラが大部分を集めた。彼はイタリア・バイオリン製作の最後の伝統継承者の何人かと接触し、とくに楽器の寸法の測定に集中的努力をそそいだ。厳格な幾何学的システムを援用した。それによってバイオリンの輪郭を割り出すことが可能となった。だが、彼の法則によって製作されたバイオリンはあまりよく鳴らなかった。
 ほかのものは楽器をおおっているニスのなかに秘密を求めた。化学分析の進歩にしたがってクレモナのニスの成分にかんする知識も向上した。現代ではスペクトル分析のおかげで、どんな成分からニスが構成されているかほとんどミリグラムの単位まで正確にわかっている。
 しかし、それでもわれわれはそれほど前進していない。なぜなら、ニスがどのように熱せられ、どのように塗られ、どれくらいの期間、どのような条件のもとで乾燥させたかがわからないからだ。だから、とくに、ニスをかけるまえに木がどのように準備されていたかがわからない。ニスをかけるまえの木の最初の準備のなかに、忘れられた何かのトリックが隠されていたと考えられる。

 著者たちが合理的な理屈や、ストラディヴァリの秘密を解明したという馬鹿げた方法論によって読者を説得しようとする何十冊もの著作を図書館で見いだすことができる。しかし、ストラディヴァリの全生涯にわたる作品の、まじめで基本的な分析はシモーネ・F・サッコーニがストラディヴァリの『秘密』という本ではじめておこなった。この本は著者が亡くなった年、一九七三年に出版された。
 このイタリアのバイオリン製作者はおそらくこれまで存在しているストラディヴァリの楽器をすべて鑑定する可能性をもっていたと同時に、彼はクレモナのストラディヴァリ博物館の管理者でもあった。この博物館には楽器や巨匠の工房の道具類なども保管されている。その著書のなかで、巨匠の作業過程をできるだけ客観的に説明し、現代のバイオリン製作者の大部分が到達している見解「要するに、秘密などもともとなかったのだ」という結論にたっしている。

 バイオリン製作者は自分の仕事のなかで絶えず何かに制約されている。彼の作品をおび
やかすかもしれない多くのことを念頭においておかなければならない。彼はいろんな作業
手順や、職業的トリックの蓄積のなかから最大限の音響的かつ美学的効果の達成に益するものを選ぶ。年を取った親方たちは、たぶん、実際問題としてそのようには意識しないだろう。しかし、決定的にあますところなくそれを実現することができたのである。
 材料や、美にたいする彼らの経験や知識、勘といったものが、今日われわれが脱帽せざるをえないような成果をもたらしたのである。そこにもまた、バイオリン作りの親方を芸術家と見なすかの理由がある。
 新しい楽器のそれぞれは新しい問題、自分自身の一部をそのなかにそそぎ込む新しい作品である。
 だから、そのことこそが、また、ストラディヴァリの唯一の、真の、かつ、正真正銘の秘密なのであると、わたしは考えるのである。





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