(1)民族再興運動
十八世紀の後半はチェコ語で書かれた文学にとってあまり喜ばしい状況ではなかった。高い要求に絶え得る作品はチェコ語では書かれず、広い大衆を対象としたチェコ語の本も急激に減少した。このことは言語文化において否応なしに現れてこざるをえなかった。チェコ語はもはや日常生活の領域を越えた概念や観念を表現するのには対応しきれなくなった。チェコ語は、一面においては、それほどまでに硬直化し貧困化していたのである。なぜなら、価値ある古い時代の文学のなかの多くの言葉は実用からは遠ざかり、新しい概念はまだ新しい言葉を得るにいたっていなかったからである。第二に、チェコ語が、いわゆる国語改良主義者 bursi
または純化主義者 purista の支配する領域となったことである。 この傾向についてはすでにまえに触れた。そういうことから彼らは言語学者と呼ばれたが、その多くはチェコ語を十分知らない素人学者で、チェコ語の外国語からの「純粋化」を望んだのである。そんなわけで新形<語>を作ったが、大部分は非体系的であった。その結果、generál (将軍) の代わりに Yedlnosta を当て、invalida (不具者) にたいしては vyjmecí 、talíY にたいしては jezlín を、kalendá にたいしては letodník または rokodník Luna にたいしては No
ena といったような言葉が出現した。だが、これらの言葉は受け入れられなかった。なぜなら文学者の実作において支持されなかったからである。それでも文法的術語のいくつかは残っている。それらの言葉の純化主義的出生にかんしては――すでに慣れ、親しんでいるから――ほとんど意識されることはない。たとえば pád (格)、pYíslovce(副詞)、spojka(接続詞) などである。 チェコ語の堕落の一例として、一七六九年のモラヴィアの貴族たちの協議の議定書の一部を紹介しよう。
=訳は省略=
このような状況のあいだに、チェコ文学は没落を運命づけられていたと思われる。 しかし七〇年代の半ばから転換が起こり、チェコ語による書物の出版がふたたび増加し、チェコ語は「白山後」期に失った地位を改めて、徐々に回復しはじめた。新チェコ語の詩、ドラマ、散文が起こり、二三世代を経過するうちに、ふたたび芸術的価値が創造され、それらのものは永遠の生命をもつ文化遺産に属し、今日においても普及している。実例として、コラール、チェラコフスキー、マーハをあげるだけで十分だろう。同時にチェコの学術言語も変化した。学術的な著作はラテン語――これは「白山後」期に大いに盛んであった(バルビーン)――と、学術的にはドイツ語――再興期の初期にチェコ文化の必要に応じて用いられた(ドブロフスキー)――を放棄した。そこで、チェコ語によって育まれた学問が生まれた(ユングマン、パラツキー、シャファジーク、ブルキニェ)。この新しい上昇の時期は民族再興期(ナーロドニー・オブロゼニー národní obrození)と呼ばれる。
再興運動の達成は伝統的に一八四八年とみなされているが、この時点で新しく形成されたブルジョア的民族が政治の分野にまで進出した。したがって、この概念によれば民族再興は二つの相(フェーズ)をもつことになる。つまり言語、文学的相と政治的相である。その分岐点はおよそ三〇年代の半ばであるが、「白山」以後失われたあらゆる失地を本当の意味で回復するのは一九一八年のチェコスロバキア独立共和国の建国以後のことである。
前世紀における民族再興はどちらかといえば、長いあいだある種の奇跡というふうに考えられていた。なぜなら十八世紀の後半期には、市民(ブルジョワ)的学問がまさしく民族の教養度の指標とみなしていたチェコ語の書籍出版(民衆の口承文学は究極的には階級的視点とは無関係だから、文学発展に組み込むことはできない)はほとんど絶滅状態であったから、ブルジョア学問にとっては書物の出版との関連においてチェコ民族の連帯意識も絶滅していたように見えた。だから再興運動は「民族の蘇生」と性格づけられ、また再興運動の推進者たちは kYisitel (クジシテル=蘇らせる人)と呼ばれた。この方面での注目すべき著作は文学史家アントニーン・リビチュカの『チェコ民族の先駆者たち』である。P&#ední kYisitelé národa
eského (一八八三)
十九世紀の文芸学の若い世代はすでに buditelé(覚醒者)たちのことに触れ、また「白山後」期の暗黒時代を民族の死になぞらえる代わりに、眠りの時代といっている。とくにヤロスラフ・ヴルチェク Jaroslav VlYek に代表される実証主義的文学史は今日の定義「民族再興」(ナーロドニー・オブロゼニー)を定着させたが、ヨーロッパ的啓蒙主義の理念の影響の結果として、その過程を観念的に解釈している。同様にわが国の再興運動の説明として、その根源をフス主義運動、および、白山の戦いの後、強圧的に中断された革命運動にまで結びつけようとするのもまた観念的である。
唯物論的な再興運動の解釈は、啓蒙思想の影響もまた国内の改革伝統の再現の意義も否定しない、むしろ、もっと深いところに再興運動プロセスの新の原因を見出そうとする。啓蒙思想の受け入れと改革伝統の再生を可能とした社会条件のなかに深く求めようとする。したがって十八世紀七〇年代以後形成されたような社会的発展が最も重要なものとして前提される。再興の客観的条件は封建主義の崩壊によって形成された。そして社会発展の視点から見れば再興は新しいチェコの、すなわち、資本主義国家の形成と密接に結びついている。
西ヨーロッパにおけるこのような封建主義の崩壊はフランスのブルジョワ大革命という最も極端な形態にいたった。わが国について言えば新しい社会関係はヨゼフU(一七八〇―一七九〇)の改革によって促されたといえるが、その目的は資本主義的社会構造の形成過程において生じてきた障害を排除することにあった。それゆえにヨゼフは福音書派の信仰を寛恕するという特許令を発布し(これによって労働力が海外に逃亡する原因を取り除いた)、また、労働力を必要とする産業の発達しつつあった都市へ、地方からの労働力の流入を可能とするところの、土地への人間の拘束を解いた。(とはいえ、当時の産業は依然として手工業の形態であった)
ヨゼフの改革の目的は目下のところでは支配階級の力の排除ではなく、単に新しい生産力の発展にブレーキをかけないためのものであった。ヨゼフUの没後、確かに反動の時代が起こった(それはむしろ支配階級がフランス革命におののいていたことによる)が、しかし世の趨勢はもはやとめることができなかった。専制体制のもとではドイツ・ブルジョアジーが有利な地位を得ていたのは党是である。そして、そのことは学校制度のゲルマン化もまた大いに力を貸すことになった。発生しつつあったチェコ・ブルジョアジーはドイツ市民階級にくらべて、経済的にははるかに弱体であったから(チェコ・ブルジョアジーを形成していたのは零細な市民層であり、主に職人たちであった)、独力で自分たちの地位を守ることはできず、当時、国家的連帯の核になっていた地方の人々に依存せざるをえなかった。 そのほかにも――地方から上動力を吸収した結果として――都市におけるチェコ的活力が強化されたこともまた、チェコ・ブルジョアジーを助けることとなった。
このことはチェコの民族運動と全再興期文学の性格を民主的に作り上げることとなった。なぜなら、民衆の利害と階級的に形成されつつあった市民階級の利害とが本質的に一致していたからである。したがって、文化生活にとって何よりも重要なことは、、生起しつつあったチェコ・ブルジョアジーが文化的よりどころとしうるところの、注目すべき口承文学を十八世紀の地方の民衆が作り上げたということである。そのほかにも若いブルジョアジーは一方において古いチェコ文学に、他方ではスラヴ的思想に依拠していた。なぜなら、それによって一方では民族的誇りを増大させたし、他方では大スラヴ全体の一員としての意識に目覚めたからである。
啓蒙主義の理念は間接的にエズイット的秩序の破壊(一七七三年)とチェコ王国科学協会 Královská
eská spole
nost nauk の設立を支援した。その設立は一七七四年であり、その後継者が今日のチェコスロバキア科学アカデミー eskoslovenská akademia v である。封建体制に刻まれた亀裂はまたラテン語文章の圧殺をも意味した。ラテン語に代わってドイツ語が学術用語として用いられるようになった。このことは死せる国際語であるラテン語が、生ける民族の言語にとって変えられたという意味ではひとつの進歩ではあったが、同時にそこにはチェコ文化にとって危険もあった。なぜなら、ドイツ語は一世代ないし二世代のあいだ、チェコの教養人の書き言葉になったからである。
わが国の再興期の第一の位相においては二世代が対応している。すなわち、ドブロフスキーとユングマンという二人の主要人物がこれに相当する。ドブロフスキーの世代は防衛的特性をもち、ユングマンの世代は攻撃的性格を有している。アロイス・イラーセクは再興期の初期をロマン・クロニカ『F・L・Vk (一八九〇―一九〇七)』のなかで描いている。