チェコ文学史

  (7) ヨゼフ・ ユングマン Josef Jungmann



 すでに述べたように、この過程における主導的地位を占めるのはユングマンである。彼が新しい社会的、文化的状況に対応すべく、ドブロフスキーとはことなった未知を歩んだことはすでに指摘した。ユングマンは本来チェコ語の発展の可能性にかんする見解においても、チェコ文化への感情的アプローチにおいても、そのかぎりではドブロフスキーとは反対の意見の持主であった。そのことは次に掲げる彼の著述からの二つの断片が明確に物語っている。彼はチェコ語を次のように性格づけている。

<チェコ語は>民族の天上に輝く一等星のような素材と時代とによって豊かな弾力のある、やわらかな、それでいて力づよく、高尚で、快い響きを持った言語である。あらゆる散文、詩的作品にも最高に効果的である。たとえそれが民族のものでなかったとしても、われわれの細心の注目にたいして、その内面的な完全性によって十分応えうるものである。もし、大民族の場合の同様の作品が得るような酬いがわれわれの作品にはないとしても、そのなかにすでに高潔なるチェコ人にとってのある種の実りがある。つまり――チェコ人であるということだ。チェコ語が自分の民族を保護し、幸福にするための何かをしたという、この幸福感のなかにその酬いがあるのだ。

 そして、その数行先には次のようにある。

チェコ人に反感をもつものが、いかにわれわれの言語の欠陥や弱点をあげつらおうとも、また、われわれチェコ語の崇拝者を馬鹿だ気ちがいだと悪しざまに言おうとも、そんなことにだまされはしない。そのすべてはチェコ語を知らぬがゆえに、自分自身の言葉にたいする異常な偏愛のゆえに、それどころか、ときには悪しき理由からさえ起きている。大民族の教育や文学が彼らに寄与するところを、彼らは謙虚、人間性、倫理的善のなかにいかすことは非常にわずかである。われわれは彼らにたいして非難ではなく、現実的に高潔さでもって応えようではないか。
 われわれが大民族の文学をもつことができないならば、彼らが世界をおのれの文学であふれさせたように、われわれは彼らの文学をわれわれの文学で凌駕しよう。われわれは控えめではあるがすばらしい価値ある文学を目指して努力しよう。われわれは外国の名誉や名声にたいしてよりも、よりわれわれが民族の幸福と教育につとめよう。そうすれば民族も国家もわれわれの行為に祝福を贈るだろう。われわれは測り知ることのできない過程をもつ神の摂理がわれわれを、まさに、この土地に、われわれの気配りを最も必要とするこの民族に定着させたことを考えようではないか。われわれは文学において流れ去るモードに気をとられることなく、不変の成果に目を向けよう。また市場的、利潤追求の投機的工場となった南方民族の文学の退廃にも気をつけなければならない。われわれはつましい祖国から受ける、つましい報酬で満足しよう。われわれは「いかに多く」ではなく。「いかによいものを」に気をくばりつつ、自分のためにではなく祖国のために働こう!

 ユングマンは一七七三年、フドリツェ・ウ・ベロウナに家主の息子として生まれた。プラハでギムナジウムを卒業し、哲学と法律をおさめ、その後――しかるべき試験に合格ののち――リトムニェジツェのギムナジウムの教師となった。彼は自分の生徒や、その土地の聖職者にも個人的にチェコ語を教授することによって、彼らのチェコ国民性を強化した。一八一五年にプラハの旧街区のギムナジウムに移り、一八四七年に亡くなるまでそこですごした。彼はすでに生前から広く名を知られるにいたった。
ユングマンは彼の世代の文化的努力をすでに世紀のはじめに二編の論文『チェコ語についての話』(一八〇六年、ネエドリーの「フラサテリ誌」Hlasateli 布告者 に掲載)で表明している。ここでユングマンは民族的努力の推進者と反対論者とのあいだの対話の形式で民族についての身分の観念を根拠づけている。民族の主要な特質を言語のなかに見る。チェコの土地に住むもののだれもがチェコ人ではなく、そのなかのチェコ語を話す者のみがチェコ人である。これによってユングマンは祖国と言うものを領土的にとらえていた啓蒙主義的愛国心と対立する立場にたち、それと同時に、人民階級に重点を置いた。スラヴ民族と言う意識にも支えられた、このような解釈による愛国心は単に自己目的的ではなく、人民主権達成への手段である。そのためには何よりもチェコ語によって培われた学問が仕えなければならない。そして広い階層の文化的鼓舞と彼らの生活の改善に寄与することのできる学問でなければならない。それゆえにユングマンは先にあげた刊行物『クロク』(Krok 歩み)の創刊にも尽力したのである。
ユングマンはまた彼自身の詩人的活動によって文学的発展のうえで貢献した。彼は外国の詩人の作品を翻訳する異常なまでのさいのうを有していたから、おそらく、彼の最も重要なものは翻訳家としての活動かもしれない。ユングマンはまさにその翻訳によってチェコ語にも世界的文学のきわめて深遠な思想を表現する能力のあることを証明したのである。彼は古典作家ポープからグレイなどのような感傷的詩人たちをふくむ小品の翻訳を英語から、ドイツ語(ゲーテ、シラー、ヘルデル、ビュルゲル、クロップシュトック)から、またロシア語(カラムジン)からもしたが、最も大きな影響を与えたのは、新チェコ語による本格的な散文の試みとしてすでに紹介した、シャトーブリアンの小説『アタラ』(一八〇五)の翻訳と、ミルトンの『失楽園』の翻訳(一八一一年、しかし翻訳に着手したのは一八〇〇年)であった。人間の原家族の堕落についての叙事詩は明らかにそれのもつ情念によってユングマンをとらえた。そしてチェコの読者にこの世界的に偉大な作品を与えようという努力が彼を導いたに相違ない。この翻訳はチェコ語の詩的言語のその後の発展にかぎりなく大きな意義をもった。今日、われわれはそのなかに翻訳文学の金字塔を見る思いさえする。実例としてほんの少し楽園を描写する第四の詩から数行を引用しよう。(訳は省略)


失楽園siturakuen

 晩年になってユングマンはなおもゲーテの田園詩『ヘルマンとドロテア』(一八四一)の翻訳を出版した。『イゴロフ連隊の詩』 Slovo o pluku Ugorov は手稿のままのこった。――ユングマンのオリジナルの詩(ほとんど無数といえる)のなかで、文学発展の過程のうえで重要なものは二編の最初のチェコ語によるソネットと恋愛物語(ロマンツェ)『オルジフとボジェナ』 OldYich a BoYena である。
ユングマンの翻訳は哲学的な正確さを追及しているので、言語的に困難な問題を解決しなければならなかった。とくに、当時のチェコ語の語彙の不足をなんとかしなければならなかったのである。言葉を増やすと言う問題をユングマンは、第一に、忘れられた古代チェコ語を蘇らせること、次に、他のスラヴ語からの移入、そしてさらに新語の想像によって解決した。新語の製作者としては成功したほうだった。なぜなら、彼は新語を言語の精神にもとづいて作ったからであり、その他にも――後白山期の「純血主義者」 purista とはことなり――彼にはすでに土台となすべき文学作品があったからである。
これらの努力にもかかわらず、ただ新しい概念を表現する言葉の不足と、詩言語の同義語の問題だけはうまくいかなかった。こうして作り出されたのが、たとえば、chmura、 linouti se、ohon、ohromný、 úsvit などの言葉であり、いくつかの言葉はロシア語から取り入れた。たとえば、blahý、bol、dva、dolina、chlum、luh、plod、rov、&#353ííje などである。
 ユングマンの「専門的労作」のなかでは、彼の三つの膨大な作品『文学』 Slovesnost 、『チェコ文学史』 Historie literatury eské 、『チェコ―独辞典』 Slovník  esko-nmecký のすべてがチェコ文学の発展に寄与した。――『文学』(一八二〇)はとくに、教科書として学校の要求に応えた。ユングマンはこの書をチェコ語が教科科目として取り入れられたとき(それまではチェコ語は教育される言葉ではなかった)に書いた。
 それは読本といっしょになった文学の理路pん所であった。そしてフスの時代から同時代までのチェコ文学の実例を紹介することによって、チェコ文学作品の豊富さを現実に示して見せたのである。この面において、より大きな重要性をもつのが膨大な『チェコ文学史』(一八二五)の著作である。この労作はドブロフスキーの古い歴史に依拠しているが、そのコンセプトにおいて異なっている。核になっているのは knihopis 、つまり最も古い時代からユングマンの時代にいたるまでの知られるかぎりのチェコ文学記念碑の一覧表である。
 素材はいくつかの部門に分類されており、その最初の部分にはその時代の教育の状態、および、文学作品にかんする総括的な論文が掲げられている。記念碑的労作は『チェコ―独辞典』であり、大判五巻の形で一八三四―一八三九年の期間に出版された。多くの文献とともに正字的言語の豊富な単語を四千六百八十九頁に集約し、今日でも再興期のチェコ語を知るための最良の原典であり、しばしば古代チェコ語の読書に際しても役立っている。この作品は当時のチェコの学問の誇りであり、この作品が実現したのも、ひとえにユングマンが一連の献身的協力者を得たこと、この作品が世に出るためには彼自身が相当の財政的犠牲を払ったことによるものである。
 遺作のなかからユングマンの備忘録が出版された。それはきわめて興味あるものだがとくにそのなかでユングマンがミルトンの宗教的叙事詩を翻訳していながら、虚心淡懐にヴォルテールの崇拝者であることを告自していることである。



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