(9) フランティシェク・パラーツキーとパヴェル・ヨゼフ・シャファジーク
「チェ1コ文学史」において関心をわが国の過去の文化に向けたのがユングマンであるとするならぱ、その政治的過去に目を向けたのがフランティシェク・バラツキー Frantisek Palácký である。彼は1798年にホトスラヴィツェ・ナ・モラヴィエに福音伝導派学校の教師の息子として生れた。思想的にはトレンチーナの学生時代に成長を遂げたが、そのことは、とくに、ブラチスラヴァのすぐれた高等学校(リセウム)時代について言える。やがて貴族の家庭教師となり、詩作に熱中した。1823年、プラハに出て、そこでドプロフスキーの指導のもとに、歴史の勉学に打ち込み、佳涯をその歴史研究に捧げた。緒婚によって生活の安定を得ると、彼は急速に文化的活動の主導的組織者となった、そして1876年、世に広く知られ、尊敬された「民族の父」として死んだ。
パラツキー一は歴史家として『古代チェコ史の記録者たち』StaYí letopisové
eští (一八二九年、14-16世紀、とくにフス主義時代の出来事を記録した年代記の叢書)の編集と評論的著作『古代チェコ歴史家たちへの評価』Wurdigung der alten bomischen Geschichtsschreiber (一八三〇) によって再興期の運動にかかわった。これによって彼のライフワーク『チェコ民族の歴史』Dějiny
eského národu への土壌を準備した。彼はこれを一八三六年にドイツ語で発表しはじめ、チェコ語では一八四八年になって出版された、従ってこの作品については、後でもう一度注目することになるだろう。
パラーツキーがわが国の再興運動のためにフス主義の意義を発見し、彼の古代年代記のなかでフスの偉大さを根源的に見直すことによって、わが国の歴史の進歩的伝統を蘇らせた。パラツキーは組織のうえからも民族の生活向上に貢献した。つまり、彼自身の貴族との関係を利用して「愛国的博物館雑誌」の創刊にこぎつけた。彼の名前は「チェコ財団」 Matice
eské およびその支援組織「スヴァトボル協会」や「国民劇場」Národní divadlo の設立とも結びついている。彼はチェコの文化生活のために「知識人協会」と「博物館」の幹事として多くの貢献をしたのである。
パラツキーの意義は国内領域に集中されている。それにたいして彼の友人パヴェル・ヨゼフ・シャファジークは全スラヴ民族の歴史に関心を広げている。そして偉大なドプロフスキーの後継者となった、シャファジークはチェコとスロバキアの両方の文学に同時に属している。彼はチェコ語で書き、長いあいだプラハで活動していたが、常に、出身地スロバキアにたいする帰属意識を表明していた。
彼は一七九五年にコベリアロヴォ(ロズニャヴァの近郊)に福音伝導派の説教師の息子として生れた。彼の成長にとって最も重要なのはイエナにおける大学の勉強だった。もともと彼は神学の勉強に没頭しようと思っていたのだが、やがて言語学、歴史学、哲学へ目を向けた。大学をおえたあと、短期間、家庭教師となったが、一八一九年から十五年間、ノヴェー・サディ(ニトラ近郊〉のセルビア人クのためのギムナジウムの教授となった。一八三三年にはすでに国際的なスラヴ学者として知られており、そのときからプラハでフリーの学者、編集者、検閲官、そして最後には大学図書館の職員、館長になった。
わが国の再興期の学問を代表する作品はシャファジークのドイツ語で書かれた『スラヴ語の歴史とあらゆる方言による文学』 Geschichte der slawischen Sprache unt Literatur nach allen Mundarten (一八二六) である。シャファジークは――その時代の他の再興主義者と同様に――スラヴ民族を一つの氏族と考え、各々のスラヴ語は彼らの方言だと考えていた。したがって、彼はチェコ文学の歴史を全スラヴ民族の文学作品との関連のなかで、チェコ文学の特殊性をわきへ退かすことなしに表現した。それによってチェコ文学は大きな全体の一構成要素となり、それはまた民族的意識を高めることに大いに責献した。チェコ人たちは小民族として意識されることはなくなり、むしろ巨大な「■スラヴ民族」の一員となり自分の努カによってそれを頼りにすることができると感じたのである。
シャファジークのライフワークとなるのは『スラヴの故事』 Slovannské staro~itnosti (一八三六―一八三七)であり、すでにチェコ語で書かれている。この書はスラヴ民族の最古の時代から十世紀の終わり (つまりキリスト教がスラヴ諸国を席巻したとき) までの歴史を取り扱っている。この書の理念的重心はスラヴ民族を価値の低いものとする見方が間違っているということの証明である。それによってスラヴおよぴチェコ文化の蔑視の見直しを迫ったのである。
シャファジーク(彼は一八一四年すでに『スラヴのリラをもったタトラ山のミュ−ズ』 Tatoranská múza s lýrou slovanskou という詩集を出版しており、その後も詩人としての活動をしている〉は最初匿名の著作『チェコ詩法の基礎原理、とくにその韻律法』 Po
tkové
eského básnictví, obzvlaáat prozóie (一八一八)によって詩の発達にも関与している。彼はそれをパラーツキーと協力して作成した。それは元来、再興運動の若い層の文学的意思表示(マニュフェスト)であり、彼らはすでにプフマイエル派の作るようる詩に満足できなくなっていたのである。
六通の手紙の形式で構成されたこの書の著者たちは芸術的要求にたえうる作品を要求し、その創作の過程をドブロフスキー強弱韻律 (prozodie pYízvu
ná)とは対照的に長短韻律(prozódie )
asomrnáの開擶のなかに見た。しかし、長短韻律が唯一の許された形式と考えられたわけではなかったが、一定の広い層を対象に、強弱韻律によって作られた作品と、それに基いて厳しく区別されるべき、しかるぺき作品のための韻律法と考えられたのである。これによりこの小冊子は詩作品の区分に役立ったのである。
レかしながら、この著作が大きな反響を略ぴ起こした(論争をまき起こした)とはいえ実際の詩作においては、この要求はほとんど実現されなかった。長短韻律は理論的にはたしかに勝利を収めたものの (ユングマンでさえそれを支持した)、実作のうえでは長短韻律で書かれた作品はほんのわずかである、たとえぱ、ポラークの『自然礼賛』への序詩、コラールの『娘の栄光』への序詩、チェラコフスキーの数編のエピグラム、そして(おくればせながら)ユングマンの『ヘルマンとドロテア』の翻訳などである。『チェコ詩法の基礎原理』のもつ意義は、主として、チェコ語で書かれた詩のレベルアップヘの努力のプログラム表明ということにある。