(12) チェラコフスキー Frantiaek Ladislav &#268elakovský




 チェラコフスキーはストラコニツェ Strakonice (一七九九年生) の出身で、父は大工だった。彼は学業を途中でやめたのち (チェスカー・ブディエヨヴィツェではフスの説教集を読むことが禁じられていたため、勉学を放棄し、やがてリンツ、さらにプラハヘ移った)数年間プラハで家庭教師として生計をたてた。そして同時にスラヴ学と民衆詩を研究した。後に繍集者となったがロシア皇帝をポーランドにたいする圧迫者だという批判的な指摘をしたたために編集者の地倣をおわれた。結局、一八四一年にヴラティスラフ(ポーランド・ウロツラフ、当時はプロシャ領) 大学のスラヴ学の教授として招かれ、一八四八年にはプラハの大学に移り、一八五二年に死んだ。
 詩人としてのチェラコフスキーは、とくに「反映詩」 poesie ohlasová に天分を示した。「反映詩」とは、ある手本となる詩にたいして密接に結びつき、その詩のもつ理念的また形式的基盤を驚くほど巧みに自分のものとして、創造的方法で自分をそのなかに没入させる。その結果、他人としてあった作品の「構神」のなかでそれ自体まったく独自の作品を作り出したのである。それはある程度ヨーロッパ古典主義が経てきた過程でもあった。ただチェラコフスキーは彼の威熟した創作において古代作品に向かわず民衆詩に没入したのである。彼の処女作品『混ぜあわせた詩集』 Smíaené básn (一八二二) のなかのいくつかの作品がそのことを示している。それは素材的にも形式的にも多様で、強弱格、長短格によって構成された詩を含んでいる。
 チェラコフスキーは民謡の研究を中学校のころからすでにはじめており、そのころのチェコじゅうの各地から集めたのである。民謡の価値にたいする深い関心の結果は三部よりなる『スラヴの民族歌謡』 Slovanské národní písn という詩集として (一八二二―― 一八二七、チェコおよぴスロバキアの歌は原語のまま記され、その他のスラヴ民族の歌は翻訳によって記され、その他のスラヴ民族の歌は翻訳によって)出版された。そして数年後には、格言集『格言の形で示されたスラヴ民族の知恵の言葉』 Mudrsloví národa slovannského ve pYisloví (一八五二) も出版される。
 民謡の研究は (チェラコフスキーの時代には同様のものが他の国、とりわけロシアにおいて見られた) チェラコフスキーをして民謡のもつ高い理想と創造性を確信させ、その「反映」を創造しようという考えに導いた。それは当時のチェコの愛国主義的風潮のなかで大きな反響を呼んだことは疑いない。そしてその努力にたいする協力者を地方の人々のなかに見たのである。チェラコフスキーは練達の芸術家としてその意図を『ロシアの歌の反映』 Ohlas písní rusukých (一八二九) のなかで実現したが、それはロシア民衆詩、とくに、英雄詩に霊感を得たものであった。この本は、トルコにたいするロシアの勝利から受けた強い感動のもとに生れた。チェラコフスキーがどんを気分のなかでこの詩を書いたか、彼の書簡からもうかがうことができる。そのようなわけで、『大きな悲しみの儀式』Velká panychida (ナポレオン戦争時のモスクワの大火についての詩) の手稿を友人のプラネクに送ったとき、なによりも次のように書いている。
「彼ら(ロシア) の勝利を伝える新聞記事のどれもが、私が彼らの一員ででもあるかのように、私の心臓を激しく震えさせる。そしてあの国は力におけると同様に、芸術においても日々充実している。まったくすぱらしい! そしてまさに彼らはわれわれの復讐者であり、復讐者となるであろうし、恐らく、われわれの支持者となるだろう」
 二〇年代末のわが国の愛国者たちのあいでには、一般にこのような気分が支配していたのである。それゆえに、この詩集は大きな啓蒙的かつ政治的な効果を発揮した。なぜならこの詩集はわが国の啓蒙主義者たちが自分たちの努力の支持者として見ていた国を賛美していたからである。
 この詩集のなかでは叙事詩が圧倒的に多い。そしてその主人公となるのは祖国の敵と戦う英雄 (bohat´r) たちである。だが、ここには最近の事件 (ヴェリカー・パニキダ、アレクザンダーの死) の反映があり、ユーモラスな響きをもつ動物の詩 (『大鳥市』Velká ptací trh) や叙情的な詩さえもある。チェラコフスキーが好んだ手法は対句法 Paralelism である。アゾフの牢獄で死を迎えるコザックの死を描写するとき、詩は次のような備景で終わっている。

夜空の星は消え月は濃き雲にかくれるそして雲は雨のなかにただよいてみずからの冷たき涙で地面をぬらす

 しかし次に掲げる詩『審判』Výslechy のなかで盗賊に判決をくだす皇帝に語りかけるところでは社会批判の響きまでが聞こえてくる。

ああ、それは貧しき者を打ちひしぐことではなかったのだ!
わたしはオーク樹の森のなかで馬車を止めて金持ちの商人を襲い
金銀財宝を奪ったことはなかった
生きた人間の頭をはねたこともなかった、
さあ、わたしの希望の星たる大王よ、裁いてくれ
だが、怒りによってではなく――慈悲の心をもって。
わたしの生まれがあんたなら、わたしは善き皇帝になっていた
あんたの生れがわたしなら、あんたは盗賊になっていたのだから



 この詩はマーハの『五月』 Maj の「恐ろしい森の支配者」 "Straaný leso pán を先取りしている。「反響」のこれ以上詳しい分析はやめよう。なぜならこの詩集は今日なお十分読まれているし、一般に知られている。そのなかの詩はしぱしぱ記憧に呼ぴ戻されているからである。言語的側面から見るとチェラコフスキーは叙事詩においては発展的比輸と典型的属性をもったロシア英雄詩の無韻詩を模倣している。いくつかのロシアふう語法 (例えぱ"a1e" の代わりに"a"を用いる) は色彩を豊かにさえしている。
 チェラコフスキーの第二の反映詩集『チェコの歌の反映』0hlas písní  eslých はまた別の特質をもっている(一八三九年刊、しかし引用した詩は一八三〇1830年にある雑誌で公にされていた)。ここでは全く叙情詩が優位を保っている。主に恋愛詩だが、しぱしぱ、ざれ歌や風刺詩もあらわれる。
 叙事的作品のなかで最も重要なのはバラードで『トマンと森の乙女』 Toman a lesní panna と歴史物の『禿げのプロコプ』 Holý Prokop である、この二つの「反映」の性格の違いは、チェコとロシアの民謡の研究にもとづいている。チェラコフスキー自身は「ロシアとチェコの歌はスラヴ民族そのものの国民詩の二つの対極、ないしは両極端にあるものと考えられる。つまりロシアのものが最も多く叙事的であるとすれぱ、わが国のものは抒情詩的性格であるという点に主に自己の土台を置いている」。チェコ民謡の典型的な特徴を「気紛れ」 Prchavost、「遊び心」 hravost と考えている。
 真実、民衆の精神のなかから詩を作るというチェラコフスキーの芸術については『チェコ民謡の反映』のなかのいくつかの詩が国民のものとなりきっているという事実がそのことを十分証明している。実例として『巡礼者』 Pocestný という詩を挙げることができる。(その詩は“そは世界を通りすぎる足並――足はゆっくりと通りゆく、一連の山を過ぎれぱ、たちまち次の山にさしかかる”という言葉で始まっている)、あるいは『ジプシーの小笛』Cikánova píat'alka でもいい。小さな笛を吹いてゴキブリ(ドイツ人)を呼ぴ出すジプシーにかんする結末の一節はまさにドイツ人へのあてつけと読みとれる。

もし、おまえがその小笛をわたしらに
せめて、残していてくれたらよかったのに!
わたしらは、今、悲惨な体活をかこっている
本当なら、チェコでもまたモラヴァでも
王者のように
よい暮らしができていただろうに<わたしらにその窟があったら>。


 この一節のなかには古代チェコの『アレクサンドレイダ』のころからすでにわが国の文学のなかに浸透していたモチ一フが再現されている。「巡礼者」にかんする詩のなかには、ここにもまた人間は誰もが最後には墓場で顔をあわせるのだという人間の平等を末尾の一節がはのめかせている。

それにしても――われらが遍歴をおわったときはおなじ酒場、おなじ宿屋で貴人も平民も…緒に落ちあうのだ。

 チェラコフスキーの『反映詩の意義は新しい詩の形態のなかにも見る必要がある。ドプロフスキーの原則に忠実に作られた詩が恐れることは、要するに強拍節と弱拍節の不変化、機械的交替から生じる単調さであった。この間題にはすでに「ポチャートキ」のチェコの詩人たちが遭遇した問題であり、この詩法の危険性はコラールがソネットのなかで無意識のうちに暴露していたものである。
 長短格が突破 prolom になるはずだったが、実際にはほとんど受け入れられなかった。しかし、その解決は『写本』の詩と、とりわけチェラコフスキーの『反映』の詩によってもたらされた。そなかの詩は機械的に理解された強弱格詩法からはみだし、言葉のアクセントの配列はもはやワンパターンではなく、また音節の数さえも厳格には守られていなかった。それを可能としたのは『写本』があたかも古代スラヴの文学ででもあるかのように思いこまれた作品の権威によるものだったし、チェラコフスキーは民謡というものの権威によりかかっていた。書うならぱドブロフスキーの権威とは異なり、生きた作品の権威が打ち立てられていたからである。
 詩法の次の発展にたいしては、偽物の古代チェコの『写本』よりも、むしろチェラコフスキーがより大きな影饗を与えただろうことは想像に難くない、ここでは当然のことながら、彼の詩的天分もまた重要な役割を演じた。チェラコフスキーがプフマイェルの詩作法 poetika の単調さを克服しつつも、その詩が旋律性 melodi nost を失わなかったというのは、まさにそのゆえである。チェラコフスキーは彼自身の作品によって民衆の作品がわが国の詩法にとっても健全なる源泉であることを示した。
 チェラコフスキーの歌の民族化は、それらの歌を愛国者たちの団休がその親睦的会合(dýchánek) において団体の愛唱歌の一部として歌い合ったということともあいまって、根づよく支持された。
 この種の娯楽の発展にはチェラコフスキーのチェスケー・プジェヨヴィツェ時代の級友ヨゼフ・クラソスラフ・フメレンスキー(一八〇〇― 一八三九)が大いに尽力した。彼は文学およぴ音楽の批評家であり、わが国最初のオペラ台本 (『鋳掛屋』Dráteník 一八二六、Fr. Skroup の音楽) の作者であった。このような状況のもとでチェラコフスキーの反映詩には多くの模倣者があらわれた。その結果、彼のエピゴーネンの大グループが出来たほどである。彼らの歌はその当時は大いに人氣を博したものだが(多分、今日のポップミュージックのようなものであろう)、しかし急逮にすたれた。何よりもその欠陥は、田舎の人々の抒情歌の機械的模倣は市民的雰囲気のなかに都市の生活者には無縁なモチーフや状況を持ち込んだということ、だからそれゆえに、エビゴーネンの手になるとそれはいくつかの数すくない圭題の焼き直しという純然たる形式主義に陥ったということであった。それゆえ、後になってハヴリーチェクもまたある種のエピゴーネンたちを嘲笑したのである。それというのも、彼は民衆小歌をもとにして現実的な政治的表現という新しいタイプを自分の作品のなかで作り出すことに成功したからである。高踏的な作品のなかには、民衆叙事詩にもとづいたチェラコフスキーの作品遺産をあくせくと機械的にいじくりまわしたものよりは、実りがあることを証明したものもある。それを実現したのが後の時代のK・J・エルベンであり、彼はチェラコフスキーの発想を徹底的に思索し、新しいい基盤の上にそれを発展させたのである。エルペンとチェラコフスキーとのあいだの橋わたしをしたのはヨゼフ・ヤロスラフ・ランガーである。
 彼のことを取り上げるまえに、なお一言、チェラコフスキーの詩人としてのその他の活動について触れる必要がある、このことはすでに別の事項、つまり四〇年代の問題と『百花弁のバラ』 Ro~e stolistá (一八四〇)という詩集によって緒ぴつくのである。 それは同形式(三節の四行詩)による百編からなる二部構成の連作詩(チクルス)である。この詩集のもとになったのは、後にチェラコフスキーの伴侶となる人物に1831年に捧げられた恋愛詩のチクルス『忘れな草』Pomnnky vatavské であった。しかし、この詩集には教訓性があふれている。チェラコフスキーのエピグラムははつらつと生気をもち、とくに長短格のチクルス『花ぱな』 Kv&iacte;tí がそうである。文学的風刺は散文によって育まれている。『クルコノシュの文学』 Literatura krkonoaská (一八二四)と『無名作家の注目すべき記述』Patrní dopisové nepatrných osob (一八三〇) はこのほうに属する。







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