(13)ロマン主義への過程



 ヨゼフ・ヤロスラフ・ランゲル JosefJaroslav Langer は (上記のように) 民衆叙事詩に創造的に結ぴつこうと努力したという意味でチェラコフスキーと多くの共通点がある。しかしながら、文学発展の見地からより重要なことは、愛の情熱と悶えを表現したわが国で最初の詩人であることであり、それによって、わが国のロマン主義の代表者の一人に数えられておるのである。
 ランゲルは生活破綻者であった。ボフダネッチュ Bohdane の出身 (一八〇六年生で、学生時代、二〇年代の半ぱにはプラハで非常に文化的、かつ活動的であったが、学業を中断し、一八三三年には(何かはっきりしない理由から、おそらく個人的なぱかりでなく、政治的理由もあったのだろうが) プラハを去り、短い残りの人生を故郷で酒ぴたりのなかにおくった(一八四六年没)。 彼は生前、田園詩 (Selanky〕によって知られ、また風刺詩人として(『写本』のパロディー『ボフダネッチュ写本』Bohdanecký rukopis) も、「チェホスラヴォ」 echoslavo の編集長としても知られていた。 ランゲルの最高の作品は『チェスケー・クラコヴァーチュキ』 eské Kraková ky で特に、彼の愛の煩悶を反映している(一八三五)。
 おなじような空しい恋の悲劇的体験を表現したのはボレスラフ・ヤプロンスキー Boleslav Jablonský (本名はカレル・トゥピー Karel Tupý 一八一三― 一八八一)で、『愛の歌』Písn milosti というチクルスがある。この詩は作品のなかで「アンゲリナ・マリエ」と呼ぱれている少女との愛情関係の苦しい思い出から修道院への隠遁のなかから生まれた。しかし生前、彼は教訓詩の作者(チクルス『父の賢明』Moudrost otcovská)として評価されていた。





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