(14) カレル・ヒネク・マーハ Karel Hynek Mácha (一八一〇 ― 一八三六)



Macha

 恋愛感惰の荒々しさ、夢と理想の矛盾、総対への願望、過ぎゆく人生への嘆き、これらのヨーロッパ・ロマン主義の主要モティーフのすべてをもっともよく表現したのが、ヨーロッパ的水準に達していた天才、カレル・ヒネク・マーハであり、彼によってわが国の文学はこの時代のヨーロッパ文学の努力の同等のパ・一トナーとしての地位を得たのせある。
マーハの作品は今日でも霊感の源泉であり、常に読まれ、引用され、かつあまた様々に解釈されている。彼の中核となるものは三〇年代に発展していた社会にたいする個人の関係である。この時期は、一方ではヨーロッパの革命的騒擾と、他方、国内の反動勢力によるひどい圧迫に満たされていた。
 マーハは一八一〇年にプラハで生まれた。父親は落ちぷれた粉屋の老人で、二〇年代の半ぱに現在のカルロヴォ・ナームニェスティーに穀物店を開いた。カレル・ヒネク・マーハは彼のもっとも実りゆたかな年月をここで送った。哲学と法律の学業をおえたのち、リトムニェジツェで弁護士の見習となったが、間もなく物質的また精神的困苦により衰弱しこの地で死んだ (一八三六年十一月六日)。
 このような宿命は一八一一年の恐慌や、その後のナアポレオン戦争の絡果がもたらしたような経済不況と必死に戦うチェコの零細なプルジョアジーの息子たちにとって、多くの面で典型的だったのである。それはともかく、われわれはマーハの個性とその作品を十分理解するために、彼の生涯と成長にたいしてつぷさに目を向け、上記の無昧乾燥なデータにのみ満足してはならない。
 重要な点は、彼が人生の最初の幼年時代を貧しいスヴァトベットルスカー地区で過ごしたということであろう (一八二六年まで)。そのことは彼のなかに払拭しきれない痕跡を残しただろう。ギムナジウム時代にすでに詩作を試みている。だがそれはドイツ語によってであった。チェコ語で創作をはじめたのは、明らかに哲学部に学んでいたときのユングマンの影響である。
 彼の処女詩集 (『聖イヴァン』 Sv. Ivan) は一八三一年に出版された。この時代に、彼はすでにチェコの愛固圭義運動に熱心に参加しており、特にチェコ演劇の止演にはアマチュア俳優として参加していた。公の事件 (メッテルニヒ時代の弾圧のほかに、それを背景として越こった) のなかで、マーハに大きな影響を与えたものは、一八三〇年からヨーロッパじゅうを席巻していた革命事件であり、なかでもポーランドにおける蜂起の挫折であった。
 それは彼の人生にたいする、また、芸術にたいする態度にも反映した。もしユングマン世代の人生の理想が楽天主義と調和への希求によって得られていたのだとしたら、また、ロマン主義以前のものたちが自己の夢を信じ、そのために努力していたのだとしたら、マーハは自分の人生の理想を三〇年代の現実に投影した。彼は、反動政府の排除を目指した革命の運動が他の国民の運命のなかで効果を発揮しはじめたというのに、わが国のプルジョア階級には、このような戦いを支持しうるだけの十分な力とそのための現実的可能性もないという悲しい現実を痛々しく体験したのだった。一方においては革命的変革への願望と、他方ではそれを実現する可能性のなさ、この現実こそマーハが体験した重要な矛盾であった。
 現に今ある状況のなかで淡い希望によって自らを慰めることもできたかもしれない。だが、現実をはっきり見つめることもできた。そのためには真実を見る大きな勇気と情熟が必要なのは当然であり、その結果が、夢と理想とのあいだの矛盾によってもたらされる重大なな内面的危機となってあらわれたのである。
 この気分をマーハの読書までが助長した、マーハは外国文学に非常に興昧をもったが、そのことを彼のノートから知ることができる。特にポー一ランド、ドイツ、イギリスのロマン主義者たちを研究した。そして多くの哲学書も読んだ。過去にたいするロマン主義的崇拝の気持ちから、古い城や館を訪ね、そこで過去と現在との相克をも体験した。彼はまた同様に未開の自然にもひかれた (彼はクルコノシュを二度も徒歩で訪ね、アルプスを越えて北イタリアにまで足をのぱしている)。
 これらのすべては彼の内面生活に強い印象を刻みつけた。彼にとって重要な個人的体験となったのはプラハの製本業者の娘で素人芝屠の仲間として知り合ったエレオノラ・ショムコヴァー Eleonora &#352omková (lori) にたいする激しい恋であった。彼は彼女との関係を拷間の苦しみのように体験していた。そしてその関係のなかに絶対的価値観への憧景と世俗性とのあいだの矛盾を投影させた。つまり、ロリヘの関係はまさに理想と現実の克服しがたい隔たりのゆえに、悲劇と醜悪のいり混じった様相を呈しはじめた。ロリが妊娠したとき、マーハは欲望と嫉妬との間をよろめきながら――取り急ぎ学業を終える。が、結婚のの直前に死んだ。
 著作家(スピソヴァテル)としてのマーハは近代的歴史ロマン(断片『ヴァーツラフ四世時代の首斬り役人』 Kat z doby Václav W)、現代小説 (『マリンカ』Marinka)、抒情的散文 (『クルコノシュ山の巡礼』 Krkonoask&aacut; pout') の揺藍期に位置する。彼はロマン主義的ロマン『ジプシーたち』Cikáni および一連の抒情詩の作者であり、彼の最後作品、抒情的叙事詩『マーイ』(五月、Máj) において頂点に達している。この作品は自分の出版社一八三六年に出版された。
 マーハの文学的仕事のすぺてを結びあわせているのは、仮象 zdání と現実とのあいだに顕現する対立である。「真理の意恩」(シャルダ) が彼をして生と死、信と不信、永遠の生命への希求と生者必滅の意識との間の矛盾をあからさまにするほうへと向かわせたのである。それゆえ、彼は社会被差別者たち (ジプシー、貧民区ナ・フランティシュク・フ・マリンツェの住民たち、首斬り役人) に共感する、そして「森の恐ろしき主」ヴィレームは彼自身の象徴とさえなったのである。
 まやかしの眼鏡をかけることなく現実を見つめる勇気によって、後の、現実社会のリアリスティックな表現にたいする前提を築いたのである。そして、六〇年代の文学もまた。その意味において、その傾向に賛同したのである。しかしながら同時代のチェコの読者は彼の作品に理解を示さなかった。彼はもはや古い世代に属する者たらと無縁だった。それというのも、彼らの標榜するものは調和の理想であったから、絶えず矛盾を暴きだしていく彼の姿勢は彼らの理解を越えたものだったのだ。それぱかりかティルのように、マーハの「混沌」 rozevranost を自分の民族的努力のプログラムに取り込むことのできなかった者にとってもマーハは無縁の存在だった。
 なによりもマーハのロマンチックな主人公たちは、同時代者たちにとって全く理解不能のものであった。彼らは、現実にたいするマーハの本質的に分析的なアプローチや社会からの孤立的態度を容認することができなかった。それというのも、社会にたいする個人の間題を、古い世代とはまったく逆に、ひどく差し迫ったものとして提示することになったのは、まさにこの社会的孤立のゆえだったからである。マーハは社会と個人との関係の間題を個人の幸福において、つまり客観的な生活の現実と折り合うことのできない人間の内面生活の容認として解決する。これは三〇年代には (それどこそ) か、もっとあとになっても) 理解しえない、新しい要素であった。個人の独立――封建圭義から解放されつつあったプルジョア社会にとっては典型的な――被差別者への同情、作者自身の象徴であるヴィレームという『マーイ』の人物、これらのすぺてが時代の総合化風潮と相容れぬものに見え、また非チェコ的、反社会的なものに見えたのである。
 同時代者たちは。また、マーハの祖国にたいする関係も理解できなかった。なぜなら、彼の愛国心は、コラール的な意昧での協調的力としては働かなかったからである。マーハは、たしかに、愛国的運動には積極的に参加した (例えぱ、スタヴォフスケー劇場でのチェコ語による上演や、アマチュアのカイエタン劇場においてさえも俳優として参加した)、そしてその愛国心をチュコ語で書き、吐露したのである。
 しかし、この点において彼の同時代者ティルと区別されるのだが――彼の志向はあまりにも先へ進みすぎていたのだ。マーハは祖国の偉大なる過去を意識し (祖国にたいする関係を表現するとき悲劇的音調を帯ぴた) その新しい栄光を渇望した。しかし楽天的祖国愛が唯一最終の目的ではなかった。彼は同時代の全ヨーロッバ文化を抱擁しようと努力した。彼にとってできるかぎり、そして、またそのなかに自分を位置づけようとした、それと同時に、コラールの楽天主義が無意識のうちに秘めていた同時代社会の不協和音をもはっきり聞きとっていたのである。
 彼は幻想を見通して同時代の愛国者たちの社会が見いだしたと思い込んでいるよりも、さらに深いところに人間生活の真実と意義を探ろうと努力した。彼の「真実への意思」は同時代の風潮を前提としてはいなかった。そして多くの浸潤していた空想をえぐり出したのである。時代の現実は彼を理解することができなかった (少なくとも公の立場からは)。しかし次の世代はマーヨフツェ(マーイ派)の言葉によって運動綱領として彼に賛同し、彼の正しさを認めたのである。
 マーハの世界観と彼の詩芸術を最も特徴的に示しているのは『夜』Noc という詩である。

暗き夜よ! 清澄なる夜よ!
おまえたちは、わたしを悩ませる。
暗き夜は、深みの底へ、わたしを落としめ
清澄なる夜は、空の高みへ、わたしをいざなう、
暗き深みを、わたしは恐れる
ああ! なのに、明りへいたるをえず。
おまえたち、輝ける星たち、天の高みなる星ぼしよ
おまえたちにお願いしたい、この帝国のあそこに光がともることを
ああ、あの土地こそ、わが祖国!
わたしは人間。人間が死ぬとき
大地はふたたびわたしを自らの胎内に受け入れ
しっかりと抱き、そして別の人間の姿に変える。
わが母、大地は、ふたたび、わたしを送りだす!
輝ける星たち、天の高みなる星ぼしよ!
わたしはおまえたちに、王国を照らす明りを望むだろう
ああ、そして、それこそがわたしの祖国となるだろう!
もし、わたしが花に生れかわったら
わたしの葉も、わたしの花弁も、光のほうを向くだろう
しかし、ああ、その祖国が、闇までが、わたしを捕える
光は影に隠れることはできない!
おまえたち、輝ける星たち――おまえたち、天の高みの星ぼしよ!――

 星は現実化できない詩人の理想の象徴である。彼自身の象徴は前にも言ったように、『マーイ』の盗賊ヴィレームである。この詩は死 (ヴィレームの処刑。彼は恋人の誘惑者の姿をした父親をそうとは知らずに殺した) と五月の自然との対句法<パラレリズム>にもとづいて作られており、処刑がおこなわれるところではメタファーの美しい連鎖によりそしてヴィレームがマーハ自身の象徴であることが明らかにされるところでは、そのメタファーは形を変えながら繰り返される。

はるかなる暗き山なみに、最後の炎がきらめき
その深きしじまに、月の明りが照り
銀色の頭の、青白い顔
水際にそびえる静かなる丘をも輝かせる
町は青空に浮かぶ白い霧のように、遠くにあり、
その町のむこうの村に、死者のまなざしは注がれる
幼年を過ごしたあの村に――おお、うるわしき――うるわしき年月よ!
歳月は、あの時、この時の怒りを遠くへ運び去り
はかなく消えた彼の夢までも、遠くへ運んでいった。
水に膝までつけた町なみの影をも
それは、まるで死者たちの最後の思いのように
また、その死者たちの名前のように、原始の戦いの雄叫びのように
はるかな、北方の炎、それとともに消えた光
こわれたハープの響き、切れた弦の音
過ぎ去った年月の営為、死に絶えた星の輝き
消え去った鬼火の巡礼、死んだ恋人の感情
無縁仏の墓、傾いた永遠のすみか
消えた火の煙、溶かされた鐘の音
それこそ、死せるものたちの美しい幼年時代だ。

 マーハの哲学は唯物論的である。それゆえ、地上の具休的な美にたいして相当の意昧を有してる。『マーイ』の全編を貫く自然描写は説得力をもっている。マーハは唯一の現実として大地を愛した。例えぱ『マーイ』の第三の歌からの数行を比較するがいい。そこで被告は人生に別れを告げ、ただよう雲に語りかける。

雲よ、おまえは果てしなくただよい
神秘なる腕のごとくに大地を抱く
星たちよ、おまえたちは溶解したる、天の青さの影
悲しむもの、おまえたちは己が身を嘆き
静寂のまにまに、涙で頬をぬらす
わたしは、あちゆるもののなかより、おまえを使者として選んだ
長くはるけき旅路を、さまよい行く先にも
また、旅路の果てを見いだすところにも
その遍歴の場所場所で、大地によろしくと伝えてくれ。
ああ、うるわしき大地、いとしき大地に
わが揺藍にしてわが墓所、わが母に
ただ一つの祖国、しかして、それを遺塵としてわたしに与えられた
広大なるこの土地に、唯一無二なるこの大地に!

 驚嘆すぺきはマーハの想像性と彼の言葉の暗示性である。真実、それは人をとらえ、ある気分を呼ぴおこす。彼のメタファーはなにか夢想的であるし(それゆえに、後のシュールレアリストたちはマーハを彼らの先駆者と呼んでいた)、彼の詩的イメージは驚くほど豊かで、同時にに具体的である。そのイメージはしぱしぱ相反する想念をも結合し (大地に揺藍であると同時に纂場である)、そして慣例的な想像や概念のヒエラルキーを転換する (例えぱ、普通の「五月の夜」 májový という言い方の代わりに「夜の五月」ve rní máj とする)、そしてそれによって最もありふれた現実に何か魔法の光が当たったように感じさせるのだ。彼の言語表現は非常に音楽的であり、類似する響きをもつ言葉の積み重ねを好み (lha1 1ásky ~el)、韻のなかに対称的意昧の書葉を配置する(zrak ― zrak)。詩のリズムも新しい要素を加えている。 マーハは支配的であった強弱格(trochej) にたいして、三〇年代まで真の意味でチェコ語には存在しなかった詩の上向性 (vzestupnost) を明らかにサジェストする弱強格を創造したのだった。そのことを彼は次のようなことで達成した。つまり詩行の末尾と中間に単音節の語を置き、その語に表出(sdlení)の重点をおいた。従って、詩行あるいは詩の半行の他の語はリズム的にバランスを失していまうことになる。(『マーイ』から最初の引用部を比較してみよう、例えぱ"vyhasla ohn kouYslitého zvonu hlas" である。さらに付言しておくと、"vyhasla" の格であるが、これは肯代形容詞の名詞形の第二格である、従って、これは"vyhaslého" の意昧になる)。
 マーハは抒情的散文の作者でもある。そのちょっとした実例として、彼の『ジプシーイたち』から最初の一節を引用してみよう。

静かなる村よ! おまえの孤独が、私をおまえの陰りのなかに引きよせた。動揺する心に静寂がもどるようにと! おまえの静寂が私の心を満たすと、私の表情にも失われた安らぎが取りもどされることがしぱしぱだったじゃないか!? ――だが今は――おまえの苔むした岩陰に顔を曇らせる――私にはおまえが深い淵に見えるのだ。不安な想念のなかに恐ろしい想念を呼ぴ覚まし、記憶のなかに恐ろしい物語を導きいれる、そして、ふたたびわたしの胸に安らぎをもたらそうとはしない。――私はまたも、おまえの岩山をさまよう。青い月は黒いモミの木々の暗闇の上をよぎり、死者のごときそのまなざしで、そっと孤独者の顔をのぞきこむ――すると、たしかに、深い悲しみが私の胸を締めつける。時の深い静けさは確実に過ぎ去り、もはやふたたぴもどることはない。朝の涙のなかにいるように、おまえの岩の乳房に冷たい霧がただよう。そしてはるかな星の光のようにさまよいながら過ぎていく時が、いつか私の心の目にちょっと触れた。時の光は熱く燃えはしないが、明るい。


 もともと散文家としてのマーハは文学の全領域において、長編ロマンにおいても短編小説においても、純粋に内省的色彩の抒情的散文において指導的地位にあった。共通する特徴はどの場合にも惰熱的なリリシズムであるが、とくにマーハの散文を特徴づけているものは、社会にたいする挑発的な関係と、アンチテーゼの提起である。
 ロマン『ジプシ―』(一八三五年に書きあげられ、一八六七年に出版) でマーハはロマンチックな事件を手段にして、彼の時代の主要な社会的矛盾を描きだした。そこには一方に、情け容赦ない専横者、気紛れな封建領立の典型ともいえる伯爵ヴァルデマル・ロメツキー・ス・ポルクがおり、また一方にはジプシーやユダヤ人に代表される貧しい、社会的疎外者たちがいる。祉会的、道徳的矛盾はラジカルな行動によって解決される。つまりジプシーと思われていたが、本当はイタリアのゴンドラ漕ぎジャコモが、自分の愛人の誘惑と誘拐とにたいして、ヴァルデマル殺審によって復警する。
『マリンカ』(一八三四)もまた矛屑相克の上に構成されている。マーハはプラハの貧民街ナ・フランティシュクに美しく、死にかけた娘を配置する。娘の父は辻バイオリン弾きとして、物乞いによって生計をたてている。ここでは現実と理想との対立は汚らしい貧民区の情景をグロテスクに描くことと、マリンカの感傷的描出によって高められている。重病の娘にたいする、かなえられぬマーハの恋の物語でもあるかのように一人称で語られる物語は、いくつかの文学の形態のロマンチックなブレンドの実例としてわれわれを捕える。作品は韻文による「序曲」によってはじまり、その二つの部分は「幕」と呼ぱれ、韻文の間奏曲によって区切られており、物語は韻文の「終曲」をもっておわわる。したがって、ここでは劇と物語と音楽の要素との混合である。
 マーハの歴史ロマン「首斬り役人」は未完で残された。ただ一章のみ完成され『クシヴォクラットという題名で、独立の作品として出版された(一八三四〉。この作品はヴァーツラフ四世とその首斬り役人との対立の上に構威されている。ここにも改めて封建的支配階級に属する人間と社会的被疎外者との鋭い対立があらわれる。物語は魅惑的な自然描写と夢想的な情緒で読者の心を捕える。そのなかに物語られる事件への詩人の激烈な関心と彼の叙情性があらわされる。このロマンのその他の部分にかんしては残されたスケッチから、そこで民衆の指導者としてのフスとフス主義の運動が重要な役を演ずることになっていたことが判断される。ここですでにマーハはパラツキーの歴史概念、あるいはイラーセクの歴史小説を示唆している。
 マーハの叙情的散文を代表するのは、とくに『クルコノシュの巡礼』(一八三三)であり、詩人の初期散文作品の一つである。そこには現実と詩人の幻想的イメージとの対立を高めていく驚くべきヴィジョンがあり、また、きわめて暗く、しかも癒されることのないペシムズムによって貫かれている。チェコの歴史にたいするマーハの概念の表現として重要なものは叙情的散文『帰郷』Návrat(一八三四) である。それは詩人の祖国である「石造の心臓(ハート)」すなわちプラハヘの呼ぴかけであり、その隷属を嘆く惰熱的エレジーとして様式化されている。その意昧ではマーハがモットーとして旧約聖書の予言者エレミア JeremiáY の有名な「涙」PIá からの断片を選んだということが如実に示している。
 マーハの計画の大きさについては彼の歴史劇の断片が証言している。そのなかで最も長いのは戯曲『兄第』の断片であるが、その他にも戯曲『フリ・一ドリヒ王』『ポレスラフ』『兄殺し』 Bratrovrah などの断片が残されている。これらの断片からもマーハが舞台の上でも大きな人物、大きな一葛藤を描き出そうとしていたことがわかる。例えぱ、戯曲『兄殺し、または、ヴァーツラフとボレスラフ』 Bratrovrah anebo Václav a Boleslav の第五幕へのスケッチは次の書葉ではじまっている。「ボレスラフは洗糺を受けようとする。しかし彼が心の安らぎを求めようとする信仰は、それ自体(霊魂の)不減を約束することに気づき、そのことに驚く」 マーハは喜劇『森番』(Polesný) の断片も残している。




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