(15)  演 劇 Divadlo



 マーハがアマチュア演劇に参加していたことには触れたが、十九世紀の初頭――かっての80年代の開花の後――チェコ演劇は軽視されていた。一八〇九年にいたっては一時的に完全に消滅した。だが、その後アマツアの劇団が出来たし、チェコの演劇はスタヴォフスケー劇場 Stavovské divadlo においても上演されるようになった (目曜日の午後。訳注・当時チェコ人はチェコ語で上演される専門の劇場をもっていなかった)。そして、そこでその面倒を見ていたのがヤンーN・シュチェパーネクであった。
 一八二四年、彼がその団体の協同支配人になったとき、チェコ演劇はふたたび職業化した。シュチェパーネク(一七八四―一八四四) 自身も愛国的作品を書いた。彼の戯曲のなかではファルス『チェコ人とドイツ入』  ech a Nmec (一八一六) が残っている。三〇年代の半ぱから主として J・K・ティルの活躍のおかげでアマチュア劇団がマラー・ストラナのカイエタンスキー・ドゥームで、上演した。そこではマーハも俳優として活躍した。
 この時代の最も重要な劇作家はヴァーツラフ・クリメント・クリッツペラ Václav Kliment Klicpera (一七九二― 一八五九)である。彼はフルメッ・ナド・ツィドリノウの出身で一八一九― ―四六年までの間フラデッツ・クラーロヴェーで教授として働き、その後プラハの正規のギムナジウムの教授、そして校長となった、彼は騎士劇、歴史劇、おとぎ劇や現代劇まで手がけた。 クリッツペラの騎士劇のなかでは『プラニーク』 Blaní (一八一三年作、一八一六年初演)と『ロケト村の鐘』 Loketský zvon (一八二二)を挙げよう。その当時、最高の悲劇と評価されていたのは彼の作による『農民貴族ソビェスラフ』 sovslav, selské kní kníkní~ (一八二四)である。騎士劇よりもさらに生命力をもっていたのは、クリッツペラの喜劇で、そのなかの何作かは今日でも上演されている。『魔法の帽子』 Divotvorný klobouk (一八一七)、『ジームシのハドリアーン』Hadrián Xímso (一八二一)、『四本角のロホヴィーン』 Rohovín  verrohy (一八二一)『橋の上の喜劇』Vese1ohra na most (一八二六年作。今日では B.マルチヌー作曲のオペラとして知られている)。
クリッツペラはティル以前では最も才能豊かな劇作家であったが、彼の可能性は、彼がアマチュアたちのためにだけ書いたという点で制約されていた。彼は同時代の生活を描き出し、人物の性格づけに巧みだった。
クリッツペラはW・スコットを手本として、歴史的散文を試みている。『トチュニーク』 To ník (一八二八)という短編小説ではヴァーツラフ四世を描いている。その後、晩年の五十歳代になってもう一度歴史的散文に目を向ける(『カレル四世のチェコヘの到着』 PYíchod Karla W. do  ech 、『ヤン盲目王』 Král Jan Slepý)。 クリッツペラの『ソビエスラフ』は本格的ドラマの試みであった。この面では彼に連なっているのは Fr・トゥリンスキー Fr. Turinský (一七九二― 一八五二) でその作品は悲劇『アンゲリーナ』 Angelína (一八二一年。ドイツの運命劇の雰囲気のものである)。
それにカレル・シメオン・マハーチェク Karel Simeon Machá ek (一七九九― 一八四六) である。彼には彼にはゲーテ、シラーの作品からの翻訳(Ifigenia v Taurii,1822. Panna Orleánská, 1838、同時にオペラ台本の翻訳、そのなかでは、とくに『セビリアの理髪師』Lazebník sevillský,1825、 Don Juan,1825 などがある)。彼のオリジナル作品のなかでは喜劇『花婿たち』 }enichové がおもしろい。この作品は紋切型の騎士劇をパロディー化したものである。吟唱(集団的歌唱のようなもク) を好む愛国主義者の団体の求めに応じて詩華集(一八二三)を編纂した。 三十年代になるとティルの戯曲『フィドロヴァチュカ、または、怒りっこなしに喧嘩なし』Fid1ovacka aneb &#381ádný hn&#283v a ~ádná rva ka (一八三四)も書かれ、上演された。そのなかで初めてわが国の国歌が響いた。(ティルに関しては後述の、他の関連で触れたところを参照されたい)
 台本のテキスト・レジ、特に、シュチェパーネクの戯曲のテキスト・レジによって演劇活動に参加したのはジャーナリストのヤン・ヒーブル Jan Hýbl (一七八六― 一八一三四)である。彼は『チェコ演劇史、その始まりから現代まで』 Historie &#269eského divadla (一八一六)を書いている。しかし、なんと言っても彼の本領はユモレスク『ユスティーナの大活躍』Just&yacte;n in mistrovský kus) である。