02)ドブロフスキーの世代



 わが国の再興期の第一段階において――それはおよそ一八一〇年代の半ばにいたるが――重要な役割を演じたのは言語学である。言語学の発達は一面において、唯一の「生きた」正しい言語をもつ王国を建設しようと望んだヨゼフ二世に支持されたドイツ語の普及に起因していると同時に、他方、それはまた啓蒙主義的理念の空気のなかで人民を教育しようとした努力によっている。人民を教育するという必要から様々な教育的パンフレットが生活のなかにもち込まれた。ゲルマン化の努力は人民には直接関係はなかったが、生まれつつあったブルジョアジーや貴族たちを、ヨゼフの中央集権化の努力が制限したことにより軋轢が生じた。ここにおいて主要な意義をもつのは、当然のことながら、当時の社会の進歩的要素としての市民階級である。彼らのチェコ語にたいする関心は、一つには純粋に現実的視点によるものであったが、別の面から見れば、ドイツ・ブルジョアジーとの競争において言語は民族的連帯の主要な標識となったことにもよる。このようなわけで、言語学的研究はチェコ語によって書かれた文学と同様、かつてない意義を獲得することになったのである。
 成長しつつある民族意識は広まりつつあるゲルマンかに対抗する文学的意思表示、いわゆるチェコ語の防衛としてのいくつかの兆候を示した。その中で最も重要なものは、その当時まで筆者本のままであった有名なバルビーンの『チェコ語の防衛』 Obrana jazyka  eského (Dissertatio apologetica pro linga Slavonica, praecipue Bohemica) の出版である。一七七五年にフランティシェク・マルチン・ペルツルによって編纂されたが、本は押収された。次の意思表示は一七七七年の『ヴァーツァフ・ヴラティスラフ・ス・ミトロヴィッツの事例』 PYíhody václava Vrtislava z Mitrovic (この書もまた当時まで筆者本で伝えられていた)のペルツル版への序言であり、またカレル・ヒネク・タームの『悪意の中傷家からのチェコ語の防衛』(一七八三)である。
 しかし、増大しつつあったチェコ語への関心を最もよく記録しているのはチェコ語文法や辞典への関心の増大、とくにヤン・ヴァーツラフ・ポフル Jan Václav Pohl やマクスミラーン・シメク Maximilián &#352imek に代表される純化主義者たちの努力にたいする否定的な評価である。ポフルは純化主義者のもっとも極端なタイプを具現している。彼の主著は『規則に基づき、また正当なる根拠によって裏付けられたチェコ語の正字書法』 Pravopisnost Ye i  eské, &#345edln zalo~ená,té&#382 i dokazme obránná (一七八六)である。純化主義者の努力にたいして決定的な一撃を与えたのはヨゼフ・ドブロフスキー Josef Dobrovský の理論的労作であり、もう一方の面においては、勢いづいてきた文学作品の出版であった。もちろん、それは多くの場合、古代チェコの文献の再版に甘んじていたとしてもである。
 ヨゼフ・ドブロフスキーはほとんど全部といっていいほどの作品をドイツ語とラテン語で書き、晩年にいたって何篇化の短い論文をチェコ語で出版したに過ぎないとはいえ、わが国の再興期の第一世代にとってはまさに重要な意義をもった。比較スラブ言語学の創設者としての彼の意義はわが国文学の枠をはるかに越えている。ドブロフスキーは生前すでにヨーロッパ的権威であった。長い年月を経てわが民族に一員が、その人物像において重要な役割を果たすことになった。アロイス・ヴォイチェフ・シュミロフスキー Alois Vojtch `milovský は彼の人物像を興味深いロマンのなかで文学的に造形した。
 ドブロフスキーは一七五三年にラーブ河流域のジャルモティで竜騎兵巡邏隊長ドウブラフスキー Douvravský の息子として生まれた。父が任務でこのちにきていたのである。ドブロフスキーの名は戸籍簿への誤記によって生じた。父親はその後まもなく退役軍人としてチェコに定住したものの、その直後に死亡して、母親はドイツ人と再婚した。それで家庭ではドイツ語を話し、チェコ語はハヴリーチュクーフ(当時はニェメツキー)・ブロットトクラトヴィで過ごしたギムナジウムの時代に級友から学んだ。その後、プラハで哲学と神学を修め、プラハの名門貴族ノスティッツ伯爵家の家庭教師となり、そこで同時代のエリート知識人と面識を得ることになる。
 彼はここに一七七六年から八七年までつとめたが、それはまさに啓蒙主義の勝利のキャンペーンの時代であった。家庭教師の役目を終えた後、短期間、フラヂスコ・ウ・オロモウツェのゲネラールニー・セミナーシュの総監となり、一七九〇年以後は彼のパトロンの貴族たちのもとで私的な学者としてプラハで生活した。彼は研究目的で何度か旅行をした。とくにスウェーデンやロシアを訪ねた。(当時、スウェーデンには三十年戦争のあいだに戦利品として多くのチェコ文学の記念碑的作品が移されていた)。一八二九年、ウイーンからの帰途、ブルノで死亡し、その地に埋葬された。
 ドブロフスキーはチェコ語で書かれる文学の可能性を懐疑的に見ていた。つまりチェコ語はしかるべき価値をもった詩や散文、または学問的言語として、失った地位を取り戻すことはできないと考えていた(ドブロフスキーの時代のチェコの教養人たちはドイツ語かラテン語で書いていたことを忘れてはいけない!)。彼はチェコ語について、またチェコ語の適応の可能性についての意見を、一七九二年にドイツ語で著した『チェコの言語と文学の歴史』のなかで明快に述べている。そして当時のチェコの民族的努力の成果に触れ次のように結んでいる。(B.Jedli ka のチェコ語訳で引用する)

 愛国主義的に思考する何人かのチェコ人たちの、これらの新しい自覚と努力と意欲と関心とによって、チェコ語が遅かれ早かれ、マクシミリアーン二世のチェコ語の黄金時代に到達していたよりもさらに高い段階に到達しうるかどうか、その問題についての判断を私は未来にゆだねる。なぜなら、それは私らの力の及ばないところの状況に依存しているからである。そのことはドイツ語をよくしないチェコ人は何者といえどもラテン語学校への入学を許さぬという勅令が一七八〇年以後施行せられたにもかかわらず、多分、そんなことは不可能だろう。帝国教育委員にたいして、チェコ語により一層熟達するようにという一七八三年の勅令が課された。だがもともとこの知識を教育委員に要求しなかった地方はわが国にはほとんどなかったのである。たとえそうだったにしても、ラテン語学校へ入学するまえに、あらかじめドイツ語を習得できないチェコ人の子弟の入学がきょひされるようなことになれば、さまざまな職場における、とくに生殖の場におけるチェコ人ないしはウトラクビスタ派の人材の不足が時とともに見逃しえない深刻な事態をまねくことになるだろう。

 しかしながらドブロフスキーが辺境の地域までチェコ語が浸透する可能性にかんして、懐疑的であったとはいえ、民衆のためのチェコ語作品の言語にはより一層の注意を払った。彼はチェコ語の純粋性とチェコ語の流動的な言語的規則の定着につとめた。それゆえ、言語的側面から新しい造語を批判し、無責任な純化主義者の努力を止めさせた。彼は完全な正字チェコ語の手本をヴェレスラヴィーンの時代のなかに見出し、そこから同時代言語の規範をも引き出した。
 啓蒙主義者としてのドブロフスキーはとりわけ鋭い批評、きびしい論調においてぬきんでており、一再ならず絶えることのない論争に巻き込まれた。彼の関心はもっぱら言語学に向けられていたから、言語の視点から文学史また文化全体の歴史を研究した。そして同時にすべてのスラヴ語に興味をいだいた。彼は聖書のテキスト研究を経てスラヴ語学の形成にまで達した。言語学の分野での彼の主要作品は『チェコ語文法詳論』(一八〇九)、『独チェコ辞典』(一八〇二―二一)及び、ラテン語で書いた論文"Institutiones linguae Slavicae dialecti veteris" (一八二二、これは古代スロバキア語の文法書であるが、彼は誤ってこれを原スラヴ語、つまり古代スラヴ人の共通語、母国語と考えたのである)。彼はまた、詩的作品に対する関心を韻律にたいする法則を作り出すことにより表明した。そしてこの法則は十九世紀のチェコ詩の基礎となった。そのほかにもいく種かのドイツ語の雑誌を発行し、そのなかでチェコで生まれた文学作品を論評している。スラヴ学にとって重要なのは、スラヴィン(Slavin, 1806-1807) と Slovanka(1814-1815) という作品集である。
『チェコの言語と文学の歴史』(一九七二)でドブロフスキーはチェコ文学史の基礎を築いた。ここではじめて広い層の教養人の眼前に古代チェコ文学の富を示し、それによって再興運動に大きな寄与をした。第二版(一八一八)においては(多少表題を変え「古い」文学というふうにし)一五二六年までの資料しか取り上げていないから、原著の啓蒙的性格を弱めている。ドブロフスキーの理解力のすばらしさは、彼の時代区分が今日行われているのと本質的に同じであるということによっても証明される。要するに、そのわけは、彼は言語の歴史を形式的にとらえず、機能的にとらえているということである。彼はもともと言語の歴史を社会関係の手段として、かつ文化的生活における、その有効性の観点から考察しているのである。
 ドブロフスキーの原則は常に原点にまでさかのぼるということであり(ad fontes)、他人から手渡された評価を信用しなかった。そして、そこから彼の批評は由来しているのである。しかしそれによって彼は自分で育てた若い世代から遠ざかった。とくにユングマンから。だが、それにもかかわらず彼の意義は画期的である。彼は言葉の新しい正字法の規則の制定者であり、新しい文学史の設立者であり、スラヴ学の創設者となったのである。彼は隠遁生活を送りは下が、それでも彼の周囲には言語、文学に関心いだく私的な人々が集り、それらの人たちに学問的基礎を与えた。このことは、とくに、ハンカやパラツキーに当てはまる。彼はまた新しいch個の思索にも影響を与えたが、それは彼の韻律学への関心が証明している。彼の韻律学的要求はプフマイエルの一派が実現した。彼らは音節(シラブル)に基礎をおく詩ないしは韻律にもとづく詩を育んでいたバロックの詩人たちと、その点においてはっきりと区別された。


「古い詩法による」詩の実例としてヴァーツラフ・スタフの『知的暇つぶしを楽しむ老詩人』(一八〇五)からの一節を紹介しよう。これはドブロフスキーにたいする攻撃を意図したものである。(Václav Stach;"Starý veraovec pro rozumnou kratochvíli,1805)

詩は読むんじゃなくてうたうんだそうだ、ほんとかな?――
詩が歌と対等だというのなら
詩独自の完全性はどうなるの?学校で、老先生に
クヴィンティリアーナ先生にたずねてみようかしら、
詩は読むのには向いていない?
言葉の韻の陰に何が隠れている?
韻で書けば芸術なの?韻を踏んだ演説は? 韻を踏んだおしゃべりは?――芸術なの?

 



 




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