(3)文学の史的研究と歴史研究


 ドブロフスキーは文学史研究と同時に、その言語学的研究によっても古い伝統と結びついている。とくにヴァーツラフ・フォルトナート・ドゥリヒ Václav Fortunát Durych(一七三五―一七〇二)の名前は忘れるわけにはいかない。もともと彼はわが国におけるスラヴ学の創始者であり、その面ではドブロフスキーの師でもあるのだ。十八世紀の最後の二十五年間におけるわが国の過去の文学についての関心は必ずしも孤立したものではなかった。たとえば、当時まで筆写本で伝えられていたボフスラフ・バルビーンの『教養あるチェコ』ucené  echy の二種類の出版がそれを証明している。この書は古い著作者たちにかんする比較的完全な記録を伝えていた。バルビーンの著作には、生まれはドイツ人だがチェコ的活力に取り込まれたミクラーシュ・アダウクト・ヴォイクト Mikulá Adaukt Voigt (一七三三―一七八七)がラテン語の二巻よりなる労作『教養人の肖像』 Effigies virorumu eruditorium(一七三三、一七七五)と文学辞典『チェコ及びモラヴァにおける文学活動・二巻』(一七七四、一七八三)において関係をもっている。
 バルビーンの著作『教養あるチェコ』の出版者の一人となったのはヴォイクトと同様に、生まれはドイツ人であるが、チェコ的思想の持主であったカレル・ラファエル・ウンガル(一七四三―一八〇七)であった。彼はストラホフ修道院の図書館員であったのが、その後クレメンティンスカー図書館(その後、大学図書館となる)の官庁隣、その蔵書を整理し、カタログ化した。同様に文学史を育てたのはフランティシェク・ファウスティン・プロハースカ(一七四九―一八〇九)で、世紀に即して校正したラテン語で書かれたチェコ文学史の著者である。さらに文学史を論じたものとしてはドイツ語の三巻よりなる論文集があり、主として人間主義時代を扱っている(『チェコ及びモラヴァ文学にかんする諸論文』一七八四、一七八五)。彼は古代チェコの文書も出版し、言語的に手を加えたが、これらは原典の不十分さを補っている。そのようなものを十四種以上は出版した。それによって彼は文学史的流れの切れ目をつなぐのを助けたが、改革にはほとんど理解を示さなかった。
 再興運動の進行過程にとって歴史的作業もまた重要な意義をもっていた。だが、その歴史的作業もいつしかヨゼフ二世の中央集権化の努力によって、自分たちの権利が侵害されたと感じていた貴族階級の歴史的権利の支持という目的に追従するようになった。この貴族階級は領土的 teritoriální 、つまり「領地にたいする」愛国心を、言うなれば、チェコ領土(ボヘミアまたはベーメンといわれた)にたいする愛国心を標榜したが、その大部分はチェコ語などできはしなかったのである。しかしながら、たとえ彼らの目当てが自己の利害にあったにせよ、彼ら貴族たちの努力が、なにはともあれ、新興ブルジョアジーによって導かれた民族的運動の発展の手助けをしたのは確かである。
 チェコの歴史像を偏ったゆがみから正そうとする批判的方法を導入したのは「批判的歴史学の父」と称せられるゲラシウス・ドブネル Gerladsius Dobner (一七一九―一七九〇) である。彼は『ハーイコヴァ・クロニカ』の一部(Wenceslai Hagek  およびLiboczan Annales Bohemorum, 1761 から 1782, 6巻) をラテン語に訳して出版した。この出版は豊富な批判的注釈を持ち、その内容の広さは本質的に原典を凌駕している。しかし広い範囲の読者のためには『ハーイク年代記』は新たにもとのチェコ語で1819年に出版され大きな啓蒙的な意義をもった。なぜなら、文学者―歴史学者の前世代が、この書から養分を吸収したからである。ドブネルはあらゆる批評に際して、古い時代をイメージする能力に劣っていたが、そのことは、まさに、批評領域をとくに本領発揮の場とした啓蒙主義の学問に特徴的なことであった。
 広い読者層にたいしてハーエクの年代記に代わるものはフランティシェク・マルチン・ペルツル(一七三四―一八〇一)の『新チェコ年代記』 Nová kronika &#269eská (三巻、1791―一七九六年、第四巻は一四二九年にまでいたっているが手稿本のままであった)である。ペルツルは貴族の、とくにノスティッツ家の家庭教師であった。そこはまた啓蒙主義文化の中心地であり、また、ヨゼフ二世のゲルマン化政策にたいする反対派の拠点であった。そしてドブロフスキーもまたここで働いたのである。後にペルツルはプラハ大学のチェコ語と文学の教授となった。






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