チェコ文学史

  (6) ユングマンの世代――文学発展の諸条件



 文学発展における明確な転換は一八一〇年代に起こる。チェコ文学はすでに一定の成果を収めることができたが、そのなかには主としてドブロフスキー、プフマイエルの年鑑、フニェフコフスキーの『ディエヴィーン』が属するが、ここでは、そのうちのほんのわずかの実例を示すことしかできなかった。それらの作品によって文化的再興運動の攻撃的な位相を展開するための突破口が開かれたのである。
 いまや問題はチェコ語による文学のための新しい社会層が獲得されること、ならびに、すでに厳格な芸術的基準に耐えうるような文学作品の創作であった。この過程にたいする理論的基礎はユングマンが築いた。この雰囲気のなかから、コラールやチェラコフスキーの詩が生まれた。そして三〇年代の半ばには(この時代はここで終わるが)真にヨーロッパ的スケールの詩人K・H・マーハが登場する。かくして三〇年代の半ばにおいて、「白山後」時代に失われた文化の領域が真の意味であらためて回復されるのである。
 新しい発展はもちろん客観的、社会的発展によって条件づけられていた。都市ではチェコ的活力が加わり、文化的想像におけるチェコ的発想をもつ文化人の参加が増大し、主としてイデオロギー的上部構造が変化した。ナポレオン戦争の後、啓蒙主義哲学と後期古典主義(いわゆる擬古典主義)は背景に退き、新しい芸術の方向としてロマン主義が登場してきた。(そのはじめの段階は、わが国においてはおよそ二〇年代によって代表され、かつてはプレ・ロマン主義と言われていた) ロマン主義は主知的啓蒙主義とは反対に人間の感情的要素に重点を置き、古代の模範にたいする一辺倒とは反対に、民族の特殊性を強調し、後期古典主義における、しばしばマンネリズム化した作品とは逆に、文学の民衆的創造性に美を発見した。彼らの努力は歴史に依拠したが、そのなかでもとくに中世を重視した。このすべてはわが国文化の進歩的努力を助けた。感情的アクセントと結びついた民族の独自性の強調は啓蒙主義的文化労働者のドイツ的教養にたいする劣等感と依存性を排除することによって新時代の民族意識の形成を強めた。また過去の強調は民族に誇りをもたせた。民族の創造性に対する関心は民衆歌謡をよりどころとする展開を可能としたし、それは十八世紀の後任の文学のなかに生じた文化的亀裂を乗り越えるのを助け、とくに、その高い美的、倫理的価値観によってそれを克服したのだった。
 芸術作品は当時のわが国におけるチェコ・ブルジョア階級の重要な自己表現の場となった。それゆえに文学もまた特別の重要性をもつにいたったのである。作家たちの努力の最前列に位置したのがイデオロギー的作品であったが、一つには文学発展のための理論的前提の創造であり、また一つには、わが国の若いブルジョア社会において文学は政治的機能をももったのである。なぜなら、気息えんえんとしつつある封建時代という不自由の時代にあってもチェコ・ブルジョアジーは政治的生活に直接関与することができなかったからだ。だから、文学作品は政治的努力への第一歩だったのである。作家集団の志向も文学の異常なまでの強い政治的機能に向けられた。それらの時代のすべての重要な創作家は同時に氏と理論の分野においても活動した。しかしながら、時がたつにつれて、われわれはこれらの作家たちにちついて、彼らの多岐にわたる仕事のなかのたった一つの部門についてしか評価しなくなっている。したがって、今日、われわれは、たとえば、チェラコフスキーあるいはコラールが大学教授であったとか、パラツキーやシャフジークが詩も書いたことなどについては、ほとんど思い浮かべもしないありさまである。
 次なる文学発展の三つの重要な前提についてさらに考察しよう。それはユングマンの世代、彼らの先輩たちによって提唱され、この世代において果たされたものである。とくにそれは新しい文学が獲得した新しい機能に対応すべき詩的、専門的言語の創出ということであった。なぜなら、この二世紀にわたってチェコ語によって本来的に学問的な研究は著されなかったし、しかるべき詩にしてもが小さな主題空間のなかに限定されて、多くの言葉が消え去り、言語は新しい概念や想念を表現するための手段を十分もっていなかったからである。
 この問題についてはすでにドブロフスキーの世代が苦心していたとはいえ、いまだにヨーロッパ的水準に比肩しうる詩や学問的著作についての努力はされていなかったから、ドブロフスキーが推奨したように古いチェコ語を再生させたり、また、プフマイエルが実行したようにポーランド語からいくつかを転用することで事足りたのである。 いまや問題は新しい詩言語の創造である。ここでドブロフスキーとは異なった道を進んだユングマンが根本的に重要な意味をもったのである。それゆえに彼はまたドブロフスキーの反発を買うことにもなった。文化発展の第二の前提となったものは歴史意識の強化であり、その関連において、中断された進歩的フス主義伝統の新しい再生であった。
 ここでの主要人物はパラーツキーである。そして最後にはスラヴ思想の形成と、プロパガンダの民族的努力にたいする大きな支持力となった。J・コラール、P・J・シャフジーク、そして部分的にはF・L・チェラコフスキーの生涯をかけた労作がこの方面に向けられた。かくしてマーハの作品がこれらのすべての努力の集大成として実現するのである。
 民族的努力の発展を代表するのが一八一三年から一八一七年のあいだにC・k・ヴィーデンスケー・ノヴィニの文学付録として発行された『美しい芸術の初の実り』 Proviny pkných umní のような定期刊行物である。さらに「語り部」 Pov&iaute;datel(一八一五 ― 一七)と「娯楽読物」 Kratochvilník (一八一九 ― 二〇)の二誌はイムラモフとジュジャールの教区牧師マチェイ・ヨゼフ・シッフルの尽力による。また「ドブルスラフ」(ヨゼフ・リボスラフ・ジーグメルによって一八二〇―二三年のあいだに出版された)、またヴァーツラフ・ロドミル・クラメリによって創刊された「チェホスラフ」  echoslav(一八二〇―二五)がある。
 一八三〇年代になると新しい「チェホスラフ」(一八三〇、J・J・ランゲルの編集)、「クヴィエティ」(J・K・ティルが編集。一八三四―三五、及び一八四一―四五)、「チェスカー・フチェラ」  eská V&#269ela (F・L・チェラコフスキー編集、一八三四―三五)がある。
 二つの学術的定期刊行物も創刊された。「クロク」(Krok、一八二一―四〇)と「チェコ愛国美術館協会雑誌」 asopis Spole nosti vlasteneckého museum v &#268echách (一八二七年創刊。 asopis Národní muzea のタイトルのもとに現在も発行されている)。
 二つの研究機関の創立も重要である。その一つは「民族博物館」 Národní muzeum (一八一八)であり、他の一つは「チェコ財団」Matice &#269eská (一八三〇年に「チェコ語とチェコ文学の学問的研究のための団体」として起こった)である。チェコ財団ははとくにチェコ語の書籍の出版に尽力した。




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