(11) ヤン・コラールJanKoliar



 ヤン・コラールは――シャファジークと同様に――チェコ文学史とスロバキア文学史の両方に属する。一七九三年に中部スロバキアのモショヴィツェで生まれた、彼の父は富農だった。コラールのライフワークにとってプロテスタント派の神学を学んだイエナ滞在(一八一七― 一八一九) が決定的な重要性をもつ。この滞布は彼にたいして一面では民族的かつ思想的に、他方では純粋に個人的に影響を与えたのである、特に、大きなショックを彼に与えたものは進歩的な教授たちに支持された大学の若者たちの政治的、文化的な活気であり、そのことは彼をして自国の不自由と抑圧を痛感させるにいたった。同時に、徐々に増大してくる差し迫った気持ちで過去の栄光とスラヴ民族の癒されざる現状とのあいだのギャップを意識した。この側面において、まさにイエナは重要な意味をもった。イエナはスラヴの領土にあったのでゐり、イエナの環境のなかにはコラールの時代まではスラヴ起源の地名が依然としてスラヴの歴史を物語っていたのである。その上、住民のなかに人類学上スラヴ系の典型的な特徴を発見している。彼はそのことを「視覚でスラヴ人を認めることができるが、聴覚的にははっきり裏切り幻滅させる」とうたっている。彼はプロテスタントの神父の娘フレデリカ・ウィルヘルミナ・シュミットヴァーをさえも、どこかにスラヴ人の末裔と考え、彼女に恋し、ミーナという名で彼の詩にも登場する。
 コラールは16歳を過ぎたミーナを妻にした。しかし生涯、彼女にチェコ語を教えなかった。私はこれを笑い話として引き合いに出したのではない。むしろかくもドブロフスキーの人生にたいする姿勢とコラールとの違いの証拠としてあげたのである。コラールは現実よりも自己の想像をより以上に愛し、現実のミーナよりも想像上のミーナをいっそう愛して彼女に非現実の衣装をまとわせていたのである。ドプロフスキーが冷静に、論理的に考えていたところで、コラールは感惰によってそれを抱擁したのである、愛国者という点では、その意昧でユングマンやその一派に近い、それは勿論、現実から遊離した夢であり、豊かな夢である。この点から見るとユングマンの世代の夢は進歩的であり、まさに未来を先取りしている。
 以上に述べたイエナでの体験は第一にはコラールの決意、つまり、このあとの彼の金生涯をスラヴ民族の意識向上に資する仕事に打ち込もうという決意、第二に、スラヴの娘の理想像をもってミーナの身上を確認するということに帰着した。イエナにおける学業が終わると、コラールはプラハ (そこでユングマンと近しくなる) を経てスロパキアに帰り、司祭の地位に叙位されたあと、ペシュトで説教師となった。それ以後、人生の大半をこの地で過ごすことになる。最晩年にいたってウィーン大学のスラヴ考古学の教授となり、一八五二年にウィーンで没した。
 コラールは詩人としては、実は『栄光の少女』 Sláva dcery という唯一の作品の作者であると言ってもいい。原題は 『ヤン・コラールの詩』 Básn Jana Kllára (一八二一)という詩集であり、その主要部分はミーナをうたった八十六編のソネットから成っている。さらに、このなかにはエレジー、オード、エピグラムなどもある。コラールが『栄光の少女』を最初に出版したのは一八二四年である。彼はこのなかに自分の処女作品のなかから数編のソネットを取り入れ、その数を百五十にまで増やした。個々の詩は一つの観念(コンセプト)で結ばれており、もともとの恋愛詩は愛国詩に焼きなおされている。ミーナは、ミーレク Mílek が、過去においてスラヴ民族に加えられた不当な罪悪への癒すために創造したスラヴの女神スラーヴァの娘と融合されている。したがってミーナはいまや、未来のスラヴ民族のシンボルなのである。統一的モティーフはスラヴ民族にとって重要な土地の巡礼である。この巡礼の旅にミーナとミレク(スラヴ風の愛神 Amor )は作者を伴うのである。
 作品はそれぞれ五十編のソネットからなる三部構成によって成立しており、各部はかつてスラヴの土地であった(しかし、コラールの時代にはすでにドイツのものとなっていた)地域を流れる川の名(サーラ、ラベ、ドナウ)にちなんだタイトルをもっている。
 これらの詩にたいしては雄大な韻律によって構成された「序詞」とかつてのスラヴの祖先と現代のスラヴ民族とが相対して簡潔につづられた「悲歌 elegie 」が予告される。この作品は今日まで、その雄渾さによって読者を感動させる。それをわかってもらうためには、序詞の詩の数行を思い出すだけで十分であろう。

ああ、ここ、涙あふるるわが眼前に、横たわる大地
かって、ゆり籠のありしところに、今は、わがはらからの棺
さあ、足よ、.立て!なんじの進むべき聖なる土地がある。
タトラの息子よ、天にむかって立ちあがれ、顔を上に向けて
さもなくぱ、むしろ、そこに立つオークの大樹に向かってあたまを垂れるがいい
このオーク樹は、これまでも汚濁に満ちた時にあがらいつつ生きてきたのだ。

 コラー一ルのこの詩によって、当時、唯…の自由なスラヴ展族の国家であり、再興運動の推進者たちがその助力を期待していたロシア(オークの木に象徴されている)への帰属を明らかにしている。続く詩において、スラヴ的太古の時代の情景とスラヴ民族の現代の廃嘘が対照的に展開されている。だが決して落胆に陥ることなく、行動を呼ぴかけ、希望を未来に託すことで終わっている。

悲しげな目からではなく、勤勉な羊から希望は花咲くのだ
そうすれぱ悪い状態を、せめて少しは艮くすることもできるだろう
屈折した遺が、人固だけでなく、人間性までも遺廃させることはできない
そして、ある一部の人々と困惑が、しぱしぱ全休を満足させる
時間はすべてを変える、時間さえも、時間は真実を勝利に導く
幻惑の直年が目指したことを、時間がひっくり返す。

 第二版(一八三二)においてコラールはソネットの数を相当数ふやし、さらに二つの歌を追加した。それは『レーテーとアケローン』(スラヴの天国とスラヴの地獄)であり、栄光のスラヴ諸国とスラヴの人民を称え、スラヴの敵と災いを呪うソネットを含んでいる。そしてコラールは原版の作品にさらにいくつかのソネットをつけくわえることによって、知牲的かつ抽象的なこの詩人の青春時代の情熱的な抒情詩にたいする優越性を獲得している。執勘なほどのソネットのくり返しと(その韻律のバターンを慎重に守っている) 強弱格(trochej)の韻律は退屈さを覚えさせる。無数の歴史的隠喩やアレゴリーのゆえに、ソネットのなかには難解なものさえ出てきた。そんなわけで『栄光の娘』の第二版以後は注釈ないし解説を加えるようになったむだが、もし十四行のソネットを理解するのに注訳を読む必要があるとしたら、詩の効果は著しく阻害される。コラールは生前にさらに二つの版を準備し、その度に新たなソネットをつけくわえた。最後の版では、すでに六百四十五編に達した。
 コラールのエロティシズムは魅力的である。せめてそのうちの三編を紹介しよう。
愛とはななにか? 逃れることのできぬ惨めさ
それは自己矛盾。招かれざる招客
冷たい炎、歓喜の悲哀
廿芙なる苦汁、そして悲しい喜び

夜だった。私は庭のなかに忍ぴ込む
あそこの小さ一なベンチをとび越えて
すると、ほら、彼女が丁度ここへやってきた。

私たちはきっと、おっこっていただろう
冷たい水のなかに、、喜、たりとも
もし、こうして抱き合わなかったら


     ・・・・・

愛よ、愛よ! 甘き幻惑
おお、なんじ、最商の快楽の盃よ、
その盃のなかで、心と心はまざりあい
天と地をひとつの感覚のなかに感じるのだ。

 これらの数行の詩のなかにコラールの詩の特徴が現れている。つまり、格言的表現と対立命題への愛好癖である。しかし同時にある程度の楽天主義も見られる。その後のロマンティシズムに特徴的な荒々しい感情はここにはない。格言的表現への傾向は反省的、また、煽情的詩のなかに十分生かされており、そのなかには今日でもしぱしぱ引用される詩句がいくつもある。例えぱ、

みんな、骨身を惜しまず働こう
民族がひきついだこの土地で
道はたくさんあろうとも
意思だけはみんな真っ直ぐに保っていよう。

 あるいはコラールが理解した祖国を定義づけるソネット

われわれが住んでいるこの上地に
祖国という聖なる呼称を着せることはすまい
真の袖固とは、ただ心のなかにだけしまっておこう
そうすれぱ、われわれは祇囲を滅ぼされることも、奪われることもない。

     *****

たとえ、恥しらずな連中がなんと言おうと
引き裂くことのできぬ祖国の国境は
共通の道徳と言葉と思想なのだから。


 何はともあれ、一番大きな反響を呼んだのは、スラヴ民族の問題を提示したソネットである。その説明のためには二つの断片を挙げるだけで十分である。
わたしは何百回となく語ってきたが、今はもう、諸君に向かって叫ぷのみ
おお、くそまみれのスラヴ民族よ! と
バラバラにではなく、全体となろう
すべてか、さもなければ、無になろう。
百年たったら、われらスラヴ蝿族はどうなっているだろう?

     *****

百年たったら、われらスラヴ民族はどうなっているだろう?
全ヨーロッパはどうだろう?
スラヴの生命は洪水のように
いたるところに、広く、.足跡をのこすことだろう。


 さらに、コラールはかっての敵たちの宮廷にもスラヴ語が響くだろう。そして、スラヴふうの「衣装や習慣や歌までもが」[セーヌやラベ河……以上に」近代的となるだろうと書いている。
 コラールはこのスラヴ的思想をジャーナリスティックに表現しさえした。二〇年代の初めにはスラヴの民族の固有性に関する説教にまいしんした。やがて彼は自己の見解を、あまり長大ではない論文『スラヴの各種族とその固有の方言とのあいだの文学的相互関係について』O liter&aacite;rnej vzájemnost mezi kmeny a náYe ími slávskými(一八三六)において、究極的な形で表明した、この論文は一年後にドイツ語で決定版が出版された(Uber die literarischeWechselseitigkeit)。
 コラールはこの論文をスラヴ民族の歴史的瞬間があはじまろうとしているという確信と、その文化的発展に貢献したいという願望のもとに書いた。コラールによるとスラヴ民族は四つの重要な言語をもっている。ロシア語、ポーランド語、チェコスロバキア語、セルポ・ククロアチア語である。これらの「方言」を使用するものたちはお亙いに文化交流を緊密にすべきであり、その詳細かつ具体的なプログラムをコラールは提案している。彼の時代にはもちろんまだ政治的プログラムを形成することはできなかったから、コラールの相互交流は文化領域に現れたにすぎなかった。しかしわが国の再興にとってかぎりない意昧をもつのである。
 スラヴ民族の相互主義の理想を語る熱烈な書葉によって、コラー一ルの名は全スラヴ世界に急速に知られるようになった。彼の理論的、芸術的影響はわが国において十九世紀に入っても長いあいだ持続した。コラールが『栄光の娘』のなかで作り出した反省的、かつしぱしぱ[博学」な詩のタイプは広い階層のあいだには比較的少ない効果しかもちえなかった。その上、それはすぐにすたれた。彼の詩のものものしさ、おまけに難解さ、見かけの派手さは、意に反して詩人と読者とのあいだにバリケードを築く結果となった。
 以後の、詩の発展のための可能な方法として、民衆の想像力との結合が示された。コラールは民謡を重視した、そして――上に掲げた実例からもわかるように――民謡がもつ直截さは決して彼と無縁ではなかった。彼は自分の手でスロバキアの民謡を収集し、二巻からなる詩集 (『民族の歌』 Národní zpvanky )を出版したものの、彼自身の作品のなかでは別の方向を志向したのである。わかりやすい形式によって民衆の思想や感情を表現すぺき詩は、少し若いフランティシェク・ラディスラフ・チェラコフスキーによって作られた。



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