(5)新チェコ語による詩のはじまり
より大きな評価をすべきは、新チェコ語の詩の始まりである。タームの年鑑についてはすでに述べた。現代の読者はそこに掲げられた詩を見て、多分、優越感をもって微笑するだろう。しかし、それはこの書の先駆的な意義を低めるものではない。この詩集は第一に古代詩の詩的価値を記録しようとした(その目的にたいしては、たとえば、カドリンスキーの『ズドロスラヴィーチェク』 Zdroslaví
ek からの世俗化した引用がその役をはたした)。また、第二に、アナクレオン風の同時代ドイツの抒情詩からの翻訳を紹介し、またいくつかのオリジナルなチェコ語詩の試みへと導いた。アナクレオン風の詩は当時、重要な流行であった。それは古代ギリシャの詩人アナクレオン(紀元前6世紀後半)の範例にならって軽い詩にたいして言われており、それらは酒と歌と友情を謳歌した。ここにちょっとした実例として「連詩」 cyklus 『アナクレオンからの何人かの歌い手』 NkteYí zpvové z Anakreonta から次の一編の詩を紹介しよう。これはその頃のわが国の詩の現状を雄弁に証言してくれる。
キューピッドとヴィーナス
キューピッドが自分の花冠を編んでいると
蜜蜂が飛んできて小指を刺した。
それで、泣きべそをかきながら
おかあちゃんのところへ、言いつけに行ったとさ。
さて、そこで「ああ、おかあちゃん、ぼく、かわいそうなんだよ!
かあさんの息子が、いまにも死にそうなんだ、
だって、小さな毒虫が、ぼくを刺したんだもの。
ちっちゃな蛇みたいな羽をもっているやつ
みんなは蜜蜂だって言ってるけどね
そいつが、ぼくの小指を刺したんだ。
ヴィーナスは微笑み、息子に言う
「そんなの、驚くほどのことでもないでしょう
それで、あんたの矢に当たった人の
痛みを、すこしは、わかるといいんだわ」
この短い詩はまだドブロフスキーの韻律改革以前に書かれているから、これらの詩行は今日の読者から見れば、きわめて素朴に見えるだろう(言葉のアクセントの配置が規則性を欠いている)。ドブロフスキーの韻律法を実作に取り入れたのはA・J・プフマイエルが組織した詩人グループである。
アントニーン・ヤロスラフ・プフマイエル Antoní Jaroslav Puchmajer は一七六九年から1820年までの生涯をおくった。彼はティーン・ナド・ヴルタヴォウの出身で、父は職人だった。彼はプラハで神学を修めたが、その高等教育の期間に民族意識に目覚めた。その民族意識の目覚めにたいしては、彼をドブロフスキーに引き合わせたS・フニェフコフスキー(後述)の功績に負うこと大である。やがてドブロフスキーはスラヴ学と韻律学にかんしてプルマイエルに大きな感化を与えた。プフマイエルはいろいろな土地で司祭をつとめ、プラハで没した。
再興期の初期においては、彼の作品の核をプラハ以外のところで形成したことがその特徴であった。プフマイエルの活動は専門的であり、詩人的であり、とりわけ組織的であった。彼の専門的仕事のなかで最も重要なものは『ロシア語文法』(ドイツ語で書かれている)『露―チェコ正字辞典』(1805)であり、とくに、ドブロフスキーの辞書編纂にたいする協力であった。ドブロフスキーの『独―チェコ辞典』の第二巻は実質的にはプフマイエルの仕事といえるものである。プフマイエルはまた最初のジプシー語の文法書をドイツ語で書き、隠語ないしは悪党たちのチェコ語の解説を付し、詩人のハンドブックとして『韻律辞典』 Rýmovník を編纂した。
オーガナイザーとしてのプフマイエルは最初の新チェコ語の詩人グループを組織し、そのグループの作品は五冊の年鑑に印刷された。はじめの二巻は『詩歌集』 Sebrání básní a zpvo (1795、1797)、続く三巻は『新詩集』 Nové básn (1798,1802,1814)とそれぞれ名づけられた。このグループはチェコ、モラヴァ、スロバキアの詩人たちによって構成されていた。彼らの形式的絆は「綴音韻詩」 sylabotónický vera であり、それによって古代詩と厳密に区別される。プフマイエルが彼の最初の年鑑を新チェコ語韻律法の「先達」としてドブロフスキーに献呈しているのはきわめて意味深いことである。
アナクレオン派の詩人にたいして、プフマイエル派の詩人はわが国の詩のレパートリーを豊かにした。それらの詩の種類はヨーロッパ古典主義によって育まれたものだった。たとえば、オード、抒情詩、寓話、子滑稽譚(要するに、民衆の迷信を啓蒙主義的に茶化した喜劇的バラード)、また、英雄的かつコミカルな叙事詩などである。タームのグループにたいしては、ここでは外国文学にたいする新しい方角に目が向けれれている。タームがドイツ文学に目を向けたのにたいして、プフマイエルはスラヴ文学、とくにポーランド文学に目を向けた。ポーランド文学はとくに言語的な近親感もあって、彼の支えであった。彼はポーランド語から生気のチェコ語にいくつかの言葉を導入しさえした。
プフマイエル自身はオードの作者として秀でていた。ヤン・ジシュカにかんするオード Óda na Jana }ižku において――彼はカトリックの司祭であったにもかかわらず――国家的英雄を賛美している。彼のオード『チェコ語賛歌』 Óda na jazyk český と『チェコ人の声』 Hlas echa は高揚した感情によってうたわれている。今日までもプフマイエルの寓話は人々の関心をひきつけている。そのなかで彼はラ・フォンテーヌの数編の童話をポーランド語を介してチェコ文学に取り入れているが、当時の習慣にならって、チェコ的環境に置き換えられている。彼の言葉の名人芸の実例として、ミルク売りの女とミルク壷についての寓話をここに引用してみよう。
ミルク売りの女
あるとき、知り合いの女の娘ペピツェ夫人は
善き家庭の主婦として
頭の上にミルクの瓶を載せて運びながら
ムニェルニーカの市場へ行こうと思っていた。
時は夏、スカートをひるがえし
町を目指してデコボコ道を急いでいく
そのうち、スカートをたくしあげ、靴も脱ぎ
足取りも軽く歩いていく
心をはずませ、道を行きながら
頭のなかでは、今日の稼ぎの銭勘定
二十がとこはあるかもね、それとももっとあるかしら
このあたしのミルクが売れればね。
彼女は卵用の敷き台を買うつもり、そしてその台の上で
三羽のめんどりに卵を抱かせて
孵化籠のなかに入れる。
ペピツェ夫人は希望村から出てきたのだ。そうしたら――と彼女は独り言をつぶやく
たくさんの雛を孵(かえ)してくれるかな?
もしかしたら、昼ひなかに鷲か、夜中に狐かが
そのなかの何羽かを盗み出すかもしれないわ
もし、ほかのみんななくなっても
豚さえ残れば
それで、気はすむというものさ。豚がたらふく食ったなら
太ったかわいい豚ちゃんが
(こんな考えあたしの頭に吹き込んだのは、いったい誰だろう?)
あたしのものになるんだわ。
そしたら、少しずつ少しずつ、
あたしの財布に金貨がたまるわ。
こんな具合にお金がたまってくると
家畜をふやすために
雌牛を買えって誰かが言うわ、そしてやがて子供をはらむ
(どうか丈夫に育ってくれるといい!)
わたしのために子供を産んでくれる。
ああ、はやく仔牛たちをみたいもんだわ。
あたしの家畜のなかに混じって元気に跳ねまわる!
そのとたんにペピツェ夫人はひょいと飛びあがる
瓶は頭からすべり落ち、粉々になって飛び散った。
ああ、かわいそう! なんと不運なこの瞬間
卵に、雛に、めんどりに
豚も、牝牛も、仔牛まで
ミルクといっしょに吹っ飛んだ!
そこでペピツェのおかみさん
もう、できるだけのことはやっちゃった
空手で、涙を浮かべて帰ってきた
幸いなことに、主人は彼女をぶたなかった。
愚者も賢者も言っている。わたしらの誰もが
たわいもない夢を、頭のなかに描いている。
用心深いわたしらの、誰もが夢を見ている。
そのとき、わたしらはなんと幸せなことだろう!
だから、私だって、一再ならず、私をプラハの
僧会議員か、僧会議長に
帽子と杖で選ばれる夢をみるのだ。そしたら
プラハの人々は私を愛し、尊敬し、祝福すするだろうと・・・・・・
と、そのとたん、何かの拍子に夢から覚める
そして私はすぐに、僧会議長も僧会議員もあきらめる。
おお、私はいつもと同じ、またもや k-an pra-cký に逆戻り。
*訳注 k-an pra-cký は現在のところ意味不明。
詩は新正字法に移記されているが、当時の特色、つまり前置詞が従属する名詞と結合して綴られル戸言う習慣はそのまま保存されている。注目すべきことはこの死の言葉と先に掲げた議会決議書の断片の言葉との比較である。その結果として看取できることは、日常生活の経験的範囲では、チェコ語は十分に要求を満たしていたということである。(他の側面からは同時代の民衆歌謡が、その点をとくに雄弁に物語っている)
プフマイエルはオードの作者として著しく高い文化的目標を自分に課して、より高い社会階級のなかにも浸透しうるような詩を作るよう努力し、それによって読者大衆の拡大に寄与しようとしたのである。(再興期文学の読者の構成にかんして当時の出版において行われていた、予約購読者の名簿からある種の想像を生み出すことができる)プフマイエルの視野の広さは、ポーランド語を介してのモンテスキューの『Chrám gnídský』の翻訳がそのことを証明している。プフマイエルのアダプテーションと原典とを比較してみると、彼がアダプテーションを機械的に行っているのではなく、チェコの読者を年頭において、自由にパラフレーズしていることがわかる。
もし、プフマイエルが仕事の対象として上層階級にのみ目を向けていたとするならば、彼の年鑑の熱心な助力者シェベスッティアーン・フニェフコフスキー(`ebestián Hnkovský 1770-1847) は主として民衆の階層を頼りにしていた。彼はジェブラーク }ebrák の出身である(父は家作の持主で、坑夫であった)。彼はプラハで法律を修め、そのあと生まれ故郷の村役場の役人をつとめ、さらにそのあとは、ポリチュカ村の尊重となった。彼はアナクレオン風の詩と滑稽バラード(Vyaefradský sloup) を育てた。それらは迷信を嘲笑した。だが最大の反響は彼の喜劇的主人公の詩(つまり、コミック・エポス)『ディエヴィーン』 Děvín が受けた。女の戦争を主題とするこの作品の滑稽さは、自然的秩序の逆転にある。つまり、女が戦争をし、女たちによって捕らえられた男たちは家庭の女の仕事に従事するように判決されるのである。
城のなかでは、別の変わったことが起こっていた。
ここに虜になった勇士たちは羽根飾りのついた帽子をかぶり
台所へ行かねばならぬ
そして、肉を刺した金串をまわし、ストッキングの足をついてすわる
あるものは、ほうりあげたり、ゆすったり
他のものは、めんどりの見張番
彼女らのすりこ木や割れ鍋にキスをしなくては――
それを拒むものは、棺おけのなかに放り込まれるのだ。
後に――それはすでにロマン主義の時代一八二九年のことであったが――フニェフコフスキーは『ディエヴィーン』を英雄叙事詩に書き直したが、それは失敗作であった。同様に膨大な作品『ファウスト博士』(1844)のタイトルの人物にチェコ的性格を与えようとしたのだが、これも失敗した。彼の才能は滑稽やユーモアに向いていた。フニェコフスキーのユーモアのセンスのちょっとした実例として、彼の風刺詩 epigram を二つ紹介しよう。
T・T・ のために
死者にたいしては、ひたすら善いことのみを語るべきだと
古い格言は教えている。
だが、死んだあとで、それを確かめようとしても
こればかりは知るすべもなしである。
ベンダについて
ベンダが金を借りるときに「あなたに神がお恵みを(ありがとう、恩にきます)!」*と言った。
だが、貸した本人は、少なくとも、その金を誰から取り返せばいいか知っている。
* Zaplat' vám to Boh! (この言葉は「あなたに神のお恵みを」というような意味のお礼の言葉の慣用句だが、文字通り訳すと、「神様があなたにそれ(借金)を払われますように!」という意味である。
プフマイエルの年間の協力者たちのなかでとくに熱心だったのは、フニェフコフスキーの同郷人でジェブラーク地方の助司祭ヴォイチェフ・ネエドリー(Vojtch Nejedlý 1771-1844) だった。彼は長大な叙事詩を試みたが、芸術的成功は得られなかった。そのおとうと、ヤン・ネエドリー(1776−1834)は弁護士であった。そして一八〇一年からペルツルの後継者として大学のチェコ語の教壇にたった。彼はギリシャ語から『イリアッド』の第一の歌を翻訳したが、同時に新しい文学も翻訳した。ロマン『ヌマ・ポンピリウス』(一八〇八年、フランス語から)の彼の翻訳は新チェコ語散文の最初の注目すべき作品の一つである。民族的努力の発展にとり最も重要なものは彼の雑誌、季刊『チェコの宣言者』(Hlasatel
eský, 1806-1808, 1818) である。
モラヴァではヨゼフ・ヘシュマン・アガビット・ガラーシュ(Josef HeYman Agapit Gallaa,1756-1840) がプフマイエルの年鑑に書いていた。彼はフラニツェ Hranice で医者 ranhoji
をしていた。彼の二巻よりなる『モラヴィアの楽神』 Múza moravská は一八一三年と一八二五年に彼の友人トマーシュ・フリッチャイによって出版された。この作品は民衆詩の実例を含んでいることによって興味がある。
ドブロフスキーとユングマンの世代をつなぐ接続詞の役割を果たしているのは『美的芸術の初の実り』 Prvotnina pěkných umní であり、これらの作品は C.k.ウイーン新聞の付録としてウイーン大学教授フロマートコによって掲載されたものである。それには上記の両世代のメンバーが協力した。彼らのなかにはドブルシュの商人 Fr. ヴラディスラフ・ヘク(一七六九―一八四七)も加わっていた。彼はイラーセクの本『F.L.ヴィエク』のタイトルの人物として有名であり、すぐれた風刺詩の作者であった。