ノルベルト・フリート著/田才益夫訳


        

『無実の手で』


             汝、求むれば、捕らえうべし     ソフォクレス


[目次]

(1) (2) (3) (4) (5) (6)

 (7) (8) (9) (10) (11) 著者紹介




[序]

 その書類はすでに一件落着した事件として「彼」のデスクの上にとどけられる。
「決済へ!」
 主任が綴じた書類の右端に書き込み、それにイニシアルを署名する。
 ものすごく威圧的なオタカルの「O」と、熱情的なホヴォルカの「H」だ。
 つまり「OH」。
 この署名にフベルト・マトラッチが、弱々しい、それでいてある種の抑圧に耐えているかのような
ちっちゃな「HM」を書き加えるまでには、ある程度の時間が経過する。
 身上書によれば、彼は暗号解読手となっている。
 マトラッチは、朝のお茶の時間のあと、資料室のきれいに片付けられた机の上に書類をひろげ、案件の本質を読み取るために精神を集中する。
 ページをめくり、数字のそれぞれの項目や小計をいちいちチェックし、合計や倍率を自分の手で計算し、確認した数字を計算用紙に記録する。そのあとで、この紙は彼の検閲過程の証拠としていつでも取り出せるように、ファイルのなかに綴じ込まれるのだ。
 彼一流のまわりくどい計算の過程を経て、当然そうなる結果に、いま一度、あらためて到着するまでの延々たる数字の行列、その類いまれなる計算方法は当局経理部でも、つとにその悪名をほしいままにしているところのものである。
 とはいえ、この妙におし黙った同僚、病気にかかった老いぼれのボクサー犬を思わせる(とくに口のまわりがそうなのだが)マトラッチの顔を思い出して、あれこれと評定するほどの暇人は当保険局組織内にはいない。
 しかしこの計算を誰がやったかという点になると、誰にでもピンとくる。
 彼こそビタ一文の狂いもなしに計算のできる人物。
 どことも知れず、はてしなくさまようが、幾重にも折り重なった数字の列の結果としてすでに算出された総額に、最後には常に、確実にたどりつく数字とのアヴァンチュール以外には冒険を知らない男。だからこそマトラッチは検閲係なのである。
 その配下にある部署としても、慎重だし、手抜きをしているわけではない。だから「支払許可!」というのが、いつも、検閲係ことマトラッチが、その長い検討の後に主任の決定につけ加えることができる唯一のコメントである。
 それにもう一つ、弱々しい、それでいてある種の抑圧に耐えているかのような、
ちっちゃなイニシアル「H」と「M」。
 つまり「HM」だ。






「第一章」へ進む
FrontPage へ戻る