(10)

 彼女は驚きを抑えることができませんでした。唇のまわりで何かがふるえています。
 来るべき断末魔の美しい前兆でしょうか……。
 私はまた同じことをくり返し言っているような気がします。同じような文章を前のほうで書きましたね。
 でも、今度のような決定的な気分をより正確に表現することは私にはできません。
 彼女のかわいらしい口元でなにかがふるえているのです。
 間近にせまった断末魔のすばらしい前触れが……。
 このふるえはやがて弱まり、ついに微動だにしなくなったとき、彼女は否応なしに体ごと私に身をゆだねるだらう……という、この想念は私を強くかきたてるのです。
 ブルドヴァー夫人は、そのあいだちゅう、その場に棒立ちになったままでした。
 飛行場のあわただしさが彼女を取りかこみ、十二月の寒空がのしかかり、唯一の心の支え、愛する男も、たった今、空の彼方へ飛び去っていってしまったのです。
 私は、いま、彼女をとらえたと確信しました。
 もちろん、彼女は、すぐに口を心もちゆがめて、軽蔑と嫌悪感をあからさまに示しました。
 グレーの瞳には女隊長の不遜の輝きがよみがえりました。
「何がお望みなんです? 少しは恥ずかしいとお思いになりませんの? どうして、そんなにつけまわすのですか?」
「いい、お天気でございますなあ」
 私は顔をゆがめ、ぞんざいな身振りで天を指して(どこからこんな勇気が出てきたのか知りませんがね)はき出すように言いました。
「バス停までご一緒してもよろしいですかな?」
 私の返答の仕方に、さすがの彼女も驚き、かつ、あわてたようです。
 そして、つっぱねるような口調で言いました。
「わたくし、車が駐車場に置いてありますの……」
「ああ、そうそう、おたくの腕白坊主ですな!」
 私は手練の早業ともいえるスマッシュを打ち込みました。
「では、駐車場までおともいたしましょう。道々、私どものほうで解明いたしました点や、ブルダ事件の進み具合につきましてお耳に入れることにして……、もちろん、お許しいただけますでしょうな……?」
 私の臆面もない語り口が功を奏し、夫人は歩きはじめました。
 あるいは、彼女は私から離れようとしただけなのかもしれません。
 しかし私がついてくるのを拒否するようなふうでもありませんでした。
 私は足を早めて後と追い、今こそ彼女を縮みあがらせるべく、次の言葉を発したのです。「マツレの車のなかで当てっこ遊びがおこなわれたこと……あなたは初耳じゃありませんですよね、いかがです?」
 彼女は足をゆるめずに、私のほうを横目づかいにチラッと見ただけでした。
「なんのことですかしら……? 気でも違ったんですか?」
 しかし、彼女の歩調はすでにおそくなっており、本当に気が狂った人間のそばにいるときのように、私のそばから逃げ出そうとはしませんでした。
 私はまだ自分の声の調子をたもっていました。
「カーブのところでズザナちゃんが、スカーフを頭からすっぽりかぶったあなたを見て、後ろからお父さんの目を……」
「どんなスカーフをかぶっていたんですって?」
 いま、ヴラスタはほんの少し立ち止まり、私のほうを見ました。
 グレーの瞳が、まっすぐ私を見つめています。
 私の自信はゆらぎはじめました。
「スカーフかショールですよ、ちょっと思い出してください……あなたは迎えにいったんです……」
 彼女は私の顔を見つめ、そこにはっきりと戸惑いを見て取り、彼女はいくらか落ち着きを取りもどしました。
 そして彼女が冷静になればなるほど(女隊長らしくなればなるほど)私のほうはいっそう足元をすくわれるような危険に追い込まれてくるのです。
「スカーフ、でなきゃ、ショールだ……」
 私はくり返します。
「おまけに、あんたは残骸の写真に写っていた、それをつけて!」
 彼女は頭をふりました。
「あなたったら、夢でも見ていらっしゃるのね。残骸の写真ですって……? 残骸の、ど
の写真に、どの写真のどこに、わたくしが写っているとおっしゃいますの?」
「見ましたとも、あのむこうを向いた人ですよ! 右の端の、スカーフを肩にかけて……」 微笑を浮かべた彼女は、ほとんど完全にもとのヴラスタ隊長にもどっていました。
「事故のあった日、わたくしは残骸のそばへは全然、行ってはおりません……。あのとき、わたくしが、どんな状態だったかご存じだったら、あなただって、きっと……、ダネシュが着いて、あの人がわたくしを連れて、岩のあいだを通って下まで行ったときには、写真の撮影はとっくおわっていましたわ」
 彼女の言うのは本当に思えました。ということは、私がどこかで間違いをおかしているということです。
 私は心のゆとりを失い、あらためて相棒の援助なしに、この夫人を自白に追い込むことができるだろうかと、不安になりはじめました。
 彼女もダネシュがいなくてさびしいでしょうが、しかし、私だって彼がいないと心細くなりそうです。
 こんな思いすら見抜いたのでっしょうか?
 彼女はゆっくりとした口調で言ったのです。
「主人の出発が何かの役に立つなんて、本当に、思ってもみませんでしたわ。あなたはご自分の事務所であの人を言いくるめようとなさったのね、あほらしいことをならべ立てて……。あの人ったらあたくしを一人にしておくことをすごく心配していましたけど、あなたが相手ならあたくし一人でへいちゃらよ。さあ、とっとと消えちゃいなさい!」
 彼女の最後の言葉は、私にはとても正確には再現できないような、彼女の世代特有の二重の侮辱的な意味をこめて早口に発せられたのです(たとえば、いま、私は、彼女が言ったのは「アホウ」であって「トロイ」ではなかったような気がしています)。
 私はこの厳しい反撃に負けまいとして、指を立てておどしをかけました。
「奥さん、まあ、お聞きなさい。ご忠告しておきますがね……」
 そこまで言ったとき、私は急にこの身振りがみじめったらしく、逆効果だということを認めざるをえませんでした。
「知っておりますぞ、あんたが何をやらかしたか。あんたは巧妙な手口でブルダ氏とそのお子さんを殺害されたのです。もちろん、わたしにゃ、とっくにお見通しの手口でですがね。仮に、スカーフみたいなものが、そのなかで使われたかどうか、また、あなたがその
写真に写っているか、写っていないかどうかにかかわりなくです  基本的事実にはいささかの違いもありません。当てっこ遊びが決め手です。つまり、あのかわいいお子さんを道具に使ったのです。時限爆弾に!」
 そのとき、はやくも彼女は私を放ったらかしにして、急ぎ足で去っていくところでした。私はこの最後の告発を彼女の背中にむかって、喧嘩してののしり合う子供のように叫んでいました。
 彼女は駆けだしましたが、私は二十歩ほどむこうからやってくる数人の通行人の注意を避けるために黙りました。しかし、いずれにしろ、彼らは注意を向けていたのです。
 まず、逃げていく女の方を見やり、それから私のほうに目を向けました。
 彼女がこの連中に助けを求めれば、私としては万事休すだったのです。
 しかし、幸いなことに彼女はそうはしませんでした。
 通行人たちは私たちが駆け抜けるのを黙って、たぶん、ほんの一瞬、足を止めただけで見送っていました。
 私は足を速め、駐車場の白線のところで彼女に追いつきました。
 彼女は車に乗ろうとして、ハンドバッグのなかをかきまわして鍵を取り出そうとあせっています。
 車がいっぱいです。私は車の列のなかへ一歩足を踏み入れたとたん、他人の好奇の目をすっかり忘れていました。
「まあまあ、ヴラスタさん。こんなふうに、私から逃げることはないでしょう。以前、私たち二人のあいだで、すべてをご相談しましょうとおっしゃったのはあなたではありませんか……」
「触らないで」
 彼女は叫びました。
「放っといてちょうだい!」
 彼女は小さなフィアットの鍵穴を手にしたキーで何度も突きましたが、興奮のあまりすぐには入りません。
「ほかに手はないと思いますがね」
 私はそう言いながら、鍵穴のまわりでカチャカチャと鳴るヒステリックな金属音から計り知れない新しいエネルギーを吸収しました。
「あんたも、大変なことをやらかしたもんですなあ。私にはもう何もかもわかりましたぞ。そして、あんたの逃れるたった一つの方法も考えてあげましたよ。
 いいですか、ようく聞いてくださいよ。
 昔は、死刑台に引き出された死刑囚の女を首切り役人だけは助けることができたんだそうですな    ただし、その女が首切り役人の愛を受け入れると言ったらです。
 そうしたら、首切り役人はその女を自分の女房にして、連れて帰ってよかったんだそうですな」
 彼女は答えませんでした。たぶん、私のたわ言を聞いていなかったのでしょう。
 気が狂ったように鍵穴に神経を集中していました。
 やっと差し込むのに成功して鍵をまわしました。
 ドアを開けると運転席にもぐり込んで、ストッキングに包まれた美しい足をもちあげ、何かにおどろいて一散に逃げ出すカモシカそっくりに、体のほうに引きつけました。
 彼女の体はすでに車のなかにあり、背中を背もたれにドンとぶっつけました。
 私にはもうどうしようもありません。
 エンジンが回りはじめたとき、私はドアのそばに立ちつくしていました。
 車はプラハ市内方面への道路に出るためにはバックしなければなりませんでした。
 私がかろうじて身をさけたとき、車はほとんど一センチのすきまもない、すれすれのところをすり抜けていきました。(テレビの映画で、追いつめられた犯人が追跡者に車をぶっつけようとやっきになってるシーンを見たことがありますが、そのときは、たしかひき殺したんんでしたがね)
 そのときヴラスタはバックをおわっていましたが、もちろん私のほうにせまってくる気配は毛頭なく、反対にできるだけ早く、遠くへ逃れようと懸命になっているのがはっきりわかりました。
 スピードをあげ、さらにアクセルを吹かせて……。
 私は駐車場の油に汚れたコンクリートの上にとり残されたまま、獲物が頭をふって髪を片方にまとめ、一心に前方に注意を集中して、逃げていく様子をじっと目で追っていました。
 それから、どのくらい時間がすぎたかわかりませんが、せっかくの獲物を逃がしてしまったという実感がやっとわいてきたのです。
 風は静まり、空はいぜんとして晴れわたっていました。
 正午をそれほど過ぎてはいないはずです。

 飛行場に住むのはむりです。いろんな人びとのなかでも私の場合はとくにだめです。ちょっとした短い旅行なら全然、異存はありませんがね、それでも、自動ドアの前に来ると少しめまいを覚えます。
 何人かの旅行者を目で追い、仕切りのむこう側へおとなしく消えていく様子を見つめます。そのあとは、この場を後にすることを考えます。
 彼らは空中へ飛び立つことを、そして私は古巣へ帰ることを。
 第二種住宅の我が家の暖かさ、テレビの画面、手のとどくところに置いたビールの瓶。 かくして、すべては快適です。
 しかし、今日は事情がことなります。第一、まっすぐ家に帰るわけにはいきません。
 まだ勤務時間が残っています。そんなわけで、私は仕事を片付けに事務所へ急ぎました。 運命のいたずらか、廊下でイヴォナに出くわしてしまったのです。トランジスター・ラジオのスイッチを切ると、静かになったなかで、大声で呼びかけてきました。
「まあ、おどろいた。なんて顔していらっしゃるの、マトラッチさん。どうして、出ていらっしゃったんですか、病気だというのに?」
 私は洗面所に駆け込み、鏡をのぞき込みました。
 あのばか娘が私をあわてさせたのです。
 舌を出して、何か変わったことはないか見てみましたが、大体、いつものとおり、面の表情もいつもより青白くなっているとも思えません。ただ目だけが濁っていると言えば言えなくもないし、多少、熱っぽい感じを示していたかもしれません……。
 腕の時計を見ながら脈をはかってみると、十五秒間に二十二回打っていました    なあに、熱などありません。
 明かり取り窓だっていつもより開いていませんし、水洗の音までがいつもと同じじゃありませんか。
 要するに、イヴォナはイヴォナ流の娘らしいやり方で、私にたいする気づかいを示してみせただけの話、あの世代の娘がなにかにつけて「スゴーイ」というのと同じだったんでしょう。
 それにしても、私が満足のいく状態ではなかった、正常でなかったのはたしかですよ。 病気が私に取りつこうとしているか、もうすでに骨の髄までしみ込んででまったかですよ。もしかしたら、本能の声にしたがって、飛行場からまっすぐ古巣へ姿を消したほうが正解だったのかもしれません。
 ちょうど、今も、私がブルドヴァー夫人に処刑台から逃れる唯一の方法について、入れ知恵をしたときの意識がふたたび強くよみがえってきたのです。
 まったくのところ、こんな中世時代の慣習がいつ私の頭のなかに忍び込んできたのですかね?
 私はいつも十分考え抜いた事柄しか口にしないと断言していましたが、この種の問題にかんして、前もって十分考えたということを、今のところまったく思い出せないのです。 もちろん、本質的には空想の産物ではありません。首切り役人がそういった権利をもっていたのは事実なのですから……。
 ただし、その前に、死刑囚の女に焼印を押しておかなきゃならんのです  そのことにかんして本で読んだことがあります。
 罪人に目印をつけるための鉄の焼き鏝というのをこの目で見たことがありますよ。
 木の柄のついた便利なスタンプみたいなもので、きれいに磨きあげられて、ほかの拷問道具と一緒にどこかの城の地下室に並べてありました。
 私たちはそこへバスで行ったのですが、家内の注意を引いたのは、むしろ骨折道具のほうでした(家内がスペイン靴のネジのほうを差したとき、突き出した顎が今でも目に浮かびます。そして「今どきの髪の長いヒッピーにあれをはかせてやったら、すぐにでも、しゃんとなるだろうにねえ……」と満足げに言ったものです)。
 しかし、こんな荷車の車輪の形をした小さな焼印のようなものなど、まったく私の興味を引きませんでした。
 金属の部分には汚れもついてなく、想像力をまったく刺激しないのです。手入れのいきとどいた外科医の道具みたいにピカピカに光っているのですからね。
 首切り役人は  けっしてハンサムではなかったとしても、その反面、熟練した指をもっていて、しかも人体の解剖学的知識をもそなえていたので    その誰もがすぐれた医者だという評判も取っていたのです。
 公務を執行するときは目のところをくり抜いた頭巾をかぶっていました(ほうら、私みたいな顔をしていたんですよ)。もちろん、みんなは彼をよく知っていたし、まさかのときには、むしろ彼に助けを求めたくらいなんですがね。
 それでも酒場では隅っこの特別の席にしかすわってはいけなかったし、家だってほかの人たちから離れたところにあったのです。
 彼の世話を誰がしているのか、そのことを誰も気にしなかったわけではありません。
 ばかな連中は焼印があろうとなかろうと、首切り役人の女房を毛嫌いしましたからね。 女にしても自分をいちばん気に入って選んでくれたからには、自分の主人に冷たくするはずはありません。
 拷問のさいにも、白いのや、茶色のや、細いのや太ったのや、たくさんの肉体が彼の手を経ていったのです。家へ連れて帰れるのは一人だけ……
 こういった類いの空想が私の頭のなかにわいてくると、もはや私はそれを抑えられることができなくなってしまいます。頭のなかは急にいっぱいになり、作り話の一つやそこいらをひねりだすくらいのことでは満足できなくなるのです。
 刑務所や拷問室からむき出しの生殖器が雪崩のように襲いかかってくるのを前にして、もどかしげに溜め息をつくだけです。
 それにしても、私の記憶は、イタリアのあるデッサン画家の版画集のなかの絵をなんと正確に写しとっていることでしょう。
 ともあれ、人間というものは、こういった類いの記憶をすべて体のなかに入れてもち歩いているんですね。そして、これらの知識と言うのはのんびり古い城の見学にいったときとか、歴史の本をひもとく際に、少しずつため込んでいたものなのです。
 ところがそれら記憶のおおいは二重底になっていて、通常は現実という上床におおわれていて、なかなか表に出てくることはないのですが、ほんのときたま、その上床の現実が機能不全におちいり、使用不能になるようなことが起こると……
 そのようなとき、うずもれた記憶は目を覚まして、機を見て、機能不全の上床のうえにはい出してきて、現実から新しい内容を受けとり……
 首切り役人の特権にかんする話は、長いあいだ私のなかで、その機をうかがっていたのです。そして私が獲物の逃げるのを見て、ほかに適当な方策も思いつかずに、ほとんどパニック状態におちいろうした瞬間をねらって、不意に言葉になって出てきたのです。
 それから……ですか?
 足を体のほうへ引きよせるようにして、運転していってしまいましたよ。
 私にたいする憎悪にふるえながらね(鍵穴のところでカチャカチャ鳴っていたキーの音の、なんと狂気じみていたことでしょう!)。
 しかし、その一方で、私は別のことを信じこもうとしていました。
「なあに、じきに落ち着くさ、車が市内のほうへ何キロか近付き、車が別の環境の刺激に取りかこまれるころにはね……」と。
「夜になれば、もっと落ち着くだろうよ」と私はなんの興味もない書類を処理しながら、まだ自分を説得し続けていました  今はただ仕事のおわる時間までを、なんとかしてすごさなければならないというだけでした。
「夜になればもっと落ち着くさ」
 車の納まったガレージ(私はこのガレージを知っています)のドアが閉まり、二階の厚地のカーテン(これも私は知っています)のむこうに明りがともります。
 我が家の耳なれた物音は、飛行場とは異なった作用をヴラスタにおよぼすでしょう。
 すべての鍵をかけて戸締まりをして、外界との交流を絶ってしまうと、このように市内から遠く離れた郊外の邸宅のなかの静けさは、きっと甘く、柔らかで、安らぎに満ちたものになるに違いありますまい。
 あとはバスタブにお湯をはり、悩みのあかを洗い流せばいいのです。
 バスタブのなかにひたったとき、完全な落ち着きを取りもどすでしょう。
 彼女はこの長い一日のあいだに起こったことをぼんやり思い返します。この罠から抜け出す道は一つしかないという私の忠告は、たとえ彼女の頭から払拭することはできないまでも、もはやこの瞬間には恐怖を感じさせるほどの力は失っていることでしょう。
 ゆったりとバスタブにひたるヴラスタは、もちろん、飛行場で恐怖におののいたカモシカとは完全に別の人物なのです。
 今はむしろ大きな白い魚に似ています。
 なめらかなシャボンの泡のなかにひたり、かすかに開いた口をして、今日、彼女を飛行場でおびやかした事件をあらためて思い出しています。そして「ああ、おもしろかった」と言わんばかりに、記憶の片隅へ追いやってしまうのです。
 平静なときのヴラスタは聡明で、ほとんど冷淡とも言えそうなくらいです。
 それに、何でも、ゆっくり落ち着いてやってのけられる人間なのです。計画を実現させ、前進させるためなら、絶対、尻ごみなどしません。
 今だって計画が変わったわけではないのです。
 第一、ダネシュのことがそうじゃありませんか。ダネシュを犯罪にかかわらせていないという事実。愛する人はそのままそっとしておく。マツレの事故の本当の原因を知らせてはいけないのです    そうでなくては、すべての努力が水の泡となっていまいます。
 この計画にとっての危機は検閲係「HM」によってもたらされたのです。
 この想像たくましい危険人物は取り引きしようと申し出て、今日は自分から買い値まで口にしたのです。普通なら、最初に出された付け値をめぐって話し合いや交渉の余地があるはずです。
 私が本当に狂犬みたいな人間なら、ひたすら妥協の余地など見せず、狂信的に、頑固にその値にこだわるでしょうが、この検閲係は幸いなことにそんなタイプじゃありません。 結局のところは、今日だって、でたらめに言ったにしてはずいぶんと低い数字で、けっこう満足したような顔をしてたじゃありませんか。
 多少、滑稽な老……――まあ、ここでは「紳士」と言っておきましょうか――に見えなくもなかったようですがね。
 それに第一、指には古風な結婚指輪をはめ、家にはたしかに老妻がいるのですからね。 誰かさんを刑場からひっさらって行くったって、一体、どこへ連れていけばいいのです。 それに、どうあつかえばいいのです?
 保険局の下級職員ふぜいの安月給じゃ、二重生活を営むなんてとてもとても……。
 第二夫人を第二の住宅に住まわせておくなんて、できる相談ではありません。
 この人物はたぶん自分が何をしたいのか、何ができるのか、自分でもはっきりわかってはいないのですよ。
 きっとテーブルの上のパン屑みたいなちっぽけな余禄が得られればいいのにと思っているんでしょう。
 たとえば、普通よりは刳りの深い胸元から……(しんと静まりかえったなかで湯ぶねにひたり、こんなことを考えはじめると、これまた容易には落ちそうにもないタイルや自分の体の汚れなど、とんと気にもならなくなってしまいます)。
 夫人の心はますます落ち着きをまし、やがて眠くなります。
 そして明日の朝、保険局に電話しようと決心するのです。
「マトラッチさん、昨日のあなたって、とても変でしたわよ。おまけにわたくし、主人を見送ったばかりのところだったでしょう……。もちろん、今だって分別のある者同士でお話しできますわよねえ。何でしたら、あなたの事務所で、いかがかしら?」
 そうですとも、きっと、こうなりますよ。
 朝、一〇時なんて、そんなに早くはないにしても、まあ、それから一時間くらいのあいだにはね……。
 それとも十一時をすぎたころですかね。それが彼女にはぴったりの時間ですよ。
 予告もなしにノックの音がして、ドアのところにはもう彼女は立っている。
 甘い香りがただよい、彼女は髪をふって……

 私もいまバスタブにひたっています。我が家の浴室は古い貸家のなかの一角を占めています。排気口は暗い穴に向かって口を開け、深い静寂へと通じています。
 それはたぶん、我が家でのみもちうるぜいたくなのかもしれません。
 私の頭上に張られた紐には女物の下着がかかっています……。
 それでも湯はほどほどに暖かく、気を静めてくれます。
 私はブルドヴァー夫人もこんなふうに、気を静めているだろうと、かたく信じていました。私は彼女のことをクリスマス料理の白い魚のように思っていたのです。袋に入れられて大切に運ばれ、今はまた、家庭のごく自然の生気に取りかこまれているのでしょう。
 悪いことなど起こるものですか。目下のところは危険がせまっているようにも思えません。
 神に栄光あれ……
 私はまるで不安ではなくなりました。
 そうですとも、イヴォナがばかなことを言ったんです。私が病気になるなんて……、理由がありませんよ。それに魚は私のものなのだから。
 すべては完璧の仕上がりです。
 次の日、電話は沈黙していましたが、私は終日、平静をたもっていました。
 仕事は山ほどありましたし、十一時をすぎても私は時計に目もくれませんでした。
 いつもの調子でタバコを吹かし、食堂で食事をとりました。
 誰かが柔らかいセーターを着て、やさしくボーイフレンドと話をしていたはずです。
 しかし、何か重大事にたいする期待の黒雲が私の頭をおおっていて、そのような日常的な出来事はどうでもよくなっていたのです。
 午後になって、イヴォナが二、三度、私の部屋に入ってきました。
 ラジオを鳴らし、私の体をまたも気づかって、目をぎょろつかせていたかどうか……? 変わったことは何もないまま一日はすぎて、夜。
 そして次の日。
 デスクは新しい書類でうずまり、古い書類が一部だけ、手も触れないまま放置してあります。開ける必要もありません。
 ブルドヴァー夫人のヌードなら、砂浜で身構えた写真よりも、はるかにおしげもなく開放された姿が書類の表紙をとおして放射してきます。
 私の頭のなかではバスタブのなかと同じに開けっぴろげに横たわり、輝いているのです。
 バラ色の確信が「すべては完璧な仕上がりだ」という文句を私にくり返しささやきます。 どう完璧なのか私にもわかりません。
 このことにかんして、私はもはやもっともらしい作り話ををすることもできません。――じゃ、ブルドヴァー夫人が現われるまで、彼女のことは考えないというのか?
 たぶんな  まあ、そのつもりで腹を決めるのは結構だがね。しょせん、むだだよ。一番いいのは成り行きにまかせて、果報をまつことさ
 白魚は不安がりもせず、愛撫されるにまかせ、体中を目でなでまわされるのです。
 しかも、その間、無感覚と思われるほど冷淡なのです。
 それでも私は彼女がほしいのです。ほかの彼女なら要りません。
 私は相当な年を重ねた人間で、なんの取り柄もありません。世間の哄笑は望むところではありませんが、かといって、苦労をしてまで自分の能力の限界に挑む気もありません。 たぶん、とらえた魚を目で楽しみ、勝ったのだということがわかればそれで満足なのです。
 家内にしてみれば、狩猟をしても獲物の肉を味あおうとしない男たちや、マス料理の香りに食欲も感じなければ、鯉料理のたっぷりたれた黒ソースのなかのレーズンの味を思い浮かべない釣人など、お笑ぐさでしょう。
 ヘミングウェーが追い求めた、あの孤独な追跡、ごうぜんとかまえた野獣との息づまる決闘、このようなすべてがもっている、あらがいかたい魅力など、家内にはとうてい理解できるはずはないのです。
 ヘミングウェーの漁師はもちろんとらえた大魚を死なせてしまいます。
 アフリカについての本のなかでも彼は退屈に向かって撃って撃って撃ちまくります。
 美しい角を求めて、縞の毛皮を求めて、スポーツを求めて、それでも弾は撃ち続けられ、大平原の草の上には赤い血が、苦痛の痕跡が永遠に跡をとどめるのです。
 私だっていつも、今みたいなおとなしい狩人とはかぎりません。
 私だって自分の獲物を仕止めて、倒し、ピクリともしなくなったところを見たいですよ。 つい、せんだっても、獲物にせめて焼印を押そうととたではありませんか。その後で、たぶん背中をたたいて言ってやるのです。
「さあ、急ぐんだ、このアマ。命を助けてやる!」
 しかし、こういう女の額に焼印を押すというのは、肩口に弾を撃ち込むのと同じに、致命傷になるんじゃありませんかなあ?






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