(11)
白い朝が来ました。初雪が降ったのです。
十二月に入り、クリスマスまでに二週間を残すのみとなりました。
私は白い雪の羽毛におおわれた屋根を見ながら白い息をはき、微笑みました。
湯ぶねに浮かんだクリスマス料理の白い魚のイメージが、まったく奇跡的に狩猟マニアか少なくとも刑罰執行吏の偏執を跡形もなくきれいにぬぐい去っていたのです。
私はどうも腑に落ちないと頭をひねりました。ブルドヴァー夫人は殺人をおかし、くだけた子供の顔や厳かに沈黙をまもるブルダ技師の表情が彼女の良心に焼きついているはずです。そんなことくらい私にだってわかりますよ。
写真の背を向けた人物がまったく別人だったということを私に断言したのはつい先日のことでした。この証言が私の E=mc2 に影響を与えはしないとはいうものの(だって、変装をしなくてもカーブのところで待つことはできますからね)、この事実を無視するわけにはいかないでしょう。危険信号としてね。
たしかに、私はしばしば誤りをおかしましたが、いまさら、この告白を初めから一ページ一ページ読み返して、これまで私がおこなってきた推理がこの事件の真の進行と何回はずれたかを数えあげる気にはなりません。
だって、その結果、もしマツレで犯罪がおこなわれたという仮説全体が誤謬にもとづいていたなんてことになったらどうすればいいのです?
あそこでは刑事事件にの対象になるような事実はなく、ヴラスタは無実であるとしたら? そうは言っても、ブルダ氏が自ら深淵に飛び込んだからには、それだけでも彼女は完全に無実だとは言えないのではありませんか?
それにしても、女の罪というのは、たとえ目に見える形の悲劇や当局の追及の対象となるところまではいかなくても、大勢の人が大勢の人にたいしておかしているのと同じ犯罪の範疇に入るのではありませんかね?
私はじっと待っていました。
仮に、ヴラスタが直接、私を訪ねて来ようと、ほかの何らかの方法で解決とか妥協を提案してこようと、私はすべてを成り行きにまかせようという気になっていました。
肝心の書類はずっとここに置いたままですし、彼女のほうからの要請がない限りこの書類に手をつける気はありません。
上役をとおして苦情がきたとしても、私は恐れはしません。
まあ、この二、三週間というもの、探偵ごっこで結構、楽しんだことを思えば、まるっきりむだではなかったわけですからね。
たとえ、小言を食うことになったとしても、少しでしゃばりすぎだといわれるのがおちでしょう。私は生きのびますよ。
しかし、何はともあれクリスマスが近付いています。空気のなかにそれを感じます。この雪、この息、屋根の上のやわらかなふくらみ、傾いたテレビのアンテナ、古い広告の宣伝文句の断片、白い雪で清められたすべてのもの。
家内は例年のごとくビスケットを焼く夜なべ仕事にかかり、テレビの画面のかわりにオーブンのなかの鉄板を見つめています。
この世のものとも思えぬいい香りがただよい、寝るまえのお楽しみにいつも失敗したのや、ちょっと欠けたのを皿にのっけてもらうのです。
お楽しみとは? クリスマス・イヴから大晦日までのあいだに、私は贈物の新しい上履きを下ろします。そのほか食卓の御馳走があります。コケモモをそえた七面鳥。パリパリするくらいに焼き上げたビスケット。大皿の上に少なくとも二キロは盛り上げます。
これを平らげるには、せいいっぱい食べても四月ごろまではかかるでしょう。
言ってみれば、クリスマス気分が私の想像力のアンテナをすっぽりとくるんでしまい、感度をにぶらせてしまったのです。
そんなわけで、この書類がなぜ私の机の上に依然として放置されたままなのか、完全に忘れてしまうくらいで、その書類のほうに手をのばし、ほとんど手に触れようとする瞬間になって、やっと思い出し、ほとんど弁解に近いテレ笑いを浮かべながら、その手をひっ込めるのです。
息をもつかせぬ緊迫した狩猟は、今や、気の抜けたゲームになってしまいました。
いったい、こんなゲームを続けることに意味があるのでしょうか?
飛行場へ言った日から四日たったな、あれは十二月十一日だったが、と私は考えていました。するとちょうど十一時に、電話のベルが鳴ったのです。
私にはそれがいつもとは違うベルの音に思えました。受話器を取って私は答えました。「マトラッチです」
すると、電話のむこうから妙にあらたまった娘の声が聞こえてきましたが、とっさに、その声の主が誰だか、どこからかかってきたのか判断がつきませんでした。
「失礼ですが、マトラッチさんですか」とその声はたずねました。
「あなたさまは、わたしどものヴラスタ夫人をご存じでいらっしゃいますね?」
「ロマナさんじゃありませんか」
私はそう息とともに言い、ふと胸の騒ぎをおぼえました。
「何かかわったことでも?」
電話のむこうで娘は心の底からこみあげてくる感情を一心に抑えようとでもしているかのようでした。しかし、それと同時に、自分の報告の異常な重要性を噛みしめているかのようでもありました。
「わたくしたちはお知りあいの方々みんなに、ご通知をお送りしているところでございますが、ヴラスタ夫人の手帳のなかのいくつかのお名前が……」
ここでちょっと声がつかえました。
「失礼しました……いくつかのお名前に、あなたさまもそうなのですが、電話番号しかありませんので、せめてお電話でお知らせするだけでも、いたしたほうがよいのではないかと、今日、気がつきましたものですから……」
「どうしたのです、さあ、はやく言ってください!」
「明日、埋葬がおこなわれます。四時半から、シュトラシュニツェ墓地で……」
「待ってください。すみませんが……事情を少しくわしく教えていただけませんか。私は何も知らないのです」
「新聞に事故の記事が小さく出ていただけで、名前も書いてありませんでしたから、ほとんどの方がお気づきにならなかったようですわ。
でも、そのことは、お気の毒に、ご主人さまのご出発を飛行場に見送りに行かれた、その日に起こったのです。その帰りに、リボツェ通りとの交差点で、トラックが飛び出してきて彼女の車に衝突したのです。
フィアットはめちゃめちゃになって、彼女は即死でした」
「彼女はぼんやりしていたんじゃありませんかね……悲しい別れの後だったので……」
「トラックの運転手も何かそのようなことを言っているのだそうですが、なにしろ運転手
の血液のなかからアルコール分が検出されましたので 誰も信用しませんわ。彼は逮捕
されて有罪になるでしょう」
「あなたはどう思います、ロマナさん?」
「もう、すんじゃったことですもの、同じことですわ。わたくしたち、まだ、みんな泣い
てますのよ……あんな素敵な方だったのに、なんでもできて……この夏に、あんな悲惨な、
悲しいことがあったばかりなのに……今度は、また、結婚式のあと二、三日でご主人を見送りにいって……」
「ダネシュ技師ですね……もう、プラハにもどられたのでしょうな?」
「リボルさんもご存じなのですか? やさしい、すてきな方ですわ。もうもどられました。昨日のお昼に。すっかり力を落とされて……わたくしたちもそうですけど。
それではマトラッチさん、正式のご通知をお送りいたしましょうか? それとも、これでよろしいでしょうか?」
私は礼を言い、受話器を置いて、長いことじっと動かずにすわっていました。それからやっとこの不幸な書類を引きよせ、主任が「決済へ、OH」と記したところを開け、「支払い許可、HM」と書き加え、日付も記しました。
しかし、できるだけ読みにくく、しかも 慣例に反することではありますが いつ
わりの日付を、十二月十一日ではなく、十二月一日と乱暴に書きなぐったのです。
こんなことは誰も気づきません。もともと、これと同様のこまかい点は問題じゃないのです。経理部は機能を開始し、保険金の受取人であるヴラスタ・ブルドヴァー夫人の死亡のため配達不能として返送されてきます。
そこで当局の司法部は遺産相続の適格者を確認し、記載事項変更のため関係者たちを呼び出し……。
でも、このような手続きはだらだらと何カ月もかかるものです。
それにダネシュ技師は金のためにあくせくするタイプではありませんからね、このようなものは目にするのもいやでしょうし、同時に、ヴラスタ夫人のまえのご主人の死と関係のあるものははっきり避けようとするでしょう。私のことも同様に……。
「HM」という記号の下の日付は形式です。
ただ、私のような几帳面な人間だけがこのようなことに気をまわすのです。私もまた大急ぎで書類配送係を呼び、私のところの置きっぱなしの書類を回送するよう命じました。 私がこの書類に目を通すのも、何枚かの写真を目に収めるのもこれが最後でしょうに、その時間ももう何分もないはずです。
とくにこの写真を。
美しい若い女性が笑っています。首を左にやや斜めにして、豊かな髪もまた左のほうに……。耳はあらわに、そしてイヤリングの環が耳たぶを貫いているのがわかります。
おそらく、金のこの小さな金具だけが彼女の裸体につけられた唯一の異物でしょう。
それがまた、彼女の耳を小さく見せ、さながら彼女の裸体に無垢な少女の魅力を与えているのです。
イヤリングの下にはピンと張った首の筋肉が浮き出し、その下で二本の腕がオッパイを隠し、わが胸を抱くかのように肘を前のほうに突き出しています。両足を折り、斜めに傾けた膝で腹部をも隠しています。
このかわいらしいひな鳥の全体が、おびえて身を守るかのように、われとわが身のなかにもぐり込もうとしているかのようです。そして、はからずも解読不能の暗号を作り出しているのです。
たしかに彼女は楽しげで、大胆で、挑発的でもあります。手足はすばやくからまり、叫んでいます。
「解けるものなら解いてごらん。でも、あんたなんかにできはしないわよ! どお、やってみる?」
私は机の上に手を置き、頭をたれました。すべてが私に痛かったのです。
今や、私の内部で抗議のうめきが渦巻いていました。
だいたい、こんなことが本当のはずがない。彼女の事務所の娘が言ったことは作り話の結末としては、まるでめちゃくちゃじゃないか。
飛行場にいったあの日の夜、湯ぶねのなかで私はたしかにヴラスタを見たんだ。彼女だって、そのとき……、もうすでに、彼女は、そのとき、解剖台のうえに横たわっていた。 それとも、霊安室に……
あの交差点に彼女を追いやったのは私なのだろうか?
勝手な言い訳をする酔っ払い運転手。男は彼女の運転のほうが無茶だったと抗議する。もちろん、そんな抗議がなんになる。彼は逮捕され、有罪になるでしょう……。
しかし、現実に、またもや不可解なことが一つ加わったのです。
その不可解を追及するのは誰だろう。どこかの暗号解読手が、いま、「ブルドヴァー夫人がどうして死ななければならなかったのか」と疑問を提示しています。
犯人は アルコールか?
それとも免許を取り立ての、未熟な運転手の自己責任なのか?
それに、獲物が極度の興奮状態で行動したらどうなるでしょう?
ひょっとしたら、追いつめられた動物のように、それどころか、良心の呵責にさいなま
れた人間が否応なしに自分自身を抹殺しようとするように、彼女も無意識の自殺行為に走
ったのではないでしょうか?
最初、私はマツレの事故の裏に隠された真実を追及しようとしたのですが、いま、それにリボツェ通りの事故がくわわったのです。
不思議な事故というのは、たしかにたくさんあるかもしれませんが、このような無残なものは一生のあいだにだって、そうざらにあるものじゃありますまい……それとも、ありますか?
そもそも死は死以外の何ものでもなく、すべては死に帰結せざるをえません。
そして、死はどれも顕在的、潜在的、あるいは、まったくわけのわからない多くの要因の結果なのではないでしょうか?
それにしても、死には明確な違いがあるのです。ヘミングウェーの漁師は魚を自分のものにすることはできませんでした。港につくまえに鮫に食いあらされたからです それにもかかわらず、ドラマは心あたたまる教訓を残しておわるのです。
そして肉を食い取られて骨だけとなった魚の残骸のそばで微笑がかわされるのです。
漁師と魚との戦いはむだではなかったのです。実力は示しえたのですから。
私の物語からは、いったい、どんな教訓や微笑が生まれてくるのでしょう。
ヴラスタ夫人の運命にたいして、もっともらしい説教をたれることくらいはできるでしょう。「策士、策におぼれる」とか「奢るもの久しからず」とか……。
自己弁護として私に言えることは、犯罪をつきとめることに貢献したとか、『野生の王国』のハイエナのように、種族の繁栄をさまたげる不適格者を清算するのに協力したと言うことくらいでしょう。
もちろん、そのためには、ヴラスタが本当に殺人をおかしたという疑う余地のない証拠をもっていなければならないでしょうがね。
その証拠が私にはないのですよ。それに、私の正当性を判定し、私自身の潔白、狩猟家としての純粋さを証明するものさえありはしないのです。
ハイエナは本能にしたがっているのであって、それゆえにハイエナが弾劾されるいわれはないのです。毒蛇にしても毒牙のせいで非難されるいわれはありません。
しかし、人間の場合は、武器を自分で選ぶのです。自分で判断し、自分で決断しなければならないのです。あるいは、決断できればいいのです。
ところがどんな人間が決断できるのでしょう?
ヘミングウェーが狩猟家として純粋に誇り高くあろうと努力してきた、その生涯の結末として、彼が自ら決断したものは何だったというのです?
自分の立てた計画を実行し、その体験談を書き続けた彼は、キャップテン帽をかぶった自分の顔に散弾の雨をあびせたじゃありませんか。
作家にとっても実人生がうまくいくとはかぎらないのですよ うまくいくのは本のなかだけの話でね。
私の場合はどうなんでしょう?
大草原や原始林、いったい、おまえはどんな物なのだ? アフリカ、アメリカ。私はピラミッドも見ずに死ぬのです……
もうすぐクリスマスです。私は手の上に頭をもたせて、じっとしていますが、心のなかでは、もう、どう手をつくしても取り返すことのできない、甘く美しい女性への渇望が私を責めさいなむのを、ひしひしと感じています。
このような気持ちを、私は、これまで一度も経験したことがありません。
また、このような渇望がどんな飢えより、渇きより、不眠より、人間を焼き、こがし、内臓を苦汁でみたし、脳みそを爆発させるかを、一度だって想像したことさえなかったのです。
どうか教えてください。どうしてこんなことがありうるのか……。
あの日、駐車場で私の下卑た性根の総ざらいをしたあと あの駐車場こそ、やがて彼女が身を滅ぼすべき迷宮の最後の壁の一歩手前だったことも知らず 私は家に帰り、湯ぶねにひたり、欺瞞にみちた天使の物語などを語っていたのです。
神に栄光、家内のビスケット、二キロの山盛りなど……
きっと私もこれ以上、生き続けることはできないでしょう。私にとってもすべてがおわったのです。私も白い魚をとらえたのです。しかし、「無」です。
私は自分の醜悪さにたいする確信のほかには何の報酬も得なかったのです。しかも、この確信すらも新たなものではありません。
だからこそ、私はずっと前から鏡のまえに、何の役にも立たない醜い犬面のまえに立ち止まらなかったのではありませんか。
やっと、シラミのイヴォナが ノックもせずに、これもまた、めずらしいことに、ジャズの音楽もなしに 入ってきました。彼女は私のいつにない様子に目をまるくして言いました。
「ほら、ごらんなさい。だからいったでしょう。家でおやすみしてなくちゃいけないって――だからそんなふうに机のうえに……」
私は顔をあげ、ブルダ事件の書類を渡しました。
それまでその上に、私の手があったのです。
「あら、ぬれているわよ」
彼女は驚いて叫びました。
そしてしばらくの沈黙のあとで、すでに、ドアのところから、もう一度、声をかけたのです。
「うちの課では、あなたのこと、自分にも他人にも冷淡で、計算がちょっとできるだけの冷血漢だって話してるけど、あたしは、そんなこと言わないわよ」