ノルベルト・フリート (Norbert Fryd,1913  1976)

 本来の名は Norbert FRIED だったが、一九四六年に公式に FRYD に改名された。
 両親は商人であり、父方はチェコ人、母方はユダヤ系ドイツ人であった。フリートの生地チェスケー・ブジェヨヴィツェで小学校、およびドイツ系実業ギムナジウム(1932年卒業)、カレル大学法学部を卒業(1937)後、同大学文学部(論文『チェコ・シュール・レアリズムの起源』はすでに1937年に提出されていたが、博士号は1945年になって承認された)卒業。
 30年代の半ば、文化・政治活動「左翼戦線」に参加したが、その頃、E・F・ブリアンに緊密な協力関係をもち、彼の劇場のために『プレティハ旦那』(1935)、『乞食オペラ』(1935)の劇中歌の歌詞を書いた。
 また、多くのユダヤ系芸術家(H・ボン、R・グットマン、J・ハイスレル、J・オルテン、J・タウシッヒ、その他)と緊密な関係をたもっていた。
 1936年からは映画会社「メトロ−ゴールドウィン−メイヤー」と「RKO・ラジオフィルム(1939年まで)の台本家、編集員、ドラマトゥルクとして働く。
 1939年9月、公職からのユダヤ人の追放のあと、古文書館官員となり、のちにプラハのユダヤ人社会で労働者の助手となる。
 1942年11月から1944年9月まで、テレジーンの強制収容所に入れられ、その後、オスヴィエティミエ、ダハウ−カウフェリンクと移されるが、1945年4月にダハウ−カウフェリンクの収容所から脱走(彼の父、兄弟、妻は死んだ)。
 テレジーンのゲットーでは、とくに、青年たちの集団生活のなかで教師をつとめた。子供のための諺と歌の本『花飾りの馬のABC』(作曲家K・ライネルと協力による)を編纂し、また、E・F・ブリアンの台本による大衆劇『エステル』の上演の演出をする。
 1945年5月、バヴォルスコのアメリカ軍の査問委員会の通訳となり、秋にはダハウSSにたいして告発証言をする。
 帰国後はチェコ共産党の委員、および新聞記者として活動。
 1947年、メキシコ大使館の文化担当官となり、1948年と49年の変り目にアメリカに転勤。
 1951年から53年までチェコスロヴァキア放送の編集員。その後、職業作家となる。
 1951年から70年代の初めまで、ユネスコの代表として活動。さかんに旅行をした(最初は1937年、イタリアとユーゴスラヴィアへ)。とくにヨーロッパ、中南米(1960年代に再度)へ旅行した。
 作品発表は、1929年に雑誌『Tramp 』に。30年代には定期刊行物『夕刊芸術・D34』『プラゲル・ターグブラット』、および、とくに『ハロー新聞』(そのなかで、1934−35年のあいだに、子供用付録『ホラヘイ』を編集)
 1945年以後は、とくに定期刊行物『文学新聞』『文化』『インパルス』『プラメン』『創作』に作品を発表した。
 1945年には雑誌『演劇』に喜劇「道化師たちの夜」(Noc kotrmelcu )を発表。
 1930年代の半ばからはチェコスロヴァキア放送と協力(とくに短編「ディツコ・ガルザの二度目の死」1952  の劇化)。
 1950年代の末からはチェコスロヴァキア・テレビとも仕事をする(たとえば、彼の短編「首切り役人は待たない」1972 の劇化)。
 フリートの作品のいくつかはチェコスロヴァキア・フィルムが映画化した(子供用の動画、二作品。「鳥たちはなぜ電話線に止まるか」と「バスは音楽を確かにする」1948、Z・ザイドゥル演出。作品集『バスを放送に入れてください』による子供向きの短編ドラマ「ピオニールのABC」と「魔法のボール」1948、Z・バロフ演出)。
 1946年までは彼本来の名前とその変形ノラ・フリート(Nora Fried)を使っていたが、友人のペンネームのフランタ(「トランプ)やエミール・ユネク(ナチス保護領時代)も使った。
 フリートの作品は人間の運命への関心の広がりによって徐々に明確になっていく。
 1940年代の初めまでに、ドイツ語で書かれたプラハにかんする詩によって出版デビューをした。その後、チェコ語で自己表白的抒情詩や子供のための詩を書いた(戦後、一部は「兄弟ヤン」と「花飾りの馬」などの本におさめられた)。
 この時代にはまた、短編のジャンル(「低音を放送に入れてください」)ばかりでなく長編をも試みた。これらの長編作品は歴史的類比性をもって、第二次世界大戦の開戦当初の時代的雰囲気や人びとの生活体験の実存主義的分析をこころみたものである(「奇妙な小歌」「ドン・ファン、劇場へ行く」)。
 同様、戦後もフリートの作品にはジャンルの多様性が圧倒的である。
 旅行記(レポルタージュ「メキシコはアメリカにある」「微笑むクワテマラ」)、冒険小説(『原始林』『王妃』)、滑稽物語『道化師たちの夜』、また専門的な出版物『メキシコのグラフィックス』などにおいてはアメリカ大陸滞在から素材を得ている。
 しかし、彼は時代的イデオロジックな要求にも(『コンドルの井戸』『大天使の剣』)、建設者文学のノルマにたいしても(文学的レポルタージュ『炭坑夫・ガヴラス』)応えようと努力している。
 その後、彼はまた小人物たちの生活における道徳的矛盾についての心理学的作品をも書いている(これらの作品はチクルスの形で『三人の小さな女』『三人の下種な男』にまとめられた。「無実の手で」は後者の第三作)。
 彼の最も個性的な創造領域となったのは、チェコのユダヤ人たちの運命について、自伝的要素の強い作品である。強制収容所の体験はロマン『生きた人間たちの箱』のなかにとらえられている(続編の構想は未完の手稿のかたちで残されている)。
 その後、彼自身の家族の三世代とその没落を歴史に一致させようとする努力を年代記的三部作によって試みている。この作品は彼の語り部的才能と本物の人間の運命と時代のより普遍的描写とを結びつける能力を証明している(『値段のない模様と教区牧師』『絹地のような心配』『瓶に入れた郵便』、小話的形のゆるやかな結びつきの続編『逸話のたくさん入った戸棚』)

 以下、文献    省略






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