(1)
この物語は次のヌード写真を……おっと、失礼……次の事件記録を手に取って、そのファイルを何気なく開いた瞬間にはじまります。
開いたのは事件記録の第一ページではなく、薄い紙をとじた書類のなかの、どこか先の真ん中へんに、何かがはさみ込まれていて、それがなんともいえず、指を誘い込むような割れ目を作っていたのです。
私は何という思いもなしにファイルを開きました。
するとどうでしょう、私の前に、まさしく、ヌード写真が現われたのです。
砂浜にすわっている裸の女性(それとも、ほとんど裸のと申しましょうか)、その女性がカメラのレンズに向かって膝で局部を、ひじを上げてオッパイを隠しながら、カメラマンに向かって笑いかけているのです。
もちろん、同時に、非難しているようにも見えます。
「あなた、気でも狂ったの? こんな写真、ほかの人に見られたらどうするのよ……!」 なるほどね。素人写真とはいえ、なかなか結構な写真でした。
彼女は美人です。なんとなくアメリカの女優フォンダ――ええっと、たしか、ジェーンと言いましたかな――そのジェーン・フォンダに似ていました。
いいえ、それどころか、こっちの女性のほうがもっと美しいかも……、いやいや、もっと、かわいらしい。
もっとも、あの女優さんのように完成品じゃありません。ま、本物というわけにはいきませんな。
それに第一、わが国のちょっと気の利いた女性たちが野望を成し遂げたあと、えてしておちいりがちなように、彼女もちょっとばかし太り気味なのです。
私は長いこと眺めまわったあと、やっとその写真をタイプで書かれた書類のあいだに隠しました(誰かが、私の事務室に入ってきたのです。それに、こんな妙な具合のところを見られたくはありませんからね)。
私はむりやりこの味もそっけもない事務的な文章をを読みはじめました。
おまけに、クロアチア語からの翻訳はごつごつしていて読みづらいときています。
それでも私はこの「ブルダ事件」発生の真相を理解するためにファイルの第一頁目から注意深く読みはじめたのです。
注意を集中するのは容易な技ではありませんでした。
私の思考は、いったいどうしてこんな微妙な写真がこのお役所の書類のなかにまぎれ込んだのだろうという疑問のほうへ、どうしても逸れてしまうからです。
本当なら、この書類のなかにとじ込まれて、永遠の安息につくのは事故車の写真だけでいいはずなのです。私をからかうために、同僚がこの写真をしのび込ませたのでしょうか?(さっき、たいした用事もないのに、私の事務室に入ってきた若僧も、ほんとはその同僚の仲間の一人かもしれません。もしかしたら、私があの写真をすでに目にしたかどうか確かめに来たのかも……)。
しかし、書類を機械的に読み進めていくうちに、そこに記録された事件が私を魔法の輪のなかに引きずり込んでいきました。
その微妙な写真の下のほうに貼りつけてあった名前の主、ヴラスタ・ブルドヴァー夫人が書類のなかに登場するのは当然としても、それだけではなくて、すべての場所に登場してくることがわかったのです。
彼女が重要な被害者、つまり保険金の受取人なのです。保険のかかった事故にたいして支払われるべき、それ相応の金額が、まさに彼女に支払われるのです。
要するにブルドヴァー夫人は生きています。
怪我もせずに生き残りました。ご主人と幼い娘が死亡した車にも乗っていなかったのです。事故現場に最初にいたのは彼女だけで、救助隊に通報していたのも彼女でした。
そう考えると、彼女の写真が書類のなかにまぎれ込んだのは偶然ということになります――もしかしたら、それはユーゴスラヴィア警察サイドのちょっとしたブラック・ユーモアのセンスのせいかもしれませんな。
ブルダ氏一家の車は七月二十八日、沿岸自動車道から四〇メートル崖下に転落、大破し、岩に宙吊りの状態で止まりました。
しかし運転席からなんの損傷も受けていないカメラが一台発見され、調査官は、即座にカメラのなかの残りのフィルムを使って、車の状態と二個の遺体とをカメラに収めたことを記録にとどめています。
その結果、その写真は、写真というものに常についてまわるこの上もない残忍さを、ファイルのなかでさえ、いささかも減じてはいないのです。
警察はフィルムを現像させ、すべての写真を焼きつけさせていました。
そして、ちょっと気をきかして、見るも無残な写真の上に、この微妙な写真と何枚かの悲劇以前に写された写真を重ねておいていたのでしょう。
マツレ海岸での三人のチェコ人の休暇の行楽の記録は、このようなつながりで見ると、なんともやりきれない気持ちと、苛立たしさを覚えさせます。
私が否応なしに思わざるをえなかったのは、人生の不条理な隣人である、突然の死、それにマツレという地名のことでした。
私は地図のなかにその名を探し出しました。
たとえ、それがダルマツィア海岸の小さく印刷されたその他の地名のようには美しくはないとしても、美しい響きであることに変わりはありません。
たとえば、ルンバルダ、ドゥンドヴォ……。
どうです、これらの地名と一緒に、赤ワインの味までが急に舌のうえににじんでくるようでしょう。
ワインのことなら私も少々うるさいほうなのです。
とはいっても、私は南のほうに行ったことは一度もありません。なんというか、私なんぞは、どだい、旅をするなんて人種じゃないんですな。
でも、私が楽しみの何たるかを知らないから、そんなことを言うのだと思ったら、そりゃあ見当違いです。
私だって自分流におもしろおかしく生きていますし、私にだって趣味はあります。
ほかの人が釣糸の浮きを見つめてしゃがみ込んでいるところを、私なら絵葉書やアトラスの世界地図に見入っているという種類のものではありますがね。
風景とか地名とかいうものは興味深い情報をふくんでいるものです。
それは、ときには長い童話であったり、またあるときは異国情緒たっぷりの連続ドラマの、こんがらがった話の筋であったりとか……
ルンバルダ。ドゥンドヴォ。
私は(こう言うと偏屈だとか、臆病だとか言われるかもしれませんが)自分の車が欲しいなんてまるで思わない人間なんです。私はどうも機械を好きになれんのです。
事故車の残骸の写真や、想像もできないくらいひん曲がったボンネットや、ぼろ切れに変わりはてた向こう見ずな運転手の写真など、もうたくさんです。
そんなものだったら、毎日、事故記録が私の机の上に新しい生々しい実例を吐き出しています。もう、見る気にもなりません。
その反対に、静かな風景の写真や地図に描かれたもっと抽象的な図形からなら、魔法の力が放射してきて、それが私にはたまらないのです。
その世界は静かです。強風にあおられて、かしいだ椰子の木さえ、カメラマンはその姿を永遠の静寂のなかに定着させています。
たとえば、その木が嵐のなかで吹き上げられたスカートのように裏返しになった扇の葉をつけていても、それでさえ、私にとってはすでに永遠の姿として絵葉書の上に在り続けるのです。
私は記録を読みおわり、ふたたびブルドヴァー夫人の写真に目をもどすことができました。
このスナップ写真は、私がこうして長い時間をかけて眺め、何かを夢想せざるをえなくなる、そのためにこそ、彼女の動作、あまりにも大胆なカメラの攻撃にたいする防衛の姿態をも永遠化したのです。
若い奥さんは笑みを浮かべ、顔をやや左にかたむけ、ゆたかな髪はゆるやかに波打ち、後ろに、そしてやはり左のほうへたれています。耳――小さくて、上品な――は完全にあらわになり、大きなイヤリングの輪が耳たぶを貫いていました。
おそらく彼女が身につけた唯一、目に見える異物であるこの装身具が、実際、彼女の耳を小さく見せ、同時にいかにもあどけない印象を与え、毛の生えていないひな鳥のような少女っぽい肢体を強調していたのです。
ぐっと反らした首の筋肉がイヤリングの下から斜めに浮き上がって見えています。
その下では、ひじを前のほうに突き出し、胸のあたりをかるく抱くようにして、オッパイを隠しています。同様に、交差させた足の膝が体の下の方への視線をさえぎっています。
このまったくチャーミングな人物像は頑強に抵抗しようとして、自分で自分にからみつき、解読不能な暗号を形づくっているのですが、それでも、彼女は浮かれているような、それどころか、これ見よがしに、やや挑発的にも見えました。
大急ぎで結び合わされた手足の結び目は「止めてちょうだい!」と叫んでいました。
でも、その叫びは「解けるものなら解いてごらん!」とも取れるものでした。
ブルダ氏の家族の写真で、ほかにこれほど注意を引くものはありませんでした。
若い夫人は今度はビキニをつけていて、五歳くらいの娘にリボンを結んでやっていました。
ご主人のほうはもう相当の年齢で、以前はスマートだったのでしょうが、今はビーチパラソルの下で横向きに寝ている様子といったら、まあ、なんというか……。この写真は、たぶん、ブルドヴァー夫人が本人の知らないうちに黙ってとったのでしょう。
次の写真もまた夫人で、子供のほうにボールを投げています。
今度は娘の顔が見えます。ごく普通の子供で、まるまると太った体つき、母親のにくらべたら、まるっきりおもしろくありません。
その次はもう事故の記録がはじまります。全景にはごつごつした岩場が写っていました。ぐちゃぐちゃになったボンネットのクローズアップ、二つの死体のどちらも普通の神経ではとてもとても……。
その日、私はいつもならやらないことをしました。
とはいっても、ことさら妙なことをしたわけではありません。それについては私にだってそれなりの権利のあることなのです。
私はブルドヴァー夫人に、当保険局にたいする権利にもとづく請求をスムーズに進行させる件について、当局に出向いてくれるようにと記した簡単な召喚状を出したのです。
私の行為はややせっかちだったかもしれませんが、どうしようもなかったのです。
私はこの女性を自分の事務室に招きたいという願望を抑えられなかったのです。
彼女がここへ来たとき、何をたずねようかなどということについて頭を悩ますようなことはしませんでした。
なぜ、ですって? 私の領分であるこの机の周囲で、どんな事態が発生しようと、この老練な職員である私に切り抜けられないはずがないからです。
彼女をここへ呼べばいいのです。彼女をここへ……
ご存じですか、魔法の言葉を? ほんのちょっと権威の力という薬味をにおわせるだけでいいのです。だれも私から取り上げることのできないものです。世のなかで私なんぞほんのわずかの意味しかないない。ひょっとしたら、ゼロかもしれません。
でも、それでも、私の名前の頭文字の「HM」がなければ、この書類だって経理部へまわされませんし、お金だって美しい未亡人のところへ流れていかないのです。
遅かれ早かれ、私はこの「HM」のサインをするのはわかっています。
私だって正常な仕事の流れをじゃましようとか、法律的手続きをひき延ばそうなんて思いもよりません。
そうはいっても、検閲係のほんのちっぽけな法的権力を味わって見るとか、参考人に質問するとかして、他人の私生活の閉じ蓋をこじ開けて、ちょっぴりその内側をのぞいて見
るとかしたって……、そんなに悪し様に言うほどのことではないじゃありませんか。
また、仮に、それが悪いことだったにしろ、私たちのあいだではねえ……。
自分の存在価値を証明するということは、生の根幹にかかわることとお感じになりませんか? ときには、そのことが私たちに首根っこをおさえられている人間を苦しめることになるかもしれないとしてもね。
誰だってやっていることですよ。それなのに、なぜ私がやっちゃいけないのです?
うわさでは私のことを冷血漢だとか、ボクサー犬の面をした小役人だとか言っているそうですがね、そうは言っても、ときには親切で愛想のいいことだってあるんですよ……
ブルドヴァー夫人は、それから一週間くらいしてやってきました。
彼女はドアをたたき、私は彼女を招じ入れました。いい香りがしました。私は急にはその事件を思い出せないかのようなふりをして、それからやっと彼女に椅子をすすめ、書類を取り上げました。
彼女の裸の姿はこの瞬間でさえ、私の頭のなかから消えてはいませんでした。
彼女は秋の天候不順にそなえて、首までかくれる黒いコートをまとい、しかも豊かな髪はほとんど黒い帽子の下にかくれていました。
そのことが、写真で見るよりも一層彼女の顔色の白さを浮き立たせていました。
私には、いま、彼女の顔と片方の手だけしか見えませんでした――もう一方の手はルカーフのなかにあり、足はブーツがスカートの下の所まで来ていましたからね。
私は気軽に、そして、あまりやさしくなり過ぎないように口を切りました。
「私どもは、二三の事柄にかんしてはっきりさせておきたいと思いまして……、どうか私どもの質問に気分を害されることがなければと案じておるのですが……、おそれいりますが、お生まれの年月日と、お所をお聞かせねがえませんか……?」
私はざら紙の上に彼女の答えを書きつけ、なにか写真を思わせるようなものが顔を出さないように気をつけながら書類を開きました。この顔はどこかで見て、よく知っているのだが思い出せないのだという演技をやっているのに似た楽しさでした。
彼女はいい香りをただよわせながら、ものしずかに私の正面にすわっていました。身を守るような身振りで謎をかけようともせずに、私の顔をじっと見つめていました。
もちろん、衣服はつけています。
私はとりあえず話を続けなければなりませんでした。
「ズザナ・ブルドヴァーちゃんは五歳でございましたね? すると、あなたの十九歳のときのお子さんということに……」
このようなことにかんしてなら、まったく事務的に言葉が出てきました。いつも怒っているかのように見えるとうわさされている私の容貌を見れば、この質問が職務上の理由にもとづいてなされていることを疑う人は一人もいないはずです。
また、このような質問がたとえどんなにわずかでも、たった一人、とり残された母親のかき乱された心には、それでも余計なのだということを、少なくとも心ではわかっているのだと言っても信じてもらえないかもしれませんな。
幸いなことに、ブルドヴァー夫人は普通の人とはちがっていました。
普通なら、ここでハンドバッグのなかのハンカチを探しまわるはずなのですがね。彼女の美しすぎるくらいのうすグレーの瞳は、涙にくもることもなく、まばたきもせず、私の目を見つめていました。
「そんな質問は警察のどなたもなさいませんでしたわ。でも、お望みなら申します。ズザナは夫の先妻の子供でした」
彼女は静かな声で言いました。
「オンドジェイの最初の奥さんは女の子を産んで二年後に亡くなりました。その一年後に私たち、結婚いたしましたの」
私はやっと納得いったというふうにうなずきました。
写真に写ったブルドヴァー夫人の手足は、はち切れんばかりに太った子供とは、何かしっくりしないような気がしていたのですが、この答えはとりわけ奇妙な安堵感を私にもたらしたものです。
しかし、新たな謎が私をむずかゆくさせはじめました。――何がこんな少女っぽい女性をこんなにも年のはなれた子連れ男との結婚に踏み切らせたのだ――という疑問です。
「それでは申し訳ありませんが、もう少しおたずねしてもよろしいでしょうか……。はじめの奥さんのことをご存じでいらっしゃいますね……」
「名はアンナ、旧姓はルンベルコヴァーです。生年は主人と同じ、月日までは存じません。高校のときに知り合って、技術学校をいっしょに卒業したそうです。長いこと子供を欲しがっていらっしゃいました」
それから短い間をおいて、いくぶん語気を強めて言いました。
「ガンで亡くなりました」
ブルドヴァー夫人はこれらの言葉をすべて低い声で語りましたが、事務的要求に応じて報告することを職業的に身につけた人のように明瞭に語りました。
その上、この不思議な話し方で答えただけでなく、もっと多くのこと――私の質問の下に隠された好奇心にも自分のほうから応えてくれたのです。
「失礼ですが、お勤めでいらっしゃいますか?」
「社長秘書をいたしております。私、以前、主人の秘書でしたの。もともと私たち、そんなことで知り合っていたのです」
「なるほど、なるほど、ありがとうございました……」
私はメモを取りながら、喉がからからになるのを覚えました。それというのも、この後、何を聞けばいいのか急にわからなくなったのです。そのことはまた、ブルドヴァー夫人のいらいらした表情のなかにも映しだされていました。
それでも私はなんとかしてこのかぐわしい若い夫人を私の部屋にひき止めたいと思いました。
「車の残骸をチェコのほうへ運ぶわけにもいきませんしなあ」
私は自分でもそれがわかるほど、まるで吠えてでもいるかのような無愛想な声で言いました。
「運搬の費用がスクラップの値打ち以上にかさみます――そのことはもうご存じでいらっしゃいますな」
「存じております」
彼女はうなずきました。
「私がはじめのころ、なんとか車を運ぼうと手をつくしましたのにはそれなりの理由がございますの。ユーゴの調査官は車になんの技術的欠陥も発見できず、すべてを運転手のせいにしたのです。ですから、私は何が事故の原因であるかを、直接メーカーの修理工場で調べるために車をムラダー・ボレスラフへ運ぶようにおねがいしたのです」
私は二度うなずきました。
「そうでございましょうな。しかし、おかしいですなあ、このヌ……、つまり記録を読んでみましても、ご不幸は晴れた日の朝、車の通行もまだまばらなときに起こっておりますし、血液中に微量のアルコール分も検出されておりません……」
「主人はお酒をいただきませんの。技術者でしたから機械のことはよく存じておりましたし、神経質なくらい車を点検していました。ただ、ちょっとスピードを出しすぎるきらいがなくもありませんでしたが……」
ブルドヴァー夫人は自分の正面を見つめていました。その声の調子から、彼女が私を非難しているのがわかりました。
私はまた首をふりました。
「正直のところ、少々、奇妙に思われますのは、ご家族三人でいらっしゃるのに、二人乗りのスポーツカーというのが、どうも……」
「それはスピードのせいではございませんわ」
彼女は反論して続けました。
「ツー・ドアの車を選んだのは子供のためなのです。主人は子供を必ず後ろの席にすわらせていました。自分のとなりの席は自殺者用の席だといって私にしかすわらせんでした」 まさに、そのブルドヴァー夫人だけが無事だったマツレでの悲劇のことを思い合わせると、この思い出も悲痛な逆説に聞こえ、彼女の口元の淋しげな微笑さえもそのせいだと思われました。それに続けて、彼女はズザナのことも語りました。
「主人はドライブの途中に子供がドアの取っ手にさわっておっこちはしないかって、いつも心配してました。以前のフォー・ドアのセダンを売ったのも、もとはといえば、それが理由だったのです」
「ご主人がお嬢さんを非常にかわいがっていらしたことは間違いありませんな?」
私はそう言いながら、鼻のあたりを異常にふくらましたのかもしれません。
なぜなら、夫人は顔をちょっとそらし、膝の上からバッグを持ち上げて、そろそろ引き上げどきだと思っている様子を見せたからです。
「ええ」
彼女は答えました。
「そんなわかりきったことまで、お役所が確かめなければならないことなのでございますの?」
「失礼しました」
私はどもりながら言いました。私は心底からどもっていたのです。
彼女の自信にあふれた美しさ、刺激的な香り、そのほか、なんだかわからないものが、私をもうそこまで追いつめていたのです。びっこの警察犬のように、はいつくばっていた私は、体を起こし、笑顔を見せようとして顔をゆがめました。
「最後におたずねしたいことは、いささかプライベイトな側面をもつものでございますが
……。私といたしましても、この痛ましいご不幸にたいし、哀悼の念を禁じえないものが
あるのでございます、が……」
「ご遠慮なさることはありませんわ」
彼女はそう言って、立ちあがりました。
「この不幸の原因にかんするかぎり、誰にも理解できません。少なくとも、この私には。運転の技術もずば抜けていましたし、とってもいい父親でしたのに……それが、あんな姿になって……」
「でも、奥さんがあの車に乗っておられなかったのが、せめてもの幸いだったのではございませんか!」
このような言葉というのはさりげなく発せられるべきなのでしょうが、私にはどうもうまくいきません。あまりにも余計なものがくっついて出てしまうのです。
ブルドヴァー夫人はぴくりと眉をつり上げて、もう私の前に立ちあがっていました。
彼女の薄グレーの二つの目は、私の目のなかを見つめていました。しかし同時に、私を通り越して、ずっとむこうの何ものかを見つめているようでもありました。
「幸いですって?」
彼女はうつろな、にが酸っぱい微笑を浮かべて言いました。
「私たち、村からずっと離れた、私どもの別荘で自炊して過ごしておりましたの。朝はいつも私がお掃除をしているあいだに、主人が娘を連れて買い物にスーパーに行き、それからマツレの市場でお魚を買ってくるのです。それからみんなで、朝食をいただいていました……。あの日はなぜだか帰りが遅くって……、私、迎えに出ましたの。そしたら、カーヴのところで……」
「いえ、結構。その先は、あなたにとりましても、おつらいことでございましょう」
私は話の続きを押しとどめました。実のところは、彼女はつらそうな様子にも見えませんでしたし、私も彼女の口からもっと聞きたかったのですが、それに続いて起こったことの詳細なら、私は記録を読んで、もういやになるくらい知っています。
事故現場の見取図から、車の残骸や死体の状態にいたるまで……。
興味があるのは死人ではなく、生きているほうの女性です。
ところが、この生きている女性は、ずっと私の目を見つめたままなのです 私は何か
を見すかされるのではないかと怖くなりました。
「今日のところは、まあ、こんなところで」
私は遠慮がちに終りを告げました。
今や彼女の目の灰色の水晶体は、はっきりと「あきれた」という表情を映し出していました。
「今日のところはですって? まさか、もう一度呼び出すおつもりではございませんでしょうね?」
「いえ、ご心配にはおよびません」
私はどもらずに言い、大急ぎで、この決定的な「いえ」をぼかした。
「たぶん、そういうことになるとは思いませんが、なにしろ思いもかけないこまかな点で、どうしてもという……」
その言葉はどうやらみじめったらしく受け取れたのでしょうか、彼女の唇はほとんど嘲笑ともいえる微笑にゆがみました。
「じゃ、そんなときのために、事務所の電話番号をお教えしておきますわ。そんな節はお電話でお話をおうかがいします。どうやら、何もかもご承知のようでいらっしゃいますから……」
彼女は机の上の分厚い書類のとじ込みを指しました。
「警察はタイヤの跡とか、そのほかのことまで正確に測定していましたし、写真もそのなかにはさんでありますわ。その書類には不要かと思われるものまで……」
彼女はたしかに私の目の奥の狼狽を見て取り、ひそかにあざ笑っていました。
私が差し出した紙片に彼女は立ったまま電話番号を書きました。
彼女は間近で香っていました。
やがて彼女はかるく会釈をしてドアのほうを向き、出ていきました。
彼女は去っていったのです。