(5)

 この件にかんしては何ごともなく三日間がすぎました。それから、ふたたびあわただしく動きはじめたのです。なんの予告もなしに、訪問者が私の事務室のドアをノックして、いかにも不器用な感じの人物が入ってきたのです。
 三十歳前後で背は高く、肩幅は広く、服装はあまりパッとしてはいませんが、それかといって気取らない趣味のよさがないわけでもないのです。表情は鋭い知性が感じられるものの、ただ、目がかなりの近視で、眼鏡のおくで頼りなさそうに縮こまっていました。
 私が椅子をすすめると、その男は来訪の意図について、自分はある人物にかかわる事件のことが気にかかっているので、なんとかその解決のために手助けをしたいのだと私に語りました。ただし、この来訪については、その人物には絶対に内緒にしておいてほしいというのです。
 それにたいしては、私はただ、当たりさわりのないことを、ぼそぼそとつぶやくだけにしておきました。
 なんでもその人は、法律的手続きがいっこうにはかどらない諸般の事情にかんして、かなり強硬な意見さえもっていて、ことによっては、ただではすまさないと言っているとかいないとか……
 私は、やや、いらいらしながら聞いていました    私の前には主任の字で「至急」と添書された新しい書類が二組も置いてあるのです(しかも、私は主任のこの「至急」にはずいぶん悩まされ、一時は夢にまで見たものです)。
 要するに、私は話半分に聞き流していたのですが、夫人がかなり強硬な意見をもっている云々という言葉には、さすがの私もギクリとしました。
 なあるほど、こいつか! オジェホフカの邸宅で夜のお相手をする運のいい新人は。それにガレージに納まっている車の表面上の所有者であり、運転手。以前の相手とちがって、こいつはハンドルも、そのほかのいろんな問題も、すべて女まかせというやつだ。
 後になって、やっと、彼はヴラスタ・ブルドヴァーという名前を口にしました。そして自分は技師のダネシュであると名乗ったのです。
 見るからに大きな彼の腕はそうとうの腕力の持ち主であることをうかがわせましたが、それかといって、現場の労働者には見えません。
 私はむしろ、ガリ勉屋か学者のタイプだと見て取りました。
 どうしたわけか、そのとき、急に、私の頭に、彼がボートの選手になって必死にがんばっている姿が浮かんできて思わずニヤリとしてしまいました。
 ボートの選手なら近視でもかまわないわけです。力をこめて、ギイコギイコやるだけ。あとのことはすべて舵手にまかせておけばいいわけですから……
 これと似たり寄ったりの手前勝手な透視力がいきなりわいてきて、私の前にいる男にかんするいろんなことが急に見えてきたのです。
 たとえば、この男がどんなふうにしてブルドヴァー夫人の羽根布団のなかにもぐり込むのに成功したかなど……。
 彼はこの家のご主人より若くはあったが気の合う友人だったとしましょう。
 夫人とは会社で顔を合わせたか、あるいは、ずっと以前から家族同志の知り合いだったか、そして、二人の男どもは同じボートクラブに所属していたのかもせしれません。
 少なくとも年長のほうが現役を引退するまでは……
「よろしかったら、あなたのご住所を控えさせていただけませんか?」
 私はこの訪問者の前口上を中断しました  私はなんとはなしに、あらかじめ簡単な証言、つまり、オジェホフカの住所を耳にしたかったのです。
 しかし、彼が告げたのはプラハの別の地名、別の電話番号でした。
「会社の番号は?」
 私はせっかちにうながしました。ところが、この番号のなかにさえブルドヴァー夫人の「3」も「0」もありません。私は肩すかしを食ったような気分になりました。
「せんえつながら、ブルドヴァー夫人とは、しごく緊密なご関係の方かとお見受けいたしましたのですが……、どうやら、お住まいも、お勤めも別のようでございますな……。
 ああ、ご親戚でいらっしゃいますか?」
 度の強い眼鏡の奥から鈍い視線を向けながら、その青年はもっともらしい説明を試みました。
「ブルダ技師は私の恩師でした。ある企業に転出されるまでは、大学に勤めておられ、そこである種の研究をはじめられたのです。
 わたしはそのとき、先生の助手をしておりました。もちろん、先生は大学をやめられたあとも、ずっと大学のことを気にしておられ、われわれ若い連中の面倒も、それはもう、よく見てくださいました。
 そういうわけですから、わたしも……あんな悲しい事故が起こって、奥様もまったく独りぼっちになってしまわれて……ですから今度はわたしが何かの力になれればと……」
 そのあとも、まだ何か夫人のことについてしゃべっていましたが、私はもう聞いていませんでした。なぜなら、円を描くような彼の手振りが、あの休暇のときの写真と同種の何かを私に暗示していたからです。
 たとえば、ブルドヴァー夫人は今や窮地におちいり、絶望に身をよじらせている。
 そして、丸裸のまま海辺の岩陰に転がされて助けを求めているのだとか……
 この想像は私の気に入りました。私は彼の話を制止することも忘れて、この献身的なボート選手、ないしは海難救助隊員を見つめていました。
 彼より私のほうが相手をはっきり見て取ったのはたしかです。
「よくわかりました、ダネシュさん。さきほどの私のぶしつけな質問でございますが、実はブルドヴァーさんのお宅で、あなたが車を車庫に入れられたのに、ご近所にお住まいでないのが腑に落ちなかったものですから」
「ああ、あれはちょうど二週間まえです。私があれを車庫に入れました」
 彼はかすかに微笑みましたが、そのことをどうして私が知っているのか、また、私に何の関係があるのか、まったく不思議にも思っていないふうでした。
「あのフィアットときたら……、私たちはあいつのことをうちの腕白坊主って呼んでいるんですよ。夏中、ずっと路上に止めたままにしていたのです。あいつは平気な顔をしていましたよ。とうとうブルドヴァー夫人がかわいそうに思って、すすめてくれたのです……」 私はこの当てつけがましい「うちの」という言葉をくり返しくり返しメモに書きつけました。「うちの」何々、「うちの」何々……と。
 しかし私が「うちの腕白坊主」よりももっと聞きたいのは、それから先の事情なのです。「ブルドヴァー夫人はなかなか親切な方でいらっしゃるんですなあ。それでいて、目下のところは家の修理にかかった費用のことでずいぶん苦労なさっているとか……」
「そう思われますか?」
 この若い男はこれまでそのような問題について考えたことはないようでした。
「ブルドヴァー夫人は冬になるまでに別荘にある不要なものを整理すればいいからと言っておられました。相続税にすごいお金がかかったのです。そのためにご主人のピアノまで手放してしまって……」
 なあるほど、相続税か。以前、計算したときに、私はこれを計算からはずしたのです。「でも、家の半分は奥さんの名義になっていたんでしょう?」
 報告者は頭を横にふりました。
「残念ながら……、家全部の相続税を払われたのです。ブルダ先生は最初の奥さんが亡くなられたあと、家をすべて子供の名義にされたのです。ヴラスタさんと結婚されたあとも、この点は変わりませんでした。気の毒なブルダ先生はいつも娘の安全のことばかり考えておられました。もし、自分になにかあったらいけないからと……」
「あなたは、ブルダ氏がなにか予感しておられたとでも?」
「いえ、そうじゃありません。先生は意欲にあふれ、人生をエンジョイされていました。でも、お子さんは異常なくらいかわいがっておられました。そうなったのも、もとはといえば……、つまり、同い年の奥さんを亡くされて、さびしくなられたものですから……」 その先のことは話さなくてもいいと彼に告げました。
 同時に、頭のなかでは、継母としてのヴラスタ夫人のズザナにたいする愛情とは、どんなものであったかという新しい問題点を検討していました。
 彼女の夫は子供を最高に愛していただけでなく、家屋の相続人にもきめていたのです。 しめくくりとして、私は言いました。
「要するに、ブルドヴァー夫人が早急に保険金が支払われることを望んでおられるということを知らせるために、あなたは私のところへ来られたというわけですか?
 つまり、あの方はあなたに打ち明けられ、事務手続きの遅延の原因は私個人にあるとおっしゃられたわけですな?」
 相手はあわてて控え目な抗議をしました。
「とんでもない。そんな言い方をされたんじゃ、ヴラスタさんがかわいそうです。あの人はそんな心配ごとを口になさろうとはしませんし、わたしなどのように、他人の悪口を言って気をまぎらわすなんてことのできる人ではありません……」
 そう言うと、今度はかすかに微笑みました。彼は本当に同情していました。
「それに、あの人は、あのことにはずいぶんと責任を感じておられていて、事故のあと自分の生活を全面的に立て直して、会社での立場もおろそかにはされませんでした。むしろ、援助を受けたのはわたしのほうで、あの人は援助を受けるどころか……」
 私は今や孤立無援の裸のひな鳥が、今度はさらに天使であると信じざるをえなくなりました。
 それにしても、無邪気な天使の崇拝者みたいな顔をして、私の前の椅子にすわっている若者はいったい誰なのです?
 事実、彼には天使なのかもしれませんがね。幸せな星の下に生まれたのでしょう、童話のなかの「お人好しのホンザ」もいいとこです。
 こんなお人好しとしか言いようのない連中にさえ、玉座が約束されているんですからね。 最初は王様が、王様の亡きあとは王妃がこのホンザを庇護するのです。そして王妃に気に入られ、用意万端ととのったところへ招かれて、心ゆくまでご馳走にあずかるというわけです。
 その反対に、もう一方の人間には、運命の女神たちは醜い顔と腹黒さしか授けなかったのですな。そして王宮での婚礼に際しては、真っ赤に焼けた鉄の靴をはいて踊らされ…… 私はお気に入りのものでも見るみたいに、この幸せな恋敵をしげしげと見つめました。 私は、女隊長が新しいお相手に、なぜ、この男を選んだのか容易に理解できるような気がしました。彼はシャベルみたいな手をしていても、十分教育を受けた頭脳と、立派な地位を得るに必要なものはすべて備えているのです。
 ブルドヴァー夫人が最も高く評価したのは、もしかしたら、彼のかわいらしい近視眼かもしれません    こういう知性的「お人好しのホンザ」はむだな質問はせずに奉仕してくれますし、女性が打ち明けたがらない問題にまでは、けっして立ち入ろうとはしません。 それにしても、なぜ、彼女はほかの取り巻き連中以上の信頼を、この男にかぎって与えたのでしょう、甘いケーキのかくれた結び目をほどくように……?
 この男が彼女の心をそれほどまでにとらえたというのは、なぜ?
 彼女が自分から腕を開き、膝の結び目を解き、いざご馳走の瞬間がきたら文句なしの恋人に変身してしまうほどに……。
 最初の夫ブルダ氏もやさしく愛してはくれたのです。ただし、それはズザンナにたいする度はずれの愛情の余暇にであり、またその邪魔にならないかぎりにおいてだったのです。 そうだ、たぶんピアノも触れてはいけない領域だったのかもしれません。ヴラスタ夫人はつまり育ちが違っていた。だから楽しみ方も自ずと好みが違っていたのです。
 速記タイピストの回転椅子から、社長室の仕切りの向こうの秘書の頑丈なデスクに昇進したばかりか、たぶん、ピアノもない娘時代から、何もかも完備した屋敷住まいへと出世したのです。
 そして邪魔な人間や物を取り除いた今、しかも、税金も払い、自ら女主人となった今、長年の願望をかなえて運転免許を取り、自分の趣味に合わせて家を改造し、純粋な快楽のためのパートナーだってもつことができるというわけですよ。
 それだって、ときには、後ろめたさを感じることだってあるでしょう。
 彼女の幸せに、不幸の影をおとすものが何か  その相手に、どう説明すればいいのです?
 こんなふうに聞くかもしれませんよ。
「いま、何を考えているの?」とか「どうして、ふさいでいるの?」とか。
 すると彼女は手をふって言うでしょう。
「いいから、おやすみなさい。何でもないの、ただ、保険のことがちょっと気になるものだから。あのお金、入ると助かるんだけど。ある係の人のところで引っかかっててね……」 そんなわけで、こんなたわいもない話を盾に、このお人好しは、次の日の朝、いきなり私の事務所へ怪物退治に乗り込んできたんですな。
 あっぱれ  と言いたいところですが、いま彼は口に手をあてて「ヴラスタさんには、この訪問のこと内密に願います」だと!
 怪物は、いかに答えるべきでしょう?
 私はゆったりと椅子にもたれ、いい気分でした。面倒なことになれば、こんなやつのお節介など、払いのけるのは造作もないことだという確信が私にはあります。
 しかしなにかおもしろい話を引き出せるかぎり、こいつを手放すことはない。
 それに、この男が私に約束を強要した以上、私だってこいつに、なんらかの密約を負わせないまま手放したりするものですか。
 こいつを仲間に引き入れなくちゃ。そうなると私たちの付き合いは長くなりそうです。 そして、前の晩、例のものをたっぷりと堪能したこの男の目のなかをのぞき込んでいるうちに、私にさえも、その甘い糸玉がほどけて、両腕を開いた、そのものずばりの姿が見えてくるようになるかもしれません。
「実はね……」
 私は身を乗り出しました。
「私もこの事件にきりをつけようと努力しているところなのです……が、保険金の支払いのためには、些細なことですが、不明な点が二、三ございまして……。早い話が、私はユーゴのほうへ問い合わせせにゃならんのです。その回答を待つといたしますと……、で、どうでしょう、もしかしたら、あなたにおわかりになることかもしれんのです。
 記録にはいとも簡単に『運転手の過失』と記入されておるんですがね    保険金の支払いにかんする事故の原因説明としては、やや説得性に欠けると言わざるをえんのです。
 もう少しは詳細な説明、ないしは、せめて形だけはちゃんと整えておくことが望まれる訳でして……。
 もし、仮に、いろんな要因が重なって、運転者は異常な疲労状態にあった……というようなことは考えられませんかな? いかがです」
 彼は私の推論に注意深く耳をかたむけていました。そして同時に、表情をこわばらせて、今にも重大なこと、これまで秘密にしてきたことをしゃべりだすのではないかと、私には思われました。
 その機会を与えるべく、私はほんのちょっとのあいだ口をつぐみましたが、彼は口を開こうとはしないので、これまでの方向にそって話を進めました。
「たぶん、ご同意はなさらんだろうと思っておりました。それは私にもわからんではありません。疲労なんて取るに足りん理由です。反論するのは簡単です。
 つまり、マツレでこの事故が起こったのは平和な二週間の休暇のあとであり、スーパーに買物に行った帰り、比較的近距離のドライブの途中、しかも早朝……。すべての原因が車の整備ミスということになれば、これははっきり論理的に聞こえます。
 調査官は、たしかに、そのようなミスは発見していないのですが、見落としたのだとも考えられます。彼らは外国人ですし、われわれの車のことはよく知らないでしょうからね……、それに、きわめて残念なことにブルドヴァー夫人は車のことはまったくわからず、自分で事故車を調べることができなかった……」
 相手は黙っていましたが、不安をつのらせていました。
「それにしてもです……命拾いをされた夫人が警察の知っていることとは別の何かを知っていて、ただ、口をつぐんでいるだけだという可能性も無視するわけにはいかんでしょう
    つまり、亡くなられたご主人のふしだらとか、極端な話、浮気だとか……、こんな問
題は人間的には理解できますな……
 もちろん、手続きを円滑に進めるという観点から言えば、包み隠さず真実を明らかにされることをおすすめしますがね。このカテゴリーの保険の場合、事故の原因にはたいしてかかわりなく保険金を支払うというのが、むしろ普通ですからね」
 狩猟者の直感というのは、まったく不思議なものでしてね、私の場合もいちじるしい成果を収めました。お人好しのダネシュ君は急に体をもぞもぞさせたかとおもうと、「わかった」というみたいに手を上げました。
 しかも、さすがの私も思いもかけない重大な事実を語ったのです。
「お信じにならないでしょうが、わたしはマツレで、事故の車をこの手で隅ずみまで調べたのです」
 その声は少しかすれていました。それから一層低い声で、飛行機や車を乗り継いで事故のあと三十六時間足らずで、その現場に到着するのにどれほど苦労をしたかを、くどくどと語りました。
 私には溜め息の出そうなことです。この告白、この事実。
 こんな近視で、不器用なお人好しに一日半でできたとは、私にはとても一生かかっても、そんな勇気は出っこありません。南の国へひとっ飛び! 彼には「ルンバルダ」も「ドゥンドヴォ」も手の届くところにあるのです。
「行きたい」と言えば、どこへでもすぐ行けるのです。しかも幸運にめぐまれていて、どんなときでも、大物、小物の女隊長が出てきて、彼の願いをかなえてくれるのです。
「なんてすてきなボート選手だこと」とか「なんてかわいいおばかさんだこと」とか言って、溜め息をつきながら、女性秘書たちがオエライさんのところを引きまわして、彼のために申請の内容をタイプしたり、承認のスタンプを自分の手で押してくれるのです。
 いたるところで、このぼさぼさ頭を胸のふくらんだ毛糸のセーターが待ちかまえていて、ほら、お人好しのおばかさん、ちょっと、その頭をここ押しつけなさい。そのあいだに誰かが荷造りをしてくれるわ。航空券のことなら予約したり、待ったりしなくても大丈夫よ。 税関では仲間の女性が迎えてくれ、スチュワーデスはポスターの写真そのものの美しい歯を見せてにこやかに、おまけに膝の上に『プレイボーイ』まで置いていってくれます、途中、退屈せずにすむように……。
 やがてマツレに着くと、助けを求める声が聞こえてくる。
 そこで彼は夢中になってオールをこぐというわけです。
 彼はブルドヴァー夫人とどんな関係にあるのか、まだはっきりと打ち明けてはいませんが、その関係がただならぬものであること、それまでの先生にたいする感謝の限界をとっくに越えていることを隠すことはできません。
 私は彼が語るままにしておきました。
 ブルドヴァー夫人は事故のあと、すぐに、まだ残骸が岩場に横たわっており、警察がエンジンを調べているうちに、電報を打ったのです。
 彼女にとって最大の関心事は――ここが肝心の点なのですが――夫人の友人であり協力者である人物に、ネジ一本一本にいたるまで、もう一度、直に調べてもらうことだったのです。
 放ったらかしの腕白坊主の持ち主は、なぜ、奥さんがこうも自分のことを信頼なさるかについて語るとき、申し訳に顔をしかめました。
「わたしはあの人のご主人みたいに、車ぴかっぴかにして喜んでいる連中と同類ではありません。ただ、研究の分野が同じで    わたしたちの専門が、いわゆる金属疲労に関係していたことは、もうお話しましたっけ?    それで、わたしたちはときどき、鉄道事故や自動車事故の原因調査に一緒に出向いていたのです」
 そんなこともあって、ブルドヴァー夫人はユーゴの警察の連中だけでなく、彼にも何か調べてくれるように頼んだんですな。
「でも、すべてむだでした」と彼は話しをしめくくった。
「わたしも同じ結論に達したのです。報告書にすでに記されていること、つまり、技術的欠陥は発見できずということを再確認したにすぎませんでした」
 自動車事故の専門家はもう一度手を上げました。
 二つ目のこのショッキングな告白のあとのそのそぶりは、突然、私にある新しい、息も止まりそうなヒント、いや、確信を与えたのです。
 つまり、彼にとっても事故の真の原因の解明は重大関心事だったということです。そのことが、女隊長の単純な依頼よりも、さらに強く、彼を車の残骸へと引きつけたのに違いありません。
「おもしろい」と私は声をあげました。
「ただ、ちょっとわかりかねるのは、警察がなぜあなたのようなすぐれた専門家の調査結果を書類に加えて、証拠的価値を高めようとしなかったかです。書類の全体を見ても、あなたがマツレに来られたということはどこにも書いてありませんが?」
 眼鏡の奥の彼の目は私のほうに向けられてはいましたが、それは相変わらず、私などとても見えないような近距離をのぞき込んでいるように思われました。
 そして今度は妙にせかせかした口調で答えました。
 私はブルドヴァー夫人が世間体のためではなく、自分の安心のために彼の証言を望んだのだと信じるべきなのでしょう。彼女としては真実を知りたかったのであり、ショックを受けた最初の瞬間には、そのほかのことはどうでもよかったのです。
 彼女は自分で、夫や子供を死にいたらしめた原因を正確に知りたかった。
 あとになって考えてみて、口さがない友人たちは、簡単な新聞記事だけでは別の意味に
取りかねないと気がついたのかもしれません。
 中傷、匿名の手紙、手をかえ品をかえてやってくる私生活への干渉……、彼女にはきっとそれがいやだったのです。ご主人が健在だったころも、今と同様、妙な疑惑をまねかないようにと細心の注意を払っていたのかも……
 なんの疑惑でしょう? 単なる浮気ですか?
 このような疑問は執拗にわいてくるものです。ブルドヴァー夫人の行動は、ほかの男とのねんごろな関係が露見するのを恐れてとばかりは言いきれないような気がします。
 その男は私の前にすわっているのです。
 そして彼にかんするかぎり、私は第一印象を大事にしたいと努力しています。
 それというのも、彼が語った二つの告白をとおして、彼についてまったくことなる二通りの見方ができ、そのいずれの点からも、わが恋敵の非を弾劾できるという、きわめて誘惑的な可能性に、私自身がふらふらと乗ってしまいそうな気がするからです。
 たしかに、これまでのところ私はこの男を、反抗する恐れのない奴隷を見るご主人さまといったような優越感をもって見ていました。
 それはかの女隊長が私をあしらったのに似てかよったものです。
 しかし、もしかしたら、ダネシュの本性はまったく別物で、ただお人好しに振る舞っているだけなのだとも考えられなくもないという気が不意にしたのです。
 実際には共犯者、それどころか、殺人計画の首謀者だったのかもしれないじゃありませんか。
 彼はブルドヴァー夫人に、かなり専門的な知識、たとえば、どこかしかるべき場所で、まさに金属が疲労するように車に仕掛けをする、そんな知識を与えたのではないでしょうか?
 だからこそ、事件のあと何時間かで、奇跡的な早業で駆けつけてきたのです  それは証拠を消し、警察の目にはいかにも正常に見えるようになおすためにではありませんか? あとは、ただ、自分の専門家としての権威を警察の連中にひけらかし、自分が口述筆記させた報告書に署名をさせればいい……
 いや、だめだ、どれもこれも似たり寄ったりの仮説だ。
 私は幸いなことに、あまり深入りしないうちに気がつきました。
 またもや荒唐無稽で、安手のテレビのシリーズものの匂いがしてきましたので、私の嗅覚がはじめにかぎつけた場所にもどって、冷静に考えなおすことにしました。






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