(6)

 私はまたもや愚にもつかないことをしゃべっていますね。
 証人ダネシュが専門家として車の残骸を調べたという衝撃的告白の直後だというのに、本筋からはずれ、彼との具体的な話の内容を放ったらかしにしてしまっています。
 推理小説の作家にはとてもこんなことは考えられませんよね。
 彼らはいったん鮮血をしたたらせる肉片に食らいついたら、読者を喜ばせるために、最後の血の一滴まで吸いつくさずにはおかないところでしょう。
 ところが、私にとって大事なのはほかのことなのです。
 つまり私はブルドヴァー夫人の謎の行為を紙の上で解読したいのです。
 なぜなら私は  実際、彼の話を聞いたあと    べたべたした、なにか得体の知れない数々の疑問をぬぐいきれずにいるのです。
 開いた腕の奥のあるべきもののある場所には、またもや別の底が開いていて、またその次も、その次も……と。
 その深淵を見ていると私はとうとう目まいがしてきて、あたかも車のサイドブレーキを引くみたいに、無意識にペンのほうに手をのばしていました。
 私はあの汚らしい落書きの壁に向かって一目散に駆けていくさまを、ひとつひとつ徹底的に、ここに記録したかったのです。
 実際、私たちはその壁で出会い、衝突したのですから……
 では、話をダネシュ技師の告白にもどしましょう。
 本当の名はリボル、けっしてお人好しのホンザなんかではありません。
 ホンザという名前がどうして私の頭にこびりついてしまったのか、自分でも理解に苦しむところですが、もはや私には本名のほうが親しみのない、おさまり具合の悪い名前に思われるのです。
 リボル・ダネシュは自分で事故の現場に出向いていったくせに、私よりも事実を知らないのです。技術的欠陥はなかったのです。
 私たちは運転手の謎の過失という点から一歩も進んでいません。
 証人の表情に浮かんだ、まごうかたなき当惑が、真相はどうなのか自分もまた知りたいのだと無言の告白をしています。
 ここにある種の手がかり、つまり手応えの確かなテコ棒、つまり私にとっての希望の光が見えてきたのです。
 そのテコ棒の意味は――私は心のなかで言いました――この第二の男の意見にたいする女隊長の絶大なる信頼のなかにあります。
 ヴラスタ隊長にとっては、私がこの事故にたいしてどんな構図を描ぎあげているかなど、自分と自分の良心(または、良心のかわりに彼女がもっているもの)とのあいだの手に汗をにぎるチェス・ゲームのスパイスか刺激剤以上の意味はないのです。
 私の目に現われる表情は、彼女をおもしろがらせもしたし、ときには、おびえさせたかもしれません。それが、また、私の事務所に来させたり、それに続く一連の行動を取らせることにもなったのでしょう。
 でも、しょせん、私は彼女にとって「歩」にしかすぎず、ほんのちょっと頭を使えばそんな駒など一手で永久に葬り去ることができるのです。
 それでも、リボル・ダネシュは「王」なのです。これがなくてはゲームにはなりません。 もし、私の勘に間違いなければ、ヴラスタは「王」を愛しており、その愛を一番大切にしているのです。彼次第でテコの力もまた大きくなり、小さくもなるのです。
 だから、ダネシュ「王」を利用すれば、たとえヴラスタ「女王」の駒がたとえ「歩」の私より何倍も強いとしても、われに勝算ありです。
「王」はまだ私の事務室にすわっており、話は続いています。
「ねえ、ダネシュさん。これはオンドジェイ・ブルダ氏の側から見てですがね  殺人ないし自殺ということは全然、考えられませんか?」
 私はこの挑発的な質問をさりげなく、誰かの感情を逆なでしているなど、夢にも思っていないというような事務的な調子で投げかけました。
 ダネシュは顔をあげ、それからてのひらで、高くはげあがった額をなであげましたが、その広い額よりも、てのひらのほうが幅が広く見えました。
「私はあの人のことをかなりよく知っているつもりです。誓って申しますが、あの人は自殺できるような人ではありません。ましてや、ズザナを道ずれにするなんて……」
「それにもかかわらず……?」
 私は彼の言葉を先取りして言いました。
「それにもかかわらず、マツレで道路の下に立ったとき、私にも似たような考えが浮かびました」
「残骸の状態からいって、ほかに説明の仕様がなかったというわけですな?」
「そうとも、言いきれないないのですが……」
 彼は言いよどみ、ちょっと間をおいてから続けました。
「運転手の立場になって考えてみたのです。その朝、道路はかわいていて、車の通行もまれでした……。カーブからそれて、こんなところへ落ちたということは――意図的であったにしろ、なかったにしろ、よほど不自然なハンドル操作をしないかぎり、こんなことはありえないと……」
「失礼。あなたは今しがた、その場所に行ってみて、そのような可能性に思いあたったとおっしゃいましたが、それ以前は、どう、お感じでしたか? たとえば、電報を受け取られた直後は?」
 彼は額をなでるのを止め、焦点の定まらない目つきで私を見つめました。
「この種の電報というのは大体が簡単なものですからね。『恐ろしい不幸、オンドジェイとズザナ死す……』誰だってこんな電文を何度くり返して読んでみても、いったい何が起こったのかさっぱりわりません    あの人たちは溺れたのかもしれない。
 そうです、私が最初に思ったのは、そのことです。風が吹いているのに、海に出て、ボートが転覆して……」
「生き残られた方が、電報のなかでは、まだ、車の調査のことを頼んではいなかったのですか?」
「それは……、ただ、助けを求めているだけでした。『大至急、来られたし。絶望している……』と、まあ、そんなふうな。私があそこに着いたとき、はじめてそのことを口にしたのです……」
 そうとも、そりゃ、そうだろう……。
 私は尋問の口調にならないように気をつけながら、彼をなだめました。
「それで、調査のあと、あなたの印象を率直に話されたんでしょうな……たぶん、自殺の可能性についても?」
「いいえ、それどころではありませんでしたよ……、ヴラスタはすごく興奮していましてね……、反対のことを、私に保証してくれましたよ。
 あの朝、いつもとまったく変わりなく……オンドジェイは、それはもう、きちょうめんで、何でもきちんとしていないと気がすまなかったとか、何時何分に起きて、それからズザナを起こし、あのときはとても上機嫌で、エンジンをかけたと……。
 買物にしては帰りが少しおそかったので、迎えに出てみると……」
 私は手をふって話をさえぎりました。その先は、書類で読んで知っています。
「では、奥さんはおっしゃってはいませんでしたか? 何か  たとえばの話ですがブルダ氏の気分をそこねるような不愉快な知らせが郵便受に入っていたとか?
 それともご夫妻のあいだで何か意見の食い違いがあったとか?」
 彼は慎重な面持ちで首を横にふりました。
「たぶん、私も今のあなたと同じようなことを聞き出そうとしましたよ。しかし、ヴラスタさんは、誓って……」
「彼女が誓ったんですか?」
「ええ、とにかくショックを受けていましてね。あれこれ、いろんなことを考えて、ずっと悩みどうしで……、それとも、あなたもご存じだと思うのですが、運命的なショックを受けた人間は偶然の一致など、とても信じようとはせずに、空想によって作りあげた状況のほうを重視し、悪い陰謀や、なにかとてつもない罠を仕掛けた謎の人物の存在を信じたりするものですが……。
 そんなわけで、彼女もまた車を精密に検査するように私にせがんだのです。
 そして、私が警察の調査以上のことを発見できなかったときには、私までが何か隠しているのではないかと疑ったくらいです。国内の工場にもっていって、分解して調べれば何かがわかるかもしれないからって、残骸を運ぶことまで要求したのですが……」
「知っています、知っています。外貨の問題でうまくいかなかったんでしょう」
 私はあいづちを打ちました。だからこそ、おまえさんの証言で、警察の調査結果を裏づける必要があったんじゃないか……。
「申し訳ありませんが、最後に、ちょっとした質問をさせてください。謎の第三者、それとも、ブルダ氏の死亡によって利益を得る人物は存在していたのでしょうか?
 あるいは  ブルドヴァー夫人の証言が絶対に正しいという前提から離れることになりますが、もし仮に、ある中傷の手紙、あるいは、その朝の夫婦喧嘩についても、夫人だけが知っていて、夫人がそれを隠そうとしているとしたらどうでしょう?」
 ダネシュは黙っています。
「たとえば、あなたは嫉妬の原因をご存じないのですか? 当然、ブルドヴァー夫人のほうからだと思いますが……。もしかしたら、ご主人が奥さんを裏切ったとか、ある別の女性が自分の権利を主張したとか?」
「そのようなことは、何も知りません」
 客はこれまでになく激しい口調で言いました。
「このことだけは、はっきり覚えておいてください。私が推測しうるかぎり、マツレでの悲劇はブルダ夫妻のプライヴェイトな生活のどんな側面とも無関係です」
 私は少し体をかがめました。
「そう、興奮なさらんでください。そうすると、公式の立場から言えば、きわめて薄弱な結論ではあるが、運転手の過失と言わざるをえないわけですな」
「ええ、私の見方も同じです」
 ダネシュも同意しました。そういう彼の様子は、いかにも憔悴しきった感じで、思わず同情をしたくなるほどでした。
 彼は潔白です。
 私は暖かい信頼感に満たされながら彼と別れました。
「で、あなたは、何かしかるべき形式がととのえられるよう、ご協力くださいますね? この件をもう一度、よくお考えになってください。もしかしたら、ブルドヴァー夫人とももう一度よくご相談になって……、しかし私のことは内緒にしておいてください。私もあなたのことについては口をつぐみます……。すべては、男同士のあいだで……」

 次の日曜日には天気がくずれ、どんよりとした空模様に逆もどりしましたが、それでも私は家内をせき立てて、フヘルスキーの森へ出かけました。
 森のそばまでバスで行き、そこから丘の上まで歩きました。
 木の幹はぬれ、木の枝からは時折、滴がたれ、雨の名残をとどめていました。
 狩猟服を着た日曜猟師の二人連れが、背中に背負ったケース入りの猟銃で尻っぺたをぱたぱたたたきながら私たちの前を歩いていくのを見て、彼らの体から油っぽい湯気が立ちのぼっているかのような感じがしました。
『アフリカの緑の丘』のヘミングウェーにはどう見ても似てはいません。
 私は以前この作品をむさぼり読み、うらやましく思ったものですが、そのころ、ある週刊誌でこの作家にかんするくわしい紹介を見たことがあります。
 年齢を勘定してみると三十五歳のときにアフリカで狩りをしているのです。
 彼は思ったことはなんでも、いとも簡単にやってのけられるだけの、経済的成功をそれまでにすでに獲得していたのです。
 しかし、それ以前にも  つまり、金銭的余裕ができる以前にも  彼は思いついたことを実行しているのですよ。
 彼は外国の戦争に自分の意思で参加しました。それからあとも、あらゆることを(女房や子供まで引き連れて)徹底的にやりとげたのです。
 しかも十分お金がたまったあとも、絶えず退屈をさけて、そのためならなんでもやったのです。
 彼は幸福だったのでしょうか?
 今度はそうはいきません。強がり、ばかげた虚栄心、秘められた苦痛、なにかそういったものが、彼を駆り立て、多少は幸福な瞬間を彼に授けたのでしょう。
 それに、彼はこれらの体験を書き記すことができました。
 たとえ彼もまた迷路の終着点に、あの不潔な壁しか発見できず、そのなかへのめり込み、銃口を自分の頭へ向けることになったとしてもです。
 少なくともある瞬間、彼は幸せだったのでしょう。
 もともと、誰だって長いあいだ続けて幸福でありうるはずはありません。
 実際のところ、エクスタシーの最高の気分なんて、人間、誰しもほんの数秒間しか耐えられはしませんからな――それに、生理学的にいってもそうはなっていないし、それを引き伸ばすわけにもいかんでしょう。
 それにしても、この私にだってたまには幸せいっぱいの瞬間もあるのです。
 夕食時のビールの最初の一口。こいつですよ、これこそ私もヘミングウェーと同様に味あうことができるというもんです。
 実際、この一口がピリピリっと喉を刺しながら流れ込むとき、まさに幸福のほのかな香りを呼び覚ますのです。強烈な幸せとはいきませんがね。
 彼がキャンバス張りのデッキチェアーに腰をおろしているとき、木の間の風は止み、本物の野鳥が鋭い声で鳴くでしょう。
 私はビールを飲みながら、巧みにつなぎ合わされた『野生の王国』のチラチラ映る画像を食い入るように見つめます。
 私だってときには絵葉書や地図、その他の紙片を眺めながら幸福にひたることだってあるのです。いいえ、うそじゃありません。
 しかし、どっちの方角から手負いの犀が襲ってくるかもしれないところへ、安全装置をはずした猟銃をもって出かけていくなんて……、そんなことやろうと思ったことは一度もありませんがね。
 原始林よ! おまえは、いったい、どんなものなんだ?
 アフリカ、アメリカ。私はピラミッドも知らずに死ぬのです。世界のどこかにアンコールワットがあり、万里の長城があり、イグアスの滝があるのです。
 コパカバナの岸辺で水遊びをする人もあれば、アールベルクの頂上から風を切って滑降する人もあり……。
 こんなことがなんでもでき、さらにクイーン・メリー号の船上でスモーキングを着て夕食をとる男たちもいます。
 そして、あるときは、ゴムの潜水具をつけて、しばし、沈黙の世界に沈むこともある。
 いたるところに冒険があります。水のなかにも地上にも    私だけがすべてを取り逃がしたのです。危険を恐れ、小さなもの、確実なものだけをにぎりしめて生きています。
 このヘミングウェーも幸福なときばかりではなかったけれど、生きがいをもっていました。
 晩年になって巨大な魚を釣るという、とてつもない冒険物語を書きあげます。
 ある漁師がその巨魚をしとめることはできるのですが、それを岸まで無事に引いてくることはできませんでした。
 漁としてはナンセンスな結果に終わりましたが、それでも勝ったのです。
 人間にとってこれ以上、望むことがあるでしょうか?
 私のほうはフヘルスキーの森のなかをせかせか歩き、日曜狩猟家の太った尻を見ながら、想像のなかで、私の獲物のカモシカ「インパラ!」を追跡するのです。
 その動物は低木の茂みの上に飛翔し、四肢をぴったり体に引きつけ、恍惚の長い数瞬間を空中に浮遊するのです……。
 私はヘミングウェーのように三十五歳で狩りをすることもなく、暗い茂みにまっしぐらに飛び込むことまなく、彼の描く老漁師にさえおよばないのです。
 ただ、ひたすらハイエナ流のやり方で、ほかの誰かが殺戮をおかした、血痕のあとも生々しい現場に、大きな犬の頭を突っ込んでは、わずかな残りかすをあさるといったところです……。
 それでいて、なお、私の体の内部の飢えた、貪欲な細胞のなかにまで、何か高邁な意識、世界改良の大計画の光明がさし込んでくるのです。
 私だって、まったくむだな生をむさぼっているのではありませんよね。
 何ももっていなくても、何かの役にはたっているはずですよ。
 それとも、生涯に一度、今回にかぎり、危険をおかしているのでしょうか?

 次の朝    月曜日でしたが  彼女はただちに私に襲いかかってきたのです。傷つき、怒りくるって、憤怒の形相ででドア口にたった彼女のまあ、なんと美しかったことか!
「あなたの厚かましさといったら、まあ、なんて言ったらいいのか……」
 私はたまたまタバコを吸いかけていたのですが、フィルターのところまで火がくるほどタバコを深く吸い込みました。
「どうぞ、どうぞ……、そんな入り口のところに立っていずに、まあ、おかけになったらいががです……」
 今度も豊かな髪をたらし、顔をふって私の目に、耳たぶを突き通したイヤリングをあらわに見せてくれました。
 私は自分に言い聞かせました    ここで彼女のまえに膝を屈するようなことをするなよ。
 この前みたいに言い訳もするな。同情を引くことも考えるんじゃない。
 ただ、しっかり狙うんだ。だが、どこをねらえばいいか知っているのか
 狩猟家たちは心臓をねらえと言いますがね……私にはそれがいったいどこにあるのか見当もつきませんや。
 こんなことは、誓って申しますが、こんなことはたった今、チラッと頭のなかをかすめただけの話で、私にできたことといえば、頼りなげにあいまいな微笑を返すだけでした。 彼女はすわりましたが、足をななめにして引き寄せ、コートが膝の上で開かないように前に合わせ、無造作に椅子に浅く腰かけました。
「ダネシュ技師がみんな私に話してくれましたわ。あの人は、なんの頼りもない未亡人の力になろうとしただけなのに、それをいいことに、あなたはとても信じられないような尋問をあの人になさったのだそうですね?
 まるで……、まるで、このまえの約束など、まるでなかったみたいに……、このまえは、すぐにでもこの事件を解決してくださるって約束なさったのに……」
「失礼ではございますが、尋問ではないのでございまして、ただ、内々でご助力をお願いいたしましただけでございます。私といたしましては、最終的判定につきましての、できるだけ満足のいく形式を模索いたしておるところでございますが……、ただ、ちょっと納得のいきかねる事情もないわけではないのでございまして……」
 いま、私はそれを口にしたのです。いよいよ逆襲です。
「納得がいかないですって……何がです? ダネシュはユーゴ警察の報告が信頼できるものだということを、あらためて証言したではありませんか!」
「場合によります。たとえばです、あの報告には、マツレでの現場検証にあの方が立ち会われたという肝心の記録がないのですよ」
「どうしてそんな記録が、その報告のなかになくてはならないのでしょう? それに、そのことはダネシュさんが説明したはずですわ。そんなことに疑いをいだくなんて、真実が問題なのではなくて、他人の秘密をのぞくことが目的な人のなさりそうなことですわ」
「しかしですな、こんな重要な証人の存在が秘密にされているというのは、専門的に見れば、誰だって、多少、オヤッという気にくらいなりますよ」
 そう言いながら、私はあのお人好しの最初の告白で思いついた「共犯」というかなり大胆な仮説を思い起こしました。
 あのときはありえないと、あっさり捨ててしまったのですが、あらためてちょっとしたトリックに使ってみようじぁありませんか。
 そう、テコ棒にですよ!
「それとも、ひょっとしたら、ダネシュ技師は金属疲労にかんする専門家ではないのではありませんか? ただ、一般の調査官などにはとてもわからないような調査方法や手順については知っていた。そして、前もって誰かにヒントを与えておき、そのあとで、事故の現場に行き、修正を加えたのかも……。
 この記録の全体が彼の影響のもとに作成されていないのかどうか、それに、彼のことが記録されていないのが意図的でないのかどうか――どんなに控え目に申し上げてもですが――私には納得できんのです」
 この側面からの攻撃を、彼女は予測していなかったようです。だから、私はこんな途方もないことまで言ってしまったのです。
 彼女は薄グレーの目を大きく見開き、思いっきり憎悪をこめて私を見つめました。唇はピクピクとふるえ、抵抗力が弱まっていくときの美しい徴候を示しています。
 この驚きのショックを利用して、私はさらに続けました。
「機械のチェコへの運搬を希望されたのが、あなたご自身であったことはたしかです。しかも、あなたは、最初の専門家の見解に、いずれ、疑いが生ずる可能性のあることを承知しておられた――。
 どうです、ざっくばらんに、おっしゃっていただけませんか。事故の原因は車の欠陥だけではなかったのではありませんか?」
 彼女は力をふりしぼって抵抗しました。
「もし、新しい専門家の意見で自分に不利なものが出てくるようなことがあるとしたら、どうして車を運ぶことを頼んだりするでしょう?」
 今や、あさましくも、私は灰皿のなかでくすぶっていた吸いかすのタバコに手をのばし、かろうじて最後の一服を満喫することができました。
「あなたの要望というのが、失礼ながら、どうも次のトリックとも取れるのですがね……。あちらの警察ではわが国の事故の関係者がこわれた車なんぞ引き取らんという慣例を知っておりますからね  あっちの連中としても、土地の廃品業者と話をつけていくらかでも商売をするほうがいいにきまっていまさあね。
 あんたは、つまり、あらかじめ、あんたの要望が却下されること、したがって、本国のチェコ国内でその車の残骸を目にするものは誰もいないことをご存じだった……のじゃありませんか?」
「あなたって方は、なんて、まあ……!」
 彼女はかろうじて平静を保っていましたが、私にたいする憎しみが、ついに、あらゆる限界を越えてしまったのでしょう。
「……なんてことをおっしゃるのです、すぐに、訴えてやるわ!」
 私は立ち上がりました。
「失礼ですが、出て行けと言わないでくれと、私に頼まれたのは、つい、せんだってのことだったことを、どうか、お忘れになく。今回は、もう、これ以上、私に怒鳴らないよう心からお願いいたしたいですな」
 私は立ちあがり、最後の断をくだすかのように、感情をこめない、断固たる口調で言いました。
「書類は警察のほうへ返送いたします。マツレにおけるダネシュ技師の行動が、意図的に、隠されていたことを添え書きしておきましょう。失礼いたしました」
 彼女は椅子の端から立ち上がろうとする、そぶりさえ見せませんでした。
 たしかに、私の一撃は的を射たのです。
 カモシカの心臓がどこにあるのか私は知りませんが、狙いは当たったのです。
「わかりましたわ」
 彼女はまえとは違った、抑えた声で語りはじめました。
「あの人のことが書類に残らないように計らったのは、わたくしです。あなたにだっておわかりでしょう、なぜだか? 私たち、結婚いたしますの。わたくしは、最も近しい家族の友人として、あの人をあちらへ呼んだのです。それに、あの人、専門家でもありますし……。偶然だけが原因だなんて、わたくし、信じることができなかったんです。
 でも、あの人までユーゴ警察の調査結果を認めたとなると……あの人の名前なんか……なくてもいいじゃありませんか。どうかお願いです、あたくしたちの邪魔をしないでください。あの人をこのことに巻き込まないでいただけません?
 不幸はもうたくさん。こんな恐ろしい目に会ったのですから、少しは平穏な生活をもつ権利があったっていいじゃありませんか?」
 これはいいことを言ったものだ。彼女は私の顔をまっすぐ見つめました。今度もハンドバッグのなかのハンカチを探しまわる必要はなかったようです。
 私は軽く咳をしました。
「もちろん、社会もまた不合理な危険にさらされることのない、平和と安全の権利をもっております。公共の福利の理想はここにあると私は理解しております。
 公共の利害が外貨の障壁を無視するよう命ずる場合には、そのための基金さえ、私どもは保有しておるのです。
 私としましては車の残骸をもち帰ること、この件にかんする決済をその時点まで延期することを、今、ここで提案せざるをえません。
 事故の検証にダネシュ技師が立ち会われたことは、この件全般にわたり、あまりにも疑わしい光を投げかけましたことを……」
 残念ながら、会話はここで中断されました。毎度のことながら、私どもの職場では、部屋のドアがノックもそこそこに開かれるのです。
 ありとあらゆる用もない人間が、書類をかかえ、個人的には無関心をよそおい、さも所用ありげにあわただしく、あちこちの事務室を渡り歩き、その実、いたるところで何かを嗅ぎつけては、よからぬ噂までまき散らすのです。
 私は仕事にたいする集中力をさまたげるものは、すべて無視することにしていますので、この告白のなかでも、そのことにはほとんど触れていません。
 たとえば、ダネシュ技師との長い会話のなかでも、このような邪魔者については一言も書きませんでした。あのときも、あのオテンバ娘の侵入で、私たちの話の糸がとぎれることはなかったのです。
 机の向こうにすわっているお客のことで、誰かに見られて困るようなことは何もありませんからね。二人の教養ある紳士が、ある利害関係にまつわる問題について話し合っていたとしても、通りすがりのスパイなどのお気に召すはずはありません。
 ところが、今日はまったく事情が違います。
 私は立上がり、胸を張って、社会の福利にかんする原則を細心の注意をはらって練りあげた言葉によってまくし立て、足を椅子のほうに斜めにして引き寄せ、すわり続けている獲物への新たな攻撃にそなえて、槍の矛先を研いでいた、ちょうどその最中にイヴォナと呼ばれている、いやな小娘が入ってきたのです。
 口の両端はいつも唾液でぬれ、顔にはニキビがいっぱい出来ていて、まだ思春期もおわっていないというのに、ヴィーナスか、はたまたモナリザででもあるかのように、意味ありげに微笑むことだけは鏡の前で稽古しているという小娘です。
 すべてを見て、すべてを悪しざまに言いふらすのです。
 彼女は一目で私のカモシカの品定めをして、足の爪先からイヤリングの金の金具までジロジロ眺め、椅子の端に前かがみにすわった体を、薄グレーの瞳をして、問題の解決を頼みこんでいるこの美しい糸玉の値踏みをしたのです。
 私にはイヴォナが廊下を通りながら、何を言いふらすか、もう聞こえてくるような気がしました。
――ねえ、ちょっと聞いてよ、あの老いぼれ犬のHMのところに、すごーい美人がいるわよ。あいつったら、その人の前に立ちあがっちゃってさ……。あんた覚えている? このまえのテレビの『美女と野獣』
「出来上がった書類を集めたら、さっさと出ていってくれ」
 私は厳しい口調で言いました。
 私はイヴォナが出ていくまでのあいだに  ここまで来たからには、とことんやってやれ    と自分自身に命じました。
 私はあらかじめ邪魔者を封じるために、単純に、ここに立てこもることにしました。
 そうです、外側から差し込んだままになっていた鍵を抜き取ると、内側から差し込んで鍵をかけ、それから電話の受話器をはずしました。
 カーテンは閉めることはできません。ないのです。でも、あっても、なくても同じです。どのみち、窓と面突き合わせているのはのっぺらぼうの壁なのですから。そう、行き止まりの壁が……。
 娘はいなくなり、私はふたたび獲物のほうへ注意を向けました。しかし、その表情はすでに別のものでした。彼女は落ち着きを取りもどしていました。
 イヴォナの視線が彼女にそうさせたのでしょう。
 それと同時に、彼女の内部の迷宮のなかにまだ試していない通路を発見して、いち早くそこへ逃げ込んだのです。
「よろしいですわ、マトラッチ先生」
 彼女は溜め息とともに言いました。
「やっぱり、あなたは車の残骸を運んでくるという、私の最初の要求にこだわっていらっしゃるのですね。そのぶんだけ、この件は長引いて、わたくしは保険金の支払いをまだまだ長いこと待たなければならないというわけですか。
 でも理不尽な疑いの根拠はなくなりますわね。
 ただ、この件にかんしてダネシュの名前を巻き添えにするのだけは、ご勘弁ねがいますわ。あの人は、要するに、あたくしたち二人とは出来がちがうのです。一度手を汚したらその汚れを振りはらうことも、そのまま平気でいることもできない人なんですから……」 言いましたぞ、まさしく、彼女は「わたくしたち二人」と。
 皮肉な笑みを浮かべ、私たちを同類にしたのです。この瞬間、彼女は私にコートの端をつかまれ、水中遊泳の滑らかな軌跡をあとづけることを、私に許したのです。
 しかし、早くも危険の徴候が現れています。
 私は追跡から顔をそむけ、手をゆるめ、すべての決意を忘れて、おねだりをしはじめそうなのです。ですが、私はここでぐっとこらえました。
 彼女は「わたくしたち二人」とだけ言ったのではありません。その少しまえには、誰だか第三者との関係で、かなり胸を刺すようなことを言っていました。
「わたくしたち結婚しますの」とかなんとか。
「あたくしたち二人」のように一度手を汚したら、ぬぐう術も知らない、出来のちがう第三者のその男と結婚するのです。
 その男の前では腕を開くのに、私の前では開かない。
 彼女の思い通りに話を進めさせちゃいかん――私は自分に命じました――状況をイヴォナの出現以前の状態にもどし、ヴラスタをもう一度、獲物の位置に引きずりおろす必要があります。
 尋問の矛先を、実現しそうもない残骸の運搬のほうへ向けたことが、彼女を立ちなおらせたのです。
 実際、彼女は少しも驚きませんでした。彼女は私の知らなかったこと、つまり車はとっくにスクラップにされていることを知っているのです。
 あるいは反対に、残骸をもち帰り、そのあと私が失敗するのを望んでいたともいえます。 なぜなら、それには疑わしいものは何もないんですからね。
 それにしても、みなさんは、私がテレビの冒険シリーズで仕入れた理論などに、あまりにもふりまわされすぎているとお思いでしょうが、けっしてそんなことはありません。
 私が最初に得た確信はゆらぎません。どうしても臭いのです。
 ヴラスタ・ブルドヴァーはまったく別の方法で実行したのです。
 ネジとか金属疲労とかではない、むしろ、もっと危険な、知能的な方法で……
 私は視線を彼女の美しい額にじっとすえていました。
 彼女は、この賢しい女は、いち早く、私が鉄とは違ったところに鉄よりももっと堅い、確かな事故の原因を探ろうとしていることを感じとったのです。
 彼女は自分の優位を保とうとして言いました。
「ダネシュったら、あの人がとくに主張している見解というのを話しましたかしら?」
「自殺  のことですか?」
「とんでもない、そんな考え、あの人自身が重視するはずないじゃありませんか。あの人はオンドジェイを知っていますし、ズザナをどんなにかわいがっていたかも……」
 またも、彼女は共謀者的微笑を浮かべました。
「蜂刺され説というの、ほんとうに、お話ししませんでしたの?」
 今度は逆に、私がみごとな一発を食らいました。私は驚きを隠すことができませんでした。
 これはしたり、私は心のなかで思いました    おまえほどの抜け目のない検閲係がそれくらいの可能性について思いもおよばなかったとは!
 たしかに私どもの被保険者で、蜂に刺されて起こった事故があるにはあります。
 運転席側の小窓から風と一緒に蜂が飛び込んできて、目の下を刺した。その瞬間の激しい痛みで、溝に突っ込んで、おしまい……
 しかし、ある別の思索が私を立ちなおらせてくれたのです。女隊長が事件の全容を暗示してくれた方法自体が、彼女をまじめに評価することを許さないのですからね。
「解いてごらん」の頭の動きを思い出せばそれで十分ですよ。
「そうなんですのよ」
 彼女は続けました。
「ダネシュはずいぶん長いこと、ほかの意見を認めようとしませんでしたわ。そのことで、ずいぶんしつこくお医者さんと議論していましたわ。
 先生はオンドジェイの顔には、実際、なんの傷跡もなかったと主張なさいますし  そのことは、お手元の書類のなかの写真でもわかるのですけども  蜂に刺されたのなら跡がはっきり残るはずだし、色も残るだろうって……。
 それに第一、マツレの岩だらけの海岸はその種の虫が多いことはたしかですけど、土地の人たちが虫に刺されたという記憶がある人はほとんどないということなのだそうです」「じゃ、蛇はいるのですか?」
 私は口をすべらせました。
 彼女は眉をぴくりとつり上げましたが、薄グレーの瞳はおもしろがっていました。
「何かのはずみに、車のなかにまぎれ込んだとでも? それとも、誰かがわざとしのび込ませたとでもおっしゃるおつもり?」
 挑発だ! 私は立ち上がっていました。そして、踏みこらえていました。
 でも勝ったのではありません。まったく違います……。それに彼女は前かがみの姿勢ですわってはいません。糸玉のように体をまるめているのでもありません。
 獲物のようでもなければ、蛇のようでもない。堂々たるヴラスタ隊長。私はその姿を食い入るように見つめました。
 でも、私はその美しさに満たされることはできませんでした。それにまた、彼女の香りにも――ああ、なんたる清潔なその香り。
 人間にあるまじきほどに、神の怒りにふれようほどに清潔なその香りにも、満たされることができないとは……。
 私はその香りで、鼻に痛みを覚えました。
 私はこの瞬間をどうやって耐えればいいのか、どうやって膝を屈しそうになるのに耐えればいいのか、自分でもわかりませんでした。
 もしかして、彼女自身がそれを未然に防ぐのを望んだのか、私の考えを読み取ったのか、彼女はハンドバッグを取って立ち上がり、左手でコートの前を合わせながら言いました。「では、あなたは、わが国の保険局に大きな出費をさせたうえ、ここ当分、私にはびた一文、お支払いくださらないおつもりのようでございますのね。
 結構です。でも車がこちらに運ばれてきましたら、どうぞ、お知らせくださいませね」
 私は何か口ごもりました。たぶん、「承知しました」とかなんとか言ったのでしょう。「でも、ダネシュの名前だけは、この件から一切なくしていただけませんかしら……ね?」 今度は、私が黙っていたので、彼女はつけ加えました。
「こんないやなことはみんな、あたくしたち二人のあいだだけで進めましょう。そのほうがあなたのためにも、およろしいんじゃございません? きっとですよ!」






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