(7)

 彼女はもう二度も私たちのあいだに合意が成立しうるような言い方をしました――しかし、彼女は私の思惑を正しく読み取ったうえでのことなのでしょうか?
 私が欲しているのは汚らしい賄賂をかすめ取ることだけ、言い換えれば、ヴラスタに永遠の勝ちを与えることなのか?
 それとも、彼女が無条件に葬られ、抹殺されるのを目の当たりにするまでは、絶対に引きさがらない気なのか?  私自身にも、そこまでは正確にわかっちゃいないんです!
 その晩、たまたまテレビで『野生の王国』をやっていて、少なくともそのあいだは楽しみ、いらいらした気持ちを忘れることができました。
 画面に映しだされたものは、一見、なんの変てつもない野犬の群れで、ディンゴと呼ばれるその大きな犬は、私が若いころ郊外で走りまわってまわっていたのとそっくりでした。 解説者がグループのリーダーに注意をうながしているのが興味をそそりました。
 その犬は尻尾を垂直にピンと立てて「おれはここだ、おれについてこい!」と絶えず命令しています。尻尾のつけ根のところは太く、その裏側にそって白っぽい毛がふさふさとしていて、さながら軍旗を思わせました。
 そして、その他の犬たち    この点も解説者は強調していたのですが    は反対に尻尾を下にたらして絶対服従の意を示していました。
 ちょうどそのとき、家内が薄明りのなかを冷えた十二度のビールをのせた小机を私のほうへ引き寄せて、ついでくれました。
 ビールの泡が小気味よい音を立てます。
 それと同時に、画面のなかの従順な犬たちも、リーダーのしっぽの連隊旗が直立して風になびいているのに満足しきって、得意げな顔でブラウン管から世界をのぞき込んでいるのが、また滑稽にも、おかしく見えました。
 そうとも、犬というのはこうでなくちゃ。とくに犬同士のあいだではな。
 忠実なる愚か者よ、乾杯!
 私はリンゴのリーダーにウインクして、彼のためにグラスを飲みほしたのです。
 次は海亀の話になります。やつらは、なんて不器用なんでしょう。この不器用さかげんについてはどんな人間だって  私とだって  くらべものになりませんや。
 しかし、カメラが彼らの鎧のような瞼や 嘴 のついた口などを近距離から写し出したのを見ると、でっぷり太った私の上司ホヴォルカ氏が、すっかり疲れはてた長い一日の終りのときに、溜め息まじりに「亀のように憂鬱だ」ともらす理由が理解されてくるのです。 この動物のシリーズでは動物たちの結婚シーンを好んで取り上げています。
 異性たちの呼ぶ声だとか、あらゆる種類の婚前の儀式などです。
 もちろん交尾そのものを独立して取り上げることを慎重に避けているのは、未成年の視聴者のことを配慮してのことでしょう。
 今回は(私の目に狂いがなければ)すべてを見せてくれました。
 要するに、その二匹の顔にあらわれた苦悩の表情から察すれば、いかなる意味においても楽しげな行為とは思えないので、子供たちですら見てはならぬものを見たというふうには思わないでしょう。
 雄亀(?)がもう一匹の亀の甲羅の上にはいあがり、いぼいぼのある小さな足を突っ張って、その上でがんばっている様子を解説なしで映し出していました。
 そのまえは、もっとおもしろいことが演じられていたのです。
 解説者もまさにそのことを求婚だと説明していました。
 雄の亀が地面にへばりついているもう一匹の尻のあたりに、ピストン運動のような頭突きを執拗に何度も何度も加えているのです。ぶっつけたり、たたいたり、努力に努力を重ねていました。「開けよ、ゴマ!」とばかりに……。
 そのすぐ後には、残念ながら、あまり好ましくない『マテスの宝くじ』が放映されました。私にはこういったもののカラクリそのものが不道徳に思えるのです。
 動物の交尾にくらべれば、人間の射幸心をあおるだけに、絶対、不道徳なものです。
 私はこんなものを見るのを拒否します。
 あの解放された大自然は、かくも堕落した社会風俗とは無関係です。
 そこでは、自分で獲得したもの、発見したものを得る。命を賭け、知恵をしぼり、力で自分を守るのです。
 しかし、こちらの場合は、たなぼた式の幸運を得るために、半分は退屈から、半分は気まぐれから数字をバネにして、悪あがきをしています。
 こんなときは、家内のためにテレビの前の特等席を解放してやるのです。
 家内は、私とちがって、ぬらぬらしたものや、すばしっこいもの、器用なものなどは好みません。二十日ねずみや猿までこわがり、海蛇など見ようものなら、吐き気をもよおすくらいです。
 その反対に、人が争い合ったり、勝利をおさめたような場面は大好きです。
 それを見て、独り静かに、世の中の不公平をかこつことができるからでしょう。
 彼女は、平気で舞台にあがり、質問に堂々と答え、たったそれだけのことにしては不当に大きな報酬を得る人たちを見ています。
 ちょうど、今も、『マテスの宝くじ』のおかげで、どこかの誰かが手に入れることになる大金のことに思いを馳せ、うらやましそうに大きな溜め息をついています。
 わたしはこれまでに、何度もからかって言ってやったものです。
「そんなに人のことがうらやましかったら、なんで自分でも賭けないんだ?」と。
「とんでもない」と家内は顔をしかめます。「神さまが本当に誰かを祝福したいと思われたら、番号札がなくたって幸運を与えてくださるはずじゃないか」
 そこでふたたび私が言います。
「ところが、その神さまとやらが、しち面倒くさい奇跡を考え出すのに嫌気がさしたからこそ、こんな愚にもつかない宝くじの助けをかりて、幸運の分配をしているんだとしたら……。おまえだって、神さまの仕事を楽にして、おまえを選ばせるチャンスを神さまに与えてやって、おまえも賭をしたっていいんじゃないのか……?」
 私はたちはばか話もします。家で話すとき、どんなことを話すか、おわかりいただくために、わざとここに書き出してみたのです。
 私は書斎に引きこもると、机の上の電灯をつけて鞄のなかから書類を引っ張り出したのです。私の耳のなかでブルドヴァー夫人との最後の会話が響いていました。
「蜂が車のなかに……、蛇が車のなかに……」
 私は写真をしげしげと眺め、亀の頭突きのような執拗な視線をそれらの写真にぶっつけました。そうすればこれらの写真もギブ・アップして、秘密の鎧を押し開いてくれるのではないかと期待したのです。
 ヴラスタは亡くなったブルダ氏の写真のことに言及しましたよね。
 事実、彼の顔はなめらかで、開いたままの目のまわりに傷跡は見当たりません。検死の際、蜂刺され説が医師に受け入れられなかったのも当然だと思われます。
 次の写真は娘の顔を写していますが……、いや、これは、もう、本来、顔といわれるようなものではありません。しかし、まあ、このかわいそうな娘ときたら、体中がめちゃめちゃにやられていて、手も足も……。こいつはちょっとどけましょう。
 むしろ、上機嫌のブルドヴァー夫人の写真のほうにもどったほうがよさそうです。
 まだ元気だった娘にボールを投げたり、リボンを結んでやったり、その後に夫人の写っていない写真があります。でも、居眠りをしている夫の写真をとるべくシャッターを押す彼女の利口そうな微笑が思いやられます。
 その後が、また、例の、まったく様子を異にした  手でオッパイを隠しながら、カメラへむけた    微笑が……
 まさに、これと同じ微笑が私のデスク越しに、最後の言葉を発したときの彼女の目のなかに映っていたのです。
 挑発だ!  私が膝を屈しそうになるのを未然に防いでおもしろがっている。私がありもしない知恵をふりしぼっているのを見ておもしろがっているのです。
「蜂刺され説」はあっさり手でふりはらい、「蛇咬まれ説」はあからさまな皮肉をこめて言い返しさえしました。私をあざむく、いつわりの痕跡をほのめかそうともしません。
 彼女の実行したことの完璧さに絶対の自信をもっていて、それが暴かれようとは露ほども予想してはいないようです。
 たとえ、私がその秘密を全部解いたとしても、彼女の罪を立証し、その償いをさせるだけの具体的な証拠のかけらも発見できはしないと安心しきっているのでしょう。
 車のなかで蜂がある瞬間に突然、暴れはじめるということもないでしょうし、蛇が時限爆弾であるわけでもないでしょう。捜索者が動かぬ証拠として指摘することのできる痕跡はなにもなしです。
 必要な仕掛けは夫人が無から自分で、あの美しい額の奥にかくされた悪知恵だけを頼りに作り出したのです。
 これほどうまくいったことにたいして、彼女は彼女なりに得意がっていることでしょう。 私は、以前、彼女の良心の痛みについて考えたことがあります。
 しかし、すべてが予想どおりうまく運んでみると、そのことを自慢したいという抑えがたい気持ちが、かえって彼女を大胆不敵にするとも考えられませんか?
 完全無欠な成功    はたして、そんなことがありえますかねえ?
 ところが、あるのですよ。私はラジオのスイッチをいれて、ピアノの演奏を聞いています(スカルラッティだか誰だかの作品だそうです)。
 ピアノのハンマーが次々と正確に音をたたいています。かろやかな、粒のそろった音がシャンパンを抜くときのようにポコポコと鳴り、音の階段を駆け抜けるときも音がはみ出すようなこともなく……完全無欠な演奏です。
 だからといって、この演奏家がすべての点で完全無欠というわけではないでしょう。
 たとえば、水着を着たときはどうです?
 それにまた、うぬぼれとまではいかないにしても、自分の限られた専門領域における完璧さを、ほかの人に、世界中の人に誇示することを望まないわけでもないでしょう。
 演奏家にしても、戸や窓を締め切ったなかで、なにか派手な曲目をさらっているとき、これは、ただ美しい音のためだけに、そして自分自身のためにだけに演奏するのだ、などとはよもや思ってもみないでしょう。
 芸術作品が完全無欠だからといって、それを作る芸術家が完全無欠かどうかは別問題です。
 たとえば、その芸術家はひどいうぬぼれ屋かもしれません。
 だからといて、それがあなたにどんな関係があるというのです?
 どんな大演奏家だって舞台に登場するときには客席のほうに向かって、ちょっとばかり愛嬌をふりまいたり、ちょっとしたショーマンシップ、ちょっとしたオーバーな身振りなどでお客のご機嫌を取るじゃありませんか。
 もし、あるカモシカが自分の美しさを誇示しようとして、同じような弱点を見せてしまったら、こいつは注目すべきことではありませんかね?
 だって、そんなことでもなけりゃ、腹を空かしたハイエナがそいつをとらえて、そのついでに、カモシカ族の種の改良に、ヘヘヘ、なにか貢献するという夢も希望もなくなってしまうじゃありませんか。
 そこで、女隊長がうまくいった計略を自慢に思っていると仮定してみましょう。それどころか、もしかしたら拍手喝采をを期待しているかもしれませんよ。
 ところが、こういった類いの欲望というのは、極力、抑えておかないと手痛いしっぺ返しを受けることになるかもしれないのです。
 つまり、彼女が最も頼りにしている唯一の人物の愛と献身をさえ失うことになりかねませんよ。
 私はこの人物を知っていますから、ここにテコをすえようと思っているのです。
 ただし、ブルドヴァー夫人がこわれた車のなかに自分で仕掛けた秘密の細工、それがいったい何であるかを解くまでは、やたらと仕事にはかかれません。
 蜂とか蛇とか時限爆弾というような有形のものであってはだめなのです。
 むにしろ、爆発するにしろ、まさしく運転手の脳みその内側にあるものならいいのでしょうがね。
 ただ、どうしても気になるのは、その秘密の細工が彼の鎧の内部にそんなに簡単に仕掛けられるだろうかということです。
 こっそり写されたブルダ氏は砂浜でのんびり憩っています。のんびりすることに無上のよろこびを感じる年齢にたっしているのです。
 ただしこの頭のなかには秩序を愛し、学問的研究にも耐え、企業経営にも手腕を発揮しうるところの、十分教育を受けた該博なる知性がつまっていることも忘れちゃいけません。 それにまた、車のハンドルを独占し、その車の細部にいたるまで知り抜いていること、そのうえ、後部座席に乗っている娘をこの上もなく愛していたということも絶えず頭のなかに入れておかなければならないでしょう。
 ドライブの合間にも娘と話をかわし、バックミラーをとおしてウィンクをするなど…… こんな技術者の脳みその外壁の内部にまで手をのばし、そいつを狂わせ、長年のあいだにがっちりと植えつけられたものすべてを、外側からかき乱すというのは、なかなかどうして……きわめて容易ならざる難問です。
 もし、仮に、夫人がとなりの席にすわっていて、突然、ご主人の頬に手荒く一発見舞ったとしたら……?
 私は以前、似たようなことを目撃したことがあるのです。
 私は電車のなかで、後部の窓のほうに押しつけられながら、私たちの電車が動くのを待って停車していたトラバント(旧東独製小型乗用車)を見おろしていました。どうやら、運転者と同乗の女性とのあいだに何か口論がもちあがっているのです。
 二層のガラスと街の騒音にじゃまされて、一言も聞き取れなかったのですが、その瞬間、私は見てしまったのです――彼女が横向きざま彼のほっぺたに力いっぱいの平手打ちをくらわせたのを――  。
 一発くらったあと、彼はポカンとして、ばかみたいに私を見あげ、てれくさそうな顔をしていましたが、彼女のほうはすかさずその機をとらえて二発目を見舞ったのです。
 その先どうなったかは知りません。電車が動き出したとたん、車内がゆれて、誰かが私の服の袖をちぎれそうになるほど引っ張ったのです。
 トラバントは私たちを見送ってでもいるかのように、すぐには動きだしませんでした。 それから、やっと私が頭をふりむけたときには、運転席での滑稽劇がどう進展しているか、もはや見届ける事はできませんでした。
 結局、私は心のなかでは大笑いしましたがね、その運転手氏に、いや、すべてのマイカーの運転者諸氏の幸運を願わずにはいられませんでしたよ。
 この場面は強烈でした。サーカスの慈善興行で見た道化の芝居のような強い印象を受け、私の記憶のなかに深く刻み込まれたのです……。
 それにしても、こんなに気性の激しい女性同乗者というのは――私はこの宵、書類を見ながら独り言しました――ドライブの最中だろうが何だろうが、その気になりさえすれば平手打ちくらいへいちゃらでしょう。
 たとえカーブの途中でも、海岸線上四〇メートルの崖っぷちだろうとです。
 ところが、ヴラスタは車に乗っていなかったし、そもそも自殺など思ってもみなかったのです。すべては遠隔操作によってなされました。
 もし、蜂が夫人のかわりをしなかったとしたら、ご主人のほっぺたをぶったのは、そもそも、何か? です。
 蜂刺され説は、最初、ダネシュには一番ありそうなことに思われたのです。そのことでは医者とも議論しました……。
 でも、どうして私にそのことを隠していたのでしょう?
 私が納得しうるような事故原因を彼から聞き出そうとしたときも、まさにこの点にかんしては口をつぐんでいたのです。
 蜂に刺された傷は必ず跡が残るというりが医者の主張でした。
 つまり生命のわずか数秒の残り時間のあいだにも、なお顔がはれる時間があるというのです    さすがにこれほど完璧な論理はありませんよね。
 いずれにせよ、ダネシュはそれ以後、この説を口にしませんでした。おそらく彼自身、この考えを捨てたからでしょう。
 別の疑惑が彼をとらえたのです。
 彼はブラスタを怒らせないために、そのことにかんしてだけは沈黙を守ったのです。
 それとも私と同様、正確なことは何も知らず、これは偶然ではなく、犯罪であり、しかもそれを犯したのが彼の愛する人物であること……などを、ただ憶測しているだけなのかもしれません。
 わが親愛なる善人、わが秘密の相棒よ!
 いったい、何が君にこのような疑惑をいだかせたのだ?
 ブラスタ自身が異様なくらいに強調した事実  ダネシュに誓いまでした  とは、つまり、マツレでは夫婦のあいだにいさかいはなかったし、家族の団欒をぶちこわすものは何もなかったこと、ブルダ氏は朝、娘を起こすと上機嫌で車のエンジンをかけて……
 リボル・ダネシュは「私たちとは出来がちがう」のが事実だとすれば、潔白な人間です。 ところが、ずっと以前から、禁断の木の実をつまみ食いしていたのです。彼の良心がクリスタルグラスのごとき完全な透明度を保っているとは言いがたいでしょうな。
 恩師であり、父親ほどの年齢のへだたりのある友人をたぶらかしていたとしたら……
 たしかに、彼はそれをこころよしとはしなかったが、いかんせん女隊長のあまりにも強引な引力にあらがいがたく、というわけで  私もまたご同様。
 電報を受け取ったとき、不安に駆られてマツレに飛びました。
 その事故が彼の裏切りと関係があるんじゃなかろうか、と?
 それはそうでしょうな、奇跡が起こったみたいに障害が取り除かれたのですから。
 ヴラスタは自由になり、夫も子供もいなくなったんです。不倫の恋をまっとうな関係にすることに何の気がねもいらなくなり「私たち一緒になる……」のです。
 しかし、正常な人間ならこのような僥倖をなんの後ろめたさもなしに受け取ることがでいるでしょうか?
 もし、父親を亡くした息子(それも孝行息子)が遺産を相続するにあたって、父親の生命を救うために、真実、万全を尽くしたかどうか、病床にある父親にたいしてしかるべき医者をつけ誠心誠意看病したかどうか、忍耐力を失うことなく、誰にも知られぬ心の奥底で、父の死の早からんことを願わなかったかどうか、自問することなしにいられるでしょうか?
 それに、ダネシュはまるっきり孝行息子ではありません    ブルダ氏の奥さんを横取り
したのですからね。その以前はきっと、彼の死をさえ願っていたでしょう。
 この願いのかなったことを知らせる電報に、さすがにギョッとしたにちがいありません。 だから、最初に浮かんだ考え、つまり、海上で突風が吹いてボートが転覆したことがこの悲劇を引き起こしたという考えは、そう信じるというよりは、そうあってほしいという願望だったのでしょう。
 やがて、本当はどうであったかを聞くにおよんで、ヴラスタが非難されずにすむような事故原因の仮説はないものかと模索したのです。
 事故車の残骸にもじかに触れ、疑う余地のない機構上の欠陥はないかと探したのです。 鉢刺され説を思いつくと、それを主張しました。残骸のところから道路を見あげると、自殺の可能性についても考えざるをえませんでしたが、二つの理由からこれを捨てました。 一つには、彼はブルダ氏の性格をよく知っていること。
 二つには、このような思いもかけない精神的衝動を呼び起こしうるのはヴラスタしかいないこと。あるいはもっと正確に言うならば、ダネシュとヴラスタの関係が露見した場合にしかありえないからです。
 そうなると、彼らゆえにブルダ氏はこの世をおさらばしたことになります。
 だからこそ、彼の到着後、すぐに、あの興奮した誓いの場面になるのです。
 休暇のあいだはきわめてのんびりとした田園的ムードが支配していました。
 ブルダ氏は何も知らず、思いわずらうものはなにもなかった! はずなのです。
 お人好しのホンザ君は、誓いの言葉に熱心に耳を傾けるのですが、それにもかかわらず、一点の疑いもないほどには、どうしても信じることができなかったのです。
 それを信じるにはあまりにも不自然な運転ミスなのです。それにまた、いろいろな事情もありますしねえ……。
 たしかに、彼(コンチキショウ!)はヴラスタをよく知っていました。ベッドのなかばかりでなく、ほかのところでも。
 彼自身も頭もいいし、教育もあります。たとえ、どんなに愛し、盲目的なまでに尽くそうとも、この女性の美貌の奥に、言い知れぬ疑惑の深淵をかいま見ないわけにはいかないのです。
 この割れ目のなかに疑惑のすべてがあるのかも……
 また作り話ですと?
 いいえ、今度の話はダネシュが鉢刺され説を、ありそうなことではあっても、十分納得できる原因ではなかったという事実にもとづいています。
 私も忘れてはいません。心配そうに私の顔を見つめていた彼の様子、そして、彼の罪のない無邪気さが、かわいそうなくらいに思えたことをです。
 とはいえ、彼も罪がないとは言えませんし、それに確信はないながら、彼もすでにヴラスタを疑っているのですから……。
 だから、彼女も非常に神経質になっていて、あらためて保険局へ駆けつけて、自分から槍の矛先を私に突きつけてきたのです。
 彼女には愛人がかかっています。したがって、すべてがかかっているといえます。それにまた、彼女の鎧の下の奇妙なむず痒さも、ずっと気にかかっていたのです。
 それは良心の呵責でしょうか? それとも、この秘密を自分ひとりの胸のなかに秘めておかなければならない重苦しさ、耐えがたさでしょうか?
 それとも、まさか、賞賛への欲求?
 そんなこと私にもわかりませんや。誰だって他人の心の奥底をのぞき見ようとするとき、それがあまりにも深すぎると、めまいがしてきますよ。
 あのときは、もちろん、私も、他人の心の割れ目に否応なしにおおいかぶさり、そいつを手に入れたら、めまいも止まるだろうという願望みたいなものはもっていましたがね。
 割れ目を手に入れること。やれやれ。
 私は以前、新聞で『虹の所有者』という署名のある投書を読んだことがあります。いかにして一生の夢を満たし、南向きの斜面に建ったマイホームを買ったかを、幸せいっぱいに息をはずませながら述べていました。
 境界を示す柵は低く、木の陰に隠れているので、庭ははてしなく広がり、どこかずっと下の川のところまで続いているかのような、ちょっとした幻想を起こさせるのです。
 春一番の嵐のあと、家の門口から虹が立つというのですが、新しいこの家の主人には、この虹までが自分の家の庭にかかっているように思えるんですな。
 だから、こんな話をおとぎの国の、前代未聞の出来事かなんぞのように書くこと書くこと、だらだらと……
 そのとき、『虹の所有者』という文章のことで夢想しはじめました。私にはそれがばかばかしくはあっても、やや感動的に思えたのです。誰かが色のついた空気の縞を、水滴の輝きを、協調と平和の夢のシンボルを自分のものだと考えているのです。
 そして、それに加えて、筆者はいくらか言い訳をしています。
 彼は信念としてほとんど財産には興味はないし、富を得ようという気もなければ、ましてや節約をして貯金をしようという気もさらさらないと  まあ、そう主張しています。
 家は、真実。家族がそこに身を寄せあうことができるように、ただそれだけのために購入したのだと。それにもかかわらず、今、窓の外を見やると、嵐の後の澄みきった空に、あたかも我が家の庭先から立ち上がったかのように虹がそびえている。その虹はかつて彼の長い人生において感嘆してやまなかった虹のすべてとことなるのです。
 なぜなら、それは彼の虹だからです。
 あほう! おしゃべりめ! そうじゃありませんか?

 マイホーム――バランドフかチェルノシツェの住宅地を散歩するとき、私がそんなものをうらやましがるとでも思いますか?
 家内のほかに家族もないのに、何になるのです? それに虹だなんて!
 でも、例の割れ目なら、私もきっと欲しがったでしょうがね    自らの放つ熱のぬくもりにほてった、生きたビロードにおおわれた割れ目を、私は幾度となく思い浮かべたものです。人間がそのなかに永久に身を沈め、情熱を爆発させ、最後の力をふりしぼって――そうしたくなる場所としての割れ目を……。
 言われるまでもなく、私も死について考えたことがあります。本当です、こんなことはこれまで口にしたことはなかったのですがね、私にも潜在的自殺志向があったのです。
 それどころか、ずっと以前、自殺をしそうになったことさえあるのですよ。
 ブルダ氏はたくさんの人生プランをもっていたように見えます。しかも家族もあり、頭上には美しい屋根、手入れのいきとどいた芝生、ガレージのなかにはきれいに洗った車などもふくめて……。
 ところが、彼もまた肝心かなめの割れ目にだけは免疫性がなかったのだとしたらどうでしょう?
 マツレの平和な朝という、ヴラスタの陳述には捏造の可能性があります。
 ブルダ氏の頭のなかに決定的爆発物をしのび込ませたのはブラスタ自身かもしれないのです。たとえば、今日で田舎の生活もおしまいよとか、ほかに男がいるのでブルダ氏と別れるとか、裏切ったのは彼自身の教え子であるということまでも……
 でも、それでもまだ足りないような気がします。そんなことくらいが、砂浜の上で心おきなく眠りこけている、満ち足りげな男の頭を狂気に追いやるとは思えません……。
 もっと、ひどいことを言ったり、叫んだりしたとしてもです。
 たとえば、もう二度も妊娠したとか、ブルダ氏も、その娘もいやでしょうがないんだとか……。いや、もっともっと強烈な爆弾が必要なんじゃありませんかな?
 目下のところ、私にはまったくり見当もつきませんがね。
 もし、ブルダ氏のことで何か知っているんだとしたらどうでしょう? 何か非常にわるいこと……、たとえば、先妻のブルドヴァー夫人の死亡のことにかんして、妙に言葉を強めて言いませんでしたかな?  名をアンナといい、ガンだったと……。
 ところが、何かほかのことが原因で死んだのかもしれませんよ。薬をたくさん飲みすぎたとか、それを夫が自分で与えたとか……ありえないことではありませんよね。
 二人が同じ年だったとしたら、当時、アンナは四十二歳だったことになります。働き盛りの四十二歳の男性の奥さんとしては、ちょっととうが立ちすぎじゃありませんかな。
 しかも、秘書デスクの前には半分も年が若いヴラスタという爆弾がすわっているのですからねえ……
 さてと、これが探偵小説なら、または『アンジェリカ』のシナリオライターならこの話をこんなふうにまとめるんじゃありませんかな  先妻は後妻に場所を譲るためにこの世を去らねばならなかった……。
 たとえヴラスタの積極的協力があったにしろ、なかったにしろ、とにかく、ブルダ氏はやっちゃったんです  。すると今度は、「バラスぞ」というおどしが、マツレで冷静な技術者氏の頭脳を破壊するダイナマイトにもなりうるはずです。
 二人目の奥さんが彼の首根っこを押さえ、彼を殺人者として証言することもできるわけです。つまり、ズザナは殺人者の娘ということになる。
 なるほど、そうなると、割れ目の淵のもっとも危険かつ誘惑的カーブでとっさに自殺に駆られたとしても不思議じゃありません。
 なぜならブルダ氏にしても、ヴラスタが誰と寝たかを知り、そのヴラスタのなかにあらゆる悪の素質がすきをうかがっているのを見せつけられたわけですからね。
 だから、むしろ娘を道連れにすることを選んだと……
 真実はこうだったかもしれません。
 しかし、どうも私にはこんな解決は気に入りませんんな。
 学生のころ、数学の時間に、あまりにも冒険的なまわりくどい計算で答えを出したとき、先生は言ったものです。「どうも途中の手順がエレガントじゃないな」ってね。
 私はもう一つの殺人の手順を追跡してみたい気もするのですが、そうなると先妻アンナの死体を掘り出して、とんでもない調査をおっぱじめなきゃならなくなる……。
 しかし、正直のところ、こういった種類の殺人は、功なり、名をとげ、かつ、十分な分別をもったブルダ技師にはどうもしっくりしないような気がするのです。
 私はこの人のことはあまりたくさん知りません。せいぜい、二枚の写真、寝顔と死顔が教えてくれることくらいのものです。
 ところが生身の彼の弟子と、生身のヴラスタなら直接知っています。
――じゃ、その二人について知っていることを話してみろ。
――よし、じゃ、話してみよう。
 リボル・ダネシュの同類は、たぶん、自分の奥さんを殺せるようなタイプの人間じゃありますまい。ところが、ヴラスタとなると話は違ってきます。
 彼女はなんでもできるのです。しかし、それはむしろ名人芸的アイディアを実験する際の遊びの精神に由来するもので、不純な意図をもったものでもなければ、昔の罪をの悔いる夫の長いあいだの呵責の念ともまったく無関係なものです。
 スカルラッティのソナタ、鍵盤のうえの敏捷な指の動き、完璧な音階の昇り降り  これなら大丈夫できますよ。しかし金槌をもってきて、誰かの頭をぶち割るってことになると……できますかねえ、さすがの彼女にも?
 たとえ、彼女のゲームの結果がこのような野蛮な行為の結果と実質的に同じようなものだったとしても、自らの手でその野蛮な行為をやらかすところまではいかないでしょう。 たしかに、事故のあとの子供の写真はまさに……
 もし、私がこの写真を書類から引っぺがして、コピーを百枚作り、百枚の封筒に入れて、百日間、毎日毎日、プラハ市シュチェショヴィツェ区オジェホフカのヴラスタ・ブルドヴァー様宛てに送りつけたとしたら……、私のハンマー攻撃に抵抗しうるでしょうか?
 たぶん、女隊長の鎧の下で、私たちの古風な良心とは異なった何ものかが、彼女をむず痒くはさせるでしょう。しかし、ぐしゃぐしゃになった娘のなまなましい顔の写真も立て続けに百回も郵便受にということになると……
 この郵便物は、たぶん、彼女を怒らせるだけでしょう。そして彼女は私のところに怒鳴り込んできて、私をさディストの変態ときめつけるでしょう  警察も私の上司たちも彼女に同情するかもしれません。そうなると、私はすべてをぶち壊しにしてしまいます。
 とはいえ、別の結果をもたらす可能性がないわけではありません。
 その写真が彼女の良心を根底から震撼させ、完膚なきまでに彼女の勇気を打ち砕き、自首に追い込むこともできるかも……
 いや、たとえ後者の可能性が多少はあったとしても、私はこの方法を取りたくありません。私の数学的「勘」に照らして、どうもエレガントではなさすぎます。
 それは相手の弱みに賭をすることであり、自分の力で謎を解き、自分の手で糸玉をほどくことにはなりません。
 それに私だって、せめて生涯に一度くらい、銃を手に、一か八かやってみたいじゃありませんか。
 ヴラスタの胸元へ狙いを定めて、抜き差しならない証拠を突きつけ、私の前にひざまずかせ、服を脱がせてやりたいものです。
 写真による心理的プレッシャーなんて子供じみています。
 言いかえれば、まったく効果なしとも言えそうです。女隊長は二度三度とたびかさなれば、そんな手紙など開けようともせずに屑篭に放り込み、平然として、身をかわす可能性があります。
 身をかわすだと?
 私は書類を開き、額をぶっつけんばかりに写真を一枚一枚めくっていきました。
 ここだ、ありました。
 私はこれまで、この写真にはあまり注意を払っていなかったのです。
 岩のあいだに横たわる車の残骸の写真。
 その残骸から一定の距離をおいて、三人の人物が立っています。
 カメラマンにとっては現場の全体的状況を写すことが眼目であり、人物のほうは添え物というわけですから、そのぶんだけ、鮮明さを欠いています。
 制服の男と私服の男、それから残骸の右側、真横に、第三の人物の背中だけですが写っています。見ようによっては女性と見えなくもありません。
 私は全部の写真を以前虫眼鏡でこまかく調べたと言いましたが、背を向けた人物のこんな小さな影は私に何も訴えかけてこなかったのです。
 少なくとも、子供の顔の写真について(そして、この写真を次々と百回も郵便受のなかに発見したら、ヴラスタがどう反応するかを)思いをめぐらせているうちに、たぶん、その写真を無視し、見向きもしなくなるのではないかという疑念が私に浮かんでくるまでは……。
 車の残骸からほど遠からぬところにいる人物が、本当にブルドヴァー夫人であるかどうかを言うのはむずかしいところです。
 頭は写真からはみ出しており、肩はグレーのショールか幅広のスカーフがおおっています……ヴラスタはこのとき車を見にきて、朝の冷気にそなえて、サマー・スラックスをはき、むき出しの腕に何かをまとったのでしょう。
 だから、彼女が言ったことは嘘ではなかったのです。彼女は本当に車を迎えに出たのです。
 なぜなら、もし事故が起こったあとに、事情聴取に呼ばれたのだとしたら    写真に出ている影の具合から察すると、もう日は十分高く上がっていますので  掃除か料理のちょうどそのとき着ていた服装のまま来たのでしょうからね……
 で、それからどうなんだ?
 この種のこまかい点なら前から知っているのです。写真のあれやこれやのこまかい点が私をとらえてしまうのです。いつもそのときは、これで事件の核心に到達できるぞと思うのですがね。ところが、うまくいったためしがないのです。
 なぜ、むこう向きの未知の人物のショールないしはスカーフの人影が急に私を落ち着かなくさせたのでしょう?
 そのほかのすべて、魅力的なヴラスタの写真には裸の肩、その下に肘、そのとき夫人が何をやっているかによってビキニだったりするのが見られます。ボールを投げ、リボンを結んでいます。リボンは彼女の指にからみつき、夫人はそれを見て微笑んでいます。子供にではありません。いわば、手玉にとって遊んでいる、何かを、いや、誰かを……
 同時に、孤児の髪の手入れに無心になっています。
 いわゆる「幼き頭、梳るとき、真赤き血の、頬にしたたる」ですか、ぶるるる……。
 そこでまた事故のあとの見るも無残な子供の写真とのご対面です。
 ヴラスタは書類のなかの写真のことはみんな知っているんですよ。この写真だってです。いったい、なんでまた私は、一枚の写真より百枚の複製写真のほうが彼女にショックを与えるだろうなどと考えたのですかね?
 こいつは、もういい!
 娘の生前の写真の一枚ではヴラスタの手が目を隠しています。次の写真は何もじゃましていません。子供は笑っています。ごく普通の子供です。
 冷酷な継母の物語など場違い、見当違いもいいとこのように見えます……
 それでも私は目をそらすおとができませんでした。何度も何度も、その写真を突き刺すように見つめました。私だってこれで人情を解さぬ検閲係になりきっていたわけではありません。私の内部にひそむ好奇心が私を駆りたてるのです。
 しかもその強さといったら、あの鈍重な雄の海亀をも不思議な力で駆りたて、そのついでに種族の繁栄をも保証するところの本能にもたとえるべきものでしょう。
 テレビの視聴者は楽しみ、ビールを飲みながら言うでしょう。
「このばかでかい甲羅にこんなに毛を生やした不様な格好で、おまえは愛の一戦を交えに、いったい、どこへ行こうというのだ?」
 しかし、頑固な怪物を何ものをも引きとめることはできません。岩に額をぶっつけ、よじ登り、変わることなき絶望的苦痛の表情を目のあたりに浮かべつつも、個人的至福の瞬間と同時に、地上における生命の公共の福利のための勝利を達成するのです。
 こうして、何万年ものあいだ繁栄し、これからもまた繁栄するでしょう。






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