(8)

 かくして、ある朝、私は目を覚まし、すべてを理解したのです。
 いかにしてヴラスタがそれをやったか。いかにしてこのゲームを思いつき、自分自身で驚いたほどの完璧さでやりとげることをできたかを  。
 さんざん頭を悩ましたあげく、霧が晴れたのです。
 嵐のあとのオゾンをふくんだ空気。しかし、待ってください。
 虹はかかっていません。いかなる和解も、合意への歩み寄りもないのです。
 私にはひらめきがどういうふうに浮かんできたか、もう覚えていません。
 しかし、それは芸術家や科学者などが言うところのインスピレーションのようなものだったかもしれません。だって、私は理論物理学者や歴史小説の作者のように、少しずつたゆまぬ歩みを重ねていったのですからね。
 長いあいだ苦労を重ねて、自然にかんする客観的データを研究したのです。
 それは私の以前に、ほかの人が記録したものでした。しかし、どうしてこれがこうなったか、そして本当はどうだったのかという現実  これまでの調査官が思ってもみなかった事実を、彼らの記録をもとに、一挙に解決したのは私が最初です。
 天啓です。
 狂喜したろうですって? アルキメデスのように「見つけたぞ」を叫んで、感謝の生け贄を捧げに神殿へ飛んでいっただろうですって?
 そんなばかな!
 目下の私はその認識の光のなかで口を開き、しばらくポカンとしていたいような、そして、勝ったというよりは、むしろ負かされたような、やや愚かしい気分なのです。
 私が手探りしながらここに書き続けているものはすべて、幻の肘、女隊長よりもはるかに大きな神秘の肘を開こうとする、つけ足しのたくらみにすぎないのです。
 つまり、私が白紙のノートを前にこうしてすわっているのは、書くことを通してブルドヴァー夫人にかんする何かを知ろうといいうのではなく、むしろ、私自身を探りたいからなのです。その時点で、私はもうマツレでの事故の原因を知っていました。
 私が欲したのは、むしろ記憶をとおして、認識のメカニズムを分析することです。
 その過程で、すべてのものが、私のなかでいかなるふうに起こったかを確認したいと思ったのです。
 それをはじめるに当たって、本当に白紙の状態からはじめえたかどうか私にもわかりません。それどころか、たった今、この瞬間でさえ、いささかのうそ偽りも述べていないとは、当の私にも言いきれないのです。
 私は事件の実態像を調査の段階になって、しかも、少しずつ理解してきたのでしょうか? 記録のなかのヌード写真を一目見たとき、瞬間的にすべてがひらめいたのか?
 そして、ここにたくさんの頁を費やして書きつづっているのは、第一印象にもとづく推理の正当さの裏づけをでっちあげるためなのか?
 アインシュタインでさえ、その研究のハイライトともいうべき、かの有名な、それでいて一見、単純ともいえる公式を、いきなり引き出したのではなかったのです。
――アインシュタインを引き合いに出す私の厚かましさはお見逃しいただくとして――彼だって、あらかじめ、無数の先輩たちの研究をつぶさに調べ、彼自身も数多くのページを書き加え、そのあげくに、はじめてエレガントな(そうです、この言葉はアインシュタインもどこかで使っていましたよ)解答(E=mc2 )を一般に公表したのです。
 おそらく、これと似た、包括的な簡潔な結論を長いあいだ夢に描いていたのかもしれません。もしかすると、ずっと前から自分のなかでは完成していたのかもしれません。
 ただし、まだ未熟で、触れるのもはばかられる萌芽として。そして、自ら問題点の証明に苦心惨憺したあげく、やっとほかの人びとの前に提出する勇気を得たのです。
 私はこの話を運命的スナップに写った姿が私をとらえてしまった、その場面からはじめました。それはたしかに真実です。しかし、それから先はもう理性によって把握され、理性によって制御された事実関係に合わせてすべてを切りそろえてしまいました。
 とはいっても、単にわかっているとか、精霊によって懐胎した処女マリアのように、ありもしないことを理屈もなしに作り出すというようなそんなあやしげな話をするつもりはまったくありませんでした。
 私のことをお笑いですか? 私はもう自分で自分を嘲笑しましたよ。
 宇宙をうずめる大爆笑を聞きたくはありません。認めます。そうです。私は獲物に飢えた犬の顔をしています。栄えある自然の創造物とは似ても似つかない代物です。
 私はむしろトイレに身を隠して水洗のヒモを引き、狭すぎる明かり取り窓の取っ手を外して……
 しかし、いかなるインスピレーションの閃光がブルドヴァー夫人の決定的トリックを私に啓示したかをいよいよ語る段になって、それをどこからどう話していいのかまったく見当もつかなくなってしまったのです。
 さあ、話の筋道よ、理性によって把握され、コントロールされて、私の前に現れてくれ! その口火を切ったのは、たぶん「当ててごらん!」という一つの言葉でした。
 たしかに、私ははじめから「解けるものなら、解いてごらん……」というなぞなぞにこだわっていました。
 女隊長の目はいつも「当ててごらん!」と問いかけていました。
 どこからともなく、職員食堂でのかわいこちゃんの記憶がよみがえってきました。彼氏に目隠しをして、彼の頭を自分の胸に押しつけていた様子です。
 そう言えば、あの娘も「当ててごらん!」と叫んでいましたっけ。
 ピンク色の暖かい手    どんなにか私も、その手の夢を見たことか!
 かつて、私の目にそのような手がそっと触れたことがあったでしょうか?
 ありはしません。だから今になって私は、両の手で他人の目をふさぐことがあるのだということを、はじめて知ったのです。
 いや、ブルダ技師の目を、ヴラスタが自分でじゃありませんよ。遠隔操作です……
 ブルダ氏の後ろの座席にはいつもズザナが乗っていたのです。
 ヴラスタ夫人はズザナと海岸で遊びました。ボールを投げ、リボンを結びながら、肘でズザナの目隠しをして……、だったら、ピンク色の暖かなてのひらで目隠しをすることだって、ないとは言い切れないでしょう?
 この「当てっこ」遊びは写真には記録されていません。父親が自分たちのほうを見て、写真機をかまえているあいだは、少なくともこの遊びはやらなかったのです。
 それは彼の背後でやり、父親をおどろかす必要があったのです。
 継母はいつか遊びのときに、笑いながら「お父さんにやってごらん、そしてお父さんに当てさせるのよ」と言ったのです。
「でも、あんたの指じゃ、すぐに、わかっちゃう。だから、あんたを当てさせるんじゃなくて、母さんを当てさせるの。わかる? こんど、あんたたち、また、マツレに買い物にいったとき、母さんが表の道まで迎えにいく。
 父さんがすぐにわからないようにするの。きっとおもしろいわよ。
 母さんはね、頭からショールをすっぽりかぶって、魔法使いのお婆さんみたいに『アババババッ』てするからね。
 母さんを見たら、すぐに立って後ろからお父さんの目隠しをして『あそこにいるの誰だかあてなさい!』って大きな声で言うのよ。そして当たるまで、手を放さないのよ」
 どうです、これが私の E=mc2  です。
 トリックは簡単。トラバンタのなかの平手打ち。スカルラッティを演奏する鍵盤上の巧みな跳躍のように……。トリックが暴かれた今、すべては単純明解、ほかに考えられないくらいで、思わず笑いがこみあげてこようというものです。
 それでもなお、このトリックにはあらゆる面における一連の好都合な条件を必要とすることもたしかです。
 つまり、音楽会へ行くのにも、ある程度、それに適した気分をもってホールに集まるべきでしょう。大家がすばらしい演奏をし、聴衆は正しく感動し、共感しうるように……。 路上には、ちょうどそのとき、所定のカーブで待ちかまえている魔法使いの老婆の登場をさまたげる目撃者がいてはならない。
 そしてすべては、子供のほうもヴラスタのほうも思い切りよく、ひと思いにやってしまわなければならないのです。
 子供のほうは何が起こるかなんて知りゃしないのですが、ヴラスタのほうは、仮に、それがわかっていても、この芝居のあと娘の顔がどうなるかなど、すべての結果についてまでは予見してはなりません。
 もし女隊長がそれを知っていたら、これほどの軽妙な打鍵の妙技を披露できなかったでしょう。それに、鎧の下の例のむず痒さを感じることもなかったでしょうね。
 だって、このむず痒さは、例の事故があったればこその    良心の呵責とまではいかなくとも  彼女の心にかかるむら雲であり、それだからこそ、また、私にもつけ入るすきを与えてくれたんですからね?
 要するに、すべてはうまくいったのです。魔法使いの釜のなかで、いろんな要素がただしく調合され、まじり合い、炎を吹き上げ、轟音一発、弾が発射されたのです。
 事件はアッというまに、あっさり進行していきました。
 女隊長はたぶん笑みを浮かべるひまもなかったでしょう。
 これまでは、おもしろ半分に頭のなかで自由にあやつっていたのに、もはや、どうすることもできないままに、車は道路の端から飛び出し、何度も何度も岩にぶち当たりながら、やがてデコボコの鉄と人間の血が合体した塊となって、深い沈黙のなかにかたく身じろぎもしなくなったのです。
 ヴラスタは笑いだすかわりに叫びはじめました。彼女が泣き叫んだのはたしかです。
 それに続いて、ほかの車のブレーキのきしみ、野次馬たちの驚きもあらわな質問、息つく間もない警察への通報、救急車のサイレン    それはもはや演技どころではない、完全なショック状態におちいっていたのです。
 大勢の同情者の手に助けられて、岩のあいだの小道をくだっていきました。
 たぶん、彼女自身がおりることにこだわったのでしょう。
 それにまた、車のなかの人間がまだ何かをしゃべるかもしれないという心の奥底深く秘められた不安で、彼女はヒステリックになっていたとも考えられます。
 しかし、ここでもすべてがうまくいったことを確認したとき(親切な人たちは彼女がその惨状をじかに見ないように、彼女を近付けなかったかもしれませんな。そして歴然たるその状況だけを伝えたのかもしれません)、その場の片隅に身をよけ、ショールにくるまって、抑えがたい涙と体中のふるえに身をまかすことができたのです。
 この瞬間における唯一の希望は、彼女を助け、保護し、心の平安を取りもどしてくれる遠くにいる潔白な人物にすがることでした。
 彼に電報を打ちます。
 そして、リボル・ダネシュが実際に駆けつけてくるまでの一日半のあいだに、いくらか気を取りなおし、新しい状況を頭のなかで整理し、さらに将来について考える時間を得たのです。
 彼女の前に立ちふさがる課題は、すでに切り抜けたものよりも、ずっと容易ではありません。彼女はダネシュをよく知っています。
 これまでにも、いろんな障害を乗り越え、友人の妻に手を差し出すために、彼女の側からの働きかけと、彼の側からの愛がどれほど必要だったかを思いだしました。
 休暇のために別荘へ家族で出かけるずっと以前に、そういう関係になっていたのです。 彼はいつも馬鹿正直なくらいに、きちょうめんに振る舞い、それが微笑ましくもあり、ただ、ひたすら盲目的に役目をはたしたのです……だからオンドジェイにたいする、あまりにも忠実な彼のまぶたをほんの少し閉じさせるには、魔女はそれとなく子守歌をうたって、眠らせなければならなかったのです。
 また、作り話か    ですか?
 そうですよ。私だって彼ら二人と同様に、このような想像にひたり、あま酸っぱい感情にひたりたいですよ。ところが、実際には、こういった細部にこだわっているわけではないのです。事実がわかればそれで十分。
 つまり、愛人があわててマツレへ駆けつけたこと。彼は何が起こったのかを知りたがった。そして、ブルダ氏が本当のことを知っていたかどうか、また、このような不可解なハンドル・ミスはそのせいではないのかどうかを知りたがりました。
 ヴラスタは完全な興奮状態のなかでダネシュに説明しました。そのあいだにも彼女はダネシュの首に腕をまわして、彼が彼女の心の支えになってくれるよう純粋な願いをこめて、彼にすがり、それによって、不安を静め、彼を自分にしっかりとつなぎとめたのです。
 しかし、彼もまた謎の解明を熱望していました。きわめて名状しがたい疑惑の重しが彼をとらえて放さないのです。
 とはいえ、プラハに帰るにあたっての実務的な配慮、棺の運送と葬儀にかんする公式の手続きが、やがて大きく場所を占め、そちらのほうに気を取られてしまいました。
 それでも、暇ができたときには  この点をけっして軽く見てはいけません    奇跡的に夫婦の絆を解かれた女性のそばで、新しい幸せを感じたのは当然でしょう。
 これが父ほども年のはなれた良き友の未亡人であるということを忘れるのはきっと容易ではなかったでしょう。しかし、それ以後も子守歌の催眠効果は有効にきいたのです。
 私はどうもこの手の想像と手を切る事ができなくてね、たとえ事件の客観的評価にはほとんど意味がないとしてもです。
 私がどれだけそこにこだわっているか、また、私のこの女性にたいする絶望的憧憬も、他人の私生活にたいする私の興味のなかから生まれてきたのだという本音を、ここで隠したってしようがないでしょう。
 傷ついた動物にかんする猟師の昔話を覚えておいでですか?
 そいつは飢えに狂って自分の内臓をむさぼり食ったという話です。他人のか自分のか、そんなことは、もう、どうでもよかったんでしょうな。
 これまでに一度だって、誰かさんが私をやさしく寝かせつけてくれたことはありません。ピンク色の暖かい手が私のまぶたをふさいだこともありませんし、その手が私を愛撫しようとしたことはおろか、絞め殺そうとしたことさえないのです。
 私は目を開いて、ただ、ベッドに横たわるだけ、そしていつも、見ているのです  幸福そうに手足をからませ合っているカップルを……誰かさんの腕のなかに頭を突っ込んでいる頼もしいボート選手を……彼はその誰かさんを「きっと守ってあげる」と言い、その一方で、誰かさんは果てしなく深い深い深淵へ、まごうかたなき甘美なる割れ目へとはなやかに誘っていくのです。
 彼については無限の力と近視眼的やさしさを感じます。
 彼女については愛情をおしみなく放射する強烈な熱源という印象を受けます。私は、彼女が彼に与えるだろうものに嫉妬し、彼が彼女から受けとるだろうものに嫉妬しています。 私は眠ることもできず、冷え冷えとしたシーツの上で、今にも息絶えようとでもするかのような家内の寝息を聞いています。
 私の家内は別の世界にいるのです。それは眠っているか、あるいは、本当に死んでしまったかのような無感覚の世界です。その一方、私が、今、ここで、生命の燃えたぎる捏ね鉢を渇望しているというのに……。
 捏ね上げられた生パンが発酵し、気泡を発している今、ここで、そのパンがむだにされているのです。

 私は「3」も「0」もないダネシュの電話番号を見つけて、朝のうちに電話をかけました。
 行動に移る時、テコ棒を使う時が来たのです。
 私にはヴラスタがどんな手を使ったかわかっています。
 ただ決め手となる証拠がないだけです。彼女の金城鉄壁に迫るための残された道は、彼女が支えとも柱とも頼む人物にすべてをぶちまけて、ゆさぶりをかけるしかありますまい。 もし、ダネシュ自ら、車のなかで「当てっこ」遊びが演ぜられたのかどうかを問いただしたとしたら、彼女だってまさかこの善良で、まじめ人間の目をうそではぐらかすことはできないでしょう?
 そんなわけで、共謀者としての彼を必要としたのです。
 目下のところは、なんでもいいから彼と言葉をかわせばいいのです。
 要するに私のことを思い出させ、彼にも関心のある事件の解明にむけて絶えざる努力を続けていることをわからせればいいのです。
 ところが、いきなり私は肩すかしを食ってしまったのです。
 電話に出たのは研究所の別の人物でした。
「ダネシュさんは不在です。今度はいつここへ来るかわかりません。あの人は旅行に出かけることになっているのです。実際はもう行ったのも同じです。後任の人も来ていますし……」
 この答えは、はじめ、私をそれほど不安にはしませんでした。なぜだかわかりませんが、私は頭のなかで、ダネシュをブルノと結びつけていたのです。
 たぶん、言葉の訛のせいだったでしょう。今でも私は旅行という不愉快な報告を、モラヴァ地方より遠くへは行かないだろうと思い込んで気にもしませんでした。
 オジェホフカの邸宅にいとも楽しげに住みついている誰かさんを、ウラルの彼方まで送り出すなんて    さすが私もそこまでは思いつきませんでしたよ。
 私は彼を過少評価していたようです。私にとって彼はいつも好感のもてる人物でした。 以前、話をしたときにも、彼のことを近視眼で不器用なところが微笑ましくもあり、信頼しうる人物として、いくらか自分勝手に思い込んでいたきらいがあったようです。
 だから、アマゾネス軍団のいろんな女下士官の母性本能のおかげで、やっと食事を忘れることもなく、申請書の類いにスタンプをもらい、飛行機でマツレに到着することもできたと思っていたのです。
 ところが彼もまた自分なりの重力と、自分なりの運動をする頭脳をもっていたこと、したがって、一度動きはじめたら、その方向へ驚くほどのねばり強さで動き続ける頭脳をもっていたことを、今のいままで気にもとめていなかったのです。
 誤りの原因は、私がこれまで、行動しているときの彼を見たことがなかったことにあります。ブルドヴァー夫人にたいする彼の愛情すらも  若者の情熱を考慮しなかったわけではありません。それにしても  私はむしろ夫人のほうの牽引力のしからしめるものと見なしていたのです。
 しかし、ラダ、描くところのチェコ民話の主人公、お人好しのホンザの絵に見られる単純な線や色彩では明らかに不十分です。ダネシュはもっと複雑な性格です。
 次の日、もう一度、彼に電話をしてみましたが、やっぱりだめでした。
 考える間もなく、私の指はダイヤルのほうへのびていき、すぐ、あらためて今度は「3」と「0」と……をまわしましたが、ヴラスタもつかまえることができませんでした。
 彼女の事務所のおしゃべり娘ロマナが電話に出てきたのです。
 今日は彼女はあまり話したがりませんでした。たぶん厳しく禁じられたのでしょう。
「どなたですか?」と彼女は二度たずねました。
 そこで私がブルドヴァー夫人と至急話がしたいのだがと言いますと、彼女は「申し訳ありませんが、ちょっとお取りづぎするわけにはまいりませんので……」と答えました。
 私は受話器を置きました    一緒に出かけたのだろうか?
 今になって、やっと私は不安になってきました。あらためて、ヴラスタを当局に呼び出すことを考えました  場合によっては電報という手段だってあるのです。
 私はさっそく電文の中身を考えはじめました。それは彼女を驚かすもので、しかも、いかなる言い逃れの口実を与えるものであってもならないのです。
 すると、そのとき、机の上の電話のベルが鳴り、ダネシュ自身の声が聞こえてきました。「あなたの伝言と電話番号を受け取ったのですが、私を探しておられるということでしたので……」
 私はホッとしました。
 たとえ、今でも、私の恋敵にたいする親愛の情を隠す必要はありますまい。
「やあ、ダネシュさん、いったいどこへ雲隠れされていたんです?」
「ずっと、プラハにいましたよ。ただ、ちょっと仕事で手が放せなくて……、何かご用でも?」
「本当を言いますと、私はあんたに腹を立てとるんだと申し上げたいところなんですぞ」 私は彼のあらたまった口調を解きほぐすべく、おどけた調子で言い、電話を通して遠くから「シッシッシッ」とおどしをかけたのです。
「せんだって、私たちはすべてをわれわれ男同士のあいだのことにしておこうと、お約束いたしましたな。それなのに、あなたは、その舌の根も乾かないうちにブルドヴァー夫人に言いつけられたでしょう……」
「言いつけるですって? そんなことはありませんよ。しかし、ここでご注意申し上げておかなければならないのは、ヴラスタと私とのあいだには秘密は存在しないということです。とにかく、あなたを貶めるようなことは絶対に言っておりません」
「ヴラスタと私のあいだに……」だと? わが相棒はあの夫人ともども、金城鉄壁にお立てこもり遊ばされたか    なあに、そうはさせるものか!
「それでは彼女のほうからも、あなたにたいしてやっぱり秘密は存在しないということですか? すると、そのあとで、あの方が私のところへ来られたときの話しの結果についても、今度は逆に、あの方があなたに報告されたというわけですな?」
「そのあとって、いつのことです……?」
 彼は引っかかりました。そのあとで、やっと、それが私の仕掛けた罠だと気がつきました。
「もし、彼女があなたの事務室にあらためて訪ねていったのだとしましても、大して重要なことではなかったのでしょう。そうでなきゃ、私に話してくれているはずですよ。今だって、あなたが私にそのことを話してくださる必要はありませんよ。直接、たずねるから。それでいいだろう……?」
「蜂刺され説……」
 私は口のなかの唾液が舌の上に運んできた最初の一言をすばやく、送話器のなかにすべり込ませました。それというのも、相棒はいらいらして、いまにも会話を打ち切りかねないと思ったからです。
「たしか、私はあなたに協力をお願いしましたよね。それなのに、あなたは、まさにこんな有望な可能性にたいしては口をつぐんでおられる。蜂刺されにかんして、あなたご自身がどれほど重視しておられたか、ブルドヴァー夫人が私にはじめて話してくださったんですよ……」
「あんたが自分で資料のなかに書き加えておいてもかまわないよ」
「ところが、あとになってその説を自分から捨てられたそうじゃありませんか。ブルドヴァー夫人がおっしゃっるところでは……」
 彼は私の言葉をさえぎりました。
「わたしがほかの説を主張しようとしたなど、あの人が言うはずないよ」
 彼はお人好しのホンザ的思慮分別を失っていました。
「それでいいだろう」という言葉を発したとたん、彼の温厚な態度は影をひそめてしまったのです。
「まあ、そう興奮なさらんでください。たしかにそんなことはおっしゃいませんでした。ただ、そのあとで、あなた方がご結婚なさるとかいうことを打ち明けられましたときには、さすがに私も……」
 また、命中です。私は遠くのほうでその手応えを感じました(ヘミングウェーも水牛の肩口弾丸が命中した瞬間を記述していましたっけ?)。
 そして聞いたのです、ダネシュが深く息を吸い込むのを……。それから言いました。
「彼女があんたには気をつけるように言ったけど、あの人の言うことは、いつも正しいこともわかったよ。あんたはどんなうわさ話でもかぎつける人だって言ってたけどね……。あんた、本当に彼女が自分でしゃべったと言いはるつもりなのかい……?」
「まあ、お待ちなさい……」
 私はむっとして言いました。それは見せかけではありませせん。
 彼もこのことを理解すべきです。
「あんたにも、多少、関係のある保険問題の解決のために苦労している担当者にたいして、それ相応の口のききかたってもんもあるんじゃありませんかね?」
 私の言ったことは真実です。実際、私は事件の解決に夢中になっているんですから。
 それに、まともな人間なら、誰だって自分の相棒が不適当な行為に走る可能性を関知しておくべきだというのは当然のことだと信じます。
 彼もそれを納得して黙っています。私はいっそう慎重に話を進めることができました。「もしかしたら、あなたは、あの方とは違ったことをお話しになりたいんじゃありませんか? つまり、あなた方はご結婚はなさらないとか……」
「結婚式は昨日の朝、すませました」
 今度は、ごく静かに言いました。
 予想もしなかった言葉が私に呼び起こした反響に、彼は無関心でした。
「私たちはこの件にかんしては、ゴシップの種にならないよう、第三者の方には一切、話したくなかったのです。そんなことは、おわかりですよね……、だから、ヴラスタがあなたにお話したなんて思ってもみなかったもので……」
「ところが、お話しになったんですよ、本当に。たぶん、私にかんするあなたのご意見は多少なりと、訂正していただけるでしょうな……」
 私は彼のご機嫌をとるように、ささやき声で言いました。
「私が最初から親愛の情をもってお願いしていることを、あなたも少しはやる気になってくださいよ。それに、私の忠告にも少しは耳を貸すとか……。それで、ご都合のよい折にもう一度、お出かけください」
 彼はしばらく答えずにいたのですが、しばらくして無表情な声で言いました。
「明日、時間があったら、行きましょう。じゃ、これで」
 この言葉は私を勇気づけました。
 私はこのうえもない満足感にうながされて受話器を置くまえに、もう一言、叫びました。「ついでながら、ご結婚おめでとう!」

 この最後の場面のあいだに、私の目のまえには間近にせまる、勝利の蜃気楼が青白い燐光を発していました。しかし、本当に勝つのは誰なのか?
 その夜、私は熱くほてった下腹部になす術もなく、ベッドに横たわっていました。
 ちょうどそのころ、スチェショヴィツェの邸宅では新婚の夜が進行しているのです。
 私はヴラスタがどんな手を使ったかを知っている唯一の人間です。
 しかし私には彼女に示す証拠がないのです。それどころか、この次の彼女との対決で自分を守ることができないかもしれないのです。
 暗闇のどこかでは、あふれんばかりの練り粉が捏ね鉢のなかでぶつぶつと発酵しているというのに、私ときたら、古くて干からびたパンの皮をかじっているんですからね。
「結婚式は昨日の朝でした」とか、お人好しのホンザは言っていましたな。興奮で口ごもりもせずに。だが、本当でしょう。
 たとえ、そのとき、彼の頭のなかで何かが起こったとしても、真夜中になれば魔法使いがまた一仕事、子守歌をうたい、彼のまぶたをふさぐのです。
 彼女はとっくに彼を支配しており、昨日も彼に標識環を指に取りつけるために市役所へ連れていったのです。朝までは二人一緒に安心していられるでしょうよ。
 生命の泉は浪費されています。オジェホフツェばかりではありません。
 どこでもいいから、のぞいてごらんなさい。プラハの何千という窓のカーテンの向こうで、たった今、生命の火が燃え続けていますから。
 そして、ものごとをとことん考える想像力をおもちならおわかりでしょうが、世界中には何百万ものカップルがおり、しかも、なんとそれと同じくらいのほかの動物のカップルがいる。
『野生の王国』の海亀やディンゴ犬や、そのほか海蛇などのカップルがおり、その百万倍の虫、さらにその百万倍の微生物がいるのです。そしてみんなが同一の衝動にとりつかれて楽しみ、与え、受け取り、孕み、増殖し、まっすぐに目的をはたすまでは休もうともしないのです。
 ただ、私には傷ついたカモシカを倒し、血管を切り裂いて、生き血を吸うというような、そんな簡単なことすらできそうにないということが、ちょっと心配なだけです。






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