(3)

 次の秋の日曜日が来ました。世界は熟しきった平和におおわれているかのようです。まるで一年の最後の美しい日だぞと言わんばかりに私たちに微笑みかけています。
 菩提樹にはすでに葉はありませんが、樫の木はまだ葉を残し、太陽の光を受けて赤銅色に輝いています。
 また名も知らぬ茜色の低木――たしか学名でコトネアステルとか言いましたかな?――が、ほとんど、うす紫色にも見まごうばかりに映えて別荘の壁にぴったり寄りそって茂っています。
 ほかの木の葉の合間をもれてくるわずかな光が、いまひととき、くすぶり続けているかのように……
 お断りしておきますが、こんな抒情的描写でごまかそうなんて魂胆じゃありません。私は本来のテーマをけっして見失ったりなどはしません。ただ死にゆくものをじっと見つめているのです。木の葉は死んでいます。でも、こんなに美しい。
 人間は自分の精神構造にしたがい、木の葉を見て、二通りの考え方をします。そして自分で自分の勇気をふるいたたせながら言うのです。
「これはいい、峠のむこうも結構おもしろそうじゃないか。おれにも希望がないわけじゃない。人生の夏をすぎた今、年の重みが体じゅうにはりつき、地面にはいつくばりたくなるような気がしているにしても、今まさに燃え上がろうとする私の炎を、いったい誰に止められるというのだ?
 たとえそれがどんなに突飛なことであろうともだ。これまで私を何の取り柄もないくずだと、いつも無視してきた連中に見直させるチャンスが来たのだとしたらどうする?」
 もう一つの考え方は、こんな望みの杖にすがりついたりせずに、顔をしかめて、事実をありのままに認めて、言うのです。
「ちょっと分別というものを働かせてみろ。人間、何でもできると思っちゃ、間違いだ。いずれは霜が枯れさせる。結局、世の中がうまくいくためには、人間だれもがいつかは死ななきゃならんのだ。だから、養老院の無菌で味もないホウレン草料理のことなど気にするのはやめておけ」
 そこで、私たちは日曜日の遠足に出かけました。
 私たちは各々別のことを考え、黙りこんでいたのは、これまで何度も経験した遠足のときと同じです。家内はガレージのまわりに何か少しでもおかしなことがあると、あごの先で示し、私のほうは猫が道を横切って駆けていくと「チュッ」と舌を鳴らします。
 私たちはオジェホフカのほうへ近付いていました。
 もうすぐ、ブルドヴァー夫人の家のま前に出るはずなのですが、ただ、なぜだか、もう、この辛気くさい犯罪をかぎまわる気分がすっかり消え失せていました。
 私がこれまで裸の夫人の写真にもとづいて組み立てた推理がむだだったような気がしてきたのです。
 夫人がこっそり甲羅干しを楽しんでいるところへご主人がやってきて、カメラを向けた。そこで夫人はカメラに向かってかわいらしく、同時に非難するするように微笑みかけたのです――これはまぎれもない事実です。
 これと数日後に起こった車の墜落とをごっちゃにすること、また、その写真が書類のなかにまぎれ込んだ偶然のなかに陰謀を嗅ぎ取ろうとするのはナンセンスです。
 だから、私の事務室でのブルドヴァー夫人の振る舞いのなかに感じた「奇妙な動揺」について、いまさらとやかく言うのもナンセンスです。
 私は金曜日の退社前に、夫人の訪問の直後に作ったメモをあらためて通読しましたが、その時、夫人に何か異常な点があったというふうには記録してありません。
 私をだめにしたのは、あの美貌、それに多分、あの圧倒的な自信だったかもしれません。
 たしかに、彼女は私の質問にこころよく答えてくれました。彼女としては答える必要がない、やや、余計なことまで……。しかも、自分のほうからしゃべったのです。
 なぜでしょう?
 彼女は私を排除したかったのですよ!
 彼女はくだらないことで、何度もわずらわされたくなかったのです。彼女は私の質問がいいかげんなものであると感じ取り、くだくだとしゃべりまくることで質問の口をふさぐ魂胆だったのです。
 そうなんですよ。私をくたくたに疲れさせ、今後、永久に黙らせたかったのです。それに何か疑わしいことがあるでしょうか?
 すべては官僚の干渉にたいする一般市民の反感に由来しているのです。
 私の善意をだまし討ちにする意図もなかったのです。そのことも振り返って十分考えてみました。夫人はたしかに、当然、涙が予想されるような場面でも涙を見せませんでした。
 彼女は私に何も仕掛けてはきませんでした。私のところへ来たときも、目を見張るような身なりではなく、その反対に、服や帽子は彼女の美しさを閉じ込めていました。
 ところがです、清らかな香りがただよい、静かな魅力が放射してくる。
 どうも保険会社の訪問とは違和感がある。彼女はいつもこうなのです。
 私という人間はご覧のとおり、相も変らず嫌みなやつを決め込んでいます。秋には秋なりに色を変えることも知らず、まったく救いようがないといったらありゃしません。
 いつまでも成熟しない出来そこないの私は他人の生活ののぞき見を生きがいにうじうじと人生を生きています――たぶん、私は自分の人生を充足的に生きたことはまったくないと言ってもいいかもしれません。
 少年時代はいやになるくらい長く、冷えびえとしたものでした。
 おまけに、私を取り巻く冷酷な人びとへの依存から一日も早く逃れたいという焦燥感に満ちた日々でした。私はこんな自分をなんとかしたいと思い、生活向上を目指す大衆運動へといち早く飛び込んだのです。
 この辛抱のなさが、たちまち私に学業をおえることをできなくさせてしまいました。
 それは、つまり、あと二年間の飢えを意味していましたし、そのとき、すでに私はめちゃめちゃになった自分の青春に、この決定的二年間をつけたすのがいやになっていたのです。
 こうして私はやや未完成のまま実社会へ飛び込みました。はじめのうちは気にもとめませんでした。たしかに、二年後には、二年おくれて卒業証書を手に入れるよりは、いくらか多く稼いでいました――私はざまあ見ろとほくそ笑んでいました。
 ビールつきのフルコースの食事をほおばり、少し上等のタバコをくゆらして、いまさらひき返すこともできないレールの上を今日まで走ってきたのです。
 そして、その先が行き止まりだということが、私にはとっくにわかってしまったのです。ただ、私の心の奥底で何かかりそめの幸せを願う気持ちも残っていて、それが私をたまらなくするのです。
 そして今日みたいな日には、そのすべてが一度に噴出して、あふれ出してきます。
 やがて私はため息まじりに「おれは一番肝心なことをやらなかったんだ」とつぶやき、癒されきれない傷の痛みを感じつつ、切断されたぶざまな足の切り株を引きずっているのです。
 たとえ、私が卒業証書や入会できなかった、より高級な精神的親睦団体のバッチなんかに興味がないとか、そんなものがあったって、私の人生はもっと悪くなっていたかも知れないんだと何度くり返し言ったところで、溜め息がでるのをどうしようもないのです。
 たしかに私はもうこれといった貧乏の体験もなければ、大変な危機の時代もほとんど私には無関係でした。
 私の事故ファイルのなかの運転手たちが、大事故の直前の状況を記録するときの証言のように、私も危機の周囲をネズミのように逃げまわっていたのです。
 私は生涯、狡猾なネズミを決め込んできました。役立たずとして、ひたすら目立たないように戦争と、革命騒ぎの谷間を、くぐり抜けてきたのす――少なくともこの挫折に行き当たる現在まではね。
 道は行き止まりです。運転手だったらこんな場合「頭から壁に突っ込んでやれ」と言ったでしょう。――また、おまえは自分の不幸を大袈裟にふいちょうしているな。たとえ学校を卒業していようと、美人の奥さんや子供、または大金をもっていようと、だれもが行き着くところは墓場じゃないか……!
 これ以上くだらないことを言わないように、黙っていたほうがよさそうですね。
 ただ、せんだって、鏡に映った自分の青白い顔を見たときは、一瞬、息が止まる思いがしましたよ。そして私のなかで何かが「こんなふうにあきらめちゃいけない」って叫ぶのです。
 木の葉が散り果てるまでの、しばしのあいだ、赤い炎の色をもとめる願望が、私のなかで騒ぐでしょう。血のにおいを嗅ぎつけた猟奇的願望が、私に残された最後の狩りの獲物としてブルドヴァー夫人をもとめて騒ぐのです。
 しかし、そんな願望が何になるというのです? ポーク料理の後の日曜日の散歩のように、何も事態を変化させません。
 今日がほかの日曜日と違う点は、天気があまりにもよすぎて、各人が自分の内部にかかえている切り株を引きずって歩きまわるのがつらいということでしょう。

 私たちが家に帰って、なかに入り、ビールの瓶をかかえてテレビの前に腰をおろしたときになってはじめて、私は、はたして、あのおなじみの家のそばを通ったのだろうかと自問自答しました。
 もちろん、答えは「イエス」です。
 私たちはたしかにあの家のそばを通ったのです。ところが、ずいぶん様子が変っていました。
 門からガレージへ通じる道はきれいに掃き清められ、敷石はぬれていて、ついさっき洗った車のタイヤの跡がはっきり認められました。
 二階の窓のカーテンはなくなっていました。洗濯に出したのか、あるいは、ひょとしたら取り替えるつもりなのかもしれませんな……。
 窓は開け放たれていて、そのうちの三つの窓は二重になった外側の窓が取り外されていました――もしかしたら、ペンキ屋がどこか家のかげでペンキ塗りをしていたのかもしれません。
 家全体が、何かが起こっているという印象を与え、離陸直前の飛行機というふうにそこに立っており、このまえよりもはるかに明るく感じさせました。
 それはたぶん、周囲にすっかり木の葉がなくなっているからでしょう。低木の茂みにも、路上にも……。
 残念ながら人影は見当たらず、家の柵のまわりを歩くのにもそんなに時間を要しません。立ち止まる理由もありませんでした。
 それではこの邸宅の所有者が変わったのでしょうか?
 だれかがブルドヴァー夫人から買い取ったのか、それとも……待てよ……、夫人と結婚して半分をただでせしめる方法だってある……。
 いや、結婚はまだだろう。時間がそれほどたっていない……。
 それに、水曜日に運転免許の試験のことを話してくれたあの電話の声なら、ヴラスタ・ブルドヴァーがもはやブルドヴァー夫人でなくなっているのなら、きっと自分のほうからそのことをしゃべったにちがいない。
 それにまた、自分で車の運転をしたいと思わないのなら、免許証などほしがるはずがない。
 たとえ屋敷を売ろうが、自分のものにしておこうが、さらにその上、新しい車を(私の
「HM」の署名なしに)買おうが、どうしようが、そんなことは彼女の勝手だ  おれにはなんの関係もない! 
 だいいち、それくらいの金なら、ころがり込んだ遺産の別の何かを売ったって作れるだろう。たとえば、あの家には彼女の気に入らない絵だってあるだろう。別荘だって……
 舞台の上での事件はどんどん進み、なんだか変だぞなんて誰も思いません。
 それなのになぜ、この私だけがこんなに気になるのでしょう?
 しかし、私は不意に、まったく別のことに夢中になっていることに気がつきました。
 ソファーの背にもたれて、テレビの画面に見入っていたのです。画面のなかでは私がこれまで見たこともない場面が真剣に演じられているのです。
 どうやらそこは海底のようです。
 蛙のような男  どこから来たのかはわかりません  が背中に器具をつけて、ゴムの皮膚をすっぽりかぶり、マスクのまわりから泡を吹き出しながら獲物を追跡しています。 ところが、この獲物のほうが追跡者よりもかえって人間的に見えるのです。
 だって、器具もつけず、ひきつったような動きも見せずに、エレガントで、軽やかに泳ぐ姿は、長くて黒い衣装をつけた忍者の暗い影、空気もなしに、もしかしたら私たちの地球以外のところでも生きることのできる、ある種の超能力をもった生き物を思わせるからです。
 頭から肩まで、衣装をまとい、その衣装の端をぴんと、しかも、しわ一つないくらいにぴったりと後ろのほうに張り広げています。
 追跡者ははげしく手足で水をかきながら、衣装の端をつかもうとしています。やっと成功です。
 すると、変装した獲物は追跡者を後ろに引きずりながら、なめらかな水の滑走路をすべり抜けていきます。それは思わず微笑みたくなるような、あやしくもまた美しい水中シーンでした。
 しかし、そのとき、衣装の下から小さな墨の雲が発射されました。
 ダイバーは一瞬ひるみ、退却します。獲物はダイバーの手を逃れ、一目散に岩の下の隠れ家にもぐり込もうとしますが……。
 そのとき、まったく思いもかけない恐ろしいことが起こります。
 衣服が大きくうねり、ぱっと両側に開いたとたん、中身はなにもなく、吸盤のしろい小皿が散らばった触手が何本か見えるだけなのです。
 つまり、あの優美な頭部がその生物の全体だったのです。目も腹も、口も尻も……。
 はっとした瞬間、すべてはなんとも淫らな感じでたれさがった十足獣の下着のなかにかくれてしまい、巣穴の底の泥をかきまわして、逃げてしまいました。

 次の日の朝、いつもの月曜日のように、私は気だるさを感じていました。
 私の仕事部屋は新しい書類の洪水であふれています。これを片付けるには首切り役人の手際が必要で、余計な逡巡は許されません。一挙に事件を把握し、数字の誤りをチェックし、虚偽をさぐり出し、次のファイルに進み……
 私はかっかと燃え――八本のタバコが昼前に燃え尽き――そこではじめて顔をあげ、一瞬、窓のほうを見やります。
 窓は中庭に面していて  本当は、むき出しの壁に面していると言ったほうが適切ですが、その壁にも太陽の光が照り返していて、昨日の晴天が続いているのがわかります。
 目のとどかないどこかに赤銅色の樫の木、濃いあかね色の低木が茂っていて、秋は色あざやかな花火のきらめきのなかに息絶えようとしています。色彩の饗宴のなかに……。
 ピンク映画もどきの作り話のためには、仕事のあともっと時間をかけることにしましょう。今はこの書類を片付けなければなりません。
 しかし、その書類の山のなかには、もう二週間ものあいだ、のびのびになっている未処理の書類があるのです。
 今はそれに手をつけるわけにはいきません。
 さもないと私は新しい書類の洪水のなかで溺れ死んでしまうでしょう。だからといって、いつまでも引きのばすわけにもいかないでしょうし……
 溺れ死ぬ、と私は言いましたな?
 水中の謎の動物の黒いマント    その下にかくされていたものは……?
 私は九本目のタバコに火をつけて、煙の一口を吸い込まずにはき出しました。
 その煙であの頭足類が追跡者を追い払った墨の煙幕をまねてみたかったのです。
 もしかしたら、あの生物はイカというんじゃなかったでしょうか?
 いや、セピアならもっと小さいはずです。そういえば、セピアというのは色の名前でしたね。頭足類の動物は自分の身を守るためにその色を発射するのです。
 私は詩人のペンについてのすばらしい比喩を思い出しました。
 詩人もまた傷つきやすい自分の心をかくすために、インクにひたしたペンで縦横に書きなぐり、身辺に煙幕を張りめぐらせるというのです。
 この十本足の動物も私のような心臓と血をもっているのでしょうか?
 私はこの動物がいったいどんな風に生きているのか百科事典でたしかめてみたくなりました。それはやはり軟体動物に属するのでしょうか?
 なぜなら、口も尻の穴も――ちょっと誇張がすぎるかもしれませんが――ギムナジウム時代に、ヒトデは一つの穴ですべての用をたっするとならいました。
 でも、頭足類はもっと高いところに属しています。つまりもっと高級な部類に……
 いや、もう結構。保障案件の山へ戻りましょう。
 書類を一枚一枚めくって、詳細に検討し、数字の柱列をばらばらにし、この総額の内訳の一つ一つの数字をもう一度ならべなおします。
 ときには、すべては単純で、一つの事故の書類に数分しか要しないこともあり、ただちに、主任の書いた「決済へ」の下に「支払い許可、HM」をなぐり書きます。
 私たちは首切り役人のように決済します。
 ただ私たちの場合、人を傷つけませんし、誰かの何かを切断することもありません。むしろ、傷がなおるのを助けたり、傷口に応急手当てをしたりします。
 保険をかけた人だってそのことで苦情を言ったりはしません。むしろ、誰もが自分の事故をもとに、できるだけたくさんの金を引き出そうとしたがります    だから、こちらが払おうというものを受け取らないはずはありません。
 私たちとしても、もちろん、大盤ふるまいというわけにはいきません。
 ただみなさん方が前もって払い込まれたものをお返しするだけの話です。たとえそのときの手順がややギャンブルに似て、小さな掛け金にたいして大金が支払われるとしてもです。
 実際のギャンブルは不道徳で、幸運の輪はあてずっぽうにまわされます。
 私たちは本当にかわいそうな人にふり当てるように努力しています。だからこそ、私の監視人としての目を油断なく光らせていなければならないと……
 私の目は道徳的でしょうか?
 最後の休憩までに十本のタバコ、それ以上はだめ。それから職員用の食堂で昼食。
 たくさんのテーブル、ビニールのテーブル・クロス、同じテーブルに座り合わせた偶然の隣人にかける不明瞭な声。幸いなことに私には誰もたいして期待はしていません。
 だから私はメニューにたいする月並みな批評を口にする必要もなければ、また、タバコの煙で燻された食道を通過するものの味を吟味する必要もないのです。
 すでに私は立ちたいと思い、椅子を後ろに引いたのですが、その後がうまくないのです。誰だか女の子がまだ食事中の男の同僚のまうしろに立って、微笑みながら、彼の目をてのひらで目隠ししているのです。
「誰だか当ててごらん……!」
 そのてのひらは暖かく、ピンク色で  なんで、こんなことが頭に浮かんできたのかわかりませんが  私はなんとなく淫らなものを見たかのように、ちょっと咳払いをしました。
 じゃまをする気は毛頭ないのだが、自由に通行する権利を主張したいのだと言わんばかりの咳を……
 若い女子職員はまっすぐ前を向いたまま笑い続け、彼の椅子のほうへ一層くっつきました。彼女は、今、頭を少し上げ、おどろて笑い出した同僚の頭を自分のふかふかしたセーターに引き寄せようとさえしているのです。
 それと同時に「さっさと通おんなさいよ」という無言のシグナルでもあるかのように、尻をひっ込めました。私のことなど、まるで眼中にないというしぐさです。
 私は椅子をガタンとテーブルのほうへもどし、ゆっくりとそのカップルのそばを通り抜けました。そのとき、否応なしに男の親しげな、陽気な声を耳にせざるをえませんでした。「君はもう休暇からもどってきたのかい?」
 すると、娘のほうも答えます。
「そうよ、ヤン。あたしがいなくて寂しかったでしょう!」
 彼女は目隠しの手をはずしましたが、彼のほうは頭をセーターに押しつけたままでした。いや、それどころか、もっと深くもぐり込もうとでもするかのように、頭を彼女のセーターにこすりつけているのです。
 私はすぐに顔をそむけました。
 そのシーンが不愉快だったからではなく、ただ、ばかばかしかったからです。
 しかし、私は彼女を念頭から追い払うことがでず、階段を左まわりにのぼっていきながら、あの他人の愛撫のなかにのめり込んでいったのです  暖かそうなピンク色のてのひら、そんなものが、かつて、私の目をおおったことがあったでしょうか?
 トイレの鏡のまえに、私はいつもより長く立っていました。
 鏡のなかの犬の面はやさしい思い出を何ももっていないのです。私のまぶたの上におかれたピンク色の指は? そして、またもや空間をうずめる大きな笑い声。
 私はこの嘲笑を聞きたくない。ええい、水に流してやれ!
 五時前に仕事を切り上げ、しばらくのあいだ資料室にこもり、大きな事典をめくりました。「頭足類」の項を見たかったのです。それからもう一つ、「ハイエナ」の項。
 そのわけは『野生の王国』の前々回のテレビが、やはり、すごくおもしろかったのです――とにかく、テレビの全番組のなかで、いちばん感動的でした。
 その番組では自然の調和について解説していました。
 つまり、その調和を乱すことがいかに危険であるかということについてです。
 一定の自然環境のなかに、これまでそこに生息していなかった動物の種族を移住させると、たちまち恐慌を引き起こします。
 反対に、ある種族を根絶させても、同じ誤りをおかすことになるというのです。
 実例としてオーストラリアで野ウサギが原因で起こった恐慌を見せてくれました。
 この場合は、その領域内で野ウサギが異常に繁殖したために天敵がそれを抑制できなくなったために起こったものでした。
 アフリカではハイエナも、かけがえのない調節弁の役を引き受けています。
 生存に適しない若いカモシカとか、それに類似した動物を処理するのです。
 たとえば、生まれつき欠陥があるとか、もうすでに弱っているとか、健康な子孫を産む能力を失っているとか、そういったものは、すべて犠牲になるという具合に……
 種族の健康と進化のための死です。
 これはたしかに興味ある事実です。
 こう言ってはなんですが、こんなハイエナでさえ、ばかばかしく大きな頭をもち、いやなにおいを放つ貪欲な獣でさえが、この大宇宙の秩序のなかで、それ相応の役割をはたしているのだということが、急に、私にも理解できたのです。
 ハイエナについては、以前、狩猟にかんする本のなかで、信じられないような話を読んだことがあります。ある傷ついたハイエナが自分の腹から内臓を引っぱり出して、むさぼり食ったというのです。つまり「種族の健康と進化のための死」を自ら実践したのですな。 それを思うと、傲然とかまえたこの怪物の頭のまわりにも、何か聖なる光背が見えるようじゃありませんか。
 ページをめくります。百科事典は知識の宝庫です。どこでも開いてごらんなさい。思いは馳せ、夢は広がり、ついつい時間のたつのを忘れてしまいます。
 最後は、掃除婦のご入来となり、追い出されて家路へ、そして夕食。
 それというのも、この太った掃除婦のおばさんたちだって、むだに生きているわけではないのですからね。

 一週間たつうちに、もっとも緊急を要する事件の山もどうにか片がつき、今度こそは一気に「決済へ」までこぎつけようと、思いもあらたに、ふたたびブルダ事件にとりかかりました。
 そのとたん、表紙の下からメモ用紙が手のなかにすべり込んできたのです。それはブルドヴァー夫人が電話番号を書いたものです。
 嗅いでみました    紙片は残念ながら、ピンク色の暖かそうな指の香りを残してはいませんでした。でも、筆跡、何本かの鉛筆の線は残っていました。
 とくに「3」の数字はあまりたて長でもなく、半円形(けっして、まん丸ではありません)が二つ、かっこうよくならんでいるのが目を引きました。
 その次に目についたのはほっそりした「0」でした。
 一瞬のうちに夢想が、物語がよみがえってきました。
 私はあの写真が見たくなり、息もつかさず書類をめくりました。
 あの写真、肘や膝が織りなす抽象的な線……あのなかに何かがかくされている。
 そうだ、こいつだ。頭から爪先までなんとかわいらしい生き物だろう。
 しかも、じれったそうに謎を解くように催促し、誘っている……この写真が偶然写されたものであれ、偶然のたわむれがこの写真を私のところへもたらしたのであれ、もうこうなった以上、私を引き止めようたってむりだ。
 この写真は、たしかに、そう言っているのだから。
 そして、今、偶然、生まれた好奇心に、電話番号の「3」と「0」という線がくわわったのです。これはまったく取るにたりないささいなことですが、しかし、もし、これが正しい受取人のこの私にあてたものでなければ、その意味は失われていたでしょいう。
 偉大な画家の絵にしたところで、要は、単純な点や線の組み合わせにすぎないのです。
 その組み合わせを綜合し、全体としてとらえ、しかも(過去の経験をふまえたうえで)形の謎を判読する能力をもった観客に見られないかぎり、その組み合わせ自体は意味をもたないのだから  。
 電話番号は絵ではなく、その番号を使って電話をかけることができるだけだ、と自分に言い聞かせてもだめでした。しかも、すでに私は一度電話をしています。
 しかし、電話には新たな挑戦者が出てきて、いっそう解ける望みのない不思議な謎のなかへ私を引きずり込んだのです。
 ブルドヴァー夫人の会社では何かお祝いをしていました。話し声が聞こえ、グラスの触れ合う音がしました。そしてうちのブルドヴァー夫人はただ今、会社にはおらず、運転免許の試験を受けにいっている。
 たぶん夫人はパスするでしょう。なんだってドカンとやってしまう人だから。そして次の日のお祝いの口実ができるというわけです。
 もし、今、番号をまわしたら、きっとまたお祝いのさいちゅうでしょう。こういう連中のあいだでは、しょっちゅうばか騒ぎの口実はあるものです。
 最初のときは免許証をタネに飲み、次は車庫のなかの新しい車のために飲み、今度は、窓を塗りかえたといっては飲むのです(やれやれ、職人を家のなかに入れるというのがどんなに大変なことだかお分かりですか?)。
 そして、最後には修理をおわった屋根の下で、新しい同居人と乾杯です。
 最後には……? いったい、こんな連中に「最後」なんてものがあるのでしょうか?
 踊り続けて、腕から腕へ。
 舞踏会では相手がたくさん変われば変わるほど、娘にとってすてきなことなんですね。 だって一人の男に的をしぼって、激しく、いちずに愛するなんて深刻さは、やっかいだし、痛手を受ける危険性が高くて――つまり、実験するだけのメリットがないんでしょうなあ……
 ストップ!
 おれの目はここで検閲係が勤まるほど、十分、潔白なのだろうか?
 深い愛情と、変わることなき……。
 夏中、私は家内と引きこもっていました。
 頭足類の項はちょっとした知識を与えてくれました。頭足類のオスはたまたま同類のメスに出会って、そいつに吸いついたが最後、絶対に放さないというのです。
 だから、漁師はメスをおとりにしてオスを簡単にとらえることができるという……。
 だから私も夏中、家内にくっついていたのです    私を住家から引っぱり出すときは家内も一緒にくっついて出てくるかもしれませんよ。
 だからこそ、私たちの住家を深き愛情のよりどころと言うことができるのでしょうな? またもや、話がとんでもない方向へそれてしまいました。
 ところで、この場合、よその事務所でもご多分にもれずかどうか確信はありませんが、このパーティー騒ぎも、ブルドヴァー夫人が休暇を取ったからこそ、おっぱじまったのだとしたらどうでしょう? 鬼のいない間の、なんとやら……
 この女性の存在は、私自身が痛感しましたが、何とはなしに威厳があって、何とはなしに存在感があるのです。
 私のところへ来たときには、簡素なコートに帽子という装いでしたが、こんども運転免許の試験に同じような服装で行ったのでしょう。いつもその調子なのです。
 喪服を着て、頭を少しそらし気味にして重々しく、聡明で、冷静です。
 このような人のいる前で、たわいもないオフィス・パーティーなんかやっても白けるのがおちでしょう。社員たちはこの社長秘書のことを「うちのブルドヴァー夫人」と呼び、何でもできるんですよと、畏敬の念をいだいています。
 それに、また、起こって四カ月にも満たない悲劇のこともわきまえていて、かつては会社のボスでもあった亡くなったご主人のことを忘れてはいないはずです。
 まあ、要するに、未亡人の留守中に事務所の連中が羽をのばしたところで、そんなことはちっとも不思議じゃありません。したがって、グラスがカチンと鳴る音の責任は、ブルドヴァー夫人にはまったくないと言っていいでしょう。
 そう、もちろん夫人は、また、夫の後を継いでいっぺんに高い地位に飛び上がったのですから、彼女の足下、はるかかなたにとどまっているかつての同僚たちの、ひそひそ話が……。
 やれやれ、今度もまた、片方の面ばかりを誇張しているのですかね、私は?
 電話番号の数字の列は、これ見よがしに指先の優雅な動きを見せつけています。
 いささかも肥満の気配を感じさせない「3」、銃眼の穴を思わせる正確な「0」。手首のむだな回転もなく、むだなふくらみもない……。
 この線の動きを見ていると、欲しいものは何であれ、誰であれ、奪い取ってしまう支配欲旺盛な、感情の起伏のはげしい女隊長のイメージが鮮やかに浮かんできます。
 若い娘のオッパイをつけた女兵士たち。彼女たちは勇猛果敢、戦いを仕掛けては男たちをとらえ、男たちは女に仕えました。そして死んだのです(しかし、死にいたるまでの数瞬間は、たぶん、死にあたいするだけのことはあったのでしょう)。
 シャールカ女人軍団……、その女隊長の名はヴラスタと言いませんでしたかな?
 ヴラスタ・ブルドヴァー夫人にしたところで、表向きは指揮官の地位にあるとはいっても、私生活のうえでなら、歴史上名だたる将軍たちと同様に、多少のご乱行があったとしても不思議じゃありますまい。
 それどころか、私生活や仲間うちでなら、世間体とか亡夫の喪中とかいう規範を超越した感情をもったっていいじゃありませんか。
 ナポレオンくらいの大物になれば犯罪だって恐れはしません。もっとスケールの小さいラスコリニコフ風情までがそれをまねようとしたではありませんか。
 話をでっちあげたり、推理を働かせたりしているあいだに、時間はすぎていきます。でも私はどうもこの「支払い許可」にサインをする気になりません。
 どうも保険金詐欺の疑いをぬぐいきれないのです。
 もし、警察やそのほかの役所がマツレの事故に犯罪の痕跡を発見できなかったのなら、保険局としては、それ相応の金額を払えばいいのです。
 しかし、私はこの事件だけは手放したくありません。
 それも個人的な理由から    実は、これが肝心な点なのです。私は例の写真を、美しい、謎めいた写真をもうしばらく私の机の上にとどめておきたいのです。
 もしかしたら、この写真は私に向かって話しかけているのかもしれないのです。
 ほかならぬ、この、私だけに向かって……。
 もし私が、あらかじめきめられた期限にせかされて、いいかげんのところでこの写真を書類のなかに封じ込め、日々の仕事の奔流のなかに放してやったとしたら、どうなるでしょう    私の仕事部屋は今よりいっそうみじめなものになるじゃありませんか。
 ここではグラスがカチンと触れ合うこともありませんし、ふかふかのセーターを着た女性の同僚は私などには見向きもしません。
 窓の外の壁はますます大きく立ちふさがってくるみたいです。トイレに遁走してみても、陰気臭い犬の面が待ち受けているだけです……。
 そこから、もっとどこかへ逃れようにも、明かり窓は小さすぎてくぐり抜けられません。もはや、水洗の水音さえもが、すべてを黙らせてはくれないのです。
 要するに、私はこの書類をもうしばらく、私の手元に置いておかなければならない。
 最後の木の葉が散ってしまうまでは……。

 急に、がまんができなくなりました。指が自然にダイヤルの穴にすべり込み、「3」にも触れ、「0」にも触れながら、おなじみの順番にしたがってまわしました。
 すぐにブルドヴァー夫人が出ました。
 この人の声なら何千人のなかからだって聞き分けられます。今回はほかの話し声やら、グラスの音など背景の騒音にじゃまされずに、あたかも、そこにコートを着て帽子をかぶった夫人がいるかと思えるほどはっきりした声が、受話器のなかから聞こえてきました。「何のご用でしょう?」
 驚いたことに、私はなんの苦もなく受けて立つことができました。
「まだ、ご記憶のことと存じますが、最初にお話しいたしましたとき、いずれまたご面倒をおかけいたすかもしれませんと、あらかじめ……」
 夫人は「ええ、どうぞ」とかなんとか、作法どうりに話をうながすこともせず、だまっていました。私は単刀直入に具体的質問で話を進めざるをえなくなりました。
「新しい車をお求めになるおつもりでいらっしゃいますか、ヴルドヴァーさん」
「いいえ」
 受話器のなかの声は即座に答えました。それから、ややゆっくりとした口調でつけ加えました。
「なぜ、そんなことに興味がおありですの?」
「こわれた車は外国にあり、なおすわけにもいきません。それで、そう思ったのです……」「新しい車を買うつもりはございません。それにお金もありませんわ。そういえば、古い車にたいする保険金のほうも、まだのようでございますわね」
「その件にかんしましては、できうるかぎり早い時期に処理いたしたいと思っております」 私はそう言って彼女を安心させた。
「本日、お電話いたしました用件にかんしましては、ほかのお客さま方にもいたしておるのですが、つまり、古い契約が解決するまえに、新しい契約の準備をしておこうということでございまして、勧誘課のほうへ、先方へお訪ねして、今後のことにつきまして私どものサービスを申し出るようにと指示をいたすことに……」
「私だったらお出でくだわらなくても結構でございますわ。ご用件とおっしゃいますのは、たったそれだけのことでございますの?」
「いやあ、これはどうも、かなりきついお言葉でございますな。では、あえて申し上げますが、先週、あなたさまが、もし運転免許の試験をお受けにならなかったら、私もお電話いたさなかったでございましょう。私どもは先を見越して……」
 電話が、クッと鳴った。夫人が笑いをかみ殺しているのがわかった。
「まあ、そんなことまでご存じとは思いませんでしたわ! 教えていただけません? 私が車の試験を受けたなんて重大ニュースが、どうやってあなたのところまで届いたのか」 その威圧的な声の響きにはいささかの変化もありませんでしたが、それでも声の調子に多少の手加減が働いているらしいことは感じられました。
 鋭い語調は抑制されたものの、その分、警戒心がわいてきたようでした。
 その機を逸することなく、私は声を強めて、もう一歩踏み込みました。
「保険局のほうにも、その筋からの通知がまいるものですから」と私はうそをついた。
「私どもといたしましては、新しく免許を取得された方々をも未来のお客様と見ておりますのです」
 電話の向こうから、ふたたび笑い声を押し殺したような声が聞こえてきました。
「わたくしもお役所仕事ののろさかげんは、いろいろ覚悟しておりましたけど、商売熱しというところまでは思いもおよびませんでしたわ。誰だってとまどってしまいますわよ……。
 どうやら、いろんなことについて、もう少し突っ込んだお話し合いが必要のようでございますわね。でも、今は、わたし、急ぎの用がございますの……。
 いかがでしょう。わたしのほうからおうかがいするということにいたしましては? 明日の、十一時過ぎだとかはいかがでしょう……」
 私は息を止めて、予定表をめくる音を聞いていました。
 やがて、彼女はまえよりもいっそうさわやかな声で言いました。
「あなたさまのほうのご都合はよろしいんでございますか?」
 こめかみがずきんずきんと脈打ち、その瞬間、うれしさのあまり卒倒するのではないかと不安になりました。
「それでは、ほんとうにご足労願えるのでございますか?」
 私の声はあまりにも正直に、私の状態を伝えたのでしょうか。
 今度は受話器から確信に満ちた本来の女子軍団の女隊長の声が聞こえてきました。
「もちろん、おうかがいしますわ」
 もはや、彼女は笑いを抑えようともしませんでした。
「わたくし、たまたま近くを通りますの。これで何もかもおしまいにしていただきたいものですわ。では、ごめんくださいませ」






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