(4)

 その瞬間から翌日の十一時まで気もそぞろで、ほかの仕事にはまったく手がつきませんでした。私はとっくの昔に、この事件にとりつかれていたのです。
 ところが、それが今になって万力で締めつけるみたいに私を締めつけはじめたのです。 警察からしかじかの通知という大胆なうそが効き目を現わしたのはたしかです。
 ブルドヴァー夫人としても賢い人ですから、この種のことが実際問題として、技術的に困難だし、それほど有効ではないことくらいうすうす感づいてはいるでしょう。
 免許の試験にしても、すぐに購入する予定の有無にかかわりなく、毎日多くの人が受けにくるのですから――だいいち、警察だって保険局にお客の斡旋をすることよりは、もっと大事な仕事がほかにあるでしょうからね。
 ブルドヴァー夫人は何かくさいと、たしかに気がついていますよ。ただ、私のうその裏にかくされた真意を測りかねているだけなのでしょう。
 私の痴漢的電話をもっともらしく見せかけるための作り話をひねり出すくらい、私にとっちゃ造作もないことです。
 ところが、いいですか、このうそっぱちを、もっと、いわくありげに匂わせることだってできるんですよ。
 たとえば、警察はブルダ事件にかんして本当に保険局のほうへ通知をしてきた。もちろん、新しい契約のことではなく、この件にかんする保険金の支払いを一時、留保するようにと……。
 あるいは、誰かがブルドヴァー夫人にある種の犯罪の嫌疑をかけているらしいということ、そして運転免許の試験にパスしたことよりは、むしろ別の事実関係のほうに興味を示しているのだというようなのはどうでしょう?
 私の空言は予想外の効き目を見せたので、もしかしたら、ヴラスタ隊長は本当にうしろめたさを感じているのではないかと勘ぐりたくなるくらいです。
 だから不安がつのればつのるほど、落ち着いているのがむずかしくなるはずです。
 運転免許の試験のたびにその結果を保険局へ通報するものなのかどうか警察に問い合わせするようなことを彼女がするはずはありません。
 また、同様のことを私の上司に探りを入れるようなこともありはせんでしょう。私のところへ苦情をもち込んでくるなんてことは、なおさらありませんよね。
 彼女はむしろ書類が足どめを食っているデスクへ直接やってきて、本心から思うはずです。
 この担当官の「HM」氏が、何らかの意味をもっていればいいのにと(しかも、彼女にうしろめたさがあるのなら、この担当官である私の意味を強調しこそすれ、過小に評価することはありますまいよ!)、そして「HM」氏の事務室で、手っ取り早く、万事を確実にするでしょう。
 こうなったからには、私はそれこそ、慎重に行動しなければなりません。さもないと、何もかも台なしにしたうえ、私自身の存在すらおびやかされることになりかねません。
 まかり間違えば、ブルドヴァー夫人をなだめすかすなんてことは、とうていできない相談でしょうからね    なにしろ、こういうタイプの女性というのは、直接、局長のところへ怒鳴り込みかねませんし、そうなったら私の頭の上では雷がごろごろ鳴りっぱなしということになりかねませんからな。
 こんな風に書いていると、私の手のなかには、いかにも取って置きの切り札があるみたいですがね、実は、目下のところ一枚もなしです。
 この女性にかんして確かなものは何もない。どう扱っていいのやらさえさっぱりといったしまつです。
 この事件の処理の遅延にたいする正当な言い訳もなし。それに、お客を事務所に呼びつける子供だましの理由さえなしなのです。
 私は上役に怒鳴られたことはあまりないのですが、この件にかんしては頭をどやされても仕方なさそうです。
 要するに私はみじめったらしく白状せざるをえんでしょう。
「はい。私はこの奥さんをじっくり眺めまわしたかったのです。そして奥さんとちょっとのあいだ一緒になりたかったのです。なにしろ、この奥さんのヌード姿にすっかりまいっちゃいまして……」とね。
 すると上役は目を真ん丸にして「見せろ……」と言い、やがて大笑いがはじまるでしょう。
 私の首筋をひっつかんで、小突きまわすということはないでしょうが、だれかれの見境なく言いふらすでしょう。
「おい、見ろよ、当局のはげの暗号解読手のHMが裸の女にイカレッちまったぞ!」と。
 それから寄ってたかって、その騒ぎのもととなった写真をのぞき込み、写真の主や私に卑猥な言葉を存分にあびせて、上役に続いてみんなの笑いの大合唱となるにちがいありません。
 女子職員たちはヒステリックに叫ぶでしょう。
「ああ、あたし、もうたまらない。あのマトラッチがドン・ファンだなんて、気持ちわるーい!」
 ところが、実際のところ、私は、たまらなくなったって逃れるわけにはいかんのです。なぜなら、一度、笑いが爆発したら、もう絶対に静めようがないからです。
 それに明かり窓からは狭くてくぐりぬけられません。でも、どうやって防いだらいいのです? こんな災難を回避するにはどうすればいいのでしょう?
 夜、私は記録をじっくりと調べていました。記録を家にもちかえり、エンジンの内部に細工するプロの殺し屋の存在など、とっくの昔に捨てた可能性をもふくめてすべての可能性について検討してみたのです。
 記録の上の線や数字、マツレ周辺の地図に記された記号など、それらのものはもうみんな頭のなかに入っています。事故前後の写真のこまかい点などについては拡大鏡で見る気にもなりません。
 成果はなし。頭はぼーっとなって何も考えられませんでした。
 朝になって私は敗残者のような気分で出勤しました。美しい夫人との再会を楽しみにするどころか、私は急に恐ろしくなりました。
 彼女はあらゆる点で優位に立ち、私に降伏を命じることもできるでしょう。
 十一時十五分前。それまでの私は半狂乱のようになってタバコを吹かし続けたので、仕方なしに事務室の空気を入れ替えました。
 十一時を十五分ほど過ぎたとき、彼女はドアのところに現われました。そして、その姿が前回とはまるで違って見えたので、私はしばらくのあいだ、ぼう然として見とれていました。
 天気がよかったので、長いブーツのかわりに普通のハイヒールをはき、膝までのスカー
トにコートの前は開きぎみでした  帽子はなし。
 それでも服装でまだ喪中であることが察せられはしたものの、天然ウェーヴの髪は写真で見たのと同様にふさふさと波打ち、片側により多くたれて、顔のシンメトリーをくずしているのが、これがまた魅力的で、あらわになった右の耳には、かつて写真のなかで私をあれほど感動させたイヤリングが輝いていました。
 目を伏せたとき、私は、ここでもまた足を見てしまったのです。
 それは写真でおなじみの状況とはことなり、体にぴったり、くっついてはいないかわりに、空間のなかにのびのびと、のび立っていたのです。
 はじめのうち、私はその二本の足があたかも半透明のストッキングからすけて見える、細長くてまるい物体ででもあるかのように感じていました。
 彼女が入ってきた瞬間、私は立ちあがりました。何かの芸を演じてみたかったのです。 でも、私ができたことといえば、ただブルドヴァー夫人の真正面に突っ立ったまま、あたかも彼女の口からなにか命令が発せられるのを待ち受けているかのように、ただ彼女の顔をじっと見つめているだけですた。
 彼女はほんの一瞬、私を見返しました。
 唇のあたりに浮かんだ表情は、何かを楽しんでいるように見えなくもない(同時に、軽蔑ともとれる)もので、まさにヴラスタ隊長になりきっていました。
「申しましょうか? 失礼ですけど、わたくし、もうちゃんと存じてますのよ、誰があの通告をしたか。十一月十八日は『ロマナ』の名の日でしたわ。
 うちのタイピストはロマナと言うんですけど、その娘が白状しましたのよ。ちょっとばかり、お祝いをしたこと、私への電話に出て、少しいい気になって、私がどこで何をしているかなど、大袈裟に吹聴したとか……。
 それを警察からの通報だなんて……。本当は新しい契約の手数料が欲しかったんでございましょう? それだけのことにしては、ちょっと冗談がキツスギじゃございません?」 私をぶちのめそうというのではないのです。彼女は私の言動に釘を刺しにきたのです。 そして、自分も楽しんでいるのです。彼女は最初の訪問のときから、私の心の奥底にうごめいているものを、とっくに見抜いていました。その表情は、あたかも、熟練した奴隷の仕事ぶりをちょっとのぞきに来ただけだといった態度でした。
 そうです、まさにそんな様子で彼女はウェーヴのかかった髪形の頭をめぐらせて私の独房をひとわたり眺めまわしました。
 彼女は視察に来たのです。
「食事は十分もらってるの?」とさも問いたげです。
「おなかを空かしてるみたい」と悪意はないが軽蔑をこめた微笑は言っています。
「あなたはこんな見晴らしもきかない窓の部屋に閉じ込められて、いつ終わるともしれない仕事にこき使われて、本物の肉のかわりに、こんな紙束のまずい食事を与えられている
の? あんまりむきになって噛むもんだから口まで、そんなにゆがんでしまって……」
 おまえはまたいいかげんな話をでっちあげているな……とわれに返り、自分に言い聞かせました。
 おまえときたら、こんな女と面突き合わせて、真っ昼間からうつつを抜かしていやがる。こいつをやらなきゃ、おまえのほうがやられっちまうんだぞ。
 しっかりしろって!
 手数料のことなら言い返すのはお安いご用だろう。金の問題じゃあるまい?
 きっぱりと言ってやれ。新しい保険の契約からビタ一文もらっちゃいないし、決済された契約からだってもらっちゃいないんだって……。検閲係として、保険制度のためを思って忠実にやっているんだ……と。
 私はこの方向からなんとなく話を切り出したのです。きっぱりとしていたかどうかはわかりませんがね。彼女の笑顔はそのままでした。
「わたくし、あなたのお話をおうかがいいたしましても、何のことやら、さっぱり……。 あなたはあれからも、これからも手数料は取っていらっしゃらない。それに検閲官でいらっしゃる……
 でも、わたくしにわかりますのは、わたくしどもにかんする書類があなたの机の上から、いっこうに進まないということだけですわ。
 もし、仮に、あなたがわたくしにたいするお金の支払いを躊躇される理由が手数料のこと以外におありなのだとしましたら、それは……?
 まさか、あなたはあのことを……。ああ、どうか落ち着いてください!」
 彼女は机ごしにすばやく手をのばして、私の手を押さえました。
 誓って申しますが、私はドアのほうを差し示すべく手を上げたのです。
「出て行けなんておっしゃらないで」
 彼女は私の手を押さえたまま言葉を強めて言いました。
「どうか、おすわりになって、あたくしもすわりますわ」
 私は袋のねずみ。言いかえれば私は彼女の手中に  彼女のピンク色の手のなかに落ちたのです。
 その手は私の手の甲より何倍もあたたかい。
 足の力は抜け、私はこの訪問者とちょうどシンメトリックに前屈みに向き合い、同時に各々の椅子に腰をおろしました。
 それから、今度はその手を私の手から離し……、いえ、けっしていやらしい感じではなく、むしろ言い訳がましい愛撫を残しながら……ごめんなさい、わたくし、礼儀正しくしなければいけませんわね。
 もう一度、手をきちんと膝の上のハンド・バッグのところにおいて……と、そう言いたげに。
 私も手をひっ込めました。何か熱いものでも触ったみたいに素早く  。
「私はこの保険局に二十年以上もつとめてきました」
 私は自分から切り出しました。
「みくびらないでいただきたいですな。私が大きな声を出さないうちにお引き取りください!」
「でも、先生……! あら、ごめんなさい、あたくし、まだお名前を、おうかがいしていませんでしたわ!」
 そう言って机の向こうから身を乗り出した感じは、まったく無邪気そのものと言ってもいいくらいでした。
 またもや、彼女は私を骨抜きにしてしまいました。
 私のエネルギーは、あと、もうちょっとで空になってしまいます。
「マトラッチです」
「マトラチ先生、どうかお許しください。ここではいつもお話がちぐはぐになってしまうんですわ。わたくしの身にもなってくださいな。わたくしがどんなに不安だか、おわかりいただけますかしら。わたくし、ずいぶん長いこと保険金の支払いをお待ちしていますのよ。だって、わたくし、そんなにお金持ちではありませんもの……。
 だから、わたくし、もう、本当にびっくりしましたわ、車を買うつもりかだなんて、おたずねになられたときは……」
 わたくしの身にもなってくださいな……か。
 私はしばらくこの言葉を、犬が骨をもてあそぶように、もてあそんでいました。
 しかし、彼女が最後に口にした言葉にすべてを放り出し、敵意もあらわに吠えかかったのです。
「ところが、その車とやらは、もう車庫のなかじゃありませんか。何で買われたのです?家の修理にはどんなお金を当てられたのです?」
 夫人はピクンと体を突っ張らせて、身をかばうようにハンドバッグを前にかまえました。
「あなたのお節介ときたら、ロマナどころではありませんのね。ここはいったい保険局なんですか、それとも警察なのですか? どっちなのです!」
 ヴラスタ・ブルドヴァーの内面のどこか奥底で、恐怖が芽生えたのを私は見て取りました。しかし、微笑の影さえなくなった目つきで、油断なくそこにすわっているのを見ると、私までが射すくめられたみたいになってくるのです。
 しかも、私のほうがずっと怖がっていて、おまけに言うに言われぬ無力感が体中に浸透してくるのがわかるのです。
 私の恐怖心のなかの何ものかが「もっと卑屈になれ! もっと卑屈になれ!」と叫び続けて、このあやしくも美しい女隊長の足もとにひれ伏し、その足をなめろ! と命ずるのです。
 私はすくんでしまいました。そしてみじめにも、すべての手札をさらけ出し、言いつくろいしはじめたのです。
 もし、私のことで上司に訴えなどなされたら、私は困ったことになるでしょう……などなど。
「あなたさまこそ私の身にもなってくださいませよ……その筋からの通告などとばかなことを申し上げてしまいましたが、正直のところ、あなたをお呼びする口実が、私は欲しかっただけのことでございまして……それにまた、散歩に出ました際に、つい、ふらふらと……、で、書類にありました住所を探したというわけです。
 このことも、お許しいただけるとありがたいのでございますが……。いいえ、ちょっと垣根のそばを通り過ぎただけでして、それに窓が手入れされているのに気がつくくらいのことは、探偵でなくたって、お安いご用で……ガレージの前には車を洗った跡が……。
 いえ、いえ、とんでもない、私はあんなところで探偵のまねごとなどしたのではありません。ただ、そのう……なんとも申し上げようもないのでございますが……」
 私は自分の不細工なマスクのなかの小さなのぞき穴から、できるかぎり、哀願するような目つきで彼女を見つめました。
 ホッとしたのでしょうか?
 彼女は頭をふると髪のふさのほとんどが片方へ寄りました  非対称的な髪形は、たぶん、頭をふるこの癖のせいなのでしょう  ピアスの素晴らしいイヤリングをつけた耳は私の目のまえにあらわになっていました。
「もう、そんなことなさるの、やめてください。あなたもずいぶん大胆ですのね。でも、わたくし、もうそのことを忘れます。あなたのお約束、頼りにしておりますわ。
 保険金の支払いのこと早急に処理してくださるって、電話で請け合ってくださいましたわよね。もう、そろそろけりをつけてくださってもいいんじゃありません? ぜひ、そうしていただきたいですわ。
 それから、今後は一切、電話をかけるのも、垣根の外からのぞくのもご遠慮ねがいます」
 そう言って立ち上がると、歯に衣を着せぬ率直さで、吐き出すようにつけ加えました。「あなたなんか探偵って柄でもないわね。そうよ、ただのデバカメよ。すごーく、いやな感じ」

 私はコツコツと遠ざかる足音を聞いていました。
 彼女は背をピンとのばして出ていきました。やさしい白鳥のイメージとはほど遠いものです。こういった類いの女神は出来がちがうというか、なにか非常に理解しかねる要素を含んでおりますな。
 今ここで私が「レディーの姿をした娼婦」などと書いたとしても、なにやら古臭い文学のページをひもとくような印象を与えこそすれ、真実を伝えることにはならんでしょう。 それというのも、ブルドヴァー夫人の振る舞いは、てんから、レディーなどといったものではないからです。
 少なくとも、今日、使われているレディーという言葉が、かつて内容としていたもの、つまり、時とともにほろび去った古風なものの、ひとかけらさえも身につけてはいません。 それに「娼婦」なんて言葉はなおのこと前近代的な響きをもっていますから、こういった現代的なタイプの女性には似合いません。
 私はこれまで長いあいだ、老化して、徐々に融通が利かなくなってくるこの目の前で、新しいタイプの娘たちが成長していくのを見守ってきました。
 新しい娘たちは、私たちのかつての教育者世代が私たちに教え学ばせたのとは違った呼び方、違った表現方法を要求しています。
 そのことは、私がブルドヴァー夫人とのあいだに起こった事実をここに書き記しているあいだにも痛感していることなのです。
 たとえば、私には彼女の言葉を正確に再現することさえできません。
 たしかに私は引用符のなかに彼女の言葉を書いてはいますが、それでも、彼女が使った表現はこの通りでなかったのはたしかです。
 この夫人はまったく別人種です。彼女はずっと若いし、私とはまるっきり違った世界に生れ育ったのです。
 つまり私自身は老いぼれの、役立たずの、みそっかすです。
 しかし、これほどの大きなへだたりがあるにもかかわらず、「彼女には何かがある」と、これほどの確信をもって断言できるのはいったいどうしてなのか、それが私自身、不思議でしょうがないのです。
 私には、彼女が何かを決断するにしても、それがどういう経路をへてそうなるのかわかりません。たとえば、ある状況のなかで、なぜこういうふうに行動し、それ以外ではないのか……。
 しかし、まあ、そんなことは気にするまでもないでしょう。
 なぜって、私も私流の考え方をして(そう、彼女だって私がどんな考え方をするか、わかる必要はないのですからね)いずれは同じ壁にぶち当たるのです。
 私たちは同じ迷路のなかを、そうとは知らず、別々にさまよっているだけなのです。
 お互いに無関係な世界だと思い込んでいても、行きつくところは二人とも同じ壁なのです。だからこそ……
 私に「娼婦」という言葉を連想させた彼女の言葉使いにかんするかぎり、私は忠実に記録したつもりです。でも私のやや古風な文体の文章のなかでは、どうも本当らしく響かないのですね。
 たとえば、夫人の「冗談がキツスギル」という言い方がそうです、ちっともキツクはないのです。それとか「デバカメ」なんて言葉をあえて平然と使うなどです。
 私たちの親たちの世代は    もし、言うとしたら  「ヴワユール」なんて言ってまし
た。
 このエレガントな言葉はある種の変態性欲者のことを意味しています。パリふうの「デバカメ」ですな。
 この連中は、自分で娼家の美女と実体験をやらかすよりは、壁の秘密ののぞき穴からのぞくほうがいいんでしょう。
 この「ヴワユール」ないし「デバカメ」という言葉は、今日のパリでも同様の意味で使われています。
 もちろん、まるっきり上品な響きなどではなく、不愉快なにおいまでしてきて、油かグリスに触ったみたいに、ベタベタ、ヌラヌラしていて、洗っても洗っても取れないって感じです。
 ブルドヴァー夫人は「冗談がキツイ」とか「デバカメ」とか、普通なら耳障りな言葉を、ごく自然に、さらりと言ってのけましたので、私がこれまで書きたててきた彼女の崇高な美しさをいささかも損ねることなく、それらの言葉は「ピッタシ」彼女の身についていたと申せましょう。
 彼女の振る舞いには、昔ながらのレディーと呼ばれるにふさわしい自信にあふれ、女神そのもの、あるいは、もっと正確に言うなら、女子軍団の女隊長、恐ろしい女性、それでいて恋に生きる女、自分だけの秘密の迷路をさまよう女、それでも、なお行き着くところはは、性器が落書きされ、かさぶたにおおわれた汚らしい壁。
 ところが、下種な奴隷の私が別の道を飛び跳ねながら、ひょいと、出てきたところもやっぱり同じ壁というわけ。

 こうして、私は事務室にぽつんと独りぼっちになりました。私に出された宿題はいとも簡単。女隊長は書類の片をつけるよう命じたのです。賞罰をほのめかすのも忘れずに。
 つまりこの独房のなかで命令どうりにしていれば、私のあやまちは許してくれ、そのあとは、ご親切にも私のことなど、いっさい忘れてやろうというのです。
 とんでもない! そんなこと、だれが許すもんか!
 前の部署からまわってきた書類をシコシコと片づけて「HM」のサインでもしようものなら、美貌のブルドヴァー夫人が自信たっぷりに支配している迷宮から、私は永久に追放になるのですよ。
 なんで、この私が自分のほうから進んで、悪事の報酬を当局の会計からだまし取る手助けをしなければならんのです?
 こういう言い方をすると事実誤認をされる向きもあるのではないでしょうか?
 前にも申しました通り、私は警察官でもありませんし、いわゆる、正義の味方なんてもんでもありません。ドストエフスキーのなかの人物でもなければ、道徳の最高の審判者でも、ましてや救済への仲介者でもありません。
 ブルドヴァー夫人が何かわけのわからん方法で保険局をだまくらかそうとしたって、私ごとき一介の検閲係ふぜいには、疑惑もそのままに、手をこまねいているしかないでしょう。
 もし、仮に、独りぼっちの夫人が身にまとった女隊長の鎧のしたで、良心のうずきをむず痒く感じていたとしても、それを慰めるのは私の仕事ではありません。
 検閲係の役どころといえば、せいぜいケチな密猟者がいいところ。血の匂いをかぎつけては、そいつの傷口に爪を突き立て、ずたずたに引き裂くことくらいです。
 こうすれば、下種でぶざまな私にだって、強靭で、すばしこい獲物をやっつけることができるのです。
 それに、獲物との格闘に敗れたとしても、いや、それどころか、尖った踵で強く踏んづけられたとしても――その敗北の苦痛よりは、むしろ幸福を感じているのかもしれないじゃありませんか。
 勝ち誇った尖った踵の足……私は目を閉じて『野生の王国』のなかのあのカモシカの名前を思い出そうとしました。一瞬、おどろいて跳びあがり、それから駆けだすのです。
 そして、ひと跳ねごとに足をぴったり体にくっつけて、数瞬間のあいだ身うごきもせずにうっとりと空中に浮いているのです……
 インパラだ!
 カメラが停止させた逃走の一瞬の映像を呼び出すための、次なる呪文は……風に吹かれてまくれ上がったスカートのような椰子の葉っぱ。
 人に見られて、甘い糸玉になった美女。話をつむぐため、糸をほぐすのに使えるもの。もともと、こんな目つきで見られるために作られたものではないもの。
 それが、今、その男の思うがままに……アフリカの最も美しい獲物……
 インパラ!
 よし、きまった。まだ、サインはしない!






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