第10章 世界の文化動向に対抗しよとする文学の努力


[十九世紀70年代後半から90年代前半まで]




(1) 1970年代80年代のチェコ社会と文学の概観――ルフ派とルミール派
(2) スヴァトプルク・チェフ
(3) ヤロスラフ・ヴルフリツキー
(4) ユリウス・ゼイエル
(5) ヨゼフ・ヴァーツラフ・スラーデク
(6) ルフ派とルミール派の詩人たちのその他の作品
(7) 労働者詩人たち
(8) 40年代以後の歴史散文文学の発展

  1. ベネシュ・トチェビースキー
  2. アロイス・イラーセク
  3. ジクムント・ヴィンテル
  4. 田園散文文学の一般的性格
  5. カレル・ヴァーツラフ・ライス
  6. ヨゼフ・ホレチェク
  7. ヤン・ヘルベン





   (1) 1970年代80年代のチェコ社会と文学の概観――ルフ派とルミール派


 私たちはマーイ派の時代を狭い民族的関心から全人類的関心への移行の努力として性格づけた。この努力は当然のことながら外国文学にたいする関心と翻訳活動をともなった。しかし、それでもなおチェコの読者は世界文学の大部分のものに翻訳の形で接することはできなかった。しかもわが国の文化においてはドイツ文化圏の圧力が――ネルダ世代方向の努力にもかかわらず――依然として強力にあらわれていた。この一方向性にたいし70年代80年代の文学は対決しようとしたのである。その代表者たちはわが国の読者を特にロマンス文化やアングロサクソン文化の世界、それにまたスラヴ文化の世界に導き、こうして他の国の文学を認識しながらチェコの文化的視野を広げていくように体系的な努力をしたのである。

 十九世紀70年代80年代のわが民族の社会佐活の特徴的な現象はチェコ市民階級の経済力の増大である。チェコの工業生産業は徐々にドイツ企業に対抗できるようになっていた。このことと関連してチェコのプルジョアジー一は、憲法時代〈ustavni obdobi〉の初期に(つまり60年代に)保持していたかっての自由主義的一民主主義的理念にたいする興味を失ってきて、自己の物質的、資本主義的目的に、そして全民族的な利害ではなく、まさに階級的利害の防衛に関心を集中させていったのである。この時代のチェコのプルジョアジーは政治的には二つの党派、老チェコ党と青年チェコ党とに分裂した。この両者は非公式にはいわゆる国民党の両翼としてすでに1863年から存在していたのだが、公的には]874年に設立された。両者間の主な対立点は当時の国権闘争の戦術の同題であった。老チェコ党はいわゆる消極的抵抗と称する政策の支持者である。つまりウイーンの中央集権主義に反発を表明するために地方代表議会〈zpskysnp〉の招集に反対の立場を取っていたのである。それにたいして青年チェコ党は積極的政策を取っていた。民族的な社会間題においては老チェコ党の保守性との相違を明確にするために、白由民主主義的精神に則って相対的に進歩的姿勢を取ろうと努めた。特に、青年チェコ党がチェコ労働者の守護女神となるように努力した。もちろん、この努力の目的はわが国の公的生活において、まず第一に青年チェコ党の政治的地位を強化することであった、青年チェコ党の労働者にたいする関心が社会的目的を追及しているかぎり、それは本質的に博愛主義的性格のものにすぎなかったのである。
 この状況のもとにチェコ労働者階級は、階級的観点から社会的闘争を拡大するための足場を、まさに独自の党チェコスロバキア社会民主党の設立によって獲得したのである(1878年)。労働運動の発展を援助したのは新しく創刊された幾種類かの労働刊行物であり、それらの前面にはわが圃の労働運動の重要な代表者が立っている、これちの刊行物のなかで最も大きな意義をもっているのは「労働新聞」Delnickc listyと「未来」Budoucnostである。両者はヨゼフ・ボレスラフ・ペツカとラディスラフ・ザーポトツキーによって指導されていた。
 チェコ民族社会内部の緊張の増大は、わが国の文化の急激な発展と上昇の障害とはならなかった。力と立場の違いはチェコ人の文化生活を民主化するうえで大きな貢献をした。文化生活の代表者たちは社会的進歩の側にくみすることを一層明確にし、精神的にもブルジョア政治の利害と目的から、だんだん離れていき、民族の民衆層の代弁者となっていった。文学においては特に「民族派」skola narodniの作家たちの作品がそのことを証言している。この派に属しているのは「ルフ派」ruchovciの第一の代表者スヴァトプルク・チェフとともに、その作品の性格および理念的志向において特にエリシュカ・クラースノホルスカー、アロイス・イラーセク、K.V.ライスらがこれに属する。しかし、J.V.スラーデクの作品の性格も純粋に民主的かつ民衆的である、彼はいわゆる「ルミール派」umirovci の主要な代弁者である。そしてルミール派のその他の二人の代表者ユリウス・ゼイエルとヤロスラフ・ヴルフリツキーの作品も最後には民族的、民主的伝統の方向へ行きついた。彼らは芸術発展の初期段階ではむしろ純芸術主義的目的を追求していたのである。
 70―80年代のチェコ文化生活の発展は文化組織あるいは団体の成長によっても起こった。チェコ文学にとってはこれまでのどの時期よりも、はるかに大きな出版の可能性が生れた。それは新しい出版社の出現によるものである。若くして死んだイグナーツ・L・コベル Kober の出版社はすでに存在していたが、これと並んで1869年にはDr.エドヴァルト・グレーグル Gregr とフェルディナント・ダットルの出版社が設立された。この出版社はその後1882年にネルダの「詩の集い」Ptticke besedy の出版者となるエドヴァルト・ヴァレチュカ Valecka の手に引き継がれる。1871年にはヤン・オット Jan Otto (後にその出版社から出版された『オットの科学事典』が注目に値する)とフランティシェク・シマーチェク Siocek、1872年にはヨゼフ・リハルト・ヴィリーメク Vilimek、1883年にはフランティシェク・トピッチュ、同じ年にはモラヴァ(オロモウツ) でロムアルト・プロムベルゲルが出版活動を開始する。
 増大する文学生産とチェコ文学の新しい需要にたいしてこれまでの芸術組織「スヴァトボル」Svatoborや「芸術会議」Ume1ecka besedaはすでに十分な対応ができなくなっていた。マーイ派のあとに登場してきた世代(アルマナック・ルフ Ruch と雑誌「ルミール」によって、その世代を“ルフ・ルミール" Ruchovsko-lumirovska 世代と呼ぷことにする)は新しい組織の中心を1887年にチェコ文学作家協会「マーイ」のなかに繕成した。その目的はチェコの作家とその出版の可能性の拡大を支援することであった、70年、80年代のチェコ文学の発展はチェコの文化的自立を求める闘争によって得られた重要な結果と密接に関連している。1881年には長年の努力の結果、遂に「国民劇場」が完成し、開場した。同年、その劇場は焼失したが、1883年には早くも一般民衆の醵出によって新たに建設されて開場した。チェコの民族運動は学間の分野でもそれ以外のすぐれた成果を収めた。それはプラハ大学のチェコとドイツヘの分離であり、その結果としてチェコの学術的活動がドイツの専門グループ、または機関への従属から解放されたのである。やがて1890年には一援助者、建築家ヨゼフ・フラーヴェクの寄与により――「チェコ科学、文学、芸術アカデミー」Ceska akadeie Pro vedy,s1ovesnost a umeni の設立が実現したのである。

 文学の活動領域ではマーイ派世代が最も重一要な、最も円熟した作品の創作にやっととりかかったころ、すでに若い世代が発言の場を求めていた。若者たちはまず最初にその発言の場をアルマナックのなかに作った。1868年は全園民が国民劇場の礎石の据えつけを祝った年であるが――まさにこのお祝いの機会に合わせて――アルマナック「ルフ」Ruchが誕生したのである、編集者はヨゼフ・ヴァーツラフ・スラーデクであった。このアルマナックの寄稿者のなかには詩人のラディスラフ・クィス QuiS、ヤロスラフ・ゴル Goll(のちに歴史家になる)、そして特にスヴァトプルク・チェフが含まれていた。間もなく新しい文学世代のさらに若い世代が登場してくる。特に、南チヱコの学生のアルマナック「アネモネ――南チェコの若者の詩集」 Anemonky, basne omladiny jiznich Cech のなかでそれが起こる。このアルマナックにはなかでもヤロスラフ・ヴルフリツキーとヨゼフ・ホレチェクが作品を発表した。モラヴァ出身の若い作家たち、フランティシェク・ターボルスキー、ヤン・ヘルベン、T.G.マサリク、レアンデル・チェフ、フランティシェク・ビーリーなどは、1877年のアルマナック「ゾラ」Zora に登場する。
 このアルマナックはプラハで出版された(その後の版は1878年と1885年である)。彼らのなかには往年のフランティシェク・バルトシュの弟子たちがおり、彼らはバルトシュの精神を受け継いでチェコ文学の民族的、スラヴ的、民衆的性格を強調し、芸術至上主義を排し、民族の伝統に重点を置き、多くは芸術的リアリズムの方向へと進んだ。ヴルフリツキーに近い詩人たち(例えぱ、フランティシェク・クヴァピル、カレル・レゲル、アロηイス・シュカムパ、フランティシェク・ハルパ、ヴァーツラフ・アロイス・ユンク) は同じころ新しいアルマナック・マーイ(1878)のもとに結集したがその芸術的意義は大きくない。
 1879年のアルマナック・チェスケー・オムラディニ(『チェコ青年のアルマナック』)は主に民族的、スラヴ的精神によって導かれている。ここに登場するのは――「マーイ」 1878 で知られる一連の作家の他に―― F.X.スヴォボダと M.A.シマーチェクである。
 スヴァトプルク・チェフとヤロスラフ・ヴルフリツキーの世代はジャーナリスティックな活動の場を定期刊行物「ルミール」に見出だす。この「ルミール」はネルダとハーレクが創刊した(あるいは、ミコヴェッツの「ルミール」廃刊後に復活させた)ものであるが、半年後には彼らの後継者たちの手に移る。その最初に編集を受持ったのはオタカル・ホスティインスキー、スヴァトプルク・チェフ、ヨゼフ・ヴァーツラフ・スラーデク、セルヴァーツ・ヘッレルである。1877年からはスラーデクがこの刊行物のオーナー兼編集者となり、1898年まで維持した。「ルミール」の性格を決定づけたのは、特にヴルフリツキーと彼の一派である。若者たちのその他の活躍の場としての定期刊行物は1879年にスヴァトプルク・チェフとセルヴァーツ・ヘッレルによって創立された月刊誌「花」Kvety である。この雑誌の文学的性格を決定したのは、特にチェフとその仲間の作品だった。「ルミール」にたいしていわゆる「民族派」の作家の立場を表明する雑誌があらわれた。それは「啓蒙」Osvetaである。1871年に創立され、作家であり批評家でもあるヴァーツラフ・ヴルチェク Vaclav Vleckによって編集された。およそ70年代の中頃から、新しい詩人世代がわが国の文学ジャンルにおいて強固な地位を占め始めた。それはマーイ派泄代の創造的総合化が完結した時期であったが、その一方でマーイ派の分解は60年代にはすでに始まっていたのである。これにはマーイ派の中心人物だったヴィーチェスラフ・ハーレクのあまりにも早い死(1874年)が拍車をかけた。ルフ派とルミール派の文学への登場は古い世代の代表者との軋轢もなく進行した。
 それどころかハーレクも、後にはネルダも自分たちの同類がチェコ文学のなかに足を踏み入れるときには大いに援助さえしたのである。若者たちもまたネルダやハーレクに、またスヴィェットラーにも自分の手本として率直に、尊敬をもって接したのである。実際のところ、彼らはこれらの先輩たちの文学的プログラムのなかから多くのものを引き継いだ。それは、文学の社会的機能についての関心、精神領域におけるドイツの絶対的影響からチェコ文学を切り離してロマンスとスラヴの言語文化へ方向転換をさせる。そして、なによりも民族意識を自覚させるチェコ文学の使命をさらに発展させるという努力であった。
 だが、まさにこのプログラムの要点と要求項目はそれ自体のなかに対立の根源を宿していた。そしてその対立は民族主義かコスモポリタニズムかという両翼間の抗争として爆発した。
 その第一の原困となったのは1877年に発表されたエリシュカ・クラースノホルスカー E1iska Krasnohorska 論文だった。それは『新しいチェコ詩の理想像』Obraz novejsiho basnictvi ceskeho というタイトルで「チェコ博物館雑誌」Casopis tskeho musea に掲載された。クラースノホルスカーはこのなかで本質的に再興期のチェコ文学のプログラムを満たしている純粋に民族的詩人像を理想として強調している。ルミール派の最大の代表者ヴルフリツキーはこの理想に合致していないという意見を、この著者はあからさまに表明する。クラースノホルスカーは彼のなかにあまりにも非個性的な、あまりにも外国文学の触発<インパルス>に依存しすぎ、その反対に祖国の文学伝続に結ぴつきの少ない芸術家像を見出だしたのである。クラースノホルスカーの論文は激しい論争の火種となった。
 その後、ワルシャワの「スラヴ・レヴユー・1879年」Revue Slave に掲載された画家ソビェスラフ・ピナカス Sobeslav Pinkas の論文――1878年のチェコ文学動向を概観したもの――が論争の火の手を一層煽る結果となった。 (ルミール派の反対者たちは、この論文を書かせた張本人 J、ヴルフリツキーだとみなした)。ピンカスの意見にたいしては、この論文の著者がヴィーチェスラフ・ハーレクの作品にたいしていかに敬意を欠いた態度で接したかについて厳しい非難がまきおこった。ピンカスはこの詩人の没後はじめての人間としてハーレクの作品を本当の意味の批評にさらした。それと同時に、すべてのチェコ文学にたいして、ほとんど排他的とも言える民族素材一辺倒の選択によって生じる民族的閉鎖性と、民謡に依拠する単純かつあまりにも原始的<プリミティーヴ>な形式とを非難した。その一方でこの論文の著者は新しい世代、つまりルミール派の近代チェコ詩の思想的また形式的発展にたいする貢献を高く評価した。
 ピンカスの論文はクラースノホルスカーの強硬な反応 (『今こそ、ハーレクについての一言』 O Halkovi slovo vcas,「啓蒙」Osveta,1878) を喚起したが、その矛先は主としてヴルフリツキーに向けられたものだった。彼女はヴルフリツキー作品の紋切型<シャブロン>、独創性と率直な生命感の欠如を指摘し、その後でルミール派全体のチェコ詩に与える積極影響を否定した。この反ルミール派論争に「啓蒙」誌の編集者ヴァーツラフ・ヴルチェクと批評家のフェルディナント・シュルツもその雑誌において参加した。エリシュカ・クラースノホルスカーの「女性新聞」Zenske listy とルドルフ・ポコルニーの[親指」誌 Palecek は同じ立場をとっていた。モラヴァでは『オリムポス山の会話』Hovory olympske (1879)という本のなかで批評家のヤン・エヴァンゲリスタ・コシナ Jan Evangelist Kosina (1827-1899) がいわゆるコスモポリタニズムの問題に取り組んでいた。その考え方は啓蒙誌やクラー一スノホルスカーに近かったが、彼らと異なっているのは、ヴィーチェスラフ・ハーレクの文学遺産の大部分にたいして否定的立場をとっていた点である。
 ルミール派の側からは(その論壇は「ルミール」誌であった)、一人はヴルフリツキーが名乗りをあげ、もう一人――そしてこれこそが最も断固としていた――がJ.V、スラーデクであった。両者はチェコ文学をできるだけ広範にヨーロッパおよび世界文学と関連づけようとする努力を強調した。だから、チ五コ語への翻訳という手段によって外国から最も実り豊かな刺激も受ける努力をしようとしたのである。西ヨーロッパの文学、特にロマンス語系の文学への指向は、まさにこの領域がわが国においては、これまで最も軽んじられていたという現実から出てきたものだ。特にスラーデクは「啓蒙」誌との論争において世界の言語文化のどの領域が新しい、思想的にも進歩した文学価値をもたらすかということに関係なく、自分たち世代がこれらの文学価値にたいして関心を抱いていることを強調した。
「民族派」とルミール派との論争は数年間つずいたが、徐々に実質が薄れていった。特にヴルチェクの「啓蒙」誌の側にそのことが言える。そこにもっとも強行に自己主張をしたのが、近代芸術の新しい発展的傾向を寄せつけない国家主義的保守主義 nacionalne konnzeruvativni の立場であった。クラースノホルスカーの反ルミール論文がもっとも冷静であったとはいえ、それで今彼女のチェコ文学についての概念はあまりにも民族的使命に限定されすぎていた。特に、当時の資本主義的杜会のなかで絶えず増大をつづける社会矛盾から必然的に生じてくるチェコ文学の新しい課題と機能にたいする十分な配慮が欠けていた。もちろんクラースノホルスカーの指摘が正当である場合もある。例えぱ、ルミール派たちが外国文学の刺激を、芸術的に自分のものとして十分消化しきれないまま、ときにはあまりにも唐突に、折衷的に受け入れたという指摘である。
 この文学論争の結びの言葉を発したのは――たとえ間接的にであったにせよ――「啓蒙・1881」におけるヤン・ネルダだった。そこで彼はチェコ批評の現状と課題について
思索したのだった。ネルダはチェコ文学を「不健全な傾向」skodlive smeny が支配しているという意見(特にクラースノホルスカーやシュルツの論文に由来している)を否定した。「傾向」間題は――ネルダが証言したように――チェコ文学ではその現実的意昧を失って、事実上解決されていた。近代的傾向も民族的傾向も、わが国においては――すぺての成熟した文学におけると同様に――等価値のものであり、しぱしぱ相互ににからみあって、その両者が価値ある実りをもたらすのである。こうしてネルダはこれらの論争がすべて本質を逸れた、しかも実は不自然きわまりない論議であったことを正しく指摘したのだった。
 芸術作品は民族精神の土壌から生れなくてはならないと彼自身確信していた。しかし同時に、自分の国の環境、民族的な伝統といったものによって芸術作品を主題的にも、思想的にも限定してしまうことの及ぼす危害についても長年の持論を彼の立場において論じたのである。ネルダはチェコ文学のヨーロッパ的文脈への結合につとめ、その観点からわが国の文学批評は現代の作品を判定すべきであると注文した。だから、このことかちしてもヴルフリツキーの世代は近代詩の精神的父としてネルダに心服したのである、彼らはその注文にまさしく応ずることができた。それというのもルミール派は80年代において、また、それ以後の時代においても、彼らの故郷の土との結びつきは固くまた有機的でもあり、外国の言語文化への傾倒にもかかわらず決してチェコ文化の伝統を裏切らず、むしろ反対にその文化伝統を豊かに発展させえたことを証明したかちである。

 ルフ派一ルミール派時代の文学作品の性格特徴はどんなものであるかという問題を提起するならぱ、それにはまず第一に、文学の発展が詩によって決定づけられている――この点については議論の余地はなく、しかもマーイ派の場合よりもはるかに徹底している――ということを確認することから始めなけれぱならない。次に、詩のなかに二種類の基本的タイプが認められることである。
 その第一は、スヴァトプルク・チェフの詩のタイプとして示す
ことができるものだが、その特徴は言葉の効果、洗練された言いまわし、修辞法的装飾の愛好であった。これらの特徴はもちろんヴルフリツキーの作品によって最も純粋に代表される。
 第二の詩のタイプにも無縁ではない。しかし後者の作品には――民族や社会の課題に忠実に応えていこうとするチェフの詩とは違って――読者ないしは聴衆を、詩人の創造的ファンタジーの渦巻きや花火のなかに引き込み、官能的陶酔の体験を授けようとする努力に貫かれていることがはっきりと.見えるのである。
 このことと関連して、詩行の抑揚線の融合のおかげで、個々の語の意昧的自立性が弱められているか、場合によっては完全に払拭されてさえいる。だが、このことはルミール派だけでなくルフ派にも言えることである。
 詩はなめらかに流れ、音節の強弱は規則的に交替する。歩格<英:meter>につ
いてはルフ―ルミール派の詩ではふたたぴ弱強格<英:iamb>(強弱格〈英:trochee>とともに)の使用にいたる。詩的表現は高度に洗練されている。このことは詩が多くの場合、象徴的機能をもっているという事実と関連している。だから美しく装丁され、イラストされ詩の本が沢山出版された。詩表現の洗練――そのなかにはいろいろな韻律的な、連節<英:strophe>的な形式を磨きあげること(その証拠は特にヴルフリツキーの「形式主義的」抒情詩である) への愛好も含まれるが――自己目的的で、不毛な形式主義に変貌することがしぱしぱある。このことはあまり才能のない詩人の場合に特にあてはまる。いろいろな韻文形式にたいする関心はフランスのパルナシアン(彼らは形式の「彫琢」を重視していた)のお手本によっても、また豊かな翻訳文学によっても助長されていた。実を言うと、中世から現代にいたるまでのヨーロッパ文学のほとんどすぺての最重要作品が、まさにこの時代になってはじめて、翻訳の形でチェコの読者の手に届けられたのである。この時代の詩の基本的意義を強調するからといって、もちろん他の文学ジャンル、特に散文の重要性をおろそかにするというわけではない。たとえそれが歴史に題材を求めたものであれ、田園にであれ、チェコ文学のリアリズムヘの次の発展の担い手になったのはまさに散文文学なのである。
 ルフ―ルミール派世代の特徴の一つに、異常なまでの量的多産性がある。当然ながらこのことは不可抗力的な否定的結果をもたらした。異常なほどエピゴーネン的詩が増加し、また、まったく陳腐で、文学発展になんらの新しい価値を付加しないような文学作品も生れた(これらの文学については本書では完全に締め出すことにする)。これからの解説においては、まずルフ派の主な代表者スヴァトプルク・チェフを紹介し、次にルミ…ル派の流れの代表者ヴルフリツキー、ゼイエル、スラーデクを紹介する。それかちこの世代の中小の詩人たちの作品に多少の評釈を加えながら触れることにする。その後で歴史的主題の散文作品の主な代表者たち(特にベネシュ・トチェビースキー、アロイス・イラーセク、ジークムント・ウィンテルなど) を集中的に述ぺ、それから田園小説の代表者カレル・ヴァーツラフ・ライス、ヨゼフ・ホレチェク、ヤン・ヘルベンに注目することにしよう。






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