(14)ヤン・ヘルベン/Jan Herben


 農村世界の芸術表現にかんする関心の高まりは、十九、世紀末のわが国の散文文学に現れたが、それはチェコ在住の作家ぱかりでなく、モラヴィアの作家についても特徴的である。モラヴィアから発生した創造的な刺激は顕著な方法でわが国文学の批判的リアリズムの流れを強化した。80年代、90年代のこれらのモラヴィア作品は通常、具体的な地方的問題とより強く結ぴついていたが、それにもかかわらずそれらの意義は単に地域的なものだけではなく、むしろ全民族的なものである。インスピレーション的活カとして作用したのは、とくにスロヴァーツコであった。その社会生活、民衆のタイプ、民衆の物質文化およぴ民俗の独自性は作家ぱかりでなく画家(ヨジャ・ウープルカ Joza Uprka)にとってもインスピレーションの源となった。

 スロヴァーツコ農村を描いた歴史的視野の広さによって、スロヴァーツコを描いた作家
のなかで最も重要な地位を占めるのはヤン・ヘルベン(Jan Herben, 1857-1936)である。
彼はブルモヴィツェ・ウ・フストペチーで生まれた。彼の父は農夫であったが、後に森番となる。ヘルペンはプルノのスロヴァンスケー一ギムナジウムで学び、そこでとくに方言学者であり民族学者でもあるFr.パルトシュ(Bartos) の感化を受け、その後プラハ大学で歴史とチェコ語を学ぷ。その後、ジャーナリズムと文学に没頭し、1886年から隔週刊紙(18889年から週刊、1900年から日刊)「時」Casを出版する。この新聞は「公衆の問題に捧げられた新聞」であり、この刊行物はマサリク一派の論壇となり、後にリアリズム派の論壇となった。彼はジャーナリスト、政治家、歴史家として当時のリベラルなプルジョアの理念的に最も進歩的な位置に立っていたのである。彼は革命的民衆の伝統、とくにフス派の、さらに書えぱターボル派の伝統をまもり、反革命時代の復活の努力や、当時の聖職権主義(クレリカリズム)に反対の立場を明確にした甘そして第一次世界大戦の際には反オーストリア闘争に積極的に参加して共和国建設の準備に加わった。


 文学におけるヘルベンはリアリズムと庶民性の信奉者であり、このなかに――スラヴのとくにロシアの言語文化への傾倒におけると同様に――バルトシュ学派および「若いモラヴィア」 Mlada Morava の運動にたいする彼の密接な關係が現れている血しかしをがら、現代および過去における農村にたいする関係ということに関して言えば、意見の上から徐々にバルトシュそのものから遠ざかっていった。

 要するにバルトシュの保守的な視点とはことなり、ヘルベンは進歩的な視点を投入したのである。彼は過去の農村を理想化しなかったし、愛国主義的時代を呼び戻そうともしなかった。むしろ反対に彼は自己のジャーナリストとしての活動を通して、社会改革の潮流ができるだけ明確にチェコの農村にも到達するように手を貸したのである。彼はチェコの農村の住民のなかに――再興期的精神のなかでまたバルトシュの影響のもとで――民族社会の核を見はしたが、それにもかかわらず、彼の視線はリアリスティックに批判的であり続けた、ヘルベンは農村の現実にたいする民族学的関心から出発したが、しかし徐々にそれをはっきりと深めていった。彼の注目の中心には農村生活の社会的、民族的、歴史的、哲学的問題意識があった。そしてそれは、とくに又ロヴァーツコにおけるものであった。

 彼はこの地方に、まず最初に短編小説集『モラヴァの風景』Moravske obrazy (1889)と『スロヴァーツコの子供たち』(Slovacke deti,1890) を捧げた。そこでは民族学的視点が優越しているとはいえ、同時に、すでに物質的かつ社会的環境を把握する著者の能力が示されている。この点の一層明確な証拠はヘルベンの三冊目の小説集『村にて』(Na dedine,1893)であり、そのなかではすでに決定的な手法で文学的意図が生かされて折、同時にそのなかにはロシア文学の読書、とくにツルゲーネフの影響が見てとれる。

 ヘルベンは彼の主要作品、ロマン年代記『第三および第四世代のなかへ』(Do tretiho a ctvrteho pokoleni)の素材もスロヴァーツコから取った。この作品は本の形(仮綴じ)の版が1882−1892年に出版された(第二の改訂版が1907年、その後さらに1919年と1936年にも出た)。
 この作品の素材はブロウモフ Broumov に住むフラベッツ家の三代にわたる運命である。そして時代は前ヨゼフィーン時代から十九世紀の最後の四半期までである。初代のフラベッツは貧しい農村の少年から成り上がった変節漢だった。彼は出世の街道を執達吏から歩きはじめ、その使用人にたいする容赦のなさで領主の信用を得た。やがて息子も父親の衣鉢を継ぐ。フラベッツ家の三代目の代表者イルジー・ベネシュになってやっと呪うべき一家の伝統から脱出し、彼の祖父が放棄し、父が一度たりとも戻ろうとはしなかった、要するにごく普通の道を探し求めるのである。


 イルジー・ベネシュは「先祖の犯したもの」を償うべく村へやってくる。しかし、あたかも父祖の罪の罰を子孫に課すという聖書の言葉が彼の上に実現化されたかのように二度にわたって――最初は領地の主として、二度目は医者として――道徳的啓蒙的使命を村において果たそうとするが失敗におわる。彼には個人的利害と感情を犠牲にすることができない。だから民衆との接触の手掛りを見出だそうとする努力も無駄となる。
 家門の呪いのモティーフはこのイルジー・ベネシュの運命にまさに示されるはずであった。それにもかかわらず、彼の挫折が神秘的な原因や事情にではなく、きわめて具体的な社会的状況に根差していることは明らかである。そしてヘルベンによって正確にリアリスティックに描き出されている。


 それは農村社会の階級的に矛盾した複雑な状況であった。しかもその状況のはらむ問題はある人物の個人的努力によってどうなるというものではなかった。ヘルベンのイルジー・ベネシュは教養人の啓蒙活動が農村社会に倫理意識をもたらし、その内部的矛盾を解決するという信念をいだいて農村にやってくる。それはもちろん幻想である。それに、ヘルベンもそのことに目をつむるにはあまりにも農村事情の熟知者だった。しかしその一方でヘルベン自身、彼の描くイルジー・ベネシュと同様に決してこの幻想の呪縛から完全に逃れることはできなかった。なぜなら、同時代の社会状況の改革的解決の可能性についての自分の見解を同時に改訂しなくてはならなくなるだろうからである。(その上、彼はこの問題についての見解においてロシアの国民性の影響を相当強く受けている)
 したがってヘルベンは究極のところベネシュの挫折を悲劇として、だが個人のせいではない運命として説明することで解決を見出だそうとする。つまり真の原因はむしろ隠されたままとなったため、この年代記的ロマンのリアリスティックな説得性や思想的な前衛性は結末において弱まっている。この点にかんしては当初から程度の差こそあれ、何人かの進歩的チェコ文芸批評の代表者たち、例えばF.X.シャルダなどが批判的に指摘していた点である。


 ターボルスコへの定期的滞在によって刺激された二巻からなくホスティショフ(I.1907年、II.1933年)は文学とジャーナリズムとの境界線にゆれ動いている。ヘルベンはその書のなかで、一方ではスロヴァーツコを経て彼に最も近いものとなった貧しい山岳地方の生活風景を描いていると同時に、他方、ターボルの伝統の意義、そして南チェコの人々の現在の生活のなかにおけるその影響について思索した。
 一連の回想録的作品のなかにヘルベンは自分の文学軌跡および公の、政治的抵抗の活動についての貴重な、興味ある証言を残している。そのなかの最も重要な作品は『回想の書』(Kniha vzpominek,1935)である。

 十九世紀の終りから二十世紀の初頭にかけて農村文学に貢献した作家たちのなかから、あと二人を少なくとも思い出してみよう。彼らの本は今日でも読者に愛読されている。したがって出版もされている。
 カレル・クロステルマン(Karel Klostermann,1848年から1923年まで)はその短編やロマンのなかでシュマヴァや南チェコに目をむけている。これらの彼の作品のなかでは農村の人々(チェコ人同様ドイツ人も)の苦しい状況が映し出されている。彼らは資本主義とシュマヴァの厳しい自然の苛酷さによって窮状に押し込められている。この自然、いまだ文明によってほとんど手つかずの自然の描写は、クロステルマンの作品の芸術的肯定面である。そのなかで最も個性的なものは短編集『シュマヴァ森林地帯の深奥にて』(V srdci sumavskych hvozdu,1896)、『シュマヴァの山麓から』(Ze sumavskeho podlesi,1908)、『シュマヴァ・ラプソディー』(Posumavske rapsodie,1908)、長編小説『森の孤独の世界から』(Ze sveta lesnich samota,1892)、『シュマヴァの楽園のなかで』(V raji sumavskem,1893)、『ガラス職人』(Sklari,1896 )、『子供たちはどこへ急ぐ』(Kam speji deti,1901 )、および南チェコ農民の環境を題材としたクロニカル・ロマン『ブラタ川の霧』(Mlhy na Blatech,1909)などである。
 インジフ・シモン・バール(Jindrich Simon Baar,1869-1925 )は若い作家世代に属する。彼の作品は芸術的に20年代になって絶頂期を迎えるが、それにもかかわらず世紀の転換期のわが国の農村文学の流れと、全体としては、有機的に結びついている。
 バールはクレンチー・ポト・チェルホヴェム Klenci pod Cerchovem に生れ、死ぬ。そしてチェコのいたるところで司祭を勤める。しかし文学的にはずっとホッツコと結びつい
ている。彼のロマン 例えば、ヤン・ツィンブラ(Jan Cimbura,1908) また諸短編
においてもリアリスティックな手法(タッチ)で農村の環境や民衆像を描いている。資本主義の影響によって仕掛けられた農村の道徳的退廃にたいして彼は古い伝統的生活形式と価値観の再生をもって対決しようとした。十九世紀の40年代のドマジュリツコにおける生活風景は「ホツコ・ロマン三部作」『官吏夫人』(Pani komisarka,1923 )、『四十八歳の人たち』(Osmactyricatnici,1924 )および『入会林』(Lusy,1925 )のなかに提示され、一方ではドマジュリツコのB.ニェムツォヴァーの役割を描き(第一作で)一方ではホッツコ農村の社会的かつ民族的問題を扱っている。








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