第十一章 文学創造の多様化と文学の階級闘争への参加


[十九世紀九〇年代から第一次世界大戦まで]






[目次]

  1. チェコ・モダーン派
  2. 批 評
  3. チェコ90年代文学における主な表現法
  4. ヨゼフ・スヴァトプルク・マハル
  5. オトカル・ブジェジナ
  6. カレル・フラヴァーチェク
  7. 労働者作家
  8. ペトル・ベズルッチ
  9. 20世紀のはじまり
  10. フランティシェク・ゲルネル
  11. アントニーン・ソヴァ
  12. ヴィクトル・ディク
  13. カレル・トマン
  14. アントニーン・マツェク
  15. 1918年までのS.K.ノイマン
  16. その他の詩作品
  17. アロイス・ムルシュティーク
  18. テレーザ・ノヴァコヴァー
  19. 社会小説の試み
  20. K.M.チャペック−ホッド
  21. 自然主義者のその他の作品
  22. フラーニャ・シュラーメクと散文文学における印象主義
  23. ルジェナ・スヴォボドヴァー
  24. 散文作家のその他の作品
  25. ドラマ






 (1)チェコ・モダーン派(Ceska moderna)

 80年代の文学は一面においてルミール派の詩によって支配され、また他方では――散文やドラマでは――リアリズムが浸透していた。この二つの手法は決して分離されない。
80年代にわが国の文化はまた注目すべき成功を収めていた。そのことについては前章で述べた。ヴルフリツキーおよびその一派の膨大な翻訳活動のおかげで世界の文学、とくにイタリア・ルネサンスの文学の大作品が母国語の形でチェコの読者の手まで達したのである。文化生活は一方ではドイツ依存をやめた。この努力のなかで大きな意義をもつのは文化的諸機関である。そしてこれらの機関はわが民族を他の進歩的国民と同一線上に並ばせたのである。1882年にはそれまでの両者並存のプラハ大学をドイツ系とチェコ系とに分離し、ほぼ同じころプラハの国民劇場が建設された。それはチェコを代表する大きな文化組織となったが、とくに(火災の後)1883年11月に改めて開場してからは、わが国の造形芸術を代表する存在となった。数年後にはチェコ科学・芸術アカデミーが設立された(1890年、建築家ヨゼフ・フラーフカ Hlavka の基金によって)。その代表者におされたのが Jar.ヴルフリツキーであった。この同時期に「オットの科学事典」の刊行が始まるが、これはわが国の代表的な科学事典である。これらのすべてはわが国におけるブルジョア文化の頂点を示すものであった。
 この時代のチェコ・ブルジョア国民の相互帰属意識についてもう少し語っておく必要がある。その象徴が、事実上全国民が参加した国民劇場のための募金であり、またその舞台の上に掲げられた標語「国民が国民のために(Narod sobe=ナーロド・ソビエ)」である。しかし90年代には文化生活の様相は著しく変貌した。文学はわが国のブルジョア階級の分化と平行して分化し、その階級内で単一の構造が支配するということがなくなった。
 チェコ市民階級は今や一方では大ブルジョアに、もう一方は小市民階級へと著しく分離した。その際、同時にプロレタリアートが形成され、そのことが階級的に意識された。同様の過程が農村でも起った。村は豪農と自作農、小作農に分解した。これらのすべてによって国民の社会的構成は変ったのである。しかしそれは単にわが国に特有のものではなく、ブルジョアジーの世界的発展と平行したものであり、ブルジョアジーは今やその帝国主義的段階に到達したのだった。わが国においてはその発展は西方の大工業生産国よりは明らかに遅かった。チェコにおける資本の集中はこれまでそれほど大きくはなかったのだ。その上、財政的にも政治的にもより強力なドイツ・ブルジョアジーとの競争がはげしくなったため、社会的矛盾とともに専制体制内におけるより大きな政治的影響力を得ようとするチェコ市民階級の努力によって強まってきた民族性の矛盾までが激化したのである。
 90年代以後の文学発展についてみるとき、わが国の場合、社会内部での教養人の地位というものが重要となる。インテリゲンチャは社会的にどっちつかずの立場を意識していたため、彼らの間で労働者の問題にたいする関心を増大させ(もちろん教養人たちはその
問題を自分たちの絶えずゆれ動く視点から見ていたのだが)、しかも同時に、同時代の価
値観にたいする不信感も強めていった。だが、これらの価値観に対抗しうる、実現可能な、新しい積極的な理想を明確に描き出すことはできなかった。そこで無力感と結付いた不満
感が醸成されることとなった――その面から見れば、それはかつて人生にたいするロマン
チックな姿勢を生みだした状況を彷彿とさせるような雰囲気であった。古い生活様式にたいする反感は、同時に、しばしば「若者」対「老人」という世代抗争の形を取った。文学の上では「若者たち」のヴルフリツキーとそのエピゴーネンにたいする反感という形で現れた。とは言っても、若者たちはもともと理念的共通基盤をもっていなかったから、個人が自分の手で真実を発見しようとする極端な、個人主義的な姿勢を養う土壌となる一方で、また、その反面、すぐに分裂してしまう短期的なグループ形成のための温床ともなったのである。
 もし書物というプリスムのみを通してこの時代の文学を見るならば、われわれはそこに著しい発展とともに形式的な大きな相違に気付くだろう。それゆえ「90年代」は一つの概念となったのである。つまりこの時代は、多くの新しいものが生れ、わが国の文学作品がヨーロッパ的水準に達し、成熟した西欧文学と同等のパートナーとして肩を並べることができるようになった偉大な醗酵のじだいとして性格づけられるのである。しかしながら、社会的発展の視点に立って見るとき、また、文学的原理原則という点から見るとき、それはまさに混沌の時代と言うべき時代であった。
 90年代半ばの雰囲気を最も強く特徴づける文学宣言(マニフェスト)は「チェスカー・モデルナ」Ceska moderna であり、雑誌「展望」Rozhledy 1896年第一号に掲載され(1895年にはすでに構想されていた)、O.ブルジェジナ、J.S.マハル、J.(sic) V.ムルシュティーク、A.ソヴァ、J.K.シュレイハルなどの文学者や、著名な批評家からはF.V.クレイチーとF.X.シャルダの名前が署名者として並んでいる。この短い宣言文(3頁に印刷)は大きな反響と多くの議論を引き起した。なぜなら、それによって若者たちは自分たちを老世代とはっきり区別したからである。端的に言って、彼らは社会主義と、個人の権利を支持したのである。芸術的姿勢については次の引用文にはっきり示されている。


 なによりも個性である。生命がたぎり、生命を創造し続ける個性である。美学が中等学校の教科書のなかにのみ安全の地を見出だし、芸術における目的性を求める闘争がばかげた過去の遺物となり、すべての古いものが瓦礫の集積場にうち捨てられ、新しい世界が始まった今、われわれは芸術家に期待する。自分であれ、あるがままのおまえであれ! と。決してチェコ人であることを強調すまい。自分であれば、それで自分がチェコ人となるだろう。マーネス、スメタナ、ネルダ、彼らは今や卓越して純粋な芸術家である。彼らは自分の人生の半分のすべてをチェコ語を話す外国人のために費やしたのだ。


 芸術作品における個人主義のこの要求とともに社会問題にかんする次の一説も重要である。


 われわれは社会の問題において「まず、なによりも人間であること」を欲する。われわれは労働者たちを国民のなかに加えるか? 彼らが自らを国際的と宣言するときでさえも? 然り、国籍は青年チェコ党の特許でもなければ、老チェコ党の特許でもない。党派は消えようとも、国は残る。今の青年チェコ党の代議士はチェコ・ブルジョアジーと自作農の一部の代表となった。彼らはそのことを公に宣言している。普通選挙にたいする提案は政府を混乱へ導く運動であった。今や彼らは自分の父親ですらがなんとなく投票するのをためらうところの捨て子となった。
 ヨーロッパ中のブルジョアジーが同じである。彼らはフランス革命によって解放されたが、すぐに被抑圧者たちの悲惨な運命のことなど忘れてしまった。そして封建的支配階級と手をにぎり、また富裕農民と手をにぎり、しかも似たような経過を経たあとに救いを求めるまめだらけの手をした白い肌の奴隷たちに敵対する地位に立ったのである。われわれは普通選挙を求める。しかし、それによって彼らの憂うべき状態を変えんがためではない。むしろ彼らの新鮮な力によって現在の議会を愚弄してやりたいからである。われわれはとっくに青年チェコ党を見て議会というものに絶望しているのだ。彼らは(民衆の党だと自慢げにホザイているが)自分の本文を忘れ、雰囲気や状況に順応し、批判もしなければ、仕事を要求しようともしない。


 以上の引用はマニフェストのなかで文学的関心がいかに政治的関心に結びついているかを示しているという意味で特徴的である。したがって署名をした作家の名前からもわかるように、「古いもの」(つまり「現状」)にたいする反発が様々な芸術的色合いの作家たちを結びつけたということである。その反面、この宣言に署名したグループはいちはやく分解してしまったのだが、それというのも、このグループ自体もともと何らかの「派」と呼べるようなものではなかったからだ。しかし、まさにそれゆえにこそこの宣言が得た反響と同様に典型的な現象であったともいえるのだ。90年以後、すでにマーイ派やルミール派がその批判的リアリズムによって代表されるように、そういう統一的な組織について論ずるということはできなくなっていた。われわれが「モデルナ」という名称を用いるかぎり、それは90年代からチェコスロバキア独立国の建国によって、次なる文化発展の新しい条件が作り出された第一次世界大戦の終りまでの多様な傾向、潮流の総称である。
 この分裂状態は政治的状況の反映であることは間違いない。チェコ政治における青年チェコ派はすでに1980年代(1891年の選挙において)の創立の当初から、これまで指導的立場にあった老チェコ派を粉砕した。もちろん彼らは貴族やウィーン政府に協力し、それにより一定の成果を得るには得た(1889年の判決による公の政務処理。1882年チェコ語大学の独立)。そしてブルジョア陣営の崩壊の間接的な引金となったのは、明らかに1890年5月1日に初めてその力を誇示したところの労働者階級が著しく力を増大してきたことであった。その組織の基盤は社会民主党にあった。(チェコ社会民主党は1893年に独立した)
 具体的な政治活動という観点から見れば、その端緒は90年の普通選挙を求める闘争のスローガンのなかにあった。急進的な学生や労働者の若者は当時「青年同盟」spolek Omladina に集中したが、しかし厳しい追及を逃れることはできなかった。1893年、プラハに非常事態が宣言され、青年同盟の一部は投獄された。ブルジョア陣営は労働者層の力の増大を目の当りにして、攻撃の矛先を社会民主党に転じた。その結果として、社会民主党の力を弱めるべき幾つかの党が結成された。「民族労働者」党 narodni delnictvo、次に小さくてもインテリ層にたいする影響力において重要な「大衆=現実主義者」党 lidova=realistu (1900年にマサリク T.G.Masaryk によって結成された。彼は『社会問題』Otazk socialni という論文によって反マルクス主義闘争に干渉してきた)、そして90年代の終わりには「キリスト教=社会」krestansko=socialni 党、「急進国権」radikalne statopravni 党、そして農業党 agrarni である。



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 (2)批 評 Kritika


「青年」と「老人」との分裂は批評主義 kriticismus の波によってもたらされた。このことは80年代にクラーロヴェー・ドヴォルスキー手稿とゼレノホルスキー手稿は偽書であると証明されたところの手稿論争とすでに関連をもっている。マサリクによって設立された雑誌「アテナエウム」(Athenaeum,1883-93 )は批評に提供された。そして文学界におけるこの潮流の代表的な現象となったのはハーレクにかんする論文(1894年、月刊誌「わが時代」に掲載)であった。その論文のなかでJ.S.マハルはハーレク没後20年の記念にさいしてハーレクとネルダを比較して論じ、ネルダを支持した。今や文学批評も文学活動の形成のうえから大きな意義をもっていたから(以前は、わが国においては重要とされなかった)たとえこの文学史入門が純文学を対象としたものであったとしても、簡単に触れないわけにはいかない。

 最も偉大な批評家はF.X.シャルダ、Fr,ヴァーツラフ・クレイチー、インジフ・ヴォダークである。偶然にも彼らは三人とも同年(1867年)の生れであるにもかかわっらず、それぞれ異なったタイプを代表している。
 F.V.クレイチー(Krejci,1941年没)はとくに文学作品をその社会的機能の視点から追跡した。彼は芸術の洗練された識者であるというよりは、むしろ労働者が文化的に高揚するように努める啓蒙家として活動した(彼は社会民主党の指導者でもあった)。 J.ヴォダーク(Vodak,1940年没)はほとんど50年間というものチェコ文学および演劇の新聞批評家として日刊紙上で活躍した。彼は批評的評価の際、美学的視点を強調したが、れはまた作品評価における個人的批評姿勢の強調でもあった。彼を最も著名にしたのは劇評であり彼はこのジャンルにおいて、いわゆる演劇における批評的リアリズムを定着させた。

 この三人のなかでの一番の大物はF.X.シャルダ(Salda)であった。彼は純文学の発展のなかに創作家としてもかかわった(この点では彼に限ったことではなく、クレイチーも文学を試みたが成功しなかった)、そして批評の領域ではエッセイの形式を創造したが、この形式は批評文学と純文学との境界に位置するものであった。80年代からチャルダは世代を代表する批評家として登場したがその影響ははるか世紀末世代を飛び越えて、その影響力は両大戦間世代にも及んだ。この時代には最終的には自分の雑誌「ザーピスニーク」(雑記帳、1928年から没する1937年まで)において常に文学および学活動全体に言及していた。

 F.X.シャルダはリベレッツで郵便局員の息子として生れた。彼は法律の勉強を終えることなく批評家となる。そして、1897年から1908年までの間、オットの百科事典(Ottuv slovnik naucny)の編集部に採用され(この事典のために幾つもの項目を書いている)、成年に達してから哲学博士号を獲得し、1918年からはプラハ大学でロマンス語文学の教授となった。彼は幾つかの雑誌の編集に携わったが、特筆すべきことはコミュニズム関係出版物の弾圧の時代に、ユリウス・フチークに委任された雑誌「創造」(Tvorba,1925-1929)を――彼は自覚ある精神主義者であったが――編集したことである。

 批評は――彼の時代までは単に傍系のものとみなされていたが――シャルダによって文化的創造の独立した一部門としての権利を獲得した。彼のおもな努力は作品体験の個人的証言(したがって批評行為の主観的側面)とその普遍的有効性(したがって批評の客観的学問的側面)との間の均衡を発見することであった。この姿勢はおそらく彼自身が創造的詩人、散文家、劇作家であったことにより刺激されたのであろう。この姿勢によってシャルダは一面では印象主義的恙意と、また多面においては形式主義的な硬直した批評と対決している。彼はとくにフランスの同時代の批評や文学研究を基礎として学んだ。そしてそれらをも翻訳している。

 90年代のシャルダの批評論文は作品集『青年の著作』(Mlade zapisy,1934)に補足としてまとめられている。彼はヴルフリツキーとその一派を批判的に振り返り、同時に世代的批評家として、ソヴァ、ブルジェジナ、およびR.スヴォボドヴァーを支持している。彼の後年の作品のなかでは『明日のための戦い』(Boje o zitrek,1905)、『心と作品』(Duse a dilo,1913、国内および外国の作家の文学的肖像の連作)と両大戦間期文学についての論文『最も若いチェコの詩』(O nejmladsi poesie ceske,1928 )がある。
 シャルダは芸術を社会的機能をもった重要な行為ととらえていた。それゆえに両大戦間期において社会主義的作品に積極的関心を示した。彼は好戦的な論客であったから、自分の意見を守るためには常に全身前霊を傾けた。彼の言語表現はすでに述べたように本質的に芸術的であった。それゆえ彼がチェコの批評言語の創造者と性格づけられてきたことはまったく正しいと言えるのである。彼の文体の短い一例としてマーハにかんするエッセイ(『心と作品』)から少しばかり引用しよう。
<blockquote>
 詩人のなかには、人生を内面的葛藤と緊張の苦渋に満ちた過程として、また認識、  思索、記憶、不安、希望の弁証法的連続として自らの人生を生きる内省的詩人、哲学  的詩人がいるが、マーハもそういった詩人のひとりである。彼らにとって詩人として  の存在の成否、そう、つまり彼らの詩人としての存在の端的な可能性そのもの、それ  さえもが、そのもろもろのものの過程や連続の、たとえかりそめのものではあれ、妥  協のうえに成り立っている。彼らにおいては安定した充足の時にあっても、存在が現  実にあるのとは異なった、現実にある以上に有意義で、重要で、重大なものとしての  その存在の賛否こもごもの反応が絶えず襲いかかり、たえず充足の時を中断する。そ  して身をけずる努力と辛酸のなかで、たとえ一過的で、瞬間的なものであったとして  も、精神の葛藤と緊張とを力強いリズミカルな天蓋に組みあげて調和させるように、  また、そのようにして自分の詩にたいして生存の権利を命と運命にかけて絶えず購い  与えていくように強いる。彼らの詩はこうして命がけの恐怖にあらがうことを余儀な  くされている。それは絶えざる闘争のなかでの瞬間の吐息であり、四方八方から押し  寄せる波に形を変え姿を隠しながら反抗的な笑みを浮べる島、自然力の抗争――ある  いはマーハの言葉で言えば「世界の抗争」――をおおう気紛れな虹である。
 マーハがかつて警句風に「過去と未来は徐々に接近して一体となる――遂には、す  べては無となり、生命の時間も消滅する。現在などというものはなく。ただ『在るだ  ろう』と『在った』と言えるのみ。生命に中断はなし」と言ったとき、詩作品にこれ  ほど運命的な条件をもたらすこの状態をはっきり意識していた。マーハの場合には、  事実、いかなる現在も、いかなる瞬間の完全や美や安息も、七色の虹の水泡のように  すぐに消滅してしまうためにのみ、あるとき、一瞬の間、噴出する――このようにそ
れらは、その端緒からすぐに二重の呪いと、二重の責め苦をおわされている。取りか
えすことのできないよりよい過去の苦い思い出によって――「わが幼児」のときの思
い出によって――そして恐ろしい、逃れることのできない未来によって、また「私の
なかに起る」深く暗い、それは経験的夜よりもさらに一層暗い夜から生じる恐怖によ  って、つまりその「夢の死の意識」から「無」と称されているところのものからの恐  怖によって二重の責め苦をおわされているのである。


 この引用文からわかることは、シャルダが一面においていかに表現の正確さ(したがって、例えば、同義語の重畳)を意図的に用いているばかりではく、他方、メタファーによ
る表現をいかに好んでいるかということである。――シャルダは異常なほどの多読家であ
ったから、好んでチェコの作家と外国の作家とを比較し、それによってチェコ文学を世界的な文脈のなかに組み込んでいるのである。





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 (3)90年代におけるわが国文学の表現手法


 リアリズムの諸傾向が最初に根づいたのは文学の領域においてであった。リアリズムの諸傾向は散文文学の領域においては過去にすでに長い伝統をもっており、詩においてはネルダに結びついていた。散文の領域ではネルダの作品、そして後には例えばSv.チェフの小品のなかに見るようないわゆる人物写生(figurukareni)という形で効果的に用いられた。広範なリアリスティックな作品が80年代までに出現し、この頃にはリアリズムは劇場にも浸透した。詩においてはJ.S.マハルの作品において顕著に示された。彼の最初の詩集『告白』Confiteor がすでに個性的である。この作品は1881−1886年の間に書かれた。マハルはここでルミール派、ルフ派の詩論に対抗して、雄弁術的感情とも装飾的豊かさとも無縁な独自の詩法をうち立てた。彼の文学的かつ社会的現実にたいする姿勢は唯物的で批評性によって満たされている。詩『論争詩』Sloky polemicke は如実にその面のことを物語っている。ここでマハルは当時支配的だった詩論および社会における詩人の役割についての考え方に真向から対決している。この詩の核心部分を引用しよう。
<blockquote>
パルナスの山の幸せな友の影が
魂の夢想のなかに通り過ぎるとき
驚きのあまり、ひざまずこうとでもするように
わたしの膝は畏敬の念にうち震える。

やあ、ここには「占い者」、あそこには「種族の長」が座をしめ
ここには「王」が三人、あそこには「夜鴬」もいる
おまけに彼らのつんとすました頭のまわりに、かぐわしき香りを
香木の青い光がまきちらす。

わたしはあわれなうじむし! すでに心に抱く
憎しみと嫉妬にさいなまれ
貧しき衣に身をやつし
吝嗇なる運命を呪うのみ

わたしは「感傷的なうた」と
わたしの自由奔放な詩の群れをきめつけてはならぬ
多くの悲痛と辛苦とによって
思想に、わたしの簡素な衣装を着せよう

わたしは地上の泥のうえに「飛び上がり」
「星ぼしの」ある「果て」まで行きはしない
わたしには一つのこと、それ以上のことは確かではない
わたしは無にひとしく、塵埃の息子にすぎないと

わたしは「あたたかく語りかける自然の越えに」
耳を傾けることに馴れていない
わたしにとって自然とは、どんな悲痛な叫びをも
そのまま返す、無感動なこだまにすぎぬ

それに、わたしは「理想」などというものをまったく知らない
だから理想を求める「戦いのおたけび」につい引き込まれてしまいそうだが
わたしは岩のような冷静な心をもち
心のなかに、憎しみと怒りを……

わたしは「不滅の運命」を信じない
「神聖な情熱」というものも知らない
わたしの詩はただこの怒りからだけ生れ
この胆汁からだけわき出してくる


 上に掲げた詩のなかでマハルは文学界を支配していた伝統的構造をパロディー化し、ルミール派やルフ派の詩論に冷笑を浴びせている。彼本来の表現は同時に格言を思わせるほど即物的で不愛想である。彼の韻文体(ヴェルシュ)は硬く響き、音楽性を欠き、また抑揚は彫りが深い。韻律的観点から見るとマハルは強拍節と弱拍節の正確な交替を維持している。その結果として彼の詩は機械的になっている。しかし、それは意図的でありマハルはリズムを中性化しようと努めている(もし、リズムが完全に規則的であるなら、例えば、目覚時計のチクタク音のようにわれわれはそれを知覚するのを止めるだろう)。そして
それによって語りの即物的内容を強調しているのである。彼は自分の世界像をの本質を引用した詩の結びの一節で表現している。それは何をおいても真実であろうという努力である。


この上に何を望むべきか? 作品がかかるものであるときに
その実りは作品次第なのだ。
そして、わたしが真実であると書いたところのものが
わたしの苦い慰安となるだろう。


 真実を求める努力は本来わが国のモデルナ全体に共通した要求だったのである。(たとえ、この後、さらに見るように、真実を恐れるがゆえにそのまえから逃れる作家があったとしても)様々な作家たちは、様々な真実を想像していたのである。マハルの世界描写は客観的世界を認識し、それをその基本的な形姿において記述しようという努力に条件づけられていた。彼の現実へのアプローチはしたがって本質において記述的である。しかしながら詩人たちのなかには記述的、批判的リアリズムは彼らにとって表層にしゅうちゃくすることのようにおもえたため、これに満足しないものがあった。このような詩人たちは生活の真実の把握の努力を幾つかの方向に向けた。

 彼らはまず最初に表象世界の描写そのものを批判の対象とした。そしてマハルとは別様の世界描写を試みた。それは印象派的世界描写の試みのなかに現れた。作家たちは不断の運動を意識しはじめ、それと生命現象と自然の変化性と関連している。それゆえ、現実の基本的な、不変の性格を描写しようとする努力をやめた。つまり彼らにはそれはあまりにも普遍的で、抽象的で、つまり本当は真実ではないものに思えたからであり、その結果、「移ろう瞬間」およびその気分をとらえようと努力したのである。この点では彼らは印象派の画家から学んでいる。彼らは時間の流れのなかから唯一の瞬間を切り取り、それをできるだけ直接的にとらえようと努めている。いわば詩人は現実の瞬間をとらえる「反響板」でなければならぬというのである。そのことは当然表現手段の繊細化を要求する。純粋な印象主義者は印象のみをとらえようとする。つまりあらゆる観念的視点を排除しようと努める。もともと詩人はある瞬間に外界が自己の内面にいかに反映するかを描くのである。したがって印象主義者は外界を否定せず、その可変性を見て、その可変性をとらえようとするのである。それゆえ、印象主義の詩には流動的モティーヴが多いのである(印象主義はとくに詩において発展した)。

 印象主義的自然描写の一例としてA.ソヴァの詩『禁猟区の真昼』Poledne u obory(親密な気分の花ばな」Kvety intimnich nalad,1885-1891 )の一部を掲げよう。


低く枝をたれたかばのきのもと、せせらぎのそばのまどろみのうちに
横わり、太陽の光の矢が木の葉をとうして草のなかに消えるのを見る。
頭上の羽虫のうなりは高く、低く、弱々しくなり、静まる。
岩雀は空を舞い、草は野の湿地のなかでため息をつく。
光は強く、すべては光に照らし出され、曲りくねった野原の小道の
足あとまでが、金色に輝く太陽に暖められている。
禁猟区のなかでノロジカの影がゆれた。ぶなの繁みのなかに
         何かを聞きとろうとして立ちどまる。
斧をうつ音が、静かなエコーとなって森の奥から風のようにただよってくる。
その瞬間、その音はまた、嘆き、語り、泣き……
真昼の太陽は子守歌のように、わたしのこめかみに息をはきかける。
もの静かな、涼しやかな草ぐさは身を寄せあって、みじろぎをし
波打ち、小さく震える。まるで夢のなかの娘の乳房のように……


この表現手法はこれまで「やすっぽい官能」の詩化と同類のものとみなされていた。上に掲げた詩のなかに、私たちは視角、聴覚、さらに触角(太陽がわたしのこめかみに息をはきかける=Slunce skran mi ovivalo )をも見出だす。同じく特徴的なことは、マハル
が好んで用いたのとは違った表現形式を用いているということであるイントネーションのあいまいな長い詩行の使用。詩行が細かく区切られていないから、詩は快く響く。内容的側面から特徴的なことは自分の体験に目を注いでいるということである。感覚的な知覚は確かに具体的ではあるがそれにもかかわらず、そこでもかなりあいまいである。例えば、場所は正確には設定されていない 全面に気分がある。根源的状況ではない。同時にその気分そのものがむしろ思わせぶりで、理性的に説明されていないばかりか、定義もされていない。

 印象主義的手法(メソード)はさらに後の時代まで生きのびる。しかしながらそれは主に90年代の典型的傾向、象徴主義への過渡的段階であった。時間的な距離をおいて見ると、同じ問題を解決する二つの対立的方向、象徴主義と自然主義が形成されたということがわかる。象徴主義者たちは「内面」生活に集中する。つまり変化することのより少ない現実に集中することにより印象主義が現実を暴露したのよりは一層深く現実に切り込もうとしたのである。それに反して自然主義者たちは人間をその行動に決定づけている環境のことごとくを詳細に描き出すことによって現実の正真の描写にたっすることができると信じていた唯物論者であった。象徴主義者は人間を独自の特殊な内面世界として生きる小宇宙として理解していたが、自然主義者は単に環境の産物としてしか見ていなかった。それはダーウィニズムと決定論のなかに哲学的基盤を有するものであった。自然主義者たちは同時代の科学に魅惑され、芸術作品を自然科学(自然主義=自然科学性)の手法によって創造しようと努めたそして表現の「科学性」を環境の正確な描写と外的現実の詳細な記述のなかに求めた。現実をその運動のなかにとらえようとする努力と瞬間的な状態を強調するという点において自然主義者は印象主義に接近している。彼らの描写手法は同時代の技術的発明にも刺激されている。かれらは瞬間的写真と蓄音機に触発されて「写真的」かつ「蓄音機的」記録に努めた。しかしながら彼らの弱点は、個性が彼らから脱落したという点にあり、したがって彼らの努力は批判的リアリズムの背後に一歩後退した。

 印象主義の名称の由来は内面状態の表現に象徴が用いられていることにある。主題それ自体は新しくはないが、主題にたいする姿勢、描写されたた現実にたいする作者の関係の強調が新しかった。この関係が本質的には自然それ自体よりも重要であった。自然はしばしば直接「括弧」のなかに入れられ、強調される詩人の関心がいっそう際立つためには、自然は沈黙させられた。その典型的な例がO.ブルジェジナの詩『おまえは来なかった』(『西方の夜明けまえ』Svitani na zapade,1896)である。その詩から最初の二節を引用する。


あまりにも明け方早く、ランプに火をともし、花瓶に花を切ってさす
そしてわたしの広間の、炎のなかに血の色ではためく香りをかぐ
絨緞を敷き、ワインを注ぐ、そのなかに過ぎし日の太陽が輝く
何年もまえ、わたしの貧しい葡萄園で眠っていた太陽が。

おまえは来なかった。時間が遠くから笑いかけ、
                わたしの春は時間のなかでジャスミンを花咲せた
そしてユリで飾られた未知のおまえの肖像に息をはきかけた。
時は色あせ、わたしのバラはしぼみ、わたしのワインは苦く
                       わたしの光は赤く光った
そしておまえを迎えにやった夢は、足どりも重く、無言で戻ってきた。


 主題はタイトルに示されているが、はっきりとはわからない。誰が来なかったのか。それはある女性なのか? それはインスピレーションか? それともすべてを解放する死か? 詩人はわれわれに答を与えてはいない。詩と関係するところの対象が、彼の語りのなかで重要なものではなく、むしろ重要なのは精神の状態である。それゆえ象徴的詩はまた多義的でもある。――専門的に言えば、明示(デノタート)は沈黙し、暗示(コンノタツエ)が全面に押しだされる。この表現手法が――印象主義同様に――伝統的手段では満足せず、独自に新しい手段、とくに自由詩と大胆なメタファーを創出したのは容易に理解うる。

 象徴主義は気分を喚起するのに非常に大きな力を発揮する詩においてとくに有効であったが、自然主義はロマンの領域で有効であった。なぜなら主題を発展させるには比較的大きな空間を必要とするからである。自然主義の題材にとって特徴的なのは非日常的な、とくに社会の末端の環境や人物たちへの偏愛である。描写の対象としては古い文学ではタブーであった事柄、例えばエロチックな場面や人の死際の場面等々を好んで選んだ。構成的特徴としては強烈な効果の使用である。作者の態度は――「科学的」手法を用いるからには――完全に客観的かつ冷静で有るはずであるが、しかしながらチェコの自然主義は描き出された現実またそれについて述べられた評価にたいして、作者の主観的関係を抑制詩なかった。自然主義が最も力強い作品を作り出したのは古い社会とその制度の崩壊、またこの社会秩序とともに成長し、またそれによって運命づけられている人々の没落を描いたところにであった。しかしわが国における自然主義はその最良の作品を二十世紀になるまで生み出すことができなかった。したがって、それらの作品はしばしば現実の一定の特徴を時宜に即して発見し、それに警告を与えうる診断としてよりはむしろ補足証言としての評価を得ているのである。

 象徴主義の枠内において特殊なグループとしてデカダンスが区別される。フランスにおいては象徴主義全体にたいしてそのように呼ばれていた。なぜなら象徴主義の作品のなかには古い古典的形式の没落が見られるからである。象徴主義が詩人の一派として初めて出現したフランスにおいては古い文学の諸形式をこれみよがしに否定し、このこととの関連においてとくに新しい感覚の典型的な表現手段として自由詩を創出した。(この呼称 volny vers=vers libre にしたがって、彼らは一時「自由詩人たち」verslibriste と呼ばれていた) 後のデカダンスという呼称は伝統的評価を「別様に評価」していた一部の作者たちに狭めて用いられた。

 そこにはもちろん多様な段階があった。最も徹底した意思表示は、芸術は人生を模倣すべきであるというテーゼを裏返しにしたもので、人生は逆に芸術の模倣であるべきだというものであった。しかしそれは日常生活の美化を意味するのではなく、極端な形では(そしてわれわれにはその点が問題なのであるが)そのことによって、自然よりも人工的な、反自然的現象(例えば、倒錯)を高く評価する考え方が示されているのである。それよりもさらに極端な形ではデカダン派の連中は自然主義者たちと似た主題を好んで取り上げた(腐敗、死、病気)。しかし彼らはそれを「内面から」追求したのである。当時の定義によれば「裸の魂」の画像を提示しようと努めたのである。

 この姿勢の心理学的根拠はほぼ理解される。つまりある種の事柄にたいして自分を守れない人間は自分の恐怖を否定的事柄を美化する願望に転化する。それは悪神に犠牲を捧げることに類比さるべき態度だと言える。それは弱さのそして社会的救いのなさの表明であった。しかしそのなかには人間が自由に、尊厳をもって生きることを許さない社会にたいする、ある一定の抵抗の薬味も含まれていたのである。

 デカダン派の好んで用いたテーマは人生やすべての努力の空しさである。同時に、とっくの昔にすたれてしまった、そして反時代的な姿勢にたいする愛着がある。その結果、彼らは没落し去ろうとする貴族や貧困化した富裕市民の末裔の仮面にかくれることを好み、崩壊しつつある前時代の文化のなかに没入しようとしたのである。

 デカダンなモティーヴや気分は文学発展の各時代に見出だしうるものであり、90年代においてもまた、おそらくすべての作家がこのモティーヴや気分とかかわっている。しかし典型的なデカダンはそれらを自己の作品の中心の主題としているのである。チェコ・デカダンの最も純粋な代表者となったのは早世したカレル・ハヴリーチェク(Karel Hlavacek) である。その作品としては詩集『朝にちかい夜』Pozde k ranu と『復讐の歌』Mstiva kantilena がある。例として、彼の『復讐の歌』から一つの詩を引用しよう。


またも眠い一日だった――川の流れにそって、だれかが行った――
悲しげなそら、低い空、暖かみのない空の下を――
それは眠い一日だった――遠くでだれかがもの憂げに歌っていた。
すべては無駄だ。なにも大きくならない。なにも燃えあがらない。

そして夜はひどく冷えこんだ、凍えそうな気分
いたるところ、だれもがおびえて床にもぐり、明りを消した。
荒れ地を思っても無駄であり、何年もまえに蒔いた種が
今年も芽をださないと、ふいに思い出す。

夜は無言であった――川にそってまだだれかが歩いている
それは雲のなかの月、悲しい雲のなかの、暖かみのない月だった
向こうの岸でだれかがもの憂げな歌をうたっていた
すべては無駄と――なにも生れないと――なにも燃えあがらないと


 この詩のなかでは異常な暗示的な形で完全な生命の空しさの気持ちが表現されている。詩は象徴的に理解される。悲しい夜の象徴はそれ自体に意味を漏っていないが、詩人の悲しみの表現としてある。同時に――象徴主義にとって特徴的であるように――詩人がなにゆえに人生を、そして人生をよりよくする可能性を信じないのかという理由については口を閉ざしている。分析的理由にはまるで黙しているようだ。詩が暗示する倦怠感は詩の単調さ(同じ言葉の何回かのくり返しを見よ)によって強調されていて、詩はまるで夜の霧のなかにもぐりこんだようである。

 90年代の傾向を考えるとき、一つの点をしばしば忘れている。それはまさにこの時代に今一つの文学活動の流れが現れたということである。それは当初においてはたしかにまだ弱く、芸術的にも目立ったものではなかったが、しかし後には決定的な役割を演じ、主要な流れとなったものである。それは労働詩である。労働者はテーマとしてはすでに以前からわが国の文学に現れていたが、この時代にはすでに公にはっきりと労働者作家が市民権を得たのである。この点において、とりわけSv.チェフの『奴隷の歌』Pisen otrokaにはっきり負っている。

 もちろん、労働詩を労働者によって直に作られた詩と機械的に一括するのは正しくないだろう。もともと90年代のすべての代表的作家たちは労働の主題を取り扱ってきたのであり、わが国の社会詩はまさに世紀の変り目においてペットル・ベズルッチ(Petr Bezruc )の幾つかの詩のなかで大きな総合へと成長する。彼は――彼の以前には誰にもなかったことだが――彼の匿名の時代において、実は、オストラヴァの坑夫詩人と思われていたほど労働者の主人公と同化することに成功したのである。

 私たちが定義した90年代のおもな傾向の性格はもちろんほんのヒントに過ぎない。同じ作家がしばしば幾つかのカテゴリーに配列される(それゆえに初めから「傾向」smery という定義を避け、より注意ぶかく「描写手法」言ってきたのである)。例えばデカダン派は印象派の描写の方法を用い、自然主義ロマンのなかには印象主義てき文章があり、デカダン派は典型的な自然主義的テーマを用いる(しかも一時は自然主義的ロマンをも書いた)等々である。作家たちはまた様々に発展した。
 一般に言えることは、90年代はわが国の文学においては個性の時代であった。その個性は様々な方法で現れた。それゆえ90年代は最も包括的に言えば「モデルナ」という名称によって総括される。しかしながら、その一方では個々の作者について――もちろん、エピゴーネンは論外として――その特殊な発展が追跡されねばならない。その最も純粋な典型は、もちろん90年代という短い期間にのみに出版された作者たちである。その理由は、一つには彼らがあまりにも早く沈黙したからであり(ブルジェジナ、本質的にはベズルッチも)、また一つにはあまりにも早く世を去ったから(フラヴァーチェク)である。

 これらの作家にはさらに解説を加えよう。これらの文学的天才は同時代のリアリズムと結びつけて理解されねばならない。その観点から、まずマハルについての解説から始める。それから、それ以後の作家については次の十年間にどこまで深く影響を与えたかにしたがって順にのべることにする


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 (4) ヨゼフ・スヴァトプルク・マハル Josefu Svatopluk Machar

 J.S.マハルは1864年にコリーンで生れた。父親は水車小屋の親方であった。マハルは幼時をブランディース・ナド・ラベムですごし、その後、プラハでギムナジウムをおえた(六年生のときに公教要理の教授との間のいざこざで学校を変わらなければならなかった)、そして兵役をおえた後に、1891年、役人としてウィーンに出る。そこで1918年まで過ごしたが常にチェコ人との間に密接な文学的接触を保っていた。戦争中、投獄された。戦争後、チェコ国軍の総監(generalni inspektor )になったが、1924年その役職を放棄し、公的な大統領側のせいじと相反する側に立ち、極右に接近しはじめた。彼の問題の多い態度のせいでかって主導的であった流れから除外され、そして芸術的には完全に不毛となった。そして1942年に死んだ。

 作家としてのマハルは20歳のころまでは大きな影響力をもっていた。彼のキャリアの初期には文学および社会生活の緊急な問題に取り組む勇気をもっていた。文学生活においては、すでに挙げたかれのハーレクに関する論文はおおきな反響を得ていた。その論文はもともとリアリズム芸術の宣言であった。したがってチェコ・モデルナのマニフェストへの参加であった。ウィーンでは当地の社会民主主義的傾向の新聞「ウィーン新聞」Videnske listy に寄稿していた。

 彼の活動の最初の20年間は二つの時代、主観主義と客観主義の時代に分けられ、その分岐点となるのは1892年である。当時の社会にたいする、また空疎な愛国主義化にたいする彼の批判的姿勢をすでに1887−1892年の間の初期の三つの作品のなかで詩によって表明している。そのなかの最初のものは『告白』Confiteor の題名のもとに詩集として後に出版された。四季の名にちなんで名づけられたソネットの四つの連作(1891-1893;『四冊のソネットの本』Ctyri knihy sonetu として1903年に出版)もまた同じ精神でつらぬかれている。彼の様式、つまり感情を避け、意図的に散文化された様式は先に掲げた例によっても明らかである。

 上に挙げた初期の作品は概して個人的抒情詩を代表している。客観化への発展は二つの分野において、一つは叙事詩において、いま一つは政治抒情詩において現れている。一般に90年代の叙事詩は時代社会のなかにおける女性の運命について触れた作品に代表される。ここに属するのは九編の韻文小説チクルス『ここにバラの花が咲くはずだった』(Zde by mely kvest ruze,1894)と詩によるロマン『マグダレーナ』(Magdalena,1894)である。チェクルスの中心人物は娼婦であり、彼女は通常の生活へ戻ることを希望するが無駄である。しかし作品は小さな町における生活についての風刺としての姿勢をたもっている。政治抒情詩においてマハルは新しい型を創造した。鋭い批判と懐疑によって貫かれた詩である。それは詩集『トリスティウム・ヴィンドボナ』(Tristium Vindobona,1893 )において実現されている。このほかに彼は90年代に青年チェコ党に反対するパンフレット『神の戦士たち』(Bozi bojovnici,1897 )も書いている。文学的風刺は『サティリコン』(Satiricon,1904)のなかに横溢している。

 マハルの政治抒情詩は中心主題として「幻想」と「歴史主義」にたいする戦いを置いている。マハルは民族の権利を黄色くなった羊皮紙から引き出すことは笑止の沙汰に思えたのだ。


おそらく、苦渋にみちた決意に唇を噛み
おそらく、重い胸を秘めてしずかに別れを告げる
わたしたちの、多くの夢をはぐくんだ童話にくらべれば
おそらく、わたしたちの人生は、少しにがいかもしれない
それでも、わたしたちは生きようではないか!


 彼はとくに現実の状況を認識し、その状況に立ち向かうことを望んだ。それゆえ、私たちはいかなる者かという問題にも取り組んだ。そして私たち「民族の性質」(narodni povaha)についても熟考した(『干あがった嘆き』Suchy zalm)。しかし主に彼が意識したのは、歴史の力はどこにあるか、そしてその担い手は誰かということであった。労働者の行進を描いた詩『五月一日』Prvniho kvetna の何行かはそのどれもがそのことを雄弁に物語っている。


全員がしっかりとした、規則ただしい足どりで進んでいく
そして、ほんの一瞬だけ、かげりのある目で
並木のほうを見やる。しかし憎しみも怒りもない
瞳の内の暗い雲は、すでに年ふりたもの
そして、受け継がれたもの――彼らは金の飾り
召し使い、紋章、薄布の衣装を
まるで無価値な馬鹿げたものを見るように見る。彼らは自信をもって信じる
そのようなものの上に、もう朝の曙光がさしはじめ
太陽が昇るだろう、そしてその太陽は彼らのものだと。
それはここで変化の急流のなかにのみ込まれ
そのすべては消えていく。


 マハルの次の発展にとって詩集『ゴルゴタの丘』(Golgata,1901)は重要な意義をもっている。この題名は詩『ゴルゴタの丘の上で』(Na Golgate)によっている。ここではキリストの名のもとにいかなる罪がおかされたかというこてについて思索している。さらにこの詩集は私的な抒情詩、時事評論(政治的に意図した)そして、とくにマハルが歴史に取り組んだ詩の幾つかがある。政治詩においては改めて「五月一日」について思いを馳せ、働くものの力を意識している。


そうさ、もう世の中は変わっている。淡水魚のような
詩人っちは、もうおまえを賛美しない。
おまえに発した恐怖は、暗い広間に閉じこもった
保守派の連中に襲いかかる

そして財産なんてものに縁のない民衆の一隊が
おまえの赤い旗のもとに

その歩みで地を揺るがせながら
太陽へ、健康へ、力へ向かって行進する


 彼のかつての懐疑主義は労働者階級との接近によって克服されたかにみえる。そして未来を楽天的に見ている。こうして1848年3月に倒れた労働者たちの記念に寄せた詩のなかで書いている。


友人たちよ、つまり、未来は幸福であれだ
よく目を澄まして未来を見てくれ
君たちのまいた種は真赤な花を咲せ
年ごとに一層多くの花をつけるだろう!

 だが、死後の幸せを説く宗教にたいしては、辛辣な風刺をもって追及している。『クリスマスのメロディー』という詩のなかで、例えば、神に語りかけるその一節は次のようになっている。


われらの天は青ざめ、信仰は失せてしまった
もし、あんたが死後のその素晴らしいというものを
ほんの何パーセントかでも、今すぐにでもくれるというのなら
そりょあ、そっちのほうがなんぼかましかしれやしない!


 『ゴルゴタ』のなかの歴史的かつ反教会主義的な詩(1893−1896年の若い詩集がすでに幾編かの歴史的詩をもち込んでいた)は二十世紀におけるマハルの発展を先取りしている。これらの歴史的詩は、詩集『ギリシャの太陽の輝きのなかで』(V zari helenskeho slunce)と『ユダヤの毒』(Jed z Judey 、両作品とも1906年の作)に基礎を置く大規模なチクルス『何世代もの良心によって』Svedomim veku の前奏曲となっている。マハルはここでその絶頂期をローマ帝政時代にみる太陽の輝く古代と、古代文化を崩壊させたキリスト教を対立概念として提示する。続く詩集では、彼が螺旋状の発展と見る人類の全人類の発展を簡潔に描き出そうとし努力している。これらの詩集とは『野蛮人たち』(Barbari,1911、中世)、『異教の火』(Pohanske plameny,1911 、イタリア・ルネサンス)、『伝導者たち』(Apostolve,1911、宗教改革と反宗教改革)、『彼ら』(Oni,1921、フランス革命)、『彼』(On,1921 、ナポレオン。後に最後の二作品は『一世紀の年月』Roky za stoleti という名のもとに一つにまとめられた)、『歴史の小さな歩み』Krucky dejin,1926 、十九世紀)および『いずこへ行くのか』(Kam to speje,1926 、世界大戦以後)である。

 このチクルスを読んでわかることはだんだんと教訓の喚起に重点を置くようになってきたこと、マハルの霊感の泉が涸渇しているかということである。創造力の減退は他のところにも見られる。例えば、『ここにバラの花が咲くはずだった』の対称的作品となる韻文の短編小説集『人生に裏切られて』(Zivotem zrazeni,1915)や『映画』(Filmy,1934)、また作品集『トリスティウム・ヴィンドボナ』と対称的なのは『トリスティウム・プラガ』(Tristium Praga,1926)である。内面抒情詩の詩集としてはマハルの作品全体のなかでももっともすぐれたもののひとつである『クリムヘの旅』(Vylet na Krym,1900)、『瞬間』(Vteriny,1905)、『しずく』(Krupeje,ie,1915)、『十字路で』(Na krizovatkach,1927)がある。
 散文家としてのマハルは「フェェトン」fejeton にひいでていた(そこでは彼の観察眼や痛烈な風刺が効果を現わした)。もともと彼はリアリスティックな「時間」誌に寄稿していた。最もいいものは回想的性格をもった本である(Konfese iterata,1901; Nemocnice,1914;kriminal,1918、その他)。

 今世紀最初の十年間にはマハルはまた反教会的活動を活発に展開させた。この分野では、単に著作にかぎらず、多くの講演もおこなった。著作による意思表示のなかでは『古代とキリスト教』(Antika a krestanstvi,1919)と『カトリック小説集』(Kato1icke Povidky,1911)などの本が最もよく知られている。

 マハルはしばしば出版界の進歩的部分の思想に対応するようなことを表明した。しかし、詩の一派を形成するまでにはいたらなかった。彼はあまりにも独創的で、あまりにも口が悪く、あまりにも自信家だったのである。彼の創造力は90年代に頂点にたっした。その時代における彼の力は、容赦のない、大胆な批判性に基づいていた。彼はその批判精神に彼の形式も適応させた。ルミール派的、ルフ派的装飾性にたいし、無味乾燥と思われるほどの簡潔さ、非装飾性でもって常に一切の回りくどさを排して、短刀直入に間題の核心にせまった。彼は神話の破壊に手を貸したが、同時に個人主義的立場を取った。かれは自力で認識し、かくして指向的にも綱領的にも流れに抗する「強烈な個性」となったのである。彼は幻滅のテーマを暗示的に表現することもできれぱ、真実、辛辣な風刺によって寸鉄人を刺すこともできたのである、

 今世紀にはいると、マハルの生命力(エラン)は反宗教、反教会の戦いに移行した。それによってハプスプルク王家の主要な支持者の一つとの闘争にはいったのである。しかし両大戦間期にはマハルの詩人的、人間的力は徐々に下降し、深刻な状況におちいる。この頃、彼は新しい次元で以前の主題に戻ろうとしたが、すでに本質的に言うぺき内容を失っていたのである(『トリスティウム・プラガ』と『映画』)。それは新しい国家における状況による失望から生ずる彼の苦悩を助長することとなった。



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 (5) オトカル・ブルジェジナ Otar Brezina


 マハルがリアリスト詩人の最も純粋なタイプであったのと同様に、ブルジェジナは詩的象徴主義を最も際立った形で具現していた。彼の文学活動は比較的短い期間に集約される。彼は大事なことをすべて言葉にしてしまうと、沈黙した。彼はもはや語るべきことはないとはっきり感じた。だから彼の最後の詩の本もエッセイの本も断片のままのこった。

 ブルジェジナはマハルに比べると読者ははるかに少ない。だが常に極端なまでに詩人そのものであった。今日、彼はきわめて難解な作家とされている。彼については、私たちは解読に苦労するメタファーの鎖の輪を一つずつたどって語りの核心へ迫らなければならない。しかし、それは現代の読者にたいしてのみ言えることであって、彼が語りかけた文学的教養をもった同時代者たちには、彼のシンボルを解読することは私たちにとってよりは容易だったのである。ブルジェジナは印象主義的描写法から豊富に吸収したが、彼の詩は単に気分を補足することに限定されなかった。それらの詩はその最高の作品において全人類の問題を解決しようとする高度に思想的な詩の創造を目指している。そのために彼は自由韻詩や豊かな詩的語彙を開発し、しばしば外来語をもちい、その語に韻を踏むことによってそれらの外来語は強調された。

「どん欲な感覚」の詩の例としてブルジェジナの最初の詩集『秘密の距離』(Tajemne dalky )の一節を引用しよう。それは『訪問』(Navsteva)からのものである。


私は言った。妹よ、おまえは消えてしまった太陽の光を瞳のなかに宿している。
立ち止まり、その冷たい手を私に(それを暖めたいから)かしてこらん。
それは夜だった。そして名残おしげに去っていった何かが、
                      くらがりのなかに匂った
そして、鐘のなかで金属が打ちあう音のように泣いた。


 ここでは視覚、聴覚、嗅覚、触角が象徴されている。自由詩の例として、同じ詩集のなかに入っている『悲しみ』(Litost)という詩の一部を引用しよう。


五月の祭りの日に囚人の悲しみを心にいだく
婚礼の日に礼拝堂の入口に立つ恋女の悲しみ
怒りの距離の旗を掲げた商船を迎える大砲の轟のなかで解雇されたものの悲しみ
曙光の青く明けそめた朝の夢に疲れはてた者の悲しみ
出発まえの空しい待機に疲れた表情の悲しみ
くちづけによっても赤らむことのない血の気の失せた顔の悲しみ
クリスマスの歌の素朴な抱擁に心打たれた外国人の悲しみ
死せる楽士のベッドの上にかけられた楽器の悲しみ
だれも摘まぬ、だれも祭壇のうえの花瓶にいけにえとして
                      捧げもしなかった花の悲しみ
置き忘れられた、そしてそれを恋人たちの寝室にだれも置くこともなかった
                    ランプのなかで燃尽きた光の悲しみ


 だが、ブルジェジナが常日頃自分の詩に深い思想の弾丸を装填しようといとしていた点は強調しておく必要がある。ブルジェジナがしばしばカトリックの祭式から借用した情景を用いたため(先に掲げた例「祭壇の花瓶にいけにえとして捧げもしなかった」を比較せよ)いわゆるカトリック・モデルナまたは同時代の詩形式の発展と歩調を合せようと努めていた90年代のカトリック詩人たちはブルジェジナを自分たちの陣営に取り込もうとした。しかし、ブルジェジナは現実には明らかに観念論者(イデアリスト)ではあったが、教義(ドグマ)に依存しない独自の認識を得ようとする努力をあきらめなかった。
 ブルジェジナの幻想性の基盤は宗教的ではないということを当時の批評はすでに見破っていた。カラーセク・ゼ・フヴォヴィッツ Karasek ze Lvovic は、例えば次のように書いている。「ブルジェジナの神秘主義は宗教的ではない。それは中世の宗教詩の概念による神秘主義というよりは、むしろもともと観念論である。神という言葉は「最高のもの」「永遠のもの」という表現に書き替えられるし、そればかりか「神秘」や「終わりなきもの」その他の何にでも書き替えられるかもしれない。このようにブルジェジナの神の概念は個性と離れてはあいまいである。神はあらゆる積極的(ポジティーヴ)宗教性を越えて存在し、彼にあっては超自然的、宇宙的世界に投影された倫理に一致する」

 ブルジェジナの人生は彼の詩と一見矛盾しているように見える。彼は外的な事件によって貧しく、田舎の片隅ですごした。ブルジェジナの「大きな」人生的冒険は純粋に知的であり、かきたてるような空想と同時代社会のカオスの展望を徹底的に思索したいという願望に根ざしていた。1868年、ポチャートキ(Pocatky )で貧しい職人の家に生れた。父は靴職人だった。詩人の実の名はヴァーツラフ・イェバヴィーと言った。テルチュ(Telc)で実業学校を卒業し、その後、南西モラヴィアで当時の小学校(オベツナー)後に高等小学校(ムニェシュチャンスカー)の教師になった。彼の人生にとって1890年の両親の死亡は大きなショックだった。彼は孤独に生きた。彼の創作の時期はおもにノヴァー・ルジーシュに滞在していた時期(1888−1901)に一致する。そこで私的勉強のために当地の修道院の豊かな図書室を利用した。1901年から死ぬまでヤロムニェルジツェに住み、1929年に死んだ。

 ブルジェジナの処女作はV.J.ダンショフスキー(Dansovsky )の筆名で雑誌に掲載されたが、それらの作品はリアリズムと印象主義の影響を示していた。おもに詩を書いたが、小説も書き、心理的ロマンを試みた(その手稿は自分で破棄した)。1892年は彼の創作の大転換を意味する。この年から彼はブルジェジナの筆名をもちいはじめ、象徴主義へ傾倒した。その頃から「ヴェスナ」Vesna や「ニヴァ」Niva などの雑誌に掲載されはじめ、その後「展望」Rozhledy、「モダーン・レビュー」Moderni revue などにも載るようになった。1895年から単行本の出版も始まる。

 ブルジェジナはおよそ五冊の詩集を出版し、そのなかでいち早く個人的危機を克服し、人生の意義、全人類の運命にかんする問題を提起した。当時の象徴主義の詩のなかでの独自のブルジェジナの位置はこの反省的な領域に由来している。ブルジェジナの最初の詩集はすでに述べた『秘密の距離』(Tajemna dalky,1895)である。詩人はここで自分の個人的関係を分析している(「わたしの母」「記念の日」)。このなかに官能的失望も属しており、詩人は幻想性の名のもとに肉体的生活を放棄している。この詩集は詩人の人生との訣別として性格づけられてきた。次に『西方の曙光』(Svitani na zapade,1896)が続く。ここでは物質世界にたいして神秘主義が完全な勝利をおさめている。詩人にとって認識の源泉は苦痛であり、認識への門は死である。死は地上的存在よりも高い新しい存在の形式への道を開いている。詩集『北極からの風』(Vetry od polu,1897)ではブルジェジナの神秘主義は頂点にたっする。しかしながら、それは中世的、宗教的性格の幻想性(vizionarstvi)ではなく、ブルジェジナの神秘主義は近代自然科学から生れ、進化論に裏打ちされている。詩人が信じるのは、人類の発展は一定の合理性(smysl )をもっており、精神的統一を指向しているというのである。

 ブルジェジナはこの目的を秘密の神秘的意思として象徴している。続く詩集は『寺院の建者たち』(Stavitele chramu,1899 )はある種の危機によって記されている。物質的、感覚的現実性(realita )が詩人のなかに懐疑を呼びおこしている。ブルジェジナは精神的価値の創造者は個人によって選ばれると確信した。この個人主義は彼の最後の詩集『手』(Ruce,1901 )によって克服された。そのことはこの詩集の表題がすでに象徴しているように、秘密の意思を現実化する人間の統一である。ここではまた働く人間を賛美している。


そして、私たちの手。それは無数の手の魔法の鎖とつながれ、
兄弟の力の流れとなって震え、その流れは遠方より私たちの手のなかに押し寄せ
風圧のようにだんだん強くなる。苦痛と勇気と狂気と歓喜と
めまいと愛の断絶しがたい波が、私たちの体ぢゅうを貫き通る。そして
                          理性を消そうとする
その風の衝撃のなかで、より高い存在者の手によってつかまれた私たちの鎖が
新しい鎖となって、星ぼしの全空間につながれて、地球を抱く。


 1901−1907年の間にブルジェジナは雑誌にさらに十三編の詩を発表するが、もはや詩集は出版しなかった。散文としてはエッセイ集『泉の音楽』(Hudba pramenu,1903)を出した。さらに第二のエッセイの本『隠された歴史』(Skryte dejiny )を書いてい
たが、これも未完におわった。このうちほんの一部が1905−1908年に出版された。エッセイのなかで彼はとくに芸術についての自分の見解および人類と自然の不変の発展
についての考えをのべた。

 ブルジェジナはその幻想性によって現代から遠ざかっている。だが、だからといって、彼の姿勢の肯定的な側面をも軽視してはいけない。とくにそれは進化的楽観論である。ということは、進歩や集団主義の信仰であり、彼の軌跡の終点においてそこへ到達しているのである。されにブルジェジナの詩の特質として、厳密な音節数をもった韻律の詩から、大胆なメタファーや比喩によって重装備された自由詩への発展が挙げられる。また』ブルジェジナの押韻の特徴は、ある単語のあまり慣用的でない対語的用法、またその語彙、しばしば濫用ともいえる外来語の使用、専門用語多用などである。

 今世紀のはじめからブルジェジナは賢者のように隠棲し、多くの信奉者が彼を訪れ、ブルジェジナにかんするさまざまな「証言」を出版し、また各種の信じがたい詩人の言辞を公にしては、それで稼いでいるものたちがいた(『O.B.との会話』Hovory s O.B. )。彼の詩的表現には両大戦間期のアヴァンギャルド詩人たちが大いに帰依した。とくにネズヴァルの詩によって書かれた『夜の詩』(Basni noc )のプロローグがそれである。




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 (6)カレル・フラヴァーチェク  Karel Hlavacek


 最も純粋で典型的なチェコ・ダカダンスの詩人カレル・フラヴァーチェクも生前は「模糊」たる詩人という評価を得ていた。しかし彼のあいまいさはブルジェジナとは異なる性格のものである。ブルジェジナが哲学的抒情詩を志向したのにたいして、フラヴァーチェクは気分(nalad )をとらえることに努めた。一面において彼の場合、合理的な辻褄が欠落しているとはいえ、その点こそヴルフリツキー派が評価したところでもある。
 第二に、彼のメタファーは現実的な軸によってというよりは、むしろ連想によって運ばれている。これにより彼は両大戦間のアヴァンギャルド詩を先取りしているのだが、同時代者にとっては「分泌腺に濡れた光」とか「毒ニンジンの香りに苦く死にそうに臭う」目などという比喩は非論理的に思えた。なぜならルミール派の詩によって飼い馴らされたブルジョアの文化様式に応じる詩法とは激しく対立したからである。しかし、またリアリストたちも彼を理解しなかった。例えば彼の書『明け近い夜更け』(Pozde k ranu)はリアリストの週刊誌「時」(Cas )において「気違い病院の檻のなかからの叫び」と決め付けられた。

 フラヴァーチェクの人生にもまた――ブルジェジナと同様に――外面的事件はなかった。フラヴァーチェクは労働者の家庭の出である。1874年にプラハ近郊のリベンニュに生れ、プラハの実業学校を卒業し、文学部において言語学の勉学を終えるにはいたらなかった。彼は文学とともに造形芸術にも興味をもち(美術批評をかいている)、そしてグラフィック・デザイナーになろうとさえ思った。彼は確固たる職業をもたぬまま1898年に結核のため早世した。

 フラヴァーチェクは学生時代からソコル(体育協会)で働き、ソコルの雑誌「ソコル」に随想や詩を掲載していた(1893年以後)。この雰囲気のなかから彼の『ソコル・ソネット集』(Sokolske sonety,1985)は生み出された。この詩集は後に破棄した。詩集のなかは大部分が情熱的民族主義と教育的傾向の伝統的精神で書かれていたが、すでに印象主義的性格の幾編かの詩をふくんでいた。フラヴァーチェク自身の文学作品は次の二冊の詩集によって形成される。『明け近い夜更け』(Pozde k ranu,1896 )と『復讐の詩』(Mstiva kantilena,1898 )である。

 フラヴァーチェクの詩は孤独感から生れている。その孤独感は明らかにブルジョア文化にたいする妥協のない姿勢にもとづいている。しかしながら、彼はまだ文化的に市民階級に比肩しうるプロレタリアートではなかったから、フラヴァーチェクは自分の貧しさと一緒に向上しようとする努力の空しさを痛切に実感し、そしてファンタジーの世界に逃避することによって、この無力感との閉口を保とうとつとめたのである。だから彼の詩はあまりにも夢想的である。

 詩集『明け近い夜更け』の詩ははっきり言って、本来の伝統的意味での内容を欠いている。それは詩人の感情を直接的に、合理性を経るという回り道なしに追跡しようとする気分抒情詩である。要するに括弧つきで合理性を補うようなことをするよりは、詩人は単純に自分の感情の状態を暗示することを望んだのである。この詩集のすべての詩に共通する基盤は非現実世界に投影された感傷的受動性(パッシーヴィティー)である。ブルジョア文化との離反は逃避として把握されている。詩人自身が次の詩句によって自らを性格づけている。


感傷的にして欝々たる気分の熱心な遊戯者
わたしは古めかしくアイロニーに満ちたバラードの不思議な魔力を得たい


 反社会的ゼスチャーがこの詩集のなかでは中世貴族の人物のなかに隠されている。詩人は世界の低俗さを超越している。彼はその世界に根をおろすことができず、その結果、その世界から自己のファンタジーのなかに自分で作り出した世界に逃げこむ。彼は敵対的な社会にたいして自分の極端な「自我」(ja)を対立させる。彼は苦痛に対抗して戦うことができない。だから苦痛を特定の個人の定めとして耐えるのである。しかし、とりわけ彼は自分の弱点を自覚しているが、ブルジェジナがなしえたように、彼はその弱点を認識論的に(noeticky)価値転換することができない。それゆえ、苦痛と孤独はフラヴァーチェクにとっては美的創造の出発点となっているのである。この詩集には韻文詩の他に散文による詩もふくまれている。

 詩集『復讐の歌』ではフラヴァーチェクはゲース(零落したオランダ騎士たちの末裔)たちの情景から出発している。彼らは十六世紀にスペイン人たちに反抗して立ちあがるが、彼らの蜂起は流血のなかに敗れる。彼は自分自身を、自分の反抗の空しさを意識しているが、それにもかかわらず戦い、復讐し、全てを無駄にするゲースの一人物のなかに自分を仮託する。


そして、野原のなかの失せてしまった道を門の前までたどって行け
くじをかき回せ。眠りこけた者たちのうえに最初の一撃を食らわせる者は誰だ
さあ急げ、急げ。ゲース族の者よ、われらが家門の復讐をしろ!


 だから、もしフラヴァーチェクが詩集『明け近い夜更け』においてファンタジーと夢の世界へ逃避しているとしたら、今度はたとえ彼の反抗が無駄だとわかってはいても、攻撃に転じているのだ。個人主義にたいして、今、集団的感情が勝利をおさめ、同時に、第一詩集の観念主義から唯物主義へと詩人は移行したのである。彼は貧民たちとの連帯を表現し、彼らと融合することによって両大戦間期の詩への橋渡しをしたのである。

 フラヴァーチェクは生前、象徴主義の批評家に好意的に迎えいれられたが、やがて彼の作品は事実上、姿を消してしまう。1930年ころになって再び姿を現すが、それはフラヴァーチェクの詩法がアヴァンギャルドと幾つかの接点をもっていたからである。30年代に彼の遺作のなかから『悲しみの歌』(Zalmy,1934)が出版された。



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 (7) 労働者作家

 上にのべたように、フラヴァーチェクは自身の孤立のんかにあって、ブルジョア文学に反抗しながらよりどころなるべき人物をもたなかった。論理的よりどころはただ労働者層のみがありえた。彼自身がその層の出身だからである。しかし労働運動がすでに独自の組織や出版物をもっていたとはいえ、文学的に、また文化全体からみてもそれまでのところすぐれた作品を誇示するというところまではいっていなかった。それゆえ労働者層は「外部」の非労働者作家の文学作品を借用した。作家の出生そのものは必ずしも作品の方向性を決定づけるとは言えないまでも、しかし労働運動は真に階級的な目でもって問題を見ることのできるような頼りになる作家をもっていなかった。

 労働者雑誌は労働問題を扱った作品、例えば、プフレガー(Pfleger)、シマーチェク(Simacek)、アルベス(Arbes)などの作品を転載することによって満足するしかなかった。だが、その視点そのものは労働者の運命に感動した市民階級の位置からのものであったから、単に博愛主義的考えや要請をとうしてしか問題を解決できないものだった。労働者たちは詩人ではSv.チェフをこよなく愛した。彼の『奴隷の歌』は大きな影響を及ぼし、その影響はまさに労働者階級から出た作家の作品のなかにもあらわれた。チェフとともにマハルの幾つかの作品も労働者たちのあいだで人気を博した。

 90年代には細々としたものではあったが発展的には重要な、階級意識に目覚めた労働者の作品の泉があらわれた。芸術的側面から見ればこれらの作家たちは、とくにチェフの詩とそのパトスによって触発されている。労働者さっかのなかで最も天分に恵まれていたのはルフ派の詩を彷彿とさせる作品集『貧しさ』(Chudobky,1892)の作家ヨゼフ・クラプカ・ナーホツキー(1862−1909)である。しかしながら、この小冊子は芸術的にというよりは、むしろ理念的な意味で関心を喚起した。おなじく、一言触れるに値するのはフランティシェク・ツァイタムル(1868−1936;筆名、リベルテ Liberte)
である。

 チェコの民衆が仕事を求めて渡っていったアメリカ合衆国でのチェコ労働者の活動もまた重要である。ヨゼフ・ボレスラフ・ペツカ(Josef Boleslav Pecka)は、例えば、シカゴで1887年に『チェコ労働者のうたの歌い手』(Zpevnik ceskych delnickych pisni)を出版し、フランティシェク・フラヴァーチェクは1896年にニューヨークで情熱的抒情詩集『たいまつ』(Frantisek Hlavacek,Pochoden )を出版した。




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 (8) ペトル・ベズルッチ  Petr Bezruc


 90年代の主要な流れを次のように指摘した――リアリズム、印象主義、象徴主義、デカダンスの諸流、および労働者詩人の活動である。これらの流れのすべてを総合したのがペットル・ベズルッチであり、かれの意義は彼自身の時代をはるかに越え、その作品は現代にもなお語りかけている。

 ペットル・ベズルッチの作品は、この詩人が同時代の問題を表現しうることによって偉大であるというにとどまらず、なによりもその作品のインパクトによっても偉大であることを証明した。詩のなかにどれほどの説得力をこめうるか、そしてどの程度まで自分の思想によって未来を先取りしうるかということである。この面においてベズルッチはわが国の文学においてまったく他の比肩を許さない地位を占めている。彼の詩は出はじめたのは、すでに世紀の交代期だったが、今日までその衝撃力を失っていない。ベズルッチは解放後国民芸術家の称号を授与されたのはきわめて当然のことであった。

 ベズルッチの唯一の詩集『スレスコの歌』(Slezske pisne )を形成する大部分の詩は1899−1900年の間にリアリズムの「時の集い」(Besedy Casu ,ヤン・ヘルベンの編集)に発表され、この雑誌を通して一挙に有名になった。このように大きな成功の原因は何にあったのだろう? ベズルッチはまさに時宜に適したときに登場し、時代の抱える問題や当時緊急とされた問題について書いた、だから一般読者大衆の興味を引き、社会的要求に応じたということは、なるほど本当だろう。しかしこのことはベズルッチの詩のこれほどの長い生命力をまだ説明してはいない。たしかに、私たちは文学史のなかに彗星のように現れ、同様にまたたく間に消えていった何十人もの詩人を知っている。

 ベズルッチの成功と反響の第一の理由は集団との一体化であった。『スレスコの歌』の詩人はスレスコやオストラフスコで働く搾取されているにんげん、同様にベスキドの山の住人としての坑夫や製鉄工が感じるところのものを表現したのである。この融合はあまりにも完全だったので、彼の生前にはベズルッチの詩の作者オストロヴァの鉱山の本当の労働者だという意見が出たほどである。この作中人物との一体化は詩人自身が、自分の市民的姿を筆名の陰にかくして、彼もまさにこの筆名をかたくなに固守したからである。まさに彼が自分の私的な人間の顔を隠しおえたからこそ、スレスコ地方民衆の無名の「吟遊詩人」(bard)として登場しえたのである。さらに数年後、『スレスコの歌』の単行本に挿入されて彼の写真が公にされたとき、彼の実名ではなく「スレスコ地方人のタイプ」として控え目に記されていた。そして結局ベズルッチが真の意味でただ一冊の詩人(たとえ後で補足されたとはいえ)となり、彼が自分の苦悩や抵抗を表現したときも名を秘めていたのは重要である。

 ベズルッチの無名性は、彼の詩表現の不可欠の一要素であり、したがってそれは意図的なものであり、かつて言われたことがあるように、ある種の詩人の「はにかみ」というものではなかった。ベズルッチが自分の現実の公民的「我」を明かさなかったことにより、まさに集団と融合することができたのであり、真の意味で、わが国、最初の集団主義詩人となりえたのである。集団にかんする関心はすでにブルジェジナを見出だしていたし、フラヴァーチェクもゲース族の口を通して語ったが、前者の場合は、詩人は民衆にメッセージを伝える幻視者(vizionar)の位置にたち、後者の場合は透明なマスクが問題となる。ベズルッチの集団との合体の目的は自分のためではなく、他の者のために語り、彼らの願望を表現し、彼らの踏みにじられた権利のために戦うということであった。そして、まさにこの闘争性によってブルジェジナやフラヴァーチェクと最も異なるところである。

『スレスコの歌』の詩人の実際の市民生活は彼の作品と外見的に非常に矛盾して見える。なぜなら彼の生涯は外的な事件に乏しかったからである。詩人は本名はヴラジミール・ヴァシェク(Vladimir Vasek)といい、1867年、スレスコの啓蒙家アントニーン・ヴァシェクの息子としてオパヴァに生れた。1877年に両親はブルノに移り、ベズルッチもプラハの大学で古典哲学を学んだが、その三年間と郵便局員としてミーステク(Mistek)ですごした二年間を除いて60年間ブルノですごした。彼は孤独に生きた。ミーステクからブルノに帰ってきたあとは定年まで駅の郵便局に勤めた。第一次世界大戦中は反逆の嫌疑を受けて投獄された。占領時代にはコステレッツ・ナ・ハネーに移住して余生をおくった。1958年、オロモウツで死亡し、オパヴァに葬られた。

 これらの外面的データから察すると、ベズルッチの市民的生活は人生の渦巻から遠く離れたところに立っている臆病な、気の弱い、もの静かで目立たない吏員の生涯であったように見える。それは正しい――そして正しくない。彼は脇に住んだ。そう、そしてまさに事件の渦に直接巻き込まれなかったということが彼の視線を鋭くし、まさに――彼の言葉をもってすれば――「人生のなかに人々の脇腹を見つめた」ことが彼に彼自身の「我」を克服し、それによって他人の苦しみを徹底的に体験する可能性を与えたのである。

 ベズルッチの目を研ぎすますためには「スレスコの歌」の中核が生れたブルノの状況が決定的な意義を有することは疑いない。その当時、労働者の活力の強い要素と純粋にチェコ的な郊外区をともなったゲルマン化された都市にあっては、階級的かつ民族的たいりつが異常に激化し、相互に入り交じっていた。ドイツ少数派、主に工場主によって抑圧されていたチェコ的活力は単に経済的に搾取されていたばかりでなく、ゲルマン化の波にもさらされていたのである。強制的であれ非強制的であれゲルマン化は祖国離反の出世主義に結びついており、それはまさにブルノにおいて、ほとんど他のどこの地方におけるよりも強く脅かしていたのである。それにオストラヴァやスレスコにおける状況についてもブルノの状況に共通するものがあった。

 ベズルッチは一定の距離感をもってスレスコやオストラヴァで働く人間がいかに貧窮の生活をおくっているかを明確に見たばかりでなく、同時にスレスコの民衆の運命がプロレタリア全体の運命であると感受していたのである。したがって、スレスコの民衆の問題を描いたとしたら、それは同時に有効な簡潔さのなかに経済的にも精神的にも圧迫に耐えているすべてのプロレタリアの生活を描き、彼の詩が普遍的意味を獲得したのである。彼のスレスコ人は働く人間全体のシンボルとなり、今にも息絶えんとするスレスコの民衆をなんら慮ろうともしないプラハはチェコ=ブルジョアジーのシンボルとなったのである。こうして『オストラヴァ』という詩のなかで彼が次のように叫ぶとしたら


君たちすべて、スレスコのすべての君たち、私は言おう
君たちは深い坑道の主よ
坑道から炎と煙が立ちのぼる日がくると
ともに力を合せて決着をつける日がくると!


 それは単に地域的な呼びかけではなく、すべてのプロレタリアートたちにたいする呼びかけであり、自分の力で自分を解放するようにとの呼びかけとして理解されるだろう。そして彼のそれ以後の詩も、たとえそれが祖国からの離反の問題であれ(『ベルナルド・ジャーフ』Bernard Zav )、ゲルマン化の問題であれ(『ハルファル先生』Kantor Halfar )また坑夫の貧困の問題であれ(『マリチュカ・マグドーノヴァ』Marycka Magdonova )同様の普遍的意味を獲得しているのである。しかあしベズルッチはまた労働者と大資本家との間の妥協しうべからざる対立も描きえているのである。『おまえとわたし』Ty a ja という詩の冒頭の部分を比較してみよう。


みなわたしを避ける
わたしの手は黒く、シャツは湿り
わたしは一介の炭鉱夫にすぎず、今や、あんたは大富豪だ
あんたは宮殿から、わたしは木造の小屋から
わたしはベレ−帽をかぶり、額を曇らせる


 この雰囲気のなかに個人的詩もおちいった。つまり、これらの詩は詩人の官能的孤独を描写し(『ただの、いち度』Jen jedenkrat )あるいは『わたし』Ja という詩のなかではその孤独感を以前に敗北した戦いへ呼びかけるスレスコの吟遊詩人の人物像のなかに様式化している。


十戒の箱を前にして、彼らの前で踊っているダヴィデのように、
笛吹きの音にあわせて、身をくねらせるがらがら蛇のように
これら七万人の道化のうた歌い
ベスキドのドン・キホーテ、糸杉の槍をもち
苔の鎧にとんがり兜
リサー(Lysa)の山のきのこを盾に、しだの目覆い
運命の頑固な肩をつかまんとして
金の甲胄に身をやつした騎士の黒い剣

われこそはペトル・ベズルッチ、チェシーンのベズルッチなるぞ
放浪の楽士、愚かなるバグパイプ吹き
たわけた反逆者、酔払いのうた歌い
チェシーンの塔の悪名高きふくろう(ペシミスト)だ
われは奏でて、いざ、歌わん、ヴィートコヴィツェに
フリドラントに、リピニに響く槌音に合せ


 この詩はベズルッチがいかに同時代のデカダン派と比較されるかをも示している。空しい戦いにうきみをやつす吟遊詩人や騎士のイメージは空しさを歌うフラヴァーチェクの詩のイメージに近い。しかしパッシーヴな気配はいささかも臭わせていない。このことによってベズルッチはデカダンスを克服した。たとえ彼の詩のなかにデカダンスのモティーフを見出だすとしてもである。

 ベズルッチは印象主義からも学んでいるが、そのことは、例えば『フラビニュ』Hrabyn の詩の冒頭部が明らかに示している。


道のポプラから、細かなトパーズの雨が降るときは
いつも、わたしの夢のなかにはトパーズがきらめく
・・・・・


 ベズルッチの作品のなかに私たちは典型的な象徴主義的部分を見出だす。それどころか
詩全体がそうである(例えば、詩集『赤い花』Cerveny kvet の序詩)場合もあるとしても、彼の詩の基盤はリアリスティックである。彼自身はマハルの四十歳の誕生日にあてて書かれた詩『1864−1904』のなかでマハルにたいする帰依を表明している。したがってベズルッチの作品のなかには、事実、1890年代が包含していたすべての主要な傾向が統合されているのである――独立して出版された回想的な、しかし攻撃的なしでもある『青い蛾』(Stuzkonoska modra,1930)は『スレスコの歌』のある種のエピローグとなった。

 もちろん、理念的な鋭利さは、たとえそれが基本的要因であることは確かだとしても、それだけで詩作品の成功と永続的な反響を保証しない。ベズルッチにかんして言えば、理念的先駆性に詩の言葉が結合していたという点が決定的であった。彼が最も愛した韻律は高揚する生気ある言葉の観念を想起させるダクティル(長短短または強弱弱格)であった。

 ベズルッチはわが国最大の言葉の名人の一人である。彼は不愉快を覚えさせるまでに硬直することも、柔軟になることも、また同様に荒々しいまでに激情的になることもできたのである。彼のまえにはかつて誰もなしえなかったほど、言語の方言的要素や、背後に高度に洗練された詩言語を潜めた野卑な表現も用いえたのである。それに驚嘆すべきことは地方的色彩を保ちながら彼の描く人物を普遍的シンボルの水準にまで高め、すべての搾取され抑圧された人々の困難な運命を、彼らの代弁者としての詩人の高邁な使命と同様に描きえたということである。



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 (9)二十世紀の初頭

 これまで私たちはマハルを例外として、90年代に発表された作品を有する詩人っちに注目してきた。今度は90年代に登場したが、その活動が二十世紀にまでおよんでいる詩人たちに注目しよう。その最初の詩人はゲルネルとなるだろう。彼の作品は1900−1914年の間にまで光を投げかけている。次に両大戦間期にまでその作品を発表しつずけている作家たち(ソヴァ、ディク)に注目し、1945年以後の時期まで創作をつずけたS.K.ノイマンをもってこの解説をおわりたい。しかしまず初めに1900年からチェコスロバキア独立国の建国までの社会的、政治的生活がいかなるものであったのか、せめてその徴候くらいには注意を払う必要がある。

 第一次世界大戦以前の時代にはチェコの資本の増大が進んでいた。例えば、1900年にはチェコの銀行は四行を数えるにすぎなかったが、1914年までにその数はすでに十四を数えるまでになっている。同時に技術の発展は急速に進み、鉄道網は拡大し、石炭の生産も増大し、それと関連して労働者も増加し、都市も大きくなった。しかし、それにもかかわらず労働者の全家庭が食べることができなかった。したがって年平均2万人もの人がチェコを離れ、生活の糧を求めて外国へ出たが、その大部分はアメリカに渡った。世界の資本主義は袋小路に入りこんでおり、その解決を求めて戦争を準備していた。

 1905年のロシア革命はチェコの領土に大きな反響を生んだ。この革命はストライキの波をまき起こし、労働者階級を活動的にした。その結果1907年、選挙法の改正が施行されて、その制度による選挙では社会民主党(socialni demokracie )が最高の票数を獲得っした。しかしながらブルジョア諸党は反社会主義陣営を結成して、ブルジョア政策の前面に土地再編論者(agrarnici)が現れた。社会民主党はオーストリア=マルクス主義の理論の虜になり、民族性の問題ではチェコの社会民主党は本質的にオーストリア=ハンガリー帝国に忠誠を守る立場をとった。民族性の問題のマルクス主義的解決をなしえなかったがゆえに、社会民主党は戦争中、民族解放運動の先頭に立つことができなかった。そして指導者たちはブルジョア政党に移った。一部はチェコのロシア党を志向し、他の一部は「ドホダ」(同盟)の一翼を目指した。このグループが後に西側民主主義に依拠しながら解放戦争の主力となったのである(クラマーシュ マサリク、ベネシュ)。



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 (10) フランティシェク・ゲルネル  Frantisek Gellner


 このような状況のなかで90年代のチェコ抒情詩の発展において詩的創造にある程度の停滞が生じた。しかし、それにもかかわらず幾つかの重要な作品が作られている。詩人のなかで戦前期の生活感情を最もよく描いているのはフランティシェク・ゲルネルである。彼はムラダー・ボレスラフ(Mlada Boleslav)の貧しいユダヤ人の商人の家の出である1881年生)。中等教育をおえたのち、ウィーンで技術を、プルシーブラム(Pribram )で鉱山学を学んだが学業を修了しなかった。彼は文学と絵画に没頭し、長期間にわたり外国(ミュンヘン、ドレスデン、パリ)ですごした。その後、ブルノの「大衆新聞」(Lidove noviny )の編集部に腰を落着けた。第一次世界大戦勃発後、兵役につき、1914年の秋には早くも消息不明を宣告された。

 ゲルネルは生涯に詩集『いまこそ、わが命』(Po nas at prijde potopa,1901.[未来のことはどうでもいい、今を生きよう])と『生のよろこび』(Radost zivota,1903)を出版したが、その後長い間、沈黙をまもる。1914年になり詩集『新しい詩』(Nove verse)の出版にとりかかるが、死後1919年になって出版された。最初の二冊のゲルネルの詩集はとくに当時のぬるま湯的市民層にショックを与えることをねらったものであった。詩人はここで自分の青春と健康を酒場やキャバレーで害していくふしだらな青年として登場してくる。


おれは仕事では 死なぬ
貧困でも くたばらぬ
首をくくられても 息は絶えぬ
命をおとすなら 梅毒だ


 しかしこれは自己目的的なジェスチャーではなかった。ゲルネルは人生のチャンスをもたず、しかもそれゆえに破滅していく平凡な市民の感情を表現したのである。それは「余計な人間」のドラマであり、彼らは自分の火をアルコールや売りものの愛に癒すのであり、それは積極的仕事において評価されない人間である。例えば、ゲルネルの処女作のなかの次の詩は個性的である。


わが友は放蕩にひたる男たち
才能なんてもの、どぶに捨てても、だれも悔やみはしなあい
髪にバラを挿し
あとのことは……! えい、――野となれ山となれだ!

 あるいは


一番よいのは去ることさ
そして、絶対、戻ってこないこと
親しいものからも、もっとも親密なものからも
そして、自分自身からも、消え去ってしまうこと

 しかし、これらのすべての裏に、孤独と感情的な渇きが隠されている。


渇望ひたりながら、旗竿の先に心臓をうちつける
だが、だれも来ない。ただ独り悲しく生きる
若いころの私は、病的なまでに傷つきやすかった
だから、だれかがそばに来ると、その人は、わたしを惨めにさせた。


 ゲルネルの最初の二冊の詩集の抒情詩は、おそらく私たちの誰もが抱く青春時代の挫折感の最も率直な告白だった。彼のジェスチャーは芸術的表現のなかにも雄弁に現れている。彼の用語は街に流れる小歌かれ取られ、しばしば卑語にみちている。これにより彼は90年代のリアリズムの伝統を継承しているが、自然主義は拒否している。彼の韻文はマハルに比べて、より柔軟であり、そのイントネーションの線は、その大胆な句跨(くまたがり:enjambment)が示しているように、常に一貫して守られている。このことはゲルネルおシニシズムの底に満たされぬ願望と繊細なやさしさが隠されていることを、はからずも示している。最後の詩集でゲルネルは自分を客観化し、その自己中心主義を克服している。

 こうして社会的詩が現れる(『縫い娘』Svadlenka 『坑夫の妻』Havirska)。この時期に雑誌に発表された詩のなかでは、叙事詩への発展も見られる。しかし彼の針路は死によって中断される。

 ブルノ滞在中のゲルネルについて特筆すべきことは「大衆新聞」の文学付録「ヴェチェリ」のスケッチ画家、鋭い風刺家としてその紙面を性格づけていたということである。そしてその文学付録には当時わが国の若い文学集団が寄稿していたのである。ゲルネルは挑発的な小歌作りの名人だった。彼はそれを通してゲルマン化を攻撃したが、同時にチェコ市民階級の同時代の政治ばかりでなく、社会民主党のオポチュニズムをも攻撃したのだった。彼は仮面を暴き――とくに、モラヴァの教会主義に矛先を向けた――そしてそれにより、近付きつつある戦争の矛盾に読者の目を向けさせたのである。




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 (11)アントニーン・ソヴァ  Antonin Sova


 もし、ゲルネルの作品が本質的にリアリスティックな創作技法によってもたらされているとしたら、アントニーン・ソヴァはその創作において90年代の自然主義を除くすべての傾向にたいおうしている。そしてもしゲルネルの作品が実際には十年ばかりの期間を占めるにすぎないのにたいして、40年以上ものあいだ創作を続け、常に発言力を失わなかった。

 ソヴァは1864年にパツォフで生れた。父はその土地の教師だった。ソヴァは中等教育をペルフルジモフ、ターボル、そしてとくにピーセクで学んだ(1880−1885)。1883年に「ルミール」誌でデビューした。経済的窮乏で学業をおえることなくヴルフリツキーの口添えで「オット百科事典」の事務職員となり、後にプラハ市役所の職員となる。そして1928年に死亡した。

 ソヴァの処女出版作品は1890年に出たが、そのタイトル『リアリズム諸派』(Realisticke skoly )によってもすでにわかるとうり、リアリズムへの所属を表明している。ソヴァはそのなかで具体的生活の意義を発見しているが、マハルの懐疑や攻撃性には欠けている。彼の本質は苦難にあえぐ人々にたいする暖かい同情をもった多感なやさしさだった。この側面においてわが国では90年代に高く評価されていた当時のモダーン・フランスの「日常生活描写」(zanrove obrazy)の詩人 Fr.コペー(Coppee)が明らかに影響を与えている。
 次の詩集ではソヴァは印象主義への傾きをしめしている(『内面的気分の花』Kvety intimnich nalad 『わが故郷より』Z meho kraje)。実例はすで先に紹介した。彼はここで先輩たちとはことなった目で見たチェコの風景を発見し、はかなく過ぎ去っていく気分の描き手としての側面を見せている。しかしながら、自分の「我」にとどまってはいない。同時代のすべての先駆的詩人と同様に彼もまた存在の意義を問うたのである。それゆえ、『砕けし魂』(Zlomena duse,1896 )においてはデカダンスの作風(タイプ)をもものにしたのである。彼の主人公を序文において次のように性格づけている。


 この数章は早死にした私の友人の日記から切り取ってきたものである。特別に変わった事件もない。むしろ狭い仕切りと低い天井の下の私たちの世界のなかに成長し、何らかの犠牲なしにはほとんど回復を期待できそうにもない荒廃した今日に満たされぬ心を抱き、そして遂には絶望的な病に打ちのめされていった一人の人間の苦悩と感情と情熱の内面的な心理的経緯である。


 スメタナの弦楽四重奏曲『わが生涯より』(Z meho zivota )にまつわるエピソードはこの本から有名である。ソヴァの病身の主人公は無感動な観衆ではない。チェコの小国性、国家的かつ社会的矛盾が彼を傷つけるのである。


おまえは古い檻、せまくるしいプラハよ
おまえのなかに住むのは、思慮分別をもたぬ市民たち
たがいに境をせっする、おまえのふた種類の民族は

ひたすら強固な憎悪に生きている
たがいに手を取り合い、支え合うべき
この二つの民族は、積年の憎悪のなかを
くぐりぬけ、持てる精気のすべてをかけて
せめぎ合う

   ・・・・・

えい、この小市民ども! こいつら、のうのうと暖かい部屋におさまり
この小市民どもは、おのれの銭金勘定だ
この小市民どもは、がつがつとためこんで、おこたりなく身がまえる
もう間近にせまった、社会の洪水を前にして
寿命のおわりを数えつつ……


 『テオドル・モンムセン』(Theodor Mommsen,1897)という詩でソヴァはまっしぐらに社会問題につき進んだ。それはチェコに住むドイツ人の使命はチェコ人の頭骸骨をたたき割ることであると宣言した悪名高いドイツの歴史家の声明へ向けて発せられた強烈なナショナリズムの、そして正義の怒りの爆発であった。この詩のなかでソヴァはとくに次のように書いている。


おまえの貧しい理性は、正義の光はおろか
若さをとりもどした民族の、自決のよろこびすらも理解できなかった
それどころか、古くからの文化が、熱く燃え輝くべきものとするなら
そしてまた、それがガレー船の奴隷をつなぐ、残酷で重い
大きな鎖となってはならぬものとするなら
(他民族の文化を)奴隷にしてはならぬということも理解できなかったのだ。


 この詩はもとはパンフレットとして出版された。後にソヴァはこの詩を『荒れ狂う悲しみ』(Vybourenie smutky,1897)という詩集のなかに加えた。このなかでソヴァは高揚と消沈との間をゆれ動いている。かれは矛盾を感じ、痛々しくそれを体験するが、しかし夢の山脈」(pohori snu)のなかに逃避することによってそれを解決している。しばしばシンボルによって表現されている。


ヨーロッパの沼地には、まだ鷲がいる!
満たされぬ望みを抱き、がんじがらめに身動きもできぬ鷲が、まだ。
その鷲の悲しみがおまえの心臓をとらえる。
北国の霧のなかの灰色の町々にも
重苦しい夢のなかにも、腐敗した人類を見くだしながら
いたるところに散っていった鷲がいまもいる
かのおそろしい、神にして審判者が。


 彼の表現は多様で、情念(パトス)と象徴的表現から、象徴性を否定し物事を直接的に指示し、また憎悪を噴出させる簡潔な断言にまでいたる幅広いスケールを内包している。


ヨーロッパの神々は奴隷の群れの
背中に生れる
誇らしげに自分の横顔を
刻印された金貨のなかに浮きあがらせる

   ・・・・・

酔った神経がふるえる
興奮した広小路は
冴えない節でみちている
暴君たちの賛歌をうたう!


 今世紀の初めからソヴァの詩は二つの方向に分れて発展する。その一つの方向でソヴァはさらに私的抒情詩(osobni lyrika )を書きつずけ、また一方では社会運動に荷担する(アンガジェ)詩を書く。そのことは『もう一度もどろう』(Jeste jednou se vratime,1900)という本がはっきりと示している。この本の主要部分を形成するのは「飢えた官能」(lacne smysly)の詩で、多くの場合エロチックである。それらのなかでソヴァは自分の孤独と戦っている。この詩集においてソヴァは印象主義的気分表現の頂点に達しているし、これらの気分は奔放に変幻する詩行のなかに表現され、しばしば象徴主義の領域にまで踏みこんでいる。そのことをあからさまに物語る例は序詩の冒頭の数行の詩句である。それを後で例として引用しよう。そのなかに、私たちは句跨によって強調されるもうろうとしたイントネーション、行頭反復(anaphora;jeste jednou )、またごくありふれた現実をたちどころに特殊化しうるこの詩人の豊かな詩表現(serivym stribrem tekl nad potoky vecer)に気づくであろう。だからここにはチェコの自然を暗示的に描写するマーハの芸術が展開しているといっても過言ではあるまい。けだしマーハがその『マーイ』で春の自然を描写したのだとしたら、ソヴァは秋を描いているといえる。それは偶然でもなければ、秋の色彩にたいする単なる好みといったものではなく、それは世紀の変り目の人間にとって象徴的な意味をさえもっているのである。


いま一度ひき返そう、思いにふけり つんと刺す
花の香りが、わたしたちを道のはずれに誘うところに、そのとき
小川のうえを夜が、いぶし銀の色をして流れる。だから、いま一度ひき返そう
黙りこくった庭園にむいた窓から流れきた小歌を聞いたところに

それに、いま一つの小道と小屋を山のなかに見付けよう
その小屋はなんと豊かな秋の色どりのなかで、とても鮮やかなのだ。
粉ごなに砕かれたこだまの和音に耳を傾け
静かな柔らかい足音を聞き、ひそかな足跡が残されていないか探してみよう。

   ・・・・・


 ソヴァの詩の発展のなかに今新しい幻想的な詩がある。それは『新王国の谷』(Udoli noveho kralovstvi )の部分を形成するものであり、ソヴァはこの作品を『勇気の冒険』(Dobrodruzstvi odvahy,1904-1906)という詩と一緒にして自作の作品集のなかの独立した一巻として編纂した。ソヴァは友情と調和(ハーモニー)の時代が来た、そしてこの時代を作り出すのは選ばれた個人であると信じた。表題詩の次の詩行を見てみよう。


そこの大きな町の門のあたりで、大勢のこの上もなく貧しい乞食に出会う
われわれは新王国の最初の金貨で彼らに慈悲を与えよう
その金貨には皇帝の頭部は刻印されないだろう
ただ、全世界の、そして新しい人民の熱い愛のシンボルのみが刻まれている
この魅惑的な金貨をどのように分配するかをわれわれが行って教えなければ
その何億もの金が、すでにその閉じられた心の底で、思惑を生んでいる。


『新しい人類によせて』(K novemu clovecenstvi )という詩もまた特徴的である。そこでソヴァは、心のなかに実が熟するという人たちの王国なるものを性格づけている。


全人生が高められるような思想で、心のなかに
町を築くこと、そして、その町をすべての人に開くこと
すべての門を、すべての広間を、それこそが彼らの王国となるだろう。

   ・・・・・


『勇気の冒険』という詩編の思想的核 部分的には1905年のロシア革命にインスピレーションを受けた は結びの詩『勇気の子供たち』(Deti odvahy )が言いあらわしている。それは次のような詩行で終わる。


大きな夢は大海原をこえて広がる
小さな夢は寒さにふるえ、縮こまり
家のなかにたむろする。
探求と闘争と悲嘆と
幸福の日々に終わりはない。
憎しみの神から奪うべきものは
まだまだ沢山残っている。

勇気の子供たち、さあ、すすめ……


 ソヴァはすでに孤独な夢想家ではなく、悪の克服には勇気と労働と――戦いさえもが必要であることを自覚している。それゆえに、しめくくりの詩『1905年からのエピローグ』の中には当時のアナーキズムとの接点も幾つかは存在する。ソヴァはその集団主義コレクティヴィズム)と自由詩によってブルジェジナをさえ彷彿とさせる。しかし彼の象徴はブルジェジナのものよりはるかに透明で、彼の表現はブルジェジナほど賛美歌的ではなく、彼の情景はより地上的である。彼はまたその詩を祈祷のイメージによって浸してはいない。神の概念を用いるときでも、それは――つまりブルジェジナについても言えることだが――宗教的な意味においてではない。

 内面詩としてはソヴァは1900年以後、とくに詩集『愛と人生の抒情詩』(Lyrika lasky a zivota,1907)を出版している。晩年の本のなかでこのジャンルに属するものは荒々しい愛』(Drsna laska,1927)であり、このなかで彼は生れ故郷に帰っている。ほかの場合にソヴァは内面詩を反省(reflexe )と結びつけている。この系統に属する彼の作品のなかで五十歳の初めに出版された詩集『収穫』(Zen,1913)はこの詩人の金言集(kniha moudrosti )となっている。これは万難を克服してオプティミズムの境地へやっと到達した詩人の人生的悟りの告白である。戦争中、愛国的作品『故郷の歌』(Zpevy domova,1918 )は大きな反響を得た。この書はこの困難な時期にあって民族の力への信念を力づけたのだった。

 戦後、ソヴァは社会的発展に無関心ではなく、詩集『血にぬれた兄弟愛』(Krvacejici bratrstvi,1920 )や『透明な視覚』(Jasna videni,1922 )によって進歩的勢力の活動を支援した。

 ソヴァは生れつき抒情詩人であった。それは彼の叙事詩についても見られる。そのなかで先頭をきったのが『ある人物と彼の歓びについてのバラード』(Balada o jednom cloveku a jeho radostech,1902 )である。それは文字どうりの意味でのバラードではない。10行124節のこの詩に事件らしいものはほとんどなく、ある人間のアレゴリー化された反省の連鎖であり、この人間はすべての歓びを失い、最後に自ら首をくくるのである。しかし本当の意味での実際のバラードにも『バラードの書』で到達している(Kniha baladicka,1915; 彼の作品集のなかでは『ある人物と彼の歓びについてのバラード』もこの巻に収められている)。古典的エルベン風のバラードとはことなり、ソヴァは超自然的力zivel)にも制限を加えている。彼の人物たちは中世時代のもの(騎士、王子)もいるが、現代の人物もいる。彼にとっての重要な問題は近代的人間の感受性(センシビリティー)の表現であり、それゆえに抒情的要素を強調する。官能的モティーフが優勢である。ソヴァの表現は時によりエルベン的魔力に迫っている。


アンジェリカとともに外に出る。夜は暗く
星もない天空は青さをふかめる
ここにあばら屋がゆれている。向こうには溶鉱炉が煙をはいている
おお、大切なアンジェリカよ、私はおまえを連れていこう
そして、あの娘の腰をどんなふうに抱いたか、一歩あとから
娘は花の咲き乱れる上を、どんな風に跳んで逃げたか
そこでアンジェリカにささやいた「どお? 覚えているかい?」


 別のときには、すでにヴォルケルのイントネーションが響いているかのようだ。ソヴァは実際、エルベンとヴォルケルのバラードの間の橋渡しをしているのである。例えば、次の詩行を比較するといい(芸術家について述べているところだ)。

彼は仕事に没頭しながら
超現実的な夢に興奮しながら、語った。
いつも未来を大きな目で見据え
ひたすら常に心は白雲の上を
人類を通して現在を、そして情熱を
そして話に聞いただけの、その国の上に目を向ける。


 ソヴァの散文のうち最もよいのは短い印象主義的な構造のものである。この領分に属する作品としては彼の散文の処女作『散文』(Prosa,1898)がすでにそれである。これは彼の印象主義的な詩と対をなす。そこでソヴァはフラヴァーチェクとともにわが国の近代抒情散文、また散文詩(basen v proze )の創始者となった。あまり幸福と家ないのが小説の分野である。ここで最初に描かれたのは市民的環境に融合できない、ある多感な人間である。

 ソヴァは短い散文から出発して今世紀の初頭には抒情的ロマン『イヴォのロマン』(Ivuv roman,1902 )において膨大な叙事詩に到達している。ここでは彼が短編小説で取り扱ってきたのと同じような人物が描かれている。ただ、領域が広がっただけである。事件はほとんどない――むしろ、とぼしくさえある――だが気分の描写はある。主要人物は夢想家のイヴォであり、すぐれたピアニストの娘シュチェパンカに恋をする。彼女は才能豊かな音楽家リヒャルト・コルマンと親密になり、彼女はピアノの伴奏によって彼の新しいレパートリーの練習を助ける。リヒャルトがシュチェパーンカにジョイント・リサイタルを開くよう誘ったとき、イヴォは、彼女への愛が冷めたという手紙を出す――それによってイヴォは苦しむのだが、それはシュチェパーンカにとっても苦しみであった。次のソヴァの二編のロマン『貧者の行進』(Vypravy chudych,1903)と『トーマ・ボヤル』(Toma Bojar,1910 )は近代チェコ散文学の発展に大きな痕跡は残さなかった。

 詩『愛と生活の抒情詩』と対をなすのが連作短編(チクルス)『たわむれの恋、真実の愛と裏切りについて』(O milkovani,lasce a zrade,1909)である。ソヴァの最良の作品はバロック時代に題材をとった歴史小説『小学教師パンクラーツ・ブデチウス』(Pan krac Budecius,kantor,1916 ;後にチクルス『苦労の回転木馬』Kolobeh starosti のなかに収められた)である。主要人物は小学校教師で疫病を恐れて妻のリーザが彼のもとを離れて城館に逃げこんだあと、彼は酒場にいりびたり、自制のない生活におちこみ教師の職から追放される。彼は息子からも引き離され、ブデチウス自身は放浪者となる。それでもブラチウスは他の村で教師の職を得るが、絶えずプラハにいる息子を訪ねたいと思いつずける。息子はその間に教会合唱隊の指揮者となり有名になっていた。彼の望みは満たされ、妻のリーザのもとに帰り、余生を安らかに過ごす。この小説の全体を覆うのは均衡のとれた落着いた気分である。散文は緊密小説(sevrena novela)への努力との関連で書かれたが、この努力はわが国では1910年頃浸透していたものである(いわゆる、新古典主義=novoklasicisumus)。

 ソヴァは作家としてはとくに気分描写の名人であった。彼はデリケートでムーディーで和声的かつメロディックな詩を作った。その音栓(ストップ)は非常に豊富である――切れ切れの短いものから、朗々と溢れんばかりの賛歌的表現にいたるまで――。ソヴァの比喩(メタファー)もまた豊かである。それは具体性をはるかに越え、具体的な現実への関係を失っているほどである。ソヴァの社会的ヴィジョンはしばしば抽象的であるが、それにもかかわらず暗示性(サジェスティーヴネス)を失っていない。なぜなら詩人がおのれの全人間性を傾注してそのヴィジョンを弁護しているからである。それゆえに彼は新しいチェコスロバキア国家の若いプロレタリア詩に挨拶を送り、それに参加を表明しているのである。




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