(20) カレル・チャペック―ホド Kare1 Matej Capek-Chod
この章の序論で述べたその他の傾向、潮流のなかで最も大きな反響を得たのは自然主義である。同時代者たちは自然主義をその一見正確に見える手法のゆえにリアリズムよりも「本当らしい」と思いはしたが、同時にそれが不道徳主義に見えるため、しばしば拒否してきた。こうして、ゾラを先頭とするフランス自然主義の作家たちがわが国の広い読者層に御目見得する前に、自然主義やその父であるフランスの小説家E.ゾラについての議論がはじまった。当時、自然主義の側に立って闘っていたのは、とくにヴィレーム・ムルシュティークである。彼は当時の人々が自然主義とはっきり区別しえずにいたロシアのリアリズム文学にも造詣が深い。
同時代者が自然主義の本質とみなしていたところのものの典型的例と言えるのはカレル・マチェイ・チャペック−ホトの『最西端のスラヴ』(Nejzapadnejsi S1ovan,1893)という個性的な「ロマネット」である。この作品は「三章よりなる物語」と副題に記されている。第一章はロマンティック、第二章はリアリスティック、そして第三章は自然主義的である。
第一章の「ロマンティックな」章では物語はまるでアルベスのロマネットを思い出させるような雰囲気のなかで展開する。天文学専攻学生のフヴィエズダは人気のないマラーストラナの宮廷のなかに入り込む。するとそこヘロココ風の美人が馬車でやってくる。フヴィエズダは彼女にキスしようとするが美女は彼を追いはらう。フヴィエズダは逃げる際、門から内側の取っ手をもぎ取っていく。
第二章は、チフスの高熱の後遺症として記憧を喪失したフヴィエズダが三カ月後、病院のなかで記憶を取りもどすところから始まる。多分、これによってアルベス風のロマネットは終わるといえるかもしれない。しかしチャペックはフヴィエズダがこの残酷な生活から立ち直っていく様子を描き続ける。彼は記憶喪失のゆえに勉学を断念せざるをえなくなる。そして遠縁のものが彼に駅馬車のチェコの最果ての小駅ドマジュリツェ(Domazlice)に職を見つけてくる。この生活の散文のなかにはいぜんとしてロマンティックな光が差している。たとえば、出発を前にしてフヴィェズダは走っている馬車のなかにロココ風の美人に似た貴族の婦人を見出だす。しかも彼女の馬車の紋章は熱にうかされたときに見た美人がつけていたのと同じである。
自然主義の章は小さな宿場駅でのフヴィエズダの人生の悲劇的挫折である、彼は駅の小使の無学な娘との結婚の許可を駅側から得るために永久にこの地にとどまる契約をし、子供が生れるのを待つ。一時、これは土地の貴族との間に出来た不義の子ではないかという気がする。この貴族は夢のなかの美人の紋章に似た紋章をもっていた。しかし、それは単なる妄想だと自分自身に納得させる。
このなかには実際、後のチャペック−ホトの本質的特徴のすべてがある。とくに人生の残酷なアイロニーである。フヴィエズダは試験の直前になって勉学を放棄せざるをえなくなる。なぜなら記憶を失ったから。彼は永久にこの小駅であくせくするだろう。その小駅の駅員は彼と老小使だけなのだ。彼は夢に見た貴婦人の代わりに無知な小使の娘を嫁にする。――彼は自分にいう。「すべてはいろんな偶然の一致によって作りあげられた幻想だったのだ。やっとそれがわかったよ・・・・・・終わってみれば、すべてが馬鹿げた、ごくありふれた、つまらぬ話だったんだ」と。その通りである。しかし状況はけっして馬鹿げた、ありふれたものではない、むしろグロテスクに見えるように、そして、人生が配ってくれるのはバラの花なんかではなく、アイロニックな痛打であることがわかるように、「人生の苦笑い」が見えるように技巧的に構成されている。チャペック−ホトはシチュエーションをある種のロマン主義者とそっくりに不条理に構成した。しかし、そこからロマンティックな半明りを排除し、作品の主人公たちを地面に――多少、誇張して書えば――泥のなかに突き倒しているのである。
カレル・マチェイ・チャペックは1860年にドマジュリツェで生れた。法律の勉強をおえることなしに、ある保守的出版社の記者となった。1884年から1888年までオロモウツ(Olomouc; 彼の処女出版『短編集』Povidky,1892 の大部分の作品はこの地に設定されている)で働き、その後1900年からはプラハの「国民新聞」(Narodni listy)で働く。そして、後にはこの社の編集部でチャペック兄弟といっしょになり、カレル・チャペックと区別するために自分の名前に「ホッド」という称号(出身地名)をつけたのである。そして没年は1927年である。
チャペック−ホトを自然主義と結びつけたのは、とくに「必然性によって導かれる」決定論(デテルミスムス)であった。つまり人間は外的な環境によって一方的に決定づけられる無力な操り人形だというのである。ここからチャペックの創作手法として環境の広範な描写への強い傾向が出てくる。それは彼の長所でもあり、短所でもあった、なぜをら、それによって全体の構成が壊れたし、またわき道や、長ったらしい記述は叙事詩的価値を損なうからである。さらにチャペックを自然主義と結びつけたのは、社会を大きな広がりのなかに描き出そうとする努力であった。それゆえ何人かの人物はいくつもの作品のなかに登場してくる。しかしフランスの正統的自然主義に反して、チャペックの場合、社会にたいする「自然科学者」の没個性的な姿勢はない。客観性にたいする努力は作者のたび重なる使用に過剰気味である。
人物たちから距離を保ち、彼らを、上から見下しているものの、場違いな悲喜劇的状況を選び、また配列する。そして、そこにははっきりとした皮肉(シニシズム)が見られるのだが、それは悪をおもしろがる本当のシニシズムではなく、大袈裟なしぐさで同情を隠そうとする子供じみた努力である。
チャペックは人生にたいして強者のように、それどころか勇者のように立ち向かおうとつとめた。それゆえに、彼の人物たちが願望する人生と、現実にある人生とのギャップが一段と大きくなってくる。同時に人物たちを彼らの願望の高みから地上に突き落とす。
女医は産婆として終わるし、希望にあふれた天文学者は計算係りに、宮廷顧間官と工場経営者は絵ハガキ商人に、デビューした歌手はみじめな練習ピアニスト(コレペティトール)の妻になって終わる(Turbina)。
これは仮面舞踏会、しかもぞっとするような仮面舞踏会だ。しかし、チャペックの時代の救いようのない状況をよくとらえている。チャペック−ホドは市民階級にたいして社会の「どん底」の人物たちを対置させているが、彼らを労働者階級にとうごうすることはできずにいる。そして、むしろブルジョアジーの仲間入りをしようという空しい試行のなかに彼らを置いている。
チャペック−ホトは自分の描く環境を熟知していた。とくにブルジョアジーの世界と芸術の世界(彼は美術批評、演劇批評をも書いた)である、彼の表現手段は豊富であり卑俗語や専門語、ドイツ語を使いこなす。彼の文章は多くの分節に分れており、しばしば不明瞭で、無秩序な場合がある――それと同時に彼のロマンの構成も、氾濫した河のようにだらだらと広がっていく。彼は様々な新語や古語にも執着した。(たとえば、 mzikypohled、poruzny list setrasl nadrzene krupeje,zapekly pitec cernych piv,uz lezela pred nimi nici)
短編処女作品(Povidky,1892、および先に述べたロマネットNejzapadnejsi Slovan)の後、チャペックはロマン『第三法廷』(V tretim dvore,1895)にいたる。ここではまだ社会にたいする広い視野よりも人物たちにかんする関心が優越している。チャペック−ホッドの最初の傑作ロマンは『復讐者カシュパル・レーン』(Kaspar Len mstite1,1908)である。この作品は自分の愛人を誘惑した裕福な商人に復讐する労働者の物語である。
チャペックの最上の作品は市民社会を描き、それを広いショットでとらえようとした作品である。これに属するのが工場主の破滅と、同時に起こるその娘の芸術的挫折と、要するに家族の破滅の物語『トルビナ』(Turbina,1916)と貧しい詩人の堕落を扱った『アントニーン・ヴォンドレイツ』である(Antonin Vondrejc,1917-1918; 部分的に『死のときに当たりて』In articulo mortis というタイトルで1915年に出版された)。
両大戦間期にチャペック−ホドはさらに三編のロマンを出版している。『インドル家』(Jindrove,1921; 父と息子の関係についての物語。ここでオーストリア軍に入ったチェコ兵士の戦争の印象と感情を描いている)と芸術家についての二部作『ヴィレーム・ロスコッチュ』(Vilem Rozkoc,1923)と『ルジェシャニ』(Resany,1927)である。ロマンとともに何冊かの短編、中編小説をも書いた(『日曜物語』Nedelni povidky,1897;『ノヴェル五編』Patero novel,1904;『新五編』Nove patero,1910:『五編第三集』Patero treti,1912;『強者と弱者』Si1aci a slabosi,1916,その他)。
チャペック−ホドは鋭い観察者であり、簡潔な筆致で一風変わった人物を描き出す能力をそなえていた。一例として、ロマン『アントニーン・ナォンドレイツ』から貴婦人の記述を引用しよう。この婦人はあるユダヤ女の子の名づけ親になろうとしている。このユダヤ女は自分が産んだ不義の予を結婚による正当のものとするために洗礼を授けてもらおうというのである。
彼女の頭は肩のうえでほんの少し揺れていた。すると、それがこの上もなく高貴に見えるのだ。貴婦人の身につけたものも、すべてはその高貴の身分に付与されたものだった――たとえば、その衣装、それはきわめて地味な仕立てではあったが、最高級の絹地のものであることが光のなかにはっきりと見えていたし、比較的小作りな手足、指の先にいたるまでのすべてが、何世紀にもわたって培われたものであり、かつて働くことも知らねば、歩くこともまれなもの、だが、何よりも彼女があまりにも明々白々な血統の誉れとして誇らしげにひけらかす、これ見よがしの当然さ、健康をあらわにした血色のいい顔の醜悪さ、それなしにはだれ一人ピフノウスキー家の姫君ではありえない印――きわめて際立った、かなり濃い目の口ひげといったものである。それあればこそ、このピフノウスキー家の女系継承者はプラハの教会の信心深い民衆たちの口に、プラハの守護聖女と呼ばれているのである。それというのも、ハート型の輪郭を見せたこの貴婦人の顎にもそれほどはっきりとはしていないものの、それでも否定しがたいほどの顎ひげの縁取りを認めないわけにはいかなかったからだ。
ここでとくに目につくのは太った老婆と童話のなかのお姫さまのイメージとのギャップである。その上、守護聖女さまにたいする言及は残酷でグロテスクである。守護聖女さまはひげを生やしていた。だから、甥たちは彼女に注意を払わなかったし、われらの貴婦人は甥たちにわずらわされることもなく、またその処女性を損なうことのなかったのも、そのひげのおかげであった。そして、そのひげが彼女を善根をほどこすという行為に、とくに教会での緒婚式を処置することで私生児を正当なものにする行為へと間接的に導いたのである。
さらにチャペックがいかにグロテスクな状況を創造することに長けていたかを示す別の例をあげよう、工場主ウルリク(Ullik)の義理の兄弟、せむしの変人で詐欺師のアルニム・フレイ(Arnim Frey)は『トルビナ』という作品の主要人物の一人である。彼は「犬よりも忠実な」それどころか「影よりも忠実な、なぜなら、真っ暗闇のなかでさえ彼から離れようとはしないから」なのだが、そういう女中のジョフカ(Zofka)を追い払おうとする。この女がアルニムの隠れ家で一夜をすごしたとき、彼女は彼のもとから去ろうとしない。
……もし、家に帰ったら、父親がこの女を八つ裂きにして氷の張る外に追い出してしまう。でも、帰らなかったからといって誰も自分のことを尋ねもしないと言うのだった。「あたしたちの誰かが一晩でも家に帰らなかったら、もう絶対に家には帰れないのよ!」ジョフカは哀れなほどの単純さをまるだしにして告白した。
みんなで何人いるんだという問いに、娘が七人よと答え、そのうちもう家に帰れな
いのが何人かという問いに、自分でもう三人目だと答えた。しかし彼女の姉たちは何も
悪いことはない。二人とも結婚しているからだというのだった。
この答えにアルニムはぞっとした。
この女の親父は何者だ?
葬列指揮官。
葬列指揮官とはいったい何だ?
それは第一級の葬式のときに、白い羽様かざりをつけ、吊り帯をして剣を腰にさげ、十字架の前を歩く男のことだ。その他のものは松明持ちで白い羽根かざりまではつけていない。彼女の父親は司祭さんよりも数多く葬儀に立会っているが、ただ父親はそれでお金をもらっていない。なのに司祭さんはもらっている。これはなんだか不公平じゃありませんか?
アルニム・フレイ氏はこの報告を頭のなかで何度もくり返し考えながら部屋のなかを足早に歩きまわった。
そして第一級の葬式がないときは父親はアカデミーに行っている。そして、ただそこに立っているだけなのだ。でも、これは葬式よりも金になることがある。しかし、この立ちんぼうは他のどんな職業よりも悪い。彼の場合、三十分ごとに休まねばならないからだ。靴屋だって休みはしない。その上、父親はクラスのあと筋力を保つためパン屋で薪割りをしなければならない。
きっとこの女の二人の姉たちは――アルニムは考えた――やっぱりどっかの青二才のところに泊まりこんで、女房にしてもらうまでは金輪際動こうとしなかったんだ。どうせ、そんなやりかたで結婚しあがったんだ、こいつんとこの――
「おまえの姓はなんと言うんだい、ジョフカ?」
彼女は少し恥じらいながらつげた。
「ペチュリーコヴァー……」
(21) 自然主義者たちのその他の作品から
もしチャペック-ホドが自然主義のペシミスティックな顔の代表者だとするなら、その楽天的な表情を代表しているのが『五月の童話』のヴィレーム・ムルシュティーク(Vilem Mrstik,1863−1912)である。彼はイムラモフ(Jimlamov)の出身で、法律の勉強を中断したのち、1889年から兄のアロイスとともにディヴァーキ・ナ・モラヴィエ(Divaky na Molave)ですごした。彼は作家としてだけでなく批評家としても意義をもっている。 思想的に彼に影響を与えたのはビエリンスキイ、ドブロリュボフと西ヨーロッパの作家ではゾラだった。彼は批評的論文で自然主義とロシア文学を宣伝し、またロシア文学の翻訳もしている。
彼の最初のロマン『サンタ・ルナア』(Santa Lucia,1893)は大都市にたいする告発である。彼は貧困のためプラハで死んでいく貧しいモラヴァ出身の大学生の運命を描いている。
人生にたいする歓喜に満ちた関係は『五月の童話』(Pohadka maje,1897)に浸透している。この作品でムルシュティークは美しい自然のなかでの生活が、いかに人間を変えていくかを示している。これはブルノ近辺を舞台とした健康な生活と自然から受ける歓びの賛歌である。舞台(オストロヴァチツカー・ミスリヴナとその周辺の森)は今日ムルシュティークの記念のために「ポハートカ・マーイェ」と呼ばれている。
ムルシュティークは小説も書き、また、戯曲『マリシャ』(Marysa,1894;後述参照――兄アロイスと共作)によってリアリズム戯曲の発展に関与している。とくに自然の印象主義的描写は彼の得意とするところであった(『村の一年』Rok na vsi はアロイス・ムルシュティークが主な著者であるが、自然抒情詩的記述は明らかにヴィィレームに由来している)。
自然主義に属するその他の作家から、さらにシュレイハル、メルハウト、および若い世代からティルショヴァーをあげる必要がある。
ヨゼフ・K・シュレイハル(Josef K.Slejhar,1864−1914)は書記から地主となり最後には商業学校の教師となったが、短編小説と比較的規模の大きな農村生活を題材とした散文にひいでていた。しかし彼はそれを牧歌的農村としてではなく地獄として描いたのである。その立場はすでに処女作『欝病の家禽』(Kure melancholik,1889)によってすでに示されている。この作品は、死につつある子供と、これまた死につつある家禽との間の対比(パラレリズム)にもとづく小説である。徹底したペシミストとしてシュレイハルはその散文作品のなかに罪悪のおどろおどろしい情景を積み重ね、暗示性をたっぶり利かせてそれらの情景を描いている。
彼の主要な目的は気分(ムード)の喚起であった。披は人間の社会を決定論的にとらえ、彼にとって悪は形而上的な力として現れるのである。彼の説によると自然の原理とは情け容赦のない生命を求める戦争である。そしてそれは人間社会にもあてはまる。これによってシュレイハルは農村というものの伝統的な、牧歌的な理解をうち破り、彼流の激烈なスタイルによって弱者と、片隅に追いやられた者たちにたいする同情の念をかき立てる。しかし、同時に、その極端な一面性によって自分の描く状況の説得性を弱めてもいる。
短編(『自然と社会の印象』Dojmy z Prirody a spolecnosti,1894;『人生の忘れ物』Co zivot opomiji,1895)のほかに、彼は長編規模の散文作品を書いている。これらの作品はあまりにも細部にこだわりすぎて、構成に緊密さを欠いている(『地獄』Peklo,1905;『菩提樹』Lipa,1908;『人殺し』Vrazdeni,1910)。
ズビロフ(Zbiroh)生れのヨゼフ・メルハウト(Josef Merhaut,1863−1907)ほモラヴァの風物ととけあっている。彼は1885年から死ぬまで新聞記者としてブルノですごした。彼は自然主義的な短編のなかでブルノ周辺の雰囲気をその階級的、民族的対立をまじえて描き出した(『毒蛇とその他の短編集』Had a jine povidky,1892;『黒い野』Cerna pole,1896)。メルハウトのロマン(長編小説)はブルノの雰囲気を多少伝えてはいるものの、社会問題からの逸脱が認められる(『天使のソナタ』AndeIska sonata,1900;『ヴラノフ』Vranov,1906)。
アンナ・マリア・テイルショヴァー(Anna Maria Tilschova,1873−1957)は今世紀の初めの40年間をその作品で満たしている。彼女はプラハの裕福な家庭に生れ、また大学教授の妻としてプラハの上流社会ばかりでなく学者や芸術家の生活をもよく知っていた。彼女ほ描写の記録性のゆえにこれまで自然主義者のなかに加えられていたが、彼女の最高傑作においては独自の世界を構築しており、それによって一面的な自然主義を大きく踏み越えている。
テイルショヴァーはその主要作品においてブルジョア階級没落期の市民家庭の生活を描いた。その点では主題的にチャペック-ホドと通じている。この種のものに属するのは、例えば、ロマン『ファニー』(Fany,1915)、『旧家』(Stara rodina,1916)、『息子たち』(Synove,1918)、『母と娘』(Matky a dcery,1935)、および『帰還』(Navrat,1945)である。ロマン『相続人たち』(Dedicove,1924)では新しい社会勢力を発見している。
ここでは素朴な娘への愛が主人公をブルジョア社会から引き離している。テイルショヴァーはロマン『ごみため』(Haldy,1927 でオストラフスコのプロレタリア階級の環境を描写したが、彼女はそのような環境を作品のなかに取り入れたわが国の最初の作家の一人である。ここで彼女は社会にたいする階級的視点を獲得している。物語は第一次世界大戦の間に展開する。
幾つかのロマンでは芸術家の問題を取り上げている(『贖罪』Vykoupeni,1923;『鷲の巣』Orli hnizdo,1942;『三本の十字架』Tri krize,1940:これらの作品のうち最初のものはA.スラゲィーチェク Slavicek の生涯から幾つかのモティーザを描き、第二作はマーネス Manes の家庭を描いた)。ロマン『母校』(Alma mater)では大学の状況を描きだした。この一群のロマンの重要性は作者が劇作家個人の社会的責任の問題を取り上げていることである。そして、これによっで社会にたいする個人の関係を認めない個人主義と論争を構えているのである。彼女は多くの短編も書いている(彼女のデビュー作は1904年の『十七の短編』という作品集である)。テイルショヴァーはすぐれた心理学者だった。なぜなら人間の人格を図式的にではなく、その矛盾性のなかでとらえたからである。
(22) フラーニャ・シュラーメクと散文文学における印象主義
チャペック−ホトについて、彼のロマンの緊密さの不足は細部に神経を集中し、それを詳細に述べることによって主要な事件の線が分断されることから生じていると指摘した。別の側面から叙事的価値を揺るがせていたのが印象主義的手法だった。その最もいい例がフラーニャ・シュラーメク(Frana Sramek)のロマン作品である。
シュラーメクは1877年に役人(urednik )の息子としてソボトカで生れた。小学校とギムナジウムをピーセク(Pisek )とロウドニツェ(Roudnice)でおえ、その後、法律を学んだが途中でやめ、文学だけに没頭した。S.K.ノイマンの周辺にあつまるアナーキスト集団と接近し、政治的にも活動して、投獄さえまぬがれないほどだった。戦争中は兵役につき、戦後はグループを離れて孤立し、プラハですごした。第一次世界大戦直後のヴァイタリズム(vitalismus)による彼の作品が最も大きな反響を得た。1952年に亡くなった。
シュラーメクはあらゆる種類の文学を手がけたが、そのなかで最も大きな意義を有するのは散文作品である。しかし、ここでは彼の作品を伝統的図式に従って検討しよう。まず詩から始める。シュラーメクは すべての彼の同世代者と同様に デカダンスの雰囲気のなかから生れた。しかし生命にたいする激しい愛は彼をとりわけエロチックな色彩をほどこされた歓喜のヴァイタリズムへと導いた。偽善的因習に拘束されない充実した生命にたいする願望と結合した市民的生活様式にたいする憎悪は、実際、シュラーメクの文学作品全体の独自の性格となっている。その姿勢はすでに彼の最初の詩集の題名『人生の苦しみよ、それでも私はおまえを愛す』(Zivota bido,prec te mam rad,1905)が言いあらわしている。ここでは人生にたいするデカダンス的姿勢ばかりでなく、デカダンス流の創作的表現手段さえもが克服されていることを示している。シュラーメクには自己目的的装飾性は無縁である。なぜなら、そのなかには一種の欺瞞性が見えかくれしており、それゆえにまた小歌の形式までも取り入れようとするからだ。また彼の印象主義は90年代の印象主義のありようとも異なっている。だから、ハーフ・トーンでとらえる芸術や、逃げ去っていく時間を捕えようとする努力に最適なムードを描写する芸術、そして現在からできるだけ多く吸収するという芸術にも関係がなかった。シュラーメクの世界観は一貫して唯物論的なのである。だからこそ彼はこれまでしばしば非難されてきたように、とくに官能的に、それどころか動物的に人生を充実させようとしたのだ。そこには欺瞞に満ちた、腐蝕したような知性主義はない。
充実した人生を強調する姿勢はシュラーメクを政治参加の詩へと導く。そして彼の反軍国主義の源泉となる。このことは詩集『青と赤』(Modry a rudy,1906 )のなかに十分にあらわれている。この詩集は広い読者層にむかって軍国主義にたいする弾劾として語りかけたものだ(青色は軍人を象徴し、赤色は無政府主義の象徴である)。この本は没収されて、帝国議会における社会党議員の追及ののちに出版することができた。著者は「軍人の旦那」に引きずり回される民衆出の無教養な兵士の立場に立っている。そして、その姿勢によってハシェクを先取りしていると言える。人生の単純な事柄に陶酔しているシュラーメクの表現は詩集『堰(せき)』(Splav,1916)である。彼は後年になってまた詩にもどってくる(『新しい詩』Nove basne,1928;『まだ鳴りやまぬ』Jeste zni,1933)である。
第二次世界大戦の勝利の印象は『打撃、バラ』(Rany,ruze,1945)のなかに収められてい
る。
すでに述べたように、シュラーメクの著作の重点は散文にある。彼は詩において取上げたのと同じ問題にたいして散文作品ででも回答している。それは、まずなによりも感情的生活の賛美よってである。
散文作家としてのシュラーメクは社会批判を表明した短編小説によってデビューした。彼はそれらの作品を1903−1909年のあいだに五巻にまとめて出版した。これらの作品は著作集のなかでは『最初の二十一作品』という共通のタイトルのもとにまとめられている。最も大きな反響を受けたのはエロチックな題材をもった散文作品である。短編のなかでは作品集『はこやなぎ』(Osika,1912)と『ピアノとバイオリン』(Klavir a housle,1920;著作集のなかでこの両作品は『嵐と虹』Bourky a duhy という共通タイトルのもとに収められている)である。大型の散文作品のなかでこれに属するのは三つのロマンである。その第一は学生ロマン『銀の風』(Stribrny vitr,1910)である。シュラーメクはこの作品で成長することの困惑と、その一方、いまだ成熟せざる青年の美をも描いた。主要人物のヤン・ラトキン(Jan Ratkin)は大人へ成長する過程の若者として描かれているが、今世紀初頭のわが国の若者像として最高のものである。次のロマンは『十字路』Krizovatky,1913 )である。この作品では勉強のなかにも、故郷の田舎に帰ることにも目的を発見できないで、女性関係においても挫折するといった「無駄な人間」のチェコ的タイプが描かれている。このロマンのなかではリアリスティックな分析が血族的呪いという非合理な要素と結びついている(これは後にロマン『わな』Past,1931 のなかで異なった形でくり返されている)。シュラーメクの最高傑作ロマンは『肉体』(Telo,1919 )であり、第一次世界大戦後の若い世代に大きな影響を与えた。主人公は中流家庭、理髪師の娘(
で技師と結婚するマーニャ(Mana)である。マーニャは動物的な、健康な意味で、動物的タイプである。戦争が勃発し、夫が入隊したときマーニャは頼るべき支柱を失う。ロマンの末尾で彼女は言う。
なんのためにお行儀よくしなきゃならないの? 世界が悪いのに。世界のだれもふ り向いてもくれないというのに。ある日、世界が戦争だと言ったら、何もかもが戦争 一辺倒。夫まで連れていく。その夫がまたおまえなんかに見向きもしないで行ってし まう。
・・・・・・・
戦争なんて、誰かが勝手にこさえあげるんだ。あたしにおかまいなく、あたしたち の思いとは裏腹に、あたしたちが苦しむように、戦争をこさえあげる。わたしたち女 が体をよじらせて、あの人たちを待ちわびるように、あの人のことが心配で心配でた まらなくなるように。とんでもない、あたしたちは苦しみたくないわ。あたしたちが 欲しいのは愛よ。戦争じゃない。幸せになりたいのよ。戦争はいや
同時代の批評において『肉体』は相反する反応を喚起した。評者の一部は健康なヴァイタリズムを評価したが、他の一部はシュラーメクの肉体へのこだわりを非難した。シュラーメクは自分の戦争体験を短編のかたちで作品集『臆病な兵士』(Zasnouci vojak,1924 )にまとめた。かれは素朴な兵士が戦争のなかで戦争機械の無意思の、受動的な歯車になっていき、他国の利害のために無名戦士への道をまっしぐらに進む様子を描いている。叙述は屠殺場へ追いやられた兵士にたいする同情に貫かれている。しかし、ハシェク的残酷さはない。
エロティックな主題はシュラーメクの劇作品のなかにもあふれている。とくに若い人物たちが成功している(『六月』Cerven,1905;『夏』L eto,1915; 『川のうえの月』Mesic nad rekou,1922)。これらのものよりは多少劣るとはいえ、当時の時代的問題を扱ったドラマについても触れておくべきだろう(『ハーゲンベック』Hagenbek,1920;『鐘』Zvony,1921)。
瞬間に身をゆだね、その瞬間を直接的にとらえようとする努力はシュラーメクの長所であったが、それはまたそれなりに弱点でもあった。つまり一面ではこの努力は作者の関心を主人公の一身に集中させることにより、より広範な社会的問題性から遠ざけ、また他面では純粋に叙事的価値からも遠ざけることになった。シュラーメクのロマンは十分堅固な構造をもっていず、階級的視点から見られた諸事実の論理というよりは全体的な雰囲気によって効果を発揮している。そのうえシュラーメクの楽天主義は思い違いである。官能はほんの瞬間だけ魅惑する。だが、その後に残るのは虚無感だけである。シュラーメクの楽天主義のんかにも、またその底に肉体的体験のはかなさについての悲しみが横わっているのだ。しかしシュラーメクの語り部としての芸は最も単純素朴な事柄からもポエジーの火を呼び起こすことができる。小例として『肉体』から暖炉とランプの火についての部分を引用しよう。
火とは突拍子もない男の子だ。後先のお構いなしに、ものすごい早口でまくしたてる。何を言っているのかわかりゃしない。でも聞いているのも悪くはない。ボーボーボーと音をたてる。それというのも自分が冗談を言おうとしていることをわかりやすくしようとしてのことなのさ。
暖炉のなかで、暖炉のそばで起こっていることはきっと興味しんしんだろうよ。部屋中がそれを見に集まってこようとしている。部屋にはいま百の目があり、そのどれにももう恐怖の色はない。あるのは何か親しげな、そして何か素晴らしいこと、何か甘い空想をかきたてるような何かを期待する目があるだけ。それはまるで子供の目の輝き、小川のほとりの忘れな草、天の星だ。例えば、いまおまえにはランプが自分だって暖炉のなかの火と同じようにみんなの役にたっているのに、誰も注意を向けてくれないと、暖炉の火にやきもちを焼いているように思えるだろうね。もちろんランプにはゴーゴーとうなる声は授かっていないけど、自分の仕事に黙々と精をだしているのさ。近寄ってよく見てごらん、それはやさしい手だからできる仕事だよ。そして仕事をしながらできるだけ低い声で歌さえうたっている。その風情は白い布地の山にとり囲まれた上品な奥さまにそっくり、その奥さまは決して人を追い払ったりしない。もし近付いて奥さまの手をじっと見つめてごらん。そしたら奥さまは、君たちの好奇心に困ったように微笑をするだけだ。そんな奥さまに似て、ランプはおだやかな喜びのような光の輪をただよわせている。この輪のなかに入っていくと、ランプは君にあいさつして、今晩はと言うだろう。
奥さまはいぶかしげに辺りを見まわす。ボーボーボー、暖炉のなかで火がふざけている。今晩はとランプが言う。机は大得意。ランプにはいちばん近いし、よいものは全部すぐにも手のとどくところにある。いま、誰かが来るのをしぶったとしても、なるほど机の前にすわるのがいちばんいいということがすぐわかる。窓だって嬉しいの だ。この黒いほうの半分は冬の街のなかにあり、もう一方の半分でこの部屋のなごやかさに加わっているのだから。朝になるまでには、たぶん氷の花でおおわれているだろう。でも、ここには、ここには暖炉のなかにお人好しの火がいる。その一方では氷の花だ。でも、それは、たぶん私に痛みを感じさせるものではない。これでは私の背 中が冷えて、とても眠れない。こんな夜には作り話を勝手気ままに考える。それであなたの気に入られるようにしたいのさ。それなのにあなたはだだ、窓と霜としか言わないんだもの。でもいいの。私にだって少しくらいは芸術的センスってものがあるんですからね。どう、奥さま。この私の空想でパンを作りますか? いかがです?
ここでのシュラーメクの描写は物にたいする信頼関係によってヴォルケルを、そして同時に、柔らかく流暢な語り口で K. チャペックを先取りしている。そしてこの語り口はなめらかなイントネーションと同様に、ありふれた事柄にもある親しみをもたせる芸によってもたらされている。
印象主義に加えられる作家としては早世したヨゼフ・ウヘル(Josef Uher,1889-1908)がある。彼はブルノの小学校の教師で『流浪の人々にかんする章』(Kapitoly o lidech kocovnych,1906)、『わが旅』(Ma cesta,1907 )、および『幼年時代とその他の短編』(Detstvi a jine povidky,1909 )などの作品集で貧しい人々、とくに労働者や放浪者の生活を描いている。
彼の同世代でブルノのジャーナリスト・ルドルフ・チェスノフリーデク(Rudolf Tesnohlidek,1882-1928, 生れはチャースラフ Caslav )はとくに裁判記事読物の筆者として、また『利口な小狐』(Liska Bystrouska,1920 )の作者として読者に知られている。この作品は L. ヤナーチェクの有名なオペラのもとになっている。彼の世紀初頭からの印象主義的散文作品は『その他のなかの二編』(Dva mezi ostatnimi,1906 )と『その他のなかの花』(Kvety v jini,1908 )という作品集のなかに収められている。
同時代の批評によって典型的な印象主義的散文作品集とみなされていたのはイルジー・マヘンの『木鉢』(Dize)である。マヘンについては別の関連でこの後の章で述べる。
印象主義散文の理論家はカレル・セジマ(本名カレル・コラールシュ Karel Kolar,1876-1949、職業は役人)であり、自分でも散文作品を書いた。そのなかで彼は感覚の描出を目指した(例えば、『別れの魔術』Kouzlo rozchodu,1898, 『トケイソウ』Passiflora,1903 )。批評家としてはシャルダを継承している。
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(23)ルージェナ・スヴォボドヴァー Ruzena Svobodova
これまでに述べてきた散文作家の場合、究極的には現実感覚が勝利をおさめることになったが、ただ、その現実感覚に到達するのにはいろいろな手法があり、失敗に終わることもまれではなかった。象徴主義の手法がただ小さな広がりのなかでのみ十分発展することができ(それゆえに、また、とくに抒情詩の領域を支配した)、大規模な叙事文学には不向きであったことを考えに入れるならば、文学のこのような展開は当然ともいえる。同様に印象主義的手法もまた叙事的価値を蝕んだ。
たしかにデカダンスの散文の試みは存在した(カラーセク)。しかし「純粋な」デカダンスの試みが象徴主義の分枝として現れたかぎりにおいては、それらの試みは発展しなかった。デカダンスの挫折者の間題は自然主義的手法によってより一層有効に生かすことができた(ヴォンドレイツとチャペック‐ホッドと比較せよ)。即物的現実から霧に包まれた象徴主義へ徐々に傾き、その方向へ発展していった唯一の才能ある作家は、ルージェナ・スヴォボドヴァーであった。
スヴォボドヴァーの主題は総じて近代社会の荒波に翻弄されるか弱き女性の運命であった。そこで解決を求められている基本的矛盾は人生の理想と現実の人生との間の矛盾というこの作家の生きた時代に典型的であったところの矛盾である。同時代の女性の目から見れば、その矛盾は男の主人公についてよりは、まだ誇張されて見えた。それというのも、スヴォボドヴァーの女主人公たちは家庭の主婦として、また台所でいそがしく立ち働く母親としての旧弊な生き方にあきたらぬ女性たちだったからである。
要するにスヴォボドヴァーの関心の中心にあったのは女性解放(エマンシペイション)の問題だったのである。ただし、それは複合的に、つまり、単に経済生活のなかで正当な評価を得るという権利ばかりでなく、知的かつ感情的生活においてもその正当性を得ようという意昧に理解されていたのである。しかしスヴォボドヴァーは彼女の作品の女主人公たちの願望と当時のブルジョア社会の要求との間のギャップをあまりにも一般的な平面に投影したため、彼女が最初に批判した状態、そして後にはそこからファンタジーの王国への逃避を望むにいたる、その状態を生み出している現実の階級的原因をとらえそこなっているのである。
スヴォポドヴァー、旧姓チャーポヴァー(Capova)は貴族領地の執事の家庭の出である。1868年、ミクロヴィツェ・ウ・ズノイマ(Mikulovice u Znojma)に生れ、1874年からプラハですごし、そこでF.X.スヴォボダの妻となった。F.X.シャルダとの友情は彼女の芸術的また人間的側面に大きな影響を与えた。1920年に死んだ。
スヴォボドヴァーは初期の文学作品のなかで環境に虐げられ、自らの運命に翻弄されていく女性たちを描いている。たとえば、彼女のロマンのデビュー作品『砂地の上で』(Na pisecte pude,1895)は夫のなかに空疎な利己主義者を見出だす女性に焦点を合せている。この女性はまず人生の伴侶の理想像を求めて戦い、だが、やがて夫を捨てる。また短編『重くたれた穂』(Pretezeny klas,1896)では女主人公は人生の破綻を経験したのちに修道女として他人のために自己を犠牲にすることのなかに人生の意義を発見する。だからこの作家は環境がいかに人間を打ちひしぐかを呈示している。この意味で彼女の姿勢は自然主義に近いが、その表現は印象主義の要素を色濃く示している。
二十世紀の初めからスヴォボドヴァーは象徴主義へと進んでいく。ロマン『恋する女たち』(Milenky,1902)では、三人の女性の人物によって三つの近代の愛のタイプを描き出している。しかし、ロマネスクな様式にのめりこみ、ブルジョア社会と古代貴族とを融合させようと努力している。彼女の最大規模の作品は『イレーム家の庭』(Zahrada iremska)である。その萌芽は90年代の終わりから部分的に雑誌に出はじめ、作品としてはっきりとした体系にまとまるのは1907-1913年の間であり、死後に本の形で出版された。主要人物は四人の貴族の姉妹である。作者はすでにこの人物たちの運命に、個人的矛盾の解決を求めてはいず、強欲なブルジョアジーが貴族階級を飲み込んで、知的価値を破壊するという、そういう当時の文明化の全体の矛盾に取り組んでいる。作者によれば、この苦境から解放されるには芸術と社会的平等をもとめる努力が必要であるということになる。しかしスヴォボドヴァーはこの自らの課題を果たすことができなかった。彼女は進歩的社会勢力に目を向けなかったばかりか、作品は装飾的要素で重々しく、現実離れをしていたからだ。だから人物たちもまたおとぎ話のようで、不自然な印象を与えた。
スヴォボドヴァーの作品のなかで一番読まれたのはヴァラッシュスコの森を舞台とした激しい愛の物語の短編チクルス『黒い狩猟者たち』(Cerni myslivci,1908)である。これらの「山のロマン」は古い貴族の末裔で大の狩猟愛好家の教会貴族(つまり教区牧師)ルドルフの十二人の副司祭を中心に構成されている。
スヴォボドヴァーは同じく数冊の短編集や子供にかんする本、子供のための本や旅のスケッチなどを書いたが、ここでは現実との関係が最も密着している。
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女性の主人公にたいする関心でスヴォボドヴァーに近いのはボジェナ・ベネショヴァー(旧姓ザプレタロヴァー Zapletlova、役人の妻)である。彼女はノヴィー・イチーン(Novy Jicin)の裕福な市民の家に生れた(1873年生れ)。そして1908年までモラヴァに住み、その後プラハに移った。そして死の1936年までプラハですごした。彼女の出発点はスヴォボドヴァーの場合と同じ矛盾であったが、ベネショヴァーはその間題と別の取り組み方をした。つまり短い散文作品では否定する現象のネガティーヴな批評によって、大規模な散文では理想をポジティーヴに掲げた。
リアリスティックな描写への発展の視点から見るならば、ロマン(長編)よりもB.ペネショヴァーの短い散文のほうが重要である。ここに属するものは短編集『達成されざる勝利』(Nedobita vitezstvi,1910)『小ねずみ』(Mysky,1916)『残酷な青春』(krute m1adi,1917〕がある。ある芸術家についてのロマン『人間』(Clovek,1919-1920)のテーマは人生の意義の探求である。主人公は作曲家であり、彼は妻を捨てて新しい愛情関係のなかに自分の創作力を再生させる。ロマンは悲劇的におわる。――主人公は自分の本当の子供であるかどうかを疑っていた最初のときの娘を救おうとして死ぬ。ベネショヴァーはモラヴァでの戦争時代をロマン三部作『打撃』(Uder,1926)『地下の炎』(Podzemi p1ameni,1929)『悲劇の虹』(Tragick duha,1933)のなかにとらえた。
世紀初めの文学状況を完全に描くにはさらに何人かの今世紀初頭の15年間に登場し両大戦間時代において開花する作家に触れる必要がある。それらの作家については後に触れることにする。いずれにせよ、彼らの作品を抜きにしては世紀初頭のわが国の文学像は完全にはならないだろう。
10年代には新古典主義の短い時代があったと言われている。それは橘成的に弛緩した印象主義の散文文学にたいして、緊密な構成のノヴェル――多くの場合ルネサンスの手本に習ったものであったが――を確立しようという努力であった、この傾向に属するものは、たとえば、すでに述べた A.ソヴァの短編『合唱長パンクラーツ・ブデキウス』(Pankrac Budecius, Kantor)や若い世代からは、とくにFr.ラングルの散文集『金のヴィーナス』(Z1ata Venuse,1910)それにチャペック兄弟の最初の短編作品集(『クラコノシュの庭』Krakonosova zahrada,1918、『輝ける深淵』Zarivehlubiny,1916――前者のほうが成立時期は早い)などである。
その他、両大戦間期の散文文学をいろんな意味で性格づけている作家のなかでは、イヴァン・オルブラフトがノヴェル作品集『孤独な不良たち』(O zlych samotarich,1913)とロマン『最も暗い牢獄』(Za1ar nejtemnejsi,1916)で、マリェ・マイェロヴァーが何冊かの本で10年代にデビューした。その一つは短編集(たとえば、短編集『地獄物語』Povidky z Pekla,1907;『実りなき愛』Plane milovani,1911)であり、いま一つは長編規模の作品(『処女性』Panenstvi,1907)である。それらのなかで最も重要なのは、パリの状況のなかでのアナーキストたちについてのロマン『共和国広場』(Namesti republiky,1914)である。
大戦前に鋭い風刺的ユーモア作品をもって登場してきたのはヤロスラフ・ハシェクである(『テンクラート氏の大災難』Trampoty pana Tenkrata,1912; 他〉。彼はその当時すでに彼の善良なる兵十シュベイクの原型を創造していた。最初は日刊紙や雑誌に掲載していた。
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ドラマ作品において新しい方向、レアリズム、象徴主義への道を切り開いたのは、外国の作者たちのなかでは、とくにイプセン、ハウプトマン、ゴー一リキー、および、チェホフであった。
わが国の舞台にリアリズムが浸透してきたのは、最初は農村を主題とした劇においてであった。ここで先頭をきるのはラディスラフ・ストロウペジュニツキーの喜劇『われらが自慢屋たち』(Nasi furianti,1887)であった。舞台に農村のリアリスティックな情景を入するさい、この作者はロシアの作家たちを彷彿とさせるのはおもしろい――事件はそれほど古い話ではない(1869年の)南チェコの農村で演じられる。そして、およそ取るに足りない争い、つまり夜番を誰にするかということが問題なのである。だがこの争いは農村の階級的差別を背景にして提示される。いわば、その村で人間の価値を計る物差しがその人間のもっている土地の大きさだというのだ。現実というもののイリュージョンをとらえるのに作者はいくつかの方言的な要素も用いている。しかし農村のリアリスティックな情景を舞台に出すということは当時の公的筋の批評家には受け入れがたいことであった。
そのことは当時の新聞などによく示されている。たとえば、代表的雑誌『黄金のプラハ』(Zlata Praha)には次のように出ている。
「あれは、われわれが詩を通して知っているような、また大都会にいて憧れてやまないあの農村ではない。農村とは磨きあげられた、よい香りのする、詩的なものだ」と。
また別の所では舞台の言葉が攻撃されている。つまり、舞台では「最下層の人間が話すような言葉」でしゃべってはならないからだと。この芝居は国民劇場の舞台でたった六回上演されただけであったが、その二年後に、当時の有名な喜劇役者J.モシュナ(Mosna)が彼の舞台活動25周年を記念する公演の演目にこの劇を選んだというのは興味ぶかい。
しかしリアリズムの浸透を防ぐことはできなかった。『われらが自慢屋』のあとにガブリエラ・プライッソヴァーの『酒場のおかみ』(Gabrie1a Preissova, Gazdina roba,1889)と『まま娘』(Jeji Pastorkyna,1890)が続いた。ここではすでに対立は喜劇の次元から悲劇の次元へと研ぎすまされていた。つまり、農村主題たいする新しい評価をはっきり示しているということである。プライッソヴァーはここでスロヴァーツコを描き出している。たとえ『酒場のおかみ』の舞台がスロバキア=ハンガリーの国境に設定されているとしても、そして環境の性格づけのために様式化された「通常のモラヴァ・スロバキア」方言を用いたのである。彼女は気性の激しい女たち、つまり自分の幸福を得る権利のために社会的仕来りを無視して戦う、そういう女たちを描き、また財産によって人間の自然な関係がいかに歪められるかも示している。『まま娘』はヤナーチヱクの同名の有名なオペラのもとになったし、『酒場のおかみ』はフェルスター・のオペラ『エヴァ』のもとである。
プライッソヴァーはその農村悲劇によってアロイス・イラーセクの戯曲『ヴォイナルカ』(Vojnarka,1890 )や『父』(Otec,1894 )への道を準備した。イラーセクのこれらの劇作品においても資本主義時代の農村の情景がリアルに描き出され、また財産の飽くなき追求が攻撃されている。『父』では宗教も批判されている。イラーセクもまた先人にならって戯曲のなかに方言的要素を用いたが(この二つのドラマは東チェコを舞台としている)その点にかんしては『父』よりも『ヴォナルカ』のほうにより当はまる。
リアリズム農村劇の頂点に立つのはムルシュティーク兄弟の『マリシャ』(Marysa)である。われわれが書簡から知りうるように、この作品は1891年にはすでに完成していた。国民劇場での初演は1894年だった。この戯曲の思想的要点は富と人間感情との相
克である。富農のリーザル(Lizal)――この人物は賢者の仮面の下に自分の搾取行為を
隠した偽善者のタイプ――は自分の若い娘に老人ではあるが、金持ちのやもめヴァーヴラ
(Vavra )との結婚を強いる。マリシャが愛していたフランツェクが兵役から戻ってきてブルノへ一緒に逃げようとマリシャを説得するが、そのときヴァーヴラの本性があらわにされる。ヴァーヴラはフランツェクを殺そうと企む。そこでマリシャは自ら正義の行為を実行してヴァーヴラを毒殺する。この行為によってマリシャはフランツィクを救い、自分の貞節をも守るのである。彼女の生きる姿勢は第四幕のこの部分に性格づけられている。
フランツェク おれはブルノへ出たい。あそこでおれは仕事をする。おまえのために、そしておれのために。さあ勇気を出して、おれと一緒に行こう!
ロザーラ(腕にいっぱい薪をかかえて広間に入ってきて暖炉に薪をくべ、ふたたび広間から二人のほうを見ながら出ていく。聞いていることをはっきり表に出している)
マリシャ・ヴァーヴロヴァー(ロザーラが出ていくと、大きな目をして彼を見つめ
る)フランツェク!
フランツェク えっ、どうしたの、そんな目をして?
ヴァーヴロヴァー(驚きと恐ろしさをつのらせながら)ブルノへですって・・・・・・あな
たと? 他人の女の……あたしが?
(二人は互いに顔を見合わせる)
フランツェク(強く) なんで、他人なんだい?
ヴァーヴロヴァー(頭をかかえる)ああ、神さま――どうしましょう!
フランツェク なにが怖いんだい?
ヴァーヴロヴァー(彼のほうに駆けより、目をじっとのぞき込む)あなたったら、なんてこと考えるの?!(おだやかな声になって)ねえ、いい、あなたがあたしにして欲しいと言っていることの意味をよく考えて?!(彼の肩にてをかける)
フランツェク(頭を振る)
ヴァーヴロヴァー あたしがあんたに手をあわせて頼んだとしたら(彼とならんで暖炉のそばのベンチにかける。できるだけ舞台の中央寄り)よく聞きわけてちょうだい。苦しんでいるのはあなただけじゃない。わたしだって、わたしだって苦しいのよ。あなたよりもっとよ! どこにいても、あなたのことを考えている。でも誰も知りはしない。あたしがあなたのことを思って夜も寝られないのを。昼はいちんち泣きとうしているのを。ヴァーヴラからどんなに苦しめられているか それは言わないわ。あんたにはがまんできないわよ。神さまとあたしだけしか知らないわ。あたしは結婚したけど、心はあなたのものよ。本当よ、フランツェク。――心はあなたにあげたのよ、だってあんたが好きなんだもの。でも、あなたがあたしに求めていること――それはね、あたしにはできない、できないことよ。
フランツェク(彼女の言葉のあいだじゅう、ずっとぼんやり地面を見つめている。今度は頭を振り、何か言い返そうとする)
ヴァーヴロヴァー(彼の言葉を封じて)だめ、反対しないで あたしの言うことを聞いて! そんな考え捨ててしまいなさい!(彼の髪と顔をなでる)そんなにあたしが好きなのなら、あたしの言う通りにして。――あたしは不幸、でも悪い女にはならない。わかるでしょう?
ムルシュティーク兄弟の言葉の扱い方がこの例からもわかる。戯曲は様式化されたハナー地方の方言で書かれているが、この方言はブルノから東北の地方で話されている言葉である(戯曲は正確には場所指定がされていない。サブタイトルにはモラヴァ地方のある村での事件とある)。初版では方言の要素は制限されていた(おそらく国民劇場のドラマトゥルクの要求によるものだろう)。しかしその後版を重ねる毎に方言の要素は追加されていった。この戯曲の刺激性はさらに1940年になってもE.F.ブリアンが自分でオペラの台本を書いたことからもよくわかる。
歴史劇におけるリアリズムを代表するのは A. イラーセクである(フス三部作 1903-1914)。
労働者の生活環境から社会劇を創作したのは M.A. シマーチェク(『小さな人間たちの世界』Svet malych lidi,1890 )。後にシマーチェクは有産小市民階級の環境の主題へと移行した(『別の空気』Jiny vzduch,1894; 『敗北者たち』Ztraceni,1902 )。
色彩豊かな人生の表層のしたに隠れた深い流れを社会劇のなかに暴き出そうと試みたのは F.X. スヴォボダである(『マーリンカ・ヴァールコヴァー』Marinka Valkova,1889; 『人生の方向』Smery zivota,1892;『腐敗』Rozklad,1893; 『三つの峠を越えて』Pres tri vrchy,1912 )。彼の喜劇は今日でも上演されている(『待ちわびる者たち』Cekanky,1900――結婚を待ちわびる娘たちについて。『最後の男』Posledni uz,1919 ――家庭を支配していると思い込んでいる男について)。
年長の作家のなかで社会劇を試みたのはヴァーツラフ・シュテフ(Vaclav Stech; 『妻』Zena,1888;『金の雨』Zlaty dest,1890 ――証券会社設立にまつわるペテンの空しい試み)と L. ストロウペジュニツキー(Stroupeznicky;『ヴァルトシュテインの縦鉱の上で』Na valdstejnske sachte,1892 )と F.A. シュベルト(Subert; 『四枚の貧しい壁のドラマ』Drama ctyr chudych sten,1893, プラハ初演は1903年; 『収穫』Zne,1904)などである。
わが国のドラマにおいて、自然主義はもともと独立した傾向としては承認されてはいなかった。もちろんシマーチェクの戯曲『別の空気』において見るように、人間にたいする環境の影響を強調する場合に自然主義の表現要素を見出だすことができる。 Jar. クヴァピルの劇『鬼火』(Bludicka,1896 )も環境の影響をとらえている。ここではボヘミアンな生活から豊かなブルジョア世界にもぐりこもうとあがく画家の芸術的堕落の過程が描かれている。社会的な仕切りを乗越えることの困難さを主人公自身の言葉で表現している。「わたしは二つの世界の狭間にはまったのだ。誰もがこの狭間から逆方向にあとずさるというにに、わたしは下に落下した」。この引用した言葉は、同時に、現に在る状態のみを描き、そこからの脱出口を発見しようとしないわが国の自然主義の姿勢への不信を表明している。舞台にあがった自然主義の最後の作品は K.M. チェペック−ホトの『詩人の花嫁』(Basnikova nevesta,1926)である。この作品は『アントニーン・ヴォンドレイツ』の結末部分のドラマ化である。
世紀末の劇場でもっとも活発だったのは新ロマン主義と呼ばれる童話劇だった。このジャンルに属するのは、例えば、すでに触れたクヴァピルの『タンポポ姫』(Princezna Panpelizka,1897 )や、もうすこし年長の作家のなかではゼイエルの『ラドゥースとマフレナ』(Raduz a Mahulena,1896 年、上演は1898年。メロドラマで Jos.Sukの音楽1897年)とイラーセクの『ランタン』(Lucerna,1905)である。
カラーセク・ゼ・ルヴォヴィッツ(Karasek ze Lvovic )は劇場ではほんの小さな成功を収めたにすぎない。象徴主義の余韻を響かせているディクの戯曲についてはすでに述べた。同じくフラーニャ・シュラーメクの戯曲はヴァイタリズム的印象主義への帰属を表明している。ここでは事件は人物の内面へと移行し、本質的な大きな葛藤も外面的事件もなく、劇は悲劇的な性格を欠いている。ドラマチックな努力の中心は人物の官能的生活をとらえるという方向に向いている。この種の努力によってこの部類に属するものにはヤロスラフ・クヴァピルの戯曲『雲』(Oblaka,1903 ――女優にたいする聖職者の愛について。愛の関係は双方の断念によって終わる)がある。
詩や散文について述べたときに触れたその他の作家たちはドラマの発展には直接関与しなかった。だがその創作の重点が劇作品にあった三人の作家についてはここで触れておく必要がある。その作家とはヤロスラフ・マリアとヤロスラフ・ヒルベルトとイルジー・マヘンであり、彼らはその作品によって両大戦間時代に深くかかわっている、それどころかこの時代を満たしているといってもいい。とはいえ彼らの本来の意義は1918年以前の作品にあるのである。
ヤロスラフ・マリア(Jaroslav Maria; 本名マイエル Mayer。ターボルの弁護士で、1870年から1942年まで生きた)は劇的にはデカダントな人物を描いた(二つの三部作『世紀の黄昏に』V podvecer veku,1898 と『劇的ソナタ』Dramaticka sonata,1907)。やがて彼はルネサンス期のイタリアに関心を向けた。しかしルネサンス時代を新しい、発展的に前進した時代の始まりとして描いたのではなく、その時代のよこしまな、陰謀に満ちた、また脆弱な人間タイプを描いたのだった。だから、偉大な人物たちもそのようなものとして描いたのである(『トルカート・タッソー』Torquato Tasso)。彼は同時にロマンも書いたが、主に法廷関係からのもので、そのなかで彼は人間の正義の相対性の問題を提示している。彼の姿勢は自然主義と象徴主義との間をゆれ動いている。彼の様式は安っぽい強がりにたいして無防備である。効果と観客受けを求める努力は、ついにはポルノグラフィーまがいの純然たる商業主義的作品の創作へと堕落させる。
ヤロスラフ・ヒルベルト(Jaroslav Hilberut,1871-1936 )はロウニ(Louny )の出身で父は土地の弁護士だった。プラハの技術学校を出て二年間工場の技術助手として働いた後、文学に没入した。これまでチェコの近代劇の創始者と目されてきた。彼は時代に即応したテーマを選び出すずば抜けた能力をもっていた。90年代にはそれは女性と宗教の問題だった。したがって作品はデカダントな人間の描写となったい、戦争にたいする男の忠誠、政治的暗殺等々である。
ヒルベルトの最初の大きな成功は『罪』(Vina,1896 )であったが、これは明らかにイプセンの手本に触発されたものだった。だったとしてもこの作品は完全に裕福なチェコのブルジョア世界に設定されていた。主題は堕落した娘の自殺だった。この作品によってヒルベルトは偏見に満ちた当時の市民道徳を暴くと同時に断罪した。次の戯曲『神を支えに』(O boha,1898,その後『拳』Pest と改題された)は宗教問題を扱っている。ミレナ夫人は子供の一人が死に、もう一人が病気になったとき(本当は不信心ものであったにもっかわらず)病の子供を救うために、その子を神に捧げると誓う。彼女は神の負債者であると感じる。その後ふたたび子供が病気になったとき、神が現れて子供を救うようにと夫人は家から出ていく。しかし、それにもかかわらず子供は死んだので、ミレナは神を呪う。この劇は上演を禁止され、1905年になってやっと上演を許される。ヒルベルトは自然主義にもとづき戯曲『浮浪者たち』(Psanci,1900 )で「世紀末」の人々を描こうと試みた。しかし象徴主義の余韻を残している。強力な個人を描いた二編の歴史劇のなかに群衆にたいする本能的嫌悪感が浸透している。チェコの歴史に題材を取った『ファルケンシュテイン』(Falkenstejn,1903)と『コロンブス』(Kolumbus,1915 )という劇においてである。
10年代以後ヒルベルトは市民社会の弁護者、マテリアリズムの敵として徐々に際立ってくる。その時点でも現実的テーマを取り上げるが、解決は反動的である。つまり反社会主義的、有神論的にである(例えば、『向こう岸』Druhy breh,1924;『人間性の旗』Prapor lidstva,1926 )。
ヒルベルトのドラマは常に理念的ではあるが、しかし90年代に現れてきた進歩的な線上に残念ながらとどまってはいなかった。彼は大きな劇的天分と劇場にたいするセンスをもっていた。葛藤を巧みに取り出し、対話は生気に満ち、事件の組立てもうまく出来ている。彼はまた理論的研究『戯曲論』(O dramatu,1914)によっても貢献した。
彼は文学をも試みた。例えば、短編チクルス『人びと、およびその他の短編』(Lidi a jine povidky,1900)は「世紀末」の人々を取り上げている。ヒルベルトの最もよい散文作品は思索的(sevreny )ロマン『騎士クラ』(Rytir Kura,1910 )であるが、当時の新古典主義的傾向にのめり込んでいる。主人公は自分の周囲の手に触れる全てのものを無意識のうちに抹殺する百万長者である。こうして彼は贈物の大きさによって愛する妻をも滅ぼすのである。ヒルベルトはこの人物のなかに金銭の破壊力を象徴している。
イルジー・マヘン(本名アントニーン・ヴァンチュラ Antonin Vancura)は福音派の古い家柄の出身である。1882年にチャースラフ(Caslav)に生れた。哲学を修めたが、ほんの短期間教職についた後、文学や演劇、また図書館学に献身した。人生の大半をブルノですごし、この地で文化生活の指導的人物となった。1938年に死亡。
マヘンは詩も書き(例、『炎』Plminky,1907; 『バラード』Balady,1908;『虹』Duha,1916 )また散文も書いた(ロマン『自由の仲間』Kamaradi svobody,1909;これはマヘンの世代の最もよい「ポートレート」の一つである)が彼の本来の意義はドラマにある。一幕
世代の最もよい「ポートレイト」の一つである)が彼の本来の意義はドラマにある。一幕劇『鍵』(Klic,1907 )は1905年のロシア革命に題材を得ている。マヘンの最高の成功作はスロヴァキアの民族英雄を称えたドラマ『ヤノシーク』(Janosik,1910)とチャースラフスコ(Caslavsko )の反改革の結果から題材を得たドラマ『死の海』(Mrtve more,1917 )である。劇の主人公、福音派の聖書講読家(pismak)は子供たちの財産を守るために、外見上信仰を取り消す。しかし最後には彼のなかに良心の苛責が強まり、先祖伝来の信仰に帰依することを公衆の前で示し、それによって全村の称賛を得るのである。戦争時にこの告白は大きな意義をもっていた。若者の生活を描いたマヘンの戯曲や印象主義の特徴を示した笑劇(Zert)『勇気の小道』(Ulicka odvahy,1917)や深刻な劇『苦学生』(Chroust,1920=こがねむし→痩せた、貧相な男)なども大きな反響を得た。『苦学生』は他の男の子供をはらんだ娘を救うためにその娘と結婚する学生を描いている。
その他のマーヘンの作品では『魚釣り読本』(Rybarska knizka,1921)が依然として読まれている。この作品は興味深い自然観察である。彼の思想をふくらませた散文(『木鉢』Dize,1911 しばしば、わが国の文学における印象主義の最もすぐれた表現として認められている『月』Mesic,1920)、やグロテスクな戯曲(「六編の映画台本集」『つながれたが鳥』Husa na provazku,1925 )によってマヘンは両大戦間時代のアヴァンギャルドに影響を与えた。
マヘンの作品は印象主義的諸要素が濃厚にある。しかしシュラーメクに反してマヘンはより強く倫理性に拘束されたタイプの代表である。マヘンは官能的陶酔に満足しなかった。むしろ彼は自分の前に常に立ちはだかる問題のなかにのめりこみ、執拗にそれを解こうとしたのである。彼はアナーキズムから成長した同世代者たちと、とくに非順応主義(コンフォーミズム)と、人間が十分に受容しうる自由な生活への願望を共有していた。まさに、それゆえになにものにも束縛されない自然を、かくも愛したのである(『魚釣り読本』、旅の風景『ヘルツェゴビナ』Hercegovina,1924)。
アルノシュト・ドヴォルジャーク(Arnost Dvorak,1881-1933,軍医)は歴史劇に幾つかの要素を持ち込んだ。チェコ古代に題材を得た処女作『大公』(Knize,1908)から、いきなり徹底している。それに続くのは悲劇『ヴァーツラフ四世王』(Kral Vaclav IV,1910, 初演 1911 )である。戯曲『フス派』(Husite,1919 )では中心人物のいないドラマいわゆる群衆劇)を創造した。ドヴォルジャークは人物をよく描くことができたし、効果的な場面を作ることもできた。思想的には唯物論的、無心論的位置に立っていたが、自分の個人主義を社会主義と融合させることはできなかった。そして後には自分の進歩的視点からはずれていった(『白山』Bil hora,1924 )。