(12) ヴィクトル・ディク  Viktor Dyk


 社会的事件にたいする関心はこれまで述べてきた詩人たちとヴィクトル・ディクをも結びつける。彼はソヴァとほとんど同時代に創作したが、極端な個人主義者として多くの点でソヴァと対照的である。ソヴァがとくに内面的な気分を描写する内気な詩人でありむしろ孤独のなかに逃げこもうとするのにたいして、ディクはその最初から戦う詩人として登場した。彼の処女作のなかですでに書いている。

   われ、愚かなる群衆の嘲笑を好む
   われ、野放図な戦いの鬨(とき)の声を好む
   わが周りに、霧、闇のあるならあれ
   われ、なにごとにも臆さず!

 この好戦性はディクを政治活動への参加に導いた。彼の姿勢の特徴はある種の道徳的な潔癖さであり、ここから人間は自己の破滅という犠牲をはらっても理想のために仕えねばならないという信念が生れてくる。ディクにとって最高の価値は民族である。それゆえ、彼はその独立のために戦ったのである。しかしその反面、絶対的価値としての民族の理解の仕方は、民族の階級的分化の視点を失わせ、その結果、政治的には彼を極右に導いたのである。
 ディクは資産管理人の息子として1877年にプショフカ・ウ・ムニェルニーカで生れた。プラハでギムナジウムと法律を学び、その後、作家、ジャーナリスト、政治家としての生活に献身した。戦争中は国権主義政策(statopravni politika)の熱烈な信奉者として投獄された。独立国家の建設後は右翼の民族民主党で政治的に活動した。1931年に死亡。彼は非常に多作な作家であった。そしてすべての基本的文学の種類、抒情詩、韻文叙事詩、散文、ドラマの創作に打込んだ。
 詩人としてのディクは1895年に「世界観」(Svetozor)でデビューした。彼の最初の三冊の本(『地下の門から』A porta inferi,1897 、『生命の力』Sila zivota,1898、『空しさ』Marnosti,1900 。選集では三作とも『空しさ』のタイトルのもとに収められている)はデカダンスと指摘された。彼はこのうち最後の作品をデカダンスの重要な代表者イルジー・カラーセク・ゼ・ルヴォヴィッツに献呈したこと、そして詩『悲しみの』(Smutecni,1898)へつけた題辞によってもすでにデカダンスへの帰属を表明している。彼とデカダンスを結びつけているのは主に「空しさ」の感情である。

   おお! 力よ! すべては空しい……誰がわたしの心に力をそそぎこむのだ?
   私の計画が? つぶされた! どっやら、とっくに、何もかもが腐っている……

   湧きいでるとき轟然たるうなりを発する力、などとお題目を唱えることはできない   だれか勝ちほこった者がきて、闇のなかの私に向かって
                     華々しく叫びかけるとでもいうのか?

 ディクが常に闘わねばならなかった主な矛盾は、大きな夢と、小さな現実との対立であった。彼はその矛盾をたとえ自分がとり返しのつかないもののためにあがいているのだということが最初からわかっていたとしても自分の夢を決して諦めないということによって解決した。したがってそれは諦念でも夢の世界への逃避でもない。ディクの心に一番重く感じられたのは当時の政治が好んだ妥協性と空虚なスローガンだった。

   夜が忍びより、あきらめが忍びくる……
   最後の叫びはすでに地平の果てに消える
   大きな苦痛、大きな標語は(ヘスロ)
   気がぬけている。

   昨日、私たちは笑い、昨日、私たちは嘘をついた
   昨日、私たちは暴れ、昨日、打たれた
   地平は、今日、雲に覆われ、私たちは眠るだろうに、
   そして、力はない。

 デイクは自分の夢を放棄したくないから攻撃的なのだ。しかしながらこの攻撃性は強い知性が加わり、詩人を自虐に導き、また表現的側面では警句的スタイルに近付く。(「民族は立上がる、だが名誉は立上がらぬ」)。ディクの知性は感情を抑制しようと努めるそして、このことは彼の内面詩にもあてはまる)、しかしこの知性はまさに最少の言葉によって最大の効果を獲得している。金言的詩節のなかに強烈な力をもって爆発する。彼の知性はまたシンボルよりも、むしろヒント、また言い切らない表現によって表現しているような場合においても発揮される。それゆえ彼の表現はメタファー的というよりはむしろ提喩法(synecdoche)と言えるのである。ディクの短い句切りにもとづく短詩行への愛好はこのこととも関連し、それによりフラヴァーチェクやソヴァの場合に見られるようなあいまいさやブルジェジナの賛歌的な性格ともはっきりくべつされるのである。デカダンス風の装置の故に、ディクはとくに中世騎士の主題を好んだ。
 これらの初期作品のん後、ディクは自身の積極的政治活動との関連において政治風刺を目指した。文学の領域をも射程内において、彼は『皮肉と風刺』(Satiry a sarkasmy,1905)やその表題からして有名なハーレクの詩集をパロディー化し、チェコの政治生活の沈滞にたいして攻撃をくわえた『わが村の童話』(Pohadky z nasi vessnice,1910)を出版した。詩集『敗れたキャンペーン』(Prohrane kampane,1914 )では彼の選挙運動の敗北を詩的に叙述している。
 ディクの政治叙事詩は『戦いの四部作』(Valecna tetralogie)において頂点にたっする。彼の全集作品のなかでは『軽い歩調と重い歩調』(Lehke a tezke kroky,1915)、それとも』(Anebo,1918)、『窓』(Okno,1921 ;投獄中の詩)そして『最後の年』(Posledni rok,1922 )と呼ばれている。ここで彼は国内の状況を批判する詩から、転換を間近にした時代における情熱的な呼びかけの詩へ移行している。詩の幾編かはすでに戦争中に印刷され、著しいプロパガンダ的意義をもった。それらの詩はミュンヘン会談の時代に、そして民族が窮地に立った占領時代にふたたび現実的意味をもつことになる。なぜなら英雄行為と犠牲への決意がまたも必要となったからである、この側面を最も雄弁に物語っているのは詩集『窓』(戦争中すでに活字にされている〉のなかの詩『祖国は語る』(Zeme mlvi)である。そのなかに、何度も引用されてすでにおなじみの詩句を見るだろう。

すみませんがね、私はあんたの母だよ。
だから、息子よ、私を守るのは自分のためなのだ
さあ、たとえ死に向かってであろうと、敢然として行きなさい
おまえが私を捨てても、私は死なない
おまえが私を捨てたら、おまえは死ぬ

 次のディクの抒情詩集のなかで重要なものは、生前に出版された最後の詩集『第九の波』(Devata vlna,1930)である、これは調和のとれた人生知としばしば過去へ目を配った詩の連作(チクルス)である。1903−1911年に書かれた叙事詩の全集はディクによって『暴動と和解』(Buric a smireni)と名づけられた。そこで彼はアナーキーな要素を伴った個人主義的反抗(『暴動』『七人の盗賊の愛人』Mila sedmi loupezniku)から超個人的思想と義務への奉仕(『ジュゼッペ・モロ、新しい大陸を発見したジェノヴァの船乗りについて』Giuseppe Moro: o janovskem plavci, ktery objevil novou zem)を描いている。このチクルスのなかに『イジー・マツキの葛藤』Zapas Jiriho Macku,1916;老農夫の物語で、彼にははるかに若い妻がいたが、彼女の新しい愛の幸福のために自ら毒をあおる)もふくまれている。この発展はディクが人間生活の現実と徐々に和解し、それにより彼のロマンチックな夢から覚めていく様子を示している。
 この過程はドラマと散文の形でも具体化されている。この面での典型は『ドン・キホーテの分別』(Zmoudreni Dona Quijota,1913)と小説(ノヴェル)『鼠取り人』(Krysar,1915)である。『ドン・キホーテの分別』の出発点となったのは有名なセルバンテスのロマンである。教区牧師で学者でもあるサムソン・カラッソは中世騎士の物語を読んで頭のおかしくなったドン・キホーテを救おうとして物語を焼く。しかし、キホーテは自分の夢を追ってさらに進む。そして百姓のサンチョ・パンサとともに彼の愛の理想像――ドゥルシネア・スートボシーのために大きな手柄を立てようとして出発する。結局、変装したカラスコに槍の試合で負け遍歴の騎士の年期を断念しなけれぱならない――それが試合の条件だった。
 カラスコは現実のドゥルシネア、やや年増の簑教養の百姓女を彼の家へ呼んだ。そこでキホーテも遂に自分の幻想を知る。彼の幻想は仮面を剥がされるが、それでもドゥルシネアに手をさしのべて、次の書葉とともに息たえる。

わたしはすべてのものを別のものに思い描いていた、しかし現実と折合い、現実にあるがままに物事を見なければならないのだ。わが友サムソン・カラスコ君、病める魂の治療者よ。たしかに、これは君の書葉だったね? 私のすべての過去は単なる馬鹿げた滑稽な夢であった。いまこそ目を覚ますときだろう。目を覚まそう。おお、サンチョよ、よし、目を覚ますぞ! おまえはもう決して島の総督にも伯爵にもなることはあるまい。そりれでも満足して生きようではないか。なんのために獅子と闘ったのか?
 なんのために罪人を解放したのか? われわれの援助はかえってその人たちに損害を与えてしまった。そのようなことまでしたのはなんのためだった? (牧師に)あなた方は私の本を焼いたことで満足だろう。サムソン・カラスコはしたたかにやった。彼のおかげで私は分別を取り戻した。私の狂気の行動をどうか許していただきたい。
 思うに、それは気なぐさみにはなったろう。多くの楽しみを与えたものには、多くのことが許される。

 小説『鼠捕り人』はハンメルンの市民たちをその吝嗇のゆえに罰した鼠取り人にかんする有名なドイツの伝説を小説にしたものである。鼠捕り人は自分の愛情関係の失望と町の執政官たちの吝嗇(彼らはネズミを町から町へその笛で河へ誘い出すということにたいして契約された報酬を支払うことを惜しんだ)のゆえに町の住民を全員奈落へと導き、彼自身もそのなかへ消えていく。この惨劇を幼児と唖呆のヨルゲンだけがまぬがれる。なぜなら子供たちの叫びは鼠捕り人の笛の音よりも大きかったからだ。この小説は象徴的な意味をもっている。しかし合理性にたいする非合理性の礼賛のようにも響く。(つまり、まだ理性をもたぬ幼児と理性を失った唖呆だけがこの災難からのがれるからである)。
 その他のディクの戯曲や散文作品にかんしては簡単に述べよう。なぜなら、それらの作品は現在ではそれらの作品は単に歴史的事実にすぎないからである。ディクはその初期のドラマ作品一総体的に小規模のもの一を『悲喜劇』(Tragi komedie,1902; そのうち最初の作品『復讐』Pomsta はすでに1896年に上演されている)の一巻に収めた。大規模な戯曲はおおむね哲学的な基盤の上に構成されている。『伝令』(Posel,1907)は白山の敗北の責任は、悪に反抗しなかったチェコ友愛団の倫理意識の消極性にあったとしている。『大僧』(Velky mag,1915)は奪うのではなく与える愛のみが幸福を与えうるという思想にもとづいて作られている。 童話劇『オンドジェイと龍』(0ndrej a drak,1919)は童話的な陶酔のなかで同時代の衰弱した社会を批判し、それにたいして英雄的な行為を強調している。
『革命三部作』(Revolucni trilogie,1908-10.1921年に出版)はフランス大革命から題材を取ったものである。そこで、彼は絶対君主が社会の階梯の最上段に立っていた革命以前の時代を描き(『朝のいぼ蛙』Ranni porucha)、また民衆の革命的怒り(『フィガロ』Figaro),そして牢獄で処刑をまつ貴族たちを描いた(『敗北』Porazeni)。
 散文ではディクは1901年小説『恥』(Stud)でデビューした。それに続いて人生の、また愛の幻滅を分析した一連の短編を発表する。ここで基調音となっているのは――彼の詩作品と同様に――理想と日常性とのあいだの矛盾である。
 ディクはまた何編かの長編小説(ロマン)をも書いた。とくに進歩的運動と青年時代にそうであり、それらの作品のなかで自分と同世代についての証言を残した(『ハッケンシュミットの終わり』Konec Hackenschmiduv,1904: 『十二月』Prosinec,1906,『ハバククの指』Prsty Habakukovy,1925)。新国家におけるオーストリア性とカメレオン性を典型的に描き出した鋭い風刺は『わが友チェホナ』(Muj pritel Cehona,1925)であり、オーストリアに忠実な、そして変革後は新国家の同様に忠実な役人へと変貌するオポチュニストを描いている。(チェホナはオーストリアの国歌の詩行「Ceho naby1a obcan pilny」から取った悪口である)



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 (13) カレル・トマン Karel Toman


 その完結した形式によってカレル・トマンはディクを思い起こさせる。しかしディクが多作な作家だとしたら、トマンの作品はそれほど厚くもない一冊の本のなかに全部収まるだろう。この詩人自身が作品全集として出版した『詩集』(Basne )はおよそ百編の詩を収めている。もしトマン自身が『詩集』の決定版に採用しなかったいろいろな機会に掲載されたものを加えると彼の全遺産は二倍にはなるだろう。質的に見るならば彼の作品はおおむねベズルッチの作品と比較されるだろう。しかしその一方でベズルッチがその『スレスコの歌』を短期間のうちに書いたのにたいして、トマンの詩はほぼ四十年間のながきにわたって発表され、小規模な詩集の形で少しずつ出版されたものである。規模の点ではたいして大きくはないとはいえ、そのおのおのは文学的活動のなかでは重要な芸術的行為であることを意味していた。
 トマン 本名はアントニーン・ベルナーセク(Antonin Bernasek) は1877年、
ココヴィツェ・ウ・スラネーホ(Kokovice u Slaneho)の自作農の息子として生れた。法律の勉強を修了しなかった。1904−1905年、何か明瞭でない事情のもとにベルリン、ロンドン、パリへ旅行した。その際、自分の体験としてアナーキスト運動の内部の状況をつぶさに知り、またヨーロッパの大都市のプロレタリアートをも知った。戦争中さらに二度パリに滞在する。国内では編集者として、また下級官吏として生計を立てた。30
年代には 当時すでに有名なそして一般にも知られた詩人であった 左翼運動を支援
した。1946年に死亡。
 トマンもまたその処女作『血の童話』(Pohadky krve,1898 )においてはデカダンスと比較される。しかし彼の作品のなかにこの本を取りあげなかった。正確には、その本のなかから詩を二編だけ(『小歌』Pisen と『五月の童話』Pohadka maje)を取りあげている。だが、それにもかかわらずこの詩集は、この作者のその後の発展を知るうえで重要である。この詩集のなかでトマンはかなりデカダンスのモティーフ、とくに死のモティーフを取り入れている。しかし生活にたいする別のしせいによてデカダントと区別されている。トマンもまた社会の秩序が危機的状況に達していることを感じていたが、それでも生活を信じることをやめなかった。だから詩『夜』Noc は次のような節で終わっている。

   なんと多くの世紀末の子供らよ
   おのれの死と愛撫を交わし
   毒、薬、ドスと戯れようとも
   それでも、なお人生を生きつずける!

 トマンは人生を貧困のどん底まで体験し、放浪者や無産者に共鳴したが、人生を愛することをやめなかった。この点にデカダンス派の人々との基本的な違いがある。弱さにたいしては力を、逃避にたいしては反抗を提起した。彼は消極性とは無縁であり、デカダンス派の詩人たちを「生活なしに自分の芸術の願望の伽藍を建立する」「青ざめた貧血症の詩人」と呼んだ。
 トマンは次の発展においてデカダンスに別れを告げ、処女作の進歩的要素を発展させた。
彼の作品は幾つかの対立命題と取組み、その解決に成功した。それらの最初のものは瞬間
と持続の問題である。この問題を印象主義者たちは独自の方法で解決した。つまり彼らは移ろいゆく瞬間をその移ろいのなかにとらえようと努めたのである。しかし写真的直接性を求める努力はトマンには無縁である。彼の詩は一定の距離を保って書かれており、基本的な輪郭を引き出すことができる。しかし同時に、熱血のオリジナルな体験を秘めている。そのなかに即興はない。一つ一つの言葉が動かしがたい位置を閉め、それはガッチリとした形式の詩であり(たとえ自由詩を例外としなくても)そのなかには現実がレアリティーから逃れることのできない詩的絵のなかに鋳造されなおしている。それゆえに現実の詩人
と称されている。またその重厚な表現のゆえに記念碑の詩人とも称されている。 第二
の矛盾(これは本来第一のものの変形である)は流動と不動の評価にたいする願望の対立
命題である。トマンは連続と不連続の弁証法としての発展の本質をよく理解していた
それはまた一方においては伝統の保存と、他方ではその克服でもあった。それゆえにまたディクとはことなり民族と不可分の一体とは見ない。かれは民族を連続体としてとらえ、そのなかに階級の闘争が存在するという。トマンはこの戦いにおいて貧しい者たちと連帯し、反抗を称えるが、しかしこの戦いは決して破壊の戦いではなく、創造的戦いである。
 そして第三の対立命題は祖国と外国である。トマンは外国の大都市を知ったが、その活気に圧倒されることなく、反対にその異教から常に祖国にたいする熱烈な関係を発見していたのだった。
 トマンは、たとえ人生が彼を傷つけても、人生にたいして――すでに述べたように――基本的に肯定的関係を保っていたから、それらのすべての矛盾を解決しえたのである。このことは詩集『人生の断片』(Torzo zivota,1902 )のなかにはっきり現れている。人生とは、それがそうあるべきであったところの断片にすぎない。しかし、それにもかかわらず生きる価値がある。トマンは序詩のなかで「実りある打撃」(urodne rany )についてはっきり書いている。彼の表現の簡潔性はとくに愛のドラマを幾つかの詩行の形に作りあげた詩のなかに浸透している。トマンは本質的に簡潔に、暗示によって詩作した。そしてそれは古典的バラードを思い起こさせる。同時に自身のドラマを普遍的平面にまで引き上げ、リアリスティックな手段によって、実は、象徴的な効果にさえたっしているのである。多犠牲は比喩(メタファー)の氾濫によるものではない。むしろ完全に説明しつくされていない状況のまっただなかにわれわれを立たせているかのような、まさにそのことによるのである。

   おまえの指輪、金色の。爬虫類、毒のある。
   わたしの心のなかで、噛まれた、飲みに飲む。
   誰かが地底で腐る
   いっこの小さな金の指輪のために

 この詩集のなかで、すでにトマンが彼自身のその後の発展のなかで解決した基本的対立命題、とくに故郷の家と異郷の対立概念が現れている。『北の夢』(Sen severu)という詩のなかで、かつて一度も「南国のこと、やしの木やかさ松」のことを夢みたこともない北国の松の木は、詩人にとって彼が努力して得ようとした生の確信の象徴である。ここではまた沸き立つ群衆と融合したいという願望も述べられている。詩『ひと切れの夏』(Kousek leta )では詩人は「この織物のなかの生きた縦糸となり、かくも鋭敏な感性」をふたたび取り戻すために自然から逃れ、都会へともどっている。そして「革命に身をふるわせ、心にこだまを呼び覚まし、響かせる」ことを望んだ。
 次の詩集「メランコリックな巡礼」(Melancholicka pout,1906 )は外国の大都市との出会いの体験によって記されている。ここでも基底音は生の確信への願望である。トマンはそれを、例えば、詩『出会い』(Setkani )のなかで表現している。

   ただ、何かを信じることだ! 神を、人民を、祖国を
   自身を、そして仕事を。
   信仰なしに勝利者となるのは難しい
   そして人間は滅んでいく。

 外地で詩人は改めて生れた国にたいする自分の関係を意識する。

   そして、病みし、おまえの心は
   おのれの祖国により添う
   ロンドンが、たとえ飢えに吠え
   また、あらん限りの恨みをわめこうと

 しかし同時に社会の変革の不可避なことも意識する。詩『真昼の毒蛇』(Hadi poledne)は次の詩行でおわっている。

   毒は熟し、時は満ちる
   ばんざい、マリアンナ!

 トマンは「自分の自由の新しい夢を新たに自分のなかに生みだすものが自らを解放する」ことを知っているから、殉教的な態度を拒否する。「殉教の冠のために集められた茨は文化の清掃人のために残しておけ」と。
 比較的長い創作の空白ののちに続くのが詩集『陽光のさす時間』(Slunecni hodiny,1913)である。本当はここで先の二つの詩集で指摘された矛盾が解決されている。詩人は自己の情景を祖国の現実から取り出し、ほんのわずかのモティーフで満足している。パリから「祖国への愛を抱いて巡礼はゆく」。彼は革命の矛盾を解決することが必要となることをしっている(「おお、祖国よ、おまえの空腹が、短く、赤い詩の一節となって花咲く」)。しかし、またそれは歴史的必然であることも知っている。詩人の唯一の確信は具体的世界である。

   おお、善意にみちたやさしい祖国よ、おまえにたいする
   感謝のきもちで、わたしの心は涙にくれる
   いつも同様に心暖かく、同様に公平である
   この日のもとに、おまえこそ、唯一の公平なるものだ。

 詩集『家族の詩、その他』(Verse rodinne a jine,1918 )と『年月』(Mesice,1918 )は戦争の年月を反映させている。これらの詩は戦火のただなかにあっての確信のしょである。例えば、倒れた兵士についての詩は次の一節でおわる。

   若き勇士よ、安らかに眠れかし
   むしろスラヴの土のしたに
   カルパチアの松林に吹くわれらが風はおまえに語るだろう
   われらが祖国には新しい生命が芽ぶいている。そして
   チェコは生きていると。

 歴史的発展における決定的力をトマンは民衆と現実のなかに見出だす。思想的な主要因となっているのは祖国の腕のなかでの安息と正義は勝つという信念である。
 『静寂の声』(Hlas ticha,1923 )はいぜんとして戦争に触発された詩をふくんでいるとはいえ、同時にここには戦後世界の新しい矛盾についてのしもある。社会的ショックに敏感なこの詩人は、ロシア農民たちが自分の劣等感を捨てさる十月革命とも取り組んでいる。

   おれは、おれたち一族を長年にわたり重圧していた
   暗黒の重石を払いのけたぞ。

 戦後のカオスのなかでトマンはそれまで革命の意義を完全に理解しえないでいたが、SSSRの成功は数年後、彼をレーニンにかんする詩へと刺激した。それは詩集『百年暦』(Stolety kalendar,1926 )のなかに取り入れられた。そこで次のように書いている。

   この神の大地を
   この者たちに与えよう。大地はこの者たちの血を最も多く吸ったのだから。
   ピラミッドとファラオーのとき以来
   あの麦打ちの歌が聞こえるかい? あれはロシアの感謝だ
   農家の裏庭でひめやかに語られる
   それは飢えを克服した喜びの歌なのだ。

 この詩集によってトマンはその創作を終わる。この詩集に入れられなかった詩は1930年に『道わきの草』(Rostlo stranou; 普及版,1947 )の題名のもとに出版された。占領の期間中、トマンは占領者や協力者を嘲笑するエピグラムを数編書いた。これらは彼の『作品』(Dilo)の第二巻にまとめられている。そして、そのなかには『血の童話』(Pohadky krve)その他の詩が収められている。




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 (14) アントニーン・マツェク  Antonin Macek


 今世紀の初めには労働者階級の主要な詩的代表者 Ant. マツェク(1872−1923)もまた単行本の処女作をもってデビューした。彼はムラダー・ボレスラフ(Mlada Boleslav)の市民の家庭に生れた。彼は聴覚を失い、ギムナジウムの勉強を中断せざるをえなかった。そして木彫を習得した。彼はまず最初に塗装職人、しっくい職人として働いた(そういうわけで労働者の生活をよく知っている)。その後、書記となり、最後に1897年、社会民主党出版部の記者となったKSCの創立後、彼はその創立者の一人でもあるが「ルデー・プラーヴォ」紙に移った。
 マツェクの最初の詩集は『私の子供に』(Memu diteti,1909)という題名をもち、その後にノイマンの『森と水と谷の本』のなかの最もよい詩を思い出させるような『楽園の書』(Kniha o raji,1912 )と『大きな平和』(Vilky mir,1918)が続く。ここではすでに戦後のプロレタリア詩を先取りする集団主義(kolektivismusu)に到達している。

   わたしは何ものでもない。このすべて この大きな
   たくましい、闘う集団 が、わたしの仲間だ
   わたしはこの集団の、来たるべき闘争のなかにうずもれる無名の声だ
   だが、その集団には力と、偉大と、やさしさと、美しさがともなっている

 戦争中マツェクは詩集『わたしのチェコ、その他の詩』(Me Cechy a jine basne,1918; 表題の詩は彼の処女詩集のなかですでに発表されている)を出版した。単行本『三時間』(Tri hodiny,1923 )は死後に出版された。形式的側面から見ればマツェクはヴルフリツキーからしゅっぱつしているが、マハルも彼に影響を与えている。
 詩人としての活動とともに重要なマツェクの活動は文化教育である。実際、彼は全生涯を労働者の文化啓蒙につとめた。この関連において彼はアンソロジー『社会詩』(Poesie socialni,1902)を編纂した。彼はまた『無神論短編小説集』(Bezbozne povidky,1911 )によって教会組織に反抗する闘争にもかかわった。



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  (15) 1918年までのノイマン  Stanislav Kostka Neumann


 S.K.ノイマンは世紀末に登場した詩人たちのなかで最も長い軌道を歩いた。彼の作品のなかには時代の進歩的傾向が最もよく現れている。ノイマンは次の発展を一番多く先取りしていたし、また彼のかつどうは両大戦間時代の全期間においていぜんとして重要な意義を有していた。当時、ノイマンは若い進歩的世代と融合していたから、ここでは1918年までの彼の活動の概観のみを述べることにしよう。要するにノイマンは「若者」として両大戦間期の関係のなかにも加わりうるのであり、これまで述べた彼の同世代者たちがたとえ傍観者的立場ではなかったにしろ、若い戦後の創造の傾向と融合することはさすがになかったのにたいし、ノイマンは戦後社会主義文学の性格を色濃く示したのである。
 ノイマンは1875年にプラハで生れた。彼の父は弁護士であり、帝国の議員であったが、事業の失敗で貧しくなり、ノイマンが五歳のときに死んだ。幼年時代、少年時代をノイマンはジシュコフですごした。ここの家族の住居の「オルシャンスカー・ヴィラ」で後にアナーキスト・グループが集まった。1893年、いわゆる「オムラディナ」(Omladina=若者たち)のメンバーの一人として逮捕され、十四カ月の監禁の判決を受けた。普通の職業についたことはなく、全生涯を文学にうちこんだ。
 ノイマンの知的生活は複雑である。90年代の中頃にはデカダンスに接近したが、間もなくアナーキズムに傾倒し、彼自身の定期刊行物「新しい信仰」(Novy kult )をそれに解放したほどである。重要なのは彼のモラヴィア滞在である。そこで彼はブルノ近郊のルジェチュコヴィツェ(Reckovice )とビーロヴィツェ(Bilovice)に1905年かあら1915年まで住み、この間に軍隊に入った。1917年に軍隊から解放され、プラハに定住した。十月社会主義革命の影響のもとにアナーキズムに背を向け、KSCで働いた。1934年にポヂェブラディに住みつく。占領時代を主にヴァーペンニー・ポドル(Vapenny podol )ですごし、解放後プラハにもどり、ふたたび政治活動に没頭したが、1947年に死亡した。
 ノイマンは初期の詩集を全集版では、いみじくも『青春と反抗の書』(Kniha mladi a vzdor )と名づけた巻に加えた。それは実際、完結した一つの全体を形成している。最初に位置するのは監獄のなかで書かれた詩『ネメシス、財宝の見張り人』(Nemesis,bonorum custos,1895 )であり、その後にっ詩集『私は新しい生の伝導師である』(Jsem apostol noveho ziti,1896 )、『誇り高く、情熱的呼びかけ』(Apostrofy hrde a vasnive,1896 )、『われらのなかの悪魔の賞賛』(Satanova slava mezi nami,1897 )、『絶望せるものの群れの夢』(Sen zastupu zoufajicich a jine basne,1903 )が続く。これらの詩集の分冊のなかには、貴族的表情をした極端な個人主義から、全体主義への明らかな発展がある。この発展はもちろん独自の準備段階をもっている。初めに詩人は市民的世界から自分を引き離し自分自身が道徳規範を作り出すことを強調する(「私の内奥に教会堂があり、そのなかでは私が私の神なのだ、私はそのなかで歌う権利をもつ」)。自分自身を次のように性格づけている。

   ただ独り
   自負もち
   平原のまんなかに立って、わが薄き肩を
   そびやかす。わが夢の高価なる祖国のために

 彼は偽りの道徳に激しく反抗し(「そっと忍び寄り……らんちき騒ぎのなかで偽善者どもに飛びかかり、悪党どもの仮面をひっぺがしてやりたいものだ」)、嫌悪の念を発散させ、誇り高き個人主義をもって憎悪の念を倍加する。

   わが誇りを歌おう
   身は下層のなかにあっても

 孤独感と憎悪感はノイマンを極端な非順応主義にまで導く、そして彼はそれに悪魔主義(サタニズム)的表現を与えている。彼はクリスチャン的忍従を憎む(「神さま、私はあんたの教会堂に納まるにはあまりにも誇りが高すぎるのですわ」)、そして冒涜的な詩
『聖悪魔』(Ave satan )を書く。それはプロテストであるが、同時にここでは同時代の価値観の崩壊についての確信をも語っている。

   そしてサタンはうそびく
   以前、どこかで、神が主人であったことがあったのかと。

 このキリスト教からの転向は詩人を異教主義へと導く。なぜなら、かれはキリスト教は自らの道徳感によって肯定的価値観を破壊するからである。

   人はナザレから来た金髪の男に裏切られた。
   彼は裏切られた、そしてヒステリーの発作で死んだ。

 キリスト教にたいする厳しい対立命題として異教性を立てるというこの姿勢によってノイマンはマハルの先駆者となっている。一時的に「モダーン・レビュー」のグループに接近するが、彼自身はデカダントを自称した(「街の泥にまみれ、痩せおとろえたデカダント、シニクの言辞をろうし、はれぽったい顔をした」)が間もなく個人主義とともに外国文学にたいする関心が彼を導いていったデカダント派と訣別する。そのことは、彼の愛好するシンボルが太陽になったことからもわかる。この面を明瞭に物語っているのは詩『太陽の春の呼びかけ』(Jrni apostrofa slunce )である。ノイマンは基本的にまったくのところ反禁欲的、情熱的に人生を愛した。彼の軌道の当初に、すでに次のように記している。

   しかし、われは、おのれの茎もてよき土壌に根付いている
   だから、百回傷つき、百回頭を誇らしげに突立てる
   歴戦の勇士と闘う、そして息つく暇もない。

   わが庭は若さで露ばみ、わが大地は高揚した熱気でぬれる
   われは新生命の使徒なりとて、いかなる衝撃にもおののかず
   われは新しい聖杯の騎士なり、恐れも、やましさもない騎士なり。

 ここでもちろんノイマンは挑発している。しかしそれは、例えば、ゲルネルがおこなった挑発とはまた別のものである。彼の反発はむしろ単なる抗議ではなく、とりわけ宗教構造にたいする直接的な攻撃である。同時にノイマンは徐々に自分の孤立を克服し、これまで融合せず、これまでそれとは無縁に、まるでそれらに超越して存在していたかのように思える大衆(マス)と連帯しはじめた。この点では一方、ブルジェジナとソヴァの「強力な個人」を思い起こさせる。しかしながら、彼は自分の夢を遠い未来へは投影せず、またその充足を機械的な改革のなかには見なかった。この側面において特徴的な詩は『絶望せるものの群れについての夢』である。そのなかで彼は強い指導的個性の必要聖と(「そして彼らは私に言った。私らを導いてくれ!……」)同時に世界の革命的変革の必要性をも宣言している。神(古い世界の象徴)は死んだ。絶望した者たちの群れは地上的なもの、そして人生の象徴であるサタンへ向かう。

   しかし、私は生命だ。私は力、そして歓喜、そして自負、そして反抗
   そして、私はおまえたちのなかに生き、生きんとするおまえたちは
                             私のなかに生きる。
   なぜなら、私はおまえたちに死の王国を準備しなかった。
   そうではなく、死の爪からおまえたちを取り戻し、おまえたちに生命を
                            返してやりたいからだ。

 若いノイマンの詩の思想的頂点は詩『貧しい愛の斜面』(Stran chudych lasek )であり、この詩は1899年に雑誌に掲載され、その後詩集『絶望したひとびとの群れについての夢』に収められた。ここでは主題性(tematika)も表現も変化している。ノイマンは「大工場、小作業場、兵舎、人家」の密集地である都市の周辺のジシュコフの丘を描写する。そこでは貧しい者たちが愛の陶酔を体験している。描写はリアリスティックでまた言葉は話言葉のほうへ変わっている。
 初期のノイマンの詩の言語表現はその修辞性によって強く印象づけられ、そのイメージは少なからず象徴主義的在庫目録から取られていた。そのことは一方では詩集や詩のタイトルが示している(例えば、威勢のいい、情熱的頓呼法=apostrofa )。また若いノイマンの外国文学のモデルを探し出すのは困難ではない。とくにそれはドイツの哲学者ニーチェがその個人主義いよって、またそのサタニズムによってポーランドのデカダンスのロマン作家プルジビシェウスキ(Przybyszewski )がそうである。
 しかしノイマンはエピゴーネンではなかった。彼は常にチェコ人でありつずけた。なぜなら、国内の状況に応えていたからである。そのことは一方では彼の言語においても現れている。大部分の同時代者との違いは、ノイマンの表現があらけずりでイントネーションは象徴主義者や印象主義者たちよりは、むしろネルダを思い起こさせる。このあらけずり性はもちろん意図的なものであった。ノイマンは憎しみに息づまる激情のイメージを想起させることもできたのである。しかし雄弁性は減退し最後にあげた詩においてノイマンの表現は単純になっている。
 ノイマンにとっての新しい発展の時期は10年代を意味する。当時、彼は若い文学の先頭に立っていたが、その文学はもはや象徴主義とは無縁のものであり、人生の歓びを謳歌する文学であった(vitalisumus )。彼は新しい文学傾向に興味を抱き(表現主義、キューピズム、未来主義)、アルマナック・1914年版(1913)の共同編集者となる。このアルマナックのなかでは両大戦間期に大いに活躍する新しい作家世代の幾人かが発言している。このグループの共通の形式手法は自由詩だった。
 ノイマンはこの時代に、その有名な詩集『森と水と谷間の書』(Kniha lesu,vod,a strani,1914)を出版している。彼はこの作品で政治抒情詩と別れを告げ、脱イデオロジックな抒情詩へと傾いていったとこれまで説明されてきた。しかし現実には、彼の青年時代の作品の要素、とくに太陽から得るよろこび、また物質の美から得るよろこびを発展させている。そして、これによって一方では人生に背を向けるデカダント美学と、他方では精神主義と論争しているのである。この作品は自然抒情詩の書であるが、それは印象主義が作り出したのとはまったく異なった仕方でとらえられた自然抒情詩である。ノイマンはたしかに『どん欲な官能』の詩も創作しているが、しかし彼は自分の思想姿勢によって印象主義を克服している。自然は人間不在の幻想ではなく、そのなかに自由人ノイマンの理想が投影されているのであり、そのなかに彼の若々しい個人主義的アナーキズムが余韻を響かせているのである。ノイマンは臆病な、あいまいなニュアンスを好む印象主義とは反対に、同じものをどん欲な視線と明確な輪郭をもつ具体的イメージによってとらえたのである。ノイマンはすべての生あるもの(「わたしは動物の暖かさを感じたい」)と生命のない自然との統一を唯物論的に これはその当時としてはかなり挑発的であった 感じている。彼はまず何よりも自然を太陽の光として知覚した。そして自然の美しさに異教徒的直接性でもって歓喜することができた。その反精神主義的かつ反形而上的姿勢によって、この詩集は重要なイデオロジックな役割を果たした。
 この本は「生命とよろこびと美の名において」自然の「不死の賛歌」として書かれた。それゆえにこそ、ノイマンにかんしては自然から人間と人間の営為とが失われないのである。

   スヴィタヴァの丘の石切場の陽光に満ちた作業場に
   無口な五人の労働者とともに石を切り出す激しい仕事にたずさわる。
   太陽はお人好しの微笑を浮べて空からその様子を見おろしている
   おそらく、岩が石のように堅くなるのを見たことを思い出したのだろう。

   槌が青緑の石をリズミカルに打つ音は鐘の響きに似て
   陽気にとびはね、石の角に何度もつまずく
   てこを岩の隙間に差し込み、岩が落ちそうになるまで傾ける
   顔には火、手には血、額には玉の汗がしたたる

   われらの上には青空、足下には急流
   岩場の斜面には四月の快い天気が甘くおおっている
   眼下には新緑が明るく、柔らかく輝き
   石と鉄が労働の歓喜の歌をうたいつずける

 この書のなかでのノイマンの表現は多様な側面を示している。彼の詩行は総体的に韻を踏み、ネルダを思わせる単純さから

   わたしは星空を愛する
   その深さ、美しさのゆえに
   キラキラと満天にまたたく
   その青い神秘のゆえに

 心おだやかならぬ広がりのなかへ飛び散っていく詩にいたるまで、ゆれ動いている。

   森の奥ふかく樫の巨木にもたれて、わたしは立っている
   わたしは村の泥のなかからやってきた。ここは白い雪が輝いている
   すべての枝に見限られた神が、いずこにあるか、わたしにはまるでわからない
   獣の通ったばかりの足跡を、表面からおおいかくす平和の息吹がどこにあるのか。
『森と水と谷間の書』の自然抒情詩を補足するのは『熱い風』(Horky van )という本にまとめられたエロチック抒情詩であるが、出版されたのはずっと後のことである(1918年)。『森と水と谷間の書』の散文の付録としてついでに出版されたのが二巻の随想集『街を背にして』(S mestem za zady,1922-1923)である。
 ノイマンは自然と同時に、自然を作り変える人間の創造をも賛美した。『森と水と谷間の書』のなかで、もちろん、それはまだ重要な位置を占めていたとはいえない(例えば、詩『仕事場』Tovarna )。文明化に捧げられた詩(当時は「文明詩」civilizacni poesieと呼ばれていた)と『森と水と谷間の書』の詩の大部分が同時期に作られ、相互に密接な関係をもっているこれらの詩をノイマンは『新しい歌』(Nove zpevy)という表題のもとに1918年になってまとめて出版した。この詩集の導入詩は『電線の歌』(Zpevy dratu )であり、電報、電話、電気のワイヤーで全世界を張りめぐらせる近代の科学技術を賛美している。同様にノイマンは輪転機や水道工事、サーカスをも賛美している。
 この詩集は文明だけでなく大都市をも賛美する。そしてそれらはわが国の詩のなかではまったく新しいものだった。ノイマンは文字通り人間の仕事に興奮した。だから世界のなかに不断の変化を見る。それゆえ彼の世界にとって特徴的なのはダイナミズムである。つまり物を運動のなかに見ようという努力である。これに自由詩の形式もまた適応している。『電線の歌』から一部を紹介しよう。

   この狂騒の街路! 恐ろしくもまた無垢なる!
   この蜂の巣、熱病に浮かされたものの群れにとり巻かれたる!
   この銀色の水路、岸の砂のなかを通る!
   私たちはこれらすべてのものと共にある。私たちはそれらを
   唯一、巨大な存在となす。そのものは吠える、激情と争いによって
   名誉と快楽と利己への欲望によって
   そして、そこにはふたたび安息が訪れる。深い思索が、静寂が、感動が
   公園でさえずるつぐみの声が聞こえるほどに
   唯一の巨大なる存在、対比と逆説の母
   それはコークスの山もろともに、肉の山を飲みこむ
   それは慈善院の前に立つ、腹をすかせた女の首にかけたダイヤモンドを誇る
   それは類いまれなる驚異をショーウィンドの奥に展示する
   たがそれでも恐怖に死ぬ思いをするだろう、わが夜に心をたかぶらせたら
   そして、すべては 一挙に 破裂する……

 文明化の成果と同時に詩人は群衆にも歓喜する。この面で特徴的な詩は『春の休日』Jarni nedele)で、公園のレストランのなかの春の休日をとらえている。

   おまえのために乾杯しよう。群衆よ、万華鏡よ、騒音よ!
   おまえたちと一体になろう。そして詩人の分別など知ろうとも思わぬ
   おまえたちのために乾杯しよう。色と響きの美しき混淆よ
   乾杯だ、五月の日よ。レストランの庭よ。
   乾杯だ、世界よ。踊っている世界よ!

 これらの詩句はすでにネズヴァルを予告している。特徴的な例として『電線の歌』からさらに四行の詩句を引用しよう。これはまさにネズヴァルの詩法を思わせるものだ。

   脳と手のひらからほとばしる作品と行為に耳を傾け
   飛行という鳥の遊びを演じている拍手を聞こう。

   低木を踏む雌鹿の足音のような平和のざわめきを聞こう。そして
   パニックを呼ぶ恐怖の合唱に耳を傾けよう。

 第二版(1936年刊の選集)にはさらに三編の『光の歌』(Zpevy svetel)とチクルス『戦後の歌』(Zpevy povalecne )が追加されている。その他にも、後になって部分的に削除された詩集『赤い歌』(Rude zpevy)のなかの幾つかの詩をふくんでいる。この版の詩人自身の言葉によると、この詩集には「一人の人間の抒情的放電から、つまり市民意識から社会意識へ、つまりわれわれをマルクス=レーニン主義の戦士に仕上げたところの主観的責任感意識へのジグザグの道程――残念ながら、大戦によって中断されたが――」を示すものである。
 すでに述べたようにノイマンの活動は戦争の前線への出征によって中断された。彼の戦後の作品は新しい文学の脈絡のなかに組み込まれ、そこにおいて多様な、重要な役割を演ずるのであるが、それはこの後、別の関連において検討することになるだろう。



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 (16)その他の詩作品から

 90年代に登場した最もすぐれた詩の代表者たちについてその特徴を見てきた。もちろん、それによって当時の詩の全作品を取りあげたわけではなく、今日の読者の立場から最も典型的かつ重要な人物にかぎって見てきたのである。その他の詩人たちについては簡単な知識を提供しよう。
 当時、デカダンスの原型と目されていたのはイルジー・カラーセク・ゼ・ルヴォヴィッツである。プラハの旧家の出である(1871年生れ)。彼は神学を学び始めたが、それをおえることなく役人になった。彼は絵画やグラフィックの膨大な収集をカラーセク・ギャラリーとしてプラハのティルシューフ・ドゥーム(Tyrsuv dum)に寄贈した。
 カラーセクはアルノシュト・プロハースカ(Arnost Prochazka)とともに1894年に「モダーン・レビュー」を創刊したが、この雑誌はチェコ・デカダンスの主要な機関誌となった。彼の最初の四つの詩集(『はめこまれた窓』Zazdena okna,1894 、『ソドマ』Sodoma,1895 、『貴族の書』Kniha aristokraticka,1896 、『セクスス・ネカーンス』Sexus necans,1897 。新しく二巻に編集された全集では『死との対話』Hovory se smrti,1904、『ソドマ』Sodoma,1905 )の中心テーマとしてあるのは同時代の生活を嫌悪する貴族主義と倒錯的エロティシズムと死である。彼に影響を与えたのはとくにフランスの象徴主義詩人たち(ヴェルレーヌ)や後のイギリスのデカダント・オスカー・ワイルドである。カラーセクの表現形式は、たとえ彼が同じように自由詩形を取り入れたとしても本質的に芸術至上主義的(パルナシスト)である。孤独感は彼の後の詩集『エンデュミオン』(Endymion,1909 )や『流刑人の島』(Ostrov vyhnancu,1912)においても主要なテーマであった。後期のカラーセクの詩集『生と死の放浪者の小歌』(Pisne tulakovy o zivote a smrti,1930)においても人間の生命の空しさについて瞑想されている。
 ゼイエルの発想やアルベスのロマネットを幾重にも発展させているカラーセクの豊かな散文作品のなかでは『ゴチックの精神』(Goticka duse)というロマンがおもしろい。それはあるデカダントを描いたものである。その他のロマンは忘れ去られた。また戯曲についても同様である。彼の全盛期にはまた文学批評家としても相当の意義をもっていた。とくに1893−1906年においてはそうである(例えば、『印象主義者と風刺家』Impresioniste a ironikove,1903、チェコ詩人にかんする研究のチクルスや後のチェコ作家のポートレート集『創造者と追従者』(Tuvurcove a epigoni,1927)。
 さらにヤン・オポルスキー(Jan Opolsky,1875-1924 )もデカダンスを代表する(『憂欝なる世界』Svet smutnych,1899、『人生の重圧のもとに』Pod tihou zivota,1909 )。彼はフラヴァーチェクの後継者と目されていた。それとエマヌエル・レシェフラット(Emanuel Lesehrad,1877-1955)がいる。彼は1898年から発表された長年にわたる抒情詩を膨大な作品集『宇宙巡礼』(Kosmicka pout )にまとめた。
 象徴主義はすでにヴルフリツキー派の何人かの詩人たちによって準備されていた。そのなかにとくにヤロミール・ボレツキー(Jaromir Borecky,1869-1951 )と加える必要がある。彼は詩集『神秘のバラ』(Rosa mystica,1892 )と『詩人の賛美歌集』(Basnikuv kancional,1905 )の著者である。
 またヤロスラフ・クヴァピル(Jaroslav Kvapil,1868-1950 )であるが、彼はとくにドラマトゥルクおよび演出家として重要である(彼の全盛期にはK.S.スタニスラフスキーの原理から脱却した)。詩集『降りそそぐ星』(Padajici hvezdy,1889、『遺物』(Relikvie)、『詩人の日記』(Basnikuv denik:いずれも1890年作)、および『バラの木』(Ruzovy ker,1890 )によってデカダンスの火をつけた。ドラマにおいても試みた(『タンポポ姫』Princezna Pampeliska,1897 )。
 印象主義を代表したのは、とくにカレル・チェルヴィンカ(Karel Cervinka,1872-1936. 『メモ帳』Zapisnik,1892 、『風景と気分』Krajiny a nalady,1894 )である。
 Fr. ターボルスキー(Taborsky,1858-1940)はリアリズム詩人に加えられる。しかし、彼はオリジナルな詩作品によってよりも、むしろロシア語の翻訳(レールモントフ)によって、そしてロシア造形芸術の識者として知られている。
 それから、カレル・レーゲル(Karel Leger,1859-1934 )はとくに韻文の叙事詩に力を注いだ。



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 (17) アロイス・ムルシュティーク Alois Mrstik(1861-1925)

 散文学のなかには、これまで詩のなかに見出したすべての要素が現れているが、すべてが同じ度合いにおいてではない。発展的に最も重要なのはリアリズムであった(詩との相違はここにある)。こりリアリズムへはすでに何人かのルミール派の同世代者たちが参加している。それはとくに歴史ロマン(イラーセク)と農村ロマン(ホレチェク、ライス、ヘルベン)においてであった。アロイス・ムルシュティークは農村の描写に新しい要素を持ち込んだ。彼は『村での一年』(1903−04、弟のヴィレーム Vilem との共作)において、教会の一年(秋から秋まで)という枠組みのなかで、モラヴァの農村の生活をそのあらゆる習慣、喜び、悲しみとともに描いた。自然の描写の際には印象主義的手法を大胆に採用した。小例として、五月一日の描写を引用しよう。

 五月だ!
おお、この急に芽ぶいてきた丘の上のそよ風のなんと心地よいことか!
桜んぼの木の花の色、ひと色に溶け合った丘の背は雪をかぶった巨岩さながらに谷間から天に接して連なり、雪のような樹冠の花輪の真っただ中に陽光を浴びて身を乗り出している。ぶどう園はいま満開の桃とあんずの淡紅色の花で紅を帯び、丘は麦の穂ずれの音を立てるのみ。そして緑草のおい繁る畔は暗赤色に栄えるほどだ。野にはタンポポの金色の輝き、こちらの野はクローバーの毛皮でおおわれ、オークの若木は銀色の息吹に揺れ動く。そして目をめぐらせばいたるところ、あの愛らしい、身も心も爽快にせずにはいない緑の美、それは、はるか彼方まで広がる地上の楽園。そしてあちらこちらの農園にはライラックの香りがただよい、リンゴの木は赤身を帯びたその目覆いをはっきりと開いて、庭先の梨の木はまばらな花を白くつけている。畑のすももの並木は果てしなくつずき、互いに白く溶け合った花冠の鎖を延々と引きずっていく。
「我が家の前」の花床にはチューリップが誇らしげだ。それに赤いサクラ草。あざやかな忘れな草が輝いている。その横には三色すみれが死人に似たその顔を変にゆがめている。生きとし生けるもの、またよそ目には死んだようなものすべてのものの甘い体液は血液のように、表皮のしたにも、また、隠れた世界の深淵のなかで脈打っている。そしてそこの闇の向こうに目に見えないところで、これらの香りのすべて、そして被造物の情熱的な叫びが生み出されている。そして、これらのものをふくんだ空気がありあまる豊かさのなかで満ちていた。
 群れをなす虫たちも、また妙なる楽の音で日の当たらぬ片隅を満たしている。そして蜜蜂――蜜蜂――彼らはまるで狂ったかのように全員が洪水となって養蜂箱から飛び出してくる。実桜の花粉や蜜を一杯に背負うために。騒々しい混乱のうちにふたたび全員共通の母のもとへ帰ってく。そして神妙に蜂の巣の一つ一つの部屋を訪ねまわり、幾千もの卵で自分たちの健やかな大きな一族を築きあげるのだ。
 そして、このあたり一帯に歌の嵐が起こる。燕は閃光のように空気中を横切りながらさえずる。「うちの」燕たちももう戻ってくる。それはちょうど長い巡礼の飛行を終える前の日だったのだ。彼らはそれまではなんとなく目的もなく気まぐれに村中を高く低く飛び回っていた。彼らは野原の上で円を描き、穀物倉の回りをまわる。それからおなじみの屋根を越え、もっとなつかしい中庭を越えて子供たちの頭上で旋回する。そして喜びの声とともに年ふりた自分のすみかへ飛び込んだ。


 ムルシュティークは農村の特質にたいして研ぎすまされた感覚をもっており、農村の生活が都市の影響のもとで、いかに崩壊していくかを愛惜の情をもって観察した。しかしその生活の裏側まで見通すということまではしなかった。
 この面では農村をテーマとした著作において、テレーザ・ノヴァーコヴァーははるかに成熟していた。彼女はルミール派の世代(ヴルフリツキーと同年の生れ)であったにもかかわらず、彼女の成熟した作品を今世紀に入っても発表していた。なぜなら、わが国の大戦前リアリズム散文学は彼女の作品において頂点に達するのだから、彼女の作品をより詳細に検討することにしよう。



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 (18) テレーザ・ノヴァーコヴァー  Tereza Novakova(1853−1912)


 テレーザ・ノヴァーコヴァーは旧姓ランハウソヴァー(Lanhausova)は裕福な教養あるプラハのドイツ系の家庭に生れた。若い頃から文学的にドイツ古典やロマン主義の作品、またロシアやイギリスのリアリズムの作品によって教育を受けた。しかし、間もなく彼女の精神生活と思想的発展のなかの最優先の場所にチェコ的衝動が浸透した。それは60年、70年代におけるチェコ社会の民族意識の急速な高揚とともにチェコの詩、散文における、いわゆる民族的方向の主要な代表者によってもたらされたチェコ文学における新しい潮流によって影響されたものだった。未来の作家の民族意識にたいし、アメルリングの教育施設に在籍したことも寄与した。ノヴァーコヴァーの愛国的チェコ人への決定的転換にたいしては Sv.チェフが個人的にも、文学的にも大きく影響した。彼とともに若いノヴァーコヴァーの人間性に常に顕著な作用をおよぼしたのはカロリーナ・スヴィエットラーであり、彼女は書きはじめたばかりのこの小説家にとって長い間お手本であり続けた。
 ノヴァーコヴァーの最初の重要な文学的試みは、中学教師であった dr.ヨゼフ・ノヴァークとともにプラハからリトミシュル(Litomysl)へ移住した時期に相当する。プラハの幸福な時代の思い出からノヴァーコヴァーは彼女の小説『舞踏会のうわさ話』(Klepy z plesu )や後の『わたしの生れた家から』(Z meho rodneho domu )や『ラウラ』(Laura )のヒントや題材を引き出している。それに反してリトミシュルやリトミシュルスコの反響は長い間彼女の作品のなかに現れなかった。だからといって、作家自身がその町やその地方の文化また社会生活の片隅に引っ込んでいたわけではなく、むしろ反対に啓蒙的活動によって直接的にその土地での生活を活気づけていたから、アロイス・イラーセクやA.V.シュミロフスキーとともに この二人は同じ頃リトミシュルで活躍していた町の意識的チェコ人社会の最も目立った存在となっていたのである。
 徐々にではあるがノバーコバーの文学作品のなかにこの作家の以後の思想的、また芸術的発展を示唆する社会的、反小市民的批判の調子が加味されてくる。そのことは、例えば、散文作品集『わが民族社会から』(Z nasi narodni spolecnost )『町から孤独から』(Z mest i ze samot )『スケッチとデッサン』(Kresby a crty)などの作品について言えるが、とくにカレル・ハヴリーチェク・ボロフスキーの娘ズデンカの不幸な運命に刺激されたノヴァーコヴァーの最初の長編小説『小市民ロマン』(Malomestsky roman,1890)がその例である。この作品は本来ノヴァーコヴァーの作品のなかでは重要な意味をもってはいないものの、このなかでこの作家がはじめて自分の民族的社会意識と創作プログラムを述べているのである。彼女はこの作品をカロリーナ・スヴィエットラーに捧げ、序言のなかで、脅かされている民族社会の問題のために全力をあげ、ためらうことなく現代のチェコ文学を役立てようという、つまり「筆を捨て、煉瓦積み職人のヘラを手に取ろう」というスヴィエットラーのかつての呼びかけに賛同を表明した。このことは文学作品のその他のすべての機能のうえに民族的かつ社会的防衛の機能ばかりでなく、とくに批判的機能を置くこと、つまり民族社会にこれらのものが不足すれば民族社会の健全な発展を脅かすことになる、それを排除することに文学作品の効果を方向づけることを意味している。スヴィエットラーにたいする傾倒をノヴァーコヴァーは同じ年(1890年)に記念文集『カロリーナ・スヴィエットラー、その生涯と著作』(Karolina Svetla,jeji zivot a spisy)によって表明した。
 しかしながら同時にノヴァーコヴァーは90年代の始め頃から最初の文学的活動から脱皮しはじめ、描写の理想化の手法を排して、徐々にリアリスティックなメソードを取り入れるようになった。このことは東チェコの民衆環境のなかで生活するのにともなって起こった。かつてホツコでのニェムツォヴァーと同様にノヴァーコヴァーもまず最初に民衆文化の物質的側面に興味をもった。その証拠をなによりも彼女の民俗学的研究『リトミシュルスコにおける民衆の衣装と民族刺繍』(Kroj lidovy a narodni vysivani na Litomyslsku,1891)または『東チェコの切り妻』(Vychodoceske lomnice,1903 )に見出だすことができる。そのほかこの作家の絶間ないチェコ=モラヴィア地域の旅行の成果は、例えば、散文作品集『最東部チェコ地方より』(Z nejvychodnejsi Cech,1898)である。これらの作品は基本的に重要な新しい創造段階への移行を示すものであった。この段階において作家の霊感の源泉となったのは東チェコの農村民衆の過去、現在の生活であった。彼女がこの生活に文学的にばかりではなく、個人的にもいかに密着していたかという点にかんしては1895年、夫がプラハに転勤になった後でさえも、彼女がかつて島流しに合ったかに思えたこの地方に戻ってくることを止めず、最後にはその地――プロセッチュ(Prosec)という小さな町に永久に住み着いたということからもわかる。彼女はこの土地でそれほど長いともいえない人生の残りの年月を幾人かのわが子を失った悲しみのうちに送ったのだが、しかしそれは最高の創造的緊張の年月でもあった。その実りは一連の短編小説や短文のほかに彼女の作品の頂点を示す五編のロマンであった。
 この作家は自分のロマンの手法を記録的(ドキュメンタル)リアリズムと定義し、それによって彼女の作品の素材としての現実の手本への忠実さを強調した。そして作品のなかでできるだけ正確に特色ある地方の、そしてその住民たちの生活をとらえようとしたのである。しかしそれは現実の単なる写真的複製とかコピーとかということを意味しない。この生きた素材のすべてはそれこそが個々の芸術作品を創造するということのいみでもあり、もくてきでもあるところの創造の過程と創造的現実化、様式化を通過しているのである。「ドキュメンタル」という定義にしても作家がもしかしたら描写される現実にたいする評価的観点を放棄したのであろうと結論づけるのは間違いである。まさにその逆なのである。ノヴァーコヴァーは彼女の著作のなかでチェコの民族社会を支配したそして民族的、宗教的、とくに社会的な人民の差別にたいして責任を負うべき社会層にたいして鋭い批判性を示しているのである。
 ノヴァーコヴァーの五編のロマンのうち四編はリトミシュルおよびポリッチュスコの典型的人物の現実の、一生の運命を単一主題的に扱った文学作品である。唯一の例外(『ヤン・イーレク』)についてでさえ題材はきわめて近時の、ともすると作品の出現した時期と交差するほど近い過去から取られているのである。ノヴァーコヴァーがある社会集団の運命を描いたユニークなロマンでさえ、現実的な根拠をもっている(『純潔で活力ある人の子供たち』Deti cisteho ziveho )。これらのすべての作品において彼女はチェコ地方最東端の貧しい地域に住む人々の外面的かつ内面的世界を解き明かしえているのである。これらの作品の主人公たちはすべて新しい、より良い、より正しい明日のための真実、進路の探求者なのである。かれらは改革の伝統と浸透した地方に成長したのだから、未来への彼らの希望が何よりも人間の平等、貧者、虐げられた人、抑圧された者たちのための正義というキリスト教的理想の実現へとしっかりと結びつけられているのは当然である。しかしノヴァーコヴァーは透徹した鋭敏さをもって民衆層の過去や現在の状況、彼らの心情を観察したばかりではない。それどころか、究極的な、おそらくこれらの人民層のなかに今まさに生れつつある思想的傾向をも見逃してはいないのである。それはとくに宗教的位相から社会主義的思想の位相を指向する傾向であった。この複雑で容易に見定めることのできない内面的過程を彼女は見事に描き出したのである。だからこの、いま述べた文学ジャンルの領域において最先端の位置の一つを彼女に与えることこそが、きわめてふさわしいと言えるのである。

 ノヴァーコヴァーは「真実の探求者」の文学的人物の最初の一人を反革命時代の歴史ロマン『ヤン・イーレク』(Jan Jilek,1904)において創造した。それは十八世紀前半の最も深い暗黒時代のチェコ友愛団の外国移住者(エミグラント)の物語である。内面的信仰の固さはイーレクに最も大きな苦痛に耐える力を与えてくれる。その苦痛は非カトリック信者――とくに祖国内の信仰を共にする者と関係を国境越えて保ちつずける者たち――に加えられるものなのである。リトミシュルはこの作品では農村的辺境としてではなく、反革命運動の、そしてエズイット派の東チェコの中心地として描かれている。このロマンのなかでノヴァーコヴァーはまた東チェコの民衆の環境の彼女にとっての最初のリアリスティックな文学的情景をその方言の個性的特徴とともに作り出している。

 イールコヴァー夫人は夫のまぶたを抑え、彼の質素な生地の服を調えてから、つけ木に火をつけると、小さな広間を通って納戸へ入っていった。そして、そこに置いてあった金張りの長持ちから美しく織りあげた白い布を取り出して戻ってくると、それを死人のうえにかぶせた。
「おばさん、年の祈りの本を出してくださいな。あの人の前でお祈りをしましょう」と年老いたマリアーンナの耳のそばに寄って言った。
 老婆は祈祷書の隠しおいた場所を探そうとして梁の上をなでまわした。そのとき突然、外で門を激しくたたく音がして石段へ通じる回廊のほうから聞こえてきた。
 居間にいあわせた全員は体を固くした。それに、門をたたく音が一層強くなったのに、誰もその場を動こうとしなかった。だが、とうとうミケシュ・フィリピが口を開いた。
「誰だい、こんな不幸があったというのに、こんなときにかぎって、こともあろうにこのうちにやってくるとは?」
 イールコヴァーはそれには答えず、ショールにくるまった頭に手をやった。そして声をひそめて言った。
「セブラニツェの村中が地主が死んだと知って、わたしらが司祭を呼ばなかったものだから、それであの人たちがここに押しかけてきたんだわ。もし、ほんとにそうだとしたら……。おばさん、ああ、どうしよう。さあ、バイブルやその他の本を隠してくださいな。もし、見つかったら、わたしたち、すぐにも牢屋だわ。そして、わたしたちまでもうちの主人みたいに、首切り役人が火あぶりにするわ!」
 マリアーンナ婆さんはすぐには理解できず、ただ目を大きく見開いたまま絶望的に両腕をしっかりと組みあわせている未亡人を見つめ、熱い涙の流れている目で黒い木組みの天井を見あげた。その一方、娘のヘレンカは弟と一緒にそれまでは片隅にちぢこまっていたが、不意にテーブルのほうへ飛んでいくと急き込んで尋ねた。
「お母さん、どこへやればいいの?」
「さあ、おまえ、かまどのしたへ埋めるのよ、お母さんが今しているみたいに」
「アンチュカ、そんな暇はないぞ」ミケシュが言った。「見ろ、あんなに門をたたいている。ヤクブのベッドのしたの藁のなかへ突っ込め、やつらだって、そんなところには手を触れまい 死人を部屋に寝かせるんだ。ヘレナ、それにおばさん、あんたもそれを手伝うんだ。おれは門を開けに行く」


 しかし、過去よりもさらにノヴァーコヴァーを引きつけたのは、自分が体験し、あるいは、その生存している証人を訪ねることのできる時代であった。彼女は『イールカ』のあと、すぐ次のロマンのための題材を現代から選んだ。『イルジー・シュマトラーン』(Jiri Smatlan,1906 )はポリッチュスコの貧しい織工の物語である。彼は若いころから「世界の真理」についてのいろいろな本を読んで思索した。そして自分の問にたいする答をカトリック教会に見出だしたとき、福音伝導派へと改宗するが、最後に真理は教会の外に見出だす必要があるとの認識に到達する。労働者で社会主義者の友人ハメルニークは彼にまったく新しい思想の領域を示し、印刷物を通して社会民主主義の綱領(プログラム)を紹介する。シュマトラーンはこの綱領を社会悪の矯正についての自分のイメージに適応させ、それが本質的にキリスト教の根源的原則の実現化であると理解する。彼は仲間の労働者たちとよりよき明日の希望について語り、彼らとともにメーデーの祭典を楽しみにする。おそらくかれはそのときすでに病んでいる。そして「町のいたるところでいかに社会民主党員がメーデーを祝っているか、いかにこの休日を当然のものとして要求しているか……また市民たちや資本家たちが火薬やダイナマイトで吹き飛ばされるのではないかと恐れ、防衛のために軍隊や警官を召集している」様子などを語るハメルニークの言葉を食い入るように聞いている。「たった一つの労働者の祭りがこれほどの恐怖であるということは、つまり、彼ら社会主義者の労働者が力を自らの手中に納めたときにはそのとき富豪の市民どもは、もうとっくに何もかも放り出して逃げだしているだろう!」 
 しかし、シュマトラーンはすでに明るい明日を待つことはなかった。彼は結核で死んでいく。家族を貧困のうちに残して、自分のもの乞いにおとしめたまま。しかし、それでも彼はよりよい、来たるべき世界を信じつつ死んでいく。墓の前では彼の同志の労働者たちが、彼と同志の一人としての彼と別れを告げるのである。
 シュマトラーンは人生の終極まで――教会との訣別があったとはいえ――宗教的人間であり続けた。とはいえ、彼の生涯にわたる真理探求の意義は純粋に宗教的信仰ではなく、むしろ純粋に人間相互の関係に属するもの、新しい、公平な社会の創造である。『イルジー・シュマトラーン』の作者は社会主義者ではなかった。しかしながら、彼女の現実を深く洞察する能力が彼女をして東チェコ農村における宗教的問題性がいかに現実の社会問題と遠くかけはなれているか、また浸透しつつある資本主義の圧力のもとでチェコの農村が階級的にいかに差別されているかということの認識へと導いたのである。
 ノヴァーコヴァーはその諸作品においてこの社会的変動の歴史的原理を意識しており、したがって農村世界の古い形態への逆戻りを願わなかったし、むしろ彼女の文学作品によって、そのよりよい未来を準備するのをたすけたのである。その証拠はそれ以後の彼女の作品にもある。
 ロマン『リブラの財産』(Librove grunte,1907 )はこの作家の「モノグラフィー」の系列に属するものではあるが、主人公の農夫ヨベク・リブラ(Jobek Libra )の運命とともに1848年とそれに続く年月のポリッチュスコにおける農村社会の運命が比較的広角的な視野のなかにとらえられ描かれている。これまでの二編のロマンと異なる点は、作品の問題性がすでに宗教的ではなくなっているということである。十九世紀を舞台とするノヴァーコヴァーのすべての作品において農村の民衆の社会的在り方が作者の関心の全面に押し出されていたと言えるなら、ロマン『リブラの財産』ではそれが基本テーマとなっていると言えるのである。三月革命以前期の社会的抑圧は徹底的な方法で農夫リブラの私生活にも介入してきた。労役(ロボタ)や高い税金によってひき起こされた物質的窮乏は、彼に自分の家庭を維持することも不可能にする。1848年の春になって初めてチェコの農村の生活にも希望がもたらされる。労役の解除がこの年の永続的な結果として残るが、身代金支払いの義務がふたたび新しい軛(くびき)となり、それは裕福な農民よりも零細な百姓に大きな負担となるのは当然である。ノヴァーコヴァーは当時の農村の社会的差別と同時に、社会的抑圧が民族的抑圧に伴われていることも示している。
 東チェコ民衆の生活のなかの宗教問題はロマン『純潔で、活気ある人の子供たち』(Deti cisteho ziveho,1909)においてふたたび全面に出てくる。このロマンの舞台となるのはノヴァーコヴァーが晩年を過ごした小さな町プロセチュである。彼女は文献や記念碑の記録にもとづいて宗教的夢想家、光明と真理と、よりよい明日の探求者たちの一宗派の運命を描いた。この彼らの探求のもともとの衝動というのは、思想的ドグマ――それがカトリックのものであれ福音派のものであれ――から解放されて、自分の悟性を用いて現実の、そして究極的な、より幸福な未来の認識を獲得しようという願望である。それを具現しているのが、とくにロマンの中心人物クヴァピルである。彼は宗教的夢想家というよりはむしろ合理主義者で、啓蒙家といったタイプである。しかし、まさに彼こそが最後に自分の手で自分の命を絶つ。そして、この彼の悲劇的最後に、あたかも人間の偏見や悪、おろかしさを克服する人間理性の能力にたいする当時の作者の不信が描き出されているように見える。さらに救いのなさは、この宗派の他の仲間たちの最後である。この宗派(セクト)は完全に崩壊し、そのメンバーはことごとく運命に蹂躙されていく。このロマンのなかにはこの時代の作者の個人的生活の悲劇的状況によって呼び起こされた人生にたいするペシムズムが投影していることは疑いをいれない。しかし、それにもかかわらず作品の全体としての余韻は決して救いのないものと決め付けることはできない。ノヴァーコヴァーの確信によれば人類の発展と人間の精神はあらゆる障害を乗り越えて前進し、認識は暗黒を圧迫する。それはおよそ作家の個人的告白の性格をもつエピローグのなかによみとれる。
「努力するものは勝ち、自分自身を裏切る者のみが敗れ、破滅すると私は信じる!」
 ノヴァーコヴァーの最後のロマンは『ドラシャル』(Drasar,1910 年5 月に発表され、1914年に単行本として出版)である。これはわが国民族、文学史上のよく知られた啓蒙家司祭ヨゼフ・ユスティン・ヴァーツラフ・ミヘルの文学的伝記である。彼の不幸な運命は――ノヴァーコヴァーも描くように――とくにドラシャルが生きた時代と社会によって作り出されたものである。1848年の以前にも、またその以後も政治的また宗教的反動は人間の姿勢を歪め、そして――ドラシャルのように――反動の圧力に抵抗しようとするものは誰でも抹殺したのである。信仰の自由の関心のなかでドラシャルはあえて物質的また社会的有利さを放棄して、反動的ウィーン体制のおもな支柱であったカトリック教会に公然と反対の立場を取ったのである。その上かつての司祭として家庭をもったとき、ドラシャルは迫害にさらされる。そして最後には確かに敗北するとはいえ、ドラシャルの悲劇的結末に手を貸したのは彼の妻の死、政府の迫害もあったのもたしかだが――そればかりで
なく、小市民社会の欺瞞に満ちた道徳に公然と反抗したものはいかなるものといえども容赦しないという当時の小市民社会の偏見や敵意も少なからず与かっていた。しかし、ノヴァーコヴァーは自分の主人公を単に明るい色のみによって描いてはいない。ドラシャルの不幸な運命の幾つかの原因は彼自身が自分のなかにもっていたことを彼女は示している。それは彼自身の内面的弱さであり、客観的状況また自分の力を現実的に判断する能力を欠いていたことにもあったのである。しかし、ドラシャルの生涯の努力は決定的に無駄にはならなかった。ロマンの結末は、ドラシャルの遺産―――認識の願望、信仰の自由、社会的平等への願望――は彼の子孫の間に生き続けることを暗示している。
 ロマン(長編小説)とともにノヴァーコヴァーは多くの短編をも創作している。リトミシュルの人々の生活を描いたこれらの作品のうち最も重要なものは『みかげ石の破片』(Ulomky zuly,1902)一巻のなかに収められている。


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 (19) 社会小説の試み

 労働者や市民の問題をテーマとしたリアリズム社会小説は農村小説よりははるかにゆるやかに発展し、またあまり成果もあがらなかった。そこへ行く過程にはネルダが『小街区物語』(Malostranske povidky)において先鞭をつけたリアリスティックなスケッチや日常生活画(zanrove obrazek,いわゆる人物素描 figurkareni)があったのである。人物素描またコラムニストとして、例えば、モラヴィアの司祭ヴァーツラフ・コスマーク(Vaclav Kosmak,1843-1892 )が始めていた。彼のきわめて素朴な随想(フェエトン←feuilleton)の数巻からなる全集は『のぞき窓』(Kukatko,1876-1892 )というタイトルのもとに出版された。短いスケッチ文や傾向的な短編から、都会的環境のロマン『エウゲニエ』(Eugenie ;雑誌に 1882-1883、単行本として1886年刊)や『グレイハウンド』(Chrt; 雑誌に 1884-1887年、単行本として1888年刊)までコスマークは書いた。そして最も広い読者層を対象として、その皮相性と極端な偏見のそしりをまぬがれなかったが読者の大きな反響を受けた。
 イグナート・ヘルマン(Ignat Herrmann,1854-1935)はコスマークよりは芸術的に大きな成功をおさめた。彼は今日ではロマン『父コンデリークと花婿ヴェイヴァラ』(Otec Kondelik a zenich Vejvara,1898 )とその姉妹編『舅コンデリークと婿ヴェイヴァラ』Tchan Kondelik a zet Vejvara,1906 )の二作のユーモア作家として知られている。これらの作品で彼はプラハの市民、正直な部屋塗り職人、また家庭の父親のコミカルな典型を創造している。しかし文学的により重要なのは彼の真面目な作品である。彼は小品(『プラハの人物素描』Prazske figurky,I,1884;II,1886: 『小人物たち』Drobni Lide,1888, 他)でデビューし、プラハの零細な商人の破滅を描いた長大なロマン『食いあらされた商店で』(U snedeneho kramu,1890)にまで手をのばした。これは彼の最上の作品である。コスマークとヘルマンは自然主義の先駆者と目されている。
 明確な社会意識をもったロマンを試みたのはマチェイ・アナスタジア・シマーチェクMatej Anastazia Simacek,1860-1913 )である。彼はプラハの出身で、プラハで化学を修めた。その後、短期間、地方で製糖工場の事務員をした。プラハへ戻ってからはひたすら文学と彼の雑誌『スヴィエトゾル』(Svetozor=世界観、1884-1899 )に献身した。そして『鐘』(Zvon,1900-1913)をリアリズム運動の機関誌にした。シマーチェクは労働者の環境を十分理解していた(短編小説集『見捨てられた場所から』Z opusteniych mist,1887;『裁断機のそばで』U rezacek,1888; 『工場の魂』Duse tovarny,1894 )とはいえ、その目は彼の属する階級の目であった。彼は労働者階級に同情を寄せ、その生活を熟知していたが彼らの問題の解決の道を発見することができず、かなり感傷的な改良主義と博愛主義の位置にとどまっている。彼は労働者の生活を舞台の形でも表現している(『小人物たちの世界』Svet malych lide,1890 。この作品は短編集『見捨てられた場所から』のなかの小説『ストロウハル夫妻』Manzele Strohalovi の劇化である)。しかしやがて彼は労働者のテーマを放棄して、市民階級の崩壊の描写に没頭する。とくにこのジャンルに属するものとしてはプラハの有資産家の小ブルジョアジーの生活を描いた一連の小品『哲学科学生フィリプ・コルジーンカの記録から』(Ze zapisniku phil.stud.Filipa Korinka,1893-1897 )である。その後、同じ主題を大規模なロマンにも用いた(『過去の世界』Svet et minu1osti,1895-98年に書かれて、1901年に出版。『どん欲な魂』Lacna srdce,1904;『わたしは生きたい』Chci zit,1908)、彼の姿勢は年毎に保守牲を強めいったため、1900年以後は意味を失う。今日では彼のロマンはすでに忘れられている。彼の様式は必要以上に即物的で、感情の高揚もなく、その多くの作品の構成はながったらしく、しばしば退屈と境を接している。
 それに反して、その同時代者F.X. スヴォボダ(Svoboda,1860-1943)の作品ははるかに読みやすい。彼はムニーシェク(Mnisek)の生れで事務職員であったが、後にプラハで職業的作家となる。スヴォボダは自然の美にたいする感受性を備えた瞑想的抒情詩人としても秀でている。彼のもっともよい詩においては印象主義と結びついている(『詩集I』1883;『詩集U』1885;『過ぎし年月の気分』Nalady z minulych let,1890;他)。――散文家としては表面的には何の変哲もない事件の裏側により深い心理的動機を探り出そうと努めた(短編集『小さな事件』Drobne prihody,1896)。彼の最も長い作品はロマン『開花』(Rozkvet,1898、ある農村家族の三代にわたる運命)と『川』(Reka 1908――1909、プラハの市民たちの生活)である。今日ではこれらの作品は読物としてはすでに生命をたもってはいない。とくにこれらの作品を損なっているのは広範な社会的文脈にたいする小さな視野である。スヴォボダは楽々と創作し、きわめて多作であったが、因習に背かなかった。そして1900年以後の彼の作品は、すでにたいがいが、だんだん安っぱい口当りのよさに堕していった。彼は戯曲も書いている(後章参照)。



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