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(2) スヴァトプルク・チェフ/ Svatopluk  ech


 いわゆるルフ派の主な代表者はスヴァトプルク・チェフである、チェフはこのグループの文学的かつ理念的プロプラムの意味するところにしたがって、なによりもまずチェコの民族的社会的努力の要求と目的を満たすように自分の詩を方向づけた。彼は手本とする二人の詩人の文学遺産に、つまりヤン・コラールとヤン・ネルダの作品に結びつくよう心掛け、この二人の詩人と同様に、民族意識の確立、あらゆる側面へのチェコ民族社会の発展そして社会的不平等の緩和といった努カヘの寄与を創作課題として設定した。だからスヴァトプルク・チェフは真の意味での政治詩人であった。彼はチェコ・インテリゲンチャの青年チェコ派陣営に属し、その最も進歩的なプログラムを表明した。そして国内の状況ばかりでなく、国外の事件が社会的時事問題の緊迫性にたいする彼の内面の感牲をいらだたせた。その一つはなんといっても1870年代の初めにおこったパリ・コミューンの闘争であった。彼はこの闘争に心底から共感し、それはまた詩人としての彼に理念的力の霊感として作用したのだった。
 チェフの詩作品の性格もかなり政治的意図に適っている。それは内面的な詩ではない。むしろ集団的作用、聞くこと、朗読することに、集団的効果に合うように意図されていた。
 このことは多分にレトリックな性格と関連している。ここからチェフ作品の長所も短所も生れてくる。だかち、とくに広大な構想をもつ叙事詩的作品では理念的雄弁性のほうが、現実に向けた詩人の深い洞察のまなざしを圧倒している。つまり素材の芸術的造形と大きな理念的意図とは必ずしも常に均衡を保っていないということだ。しかし、それにもかかわらず,、詩人の作品のかなりの部分は私たちにとって今日にいたるまで生命力をもった芸術遺産としてありつづけている。私たちはそのなかにチェコ再興期文学のスラヴ―民族主義プログラムの理念の頂点を見ることができるのだが、同時に、すでにチェコ詩の新しい発展段階への重要な一歩も見るのである。その第一歩とは社会関係の新しい秩序への関心として特徴づけられる。90年代および今世紀初頭のチェコの社会詩は重要な旗頭としてぱかりでなく、次の発展の起爆剤としてスヴァトプルク・チェフを得たのである。反ヴルフリツキーの旗印のもとに集まった象徴主義やリアリズムの若い詩人世代はスヴァトプルク・チェフのこのような創造的インパルスに親しみ、多くの方面で彼と結びついた。彼は生前、いわゆる民族派の代表者たちを自分の周囲に集めていた。この民族派からルミール派にたいする多数の攻撃論争が発っせられるのだが、チェフ自身はこの攻撃を決してそそのかしたわけではなく、反対にルミール派周辺の作家たちにたいし敬意に満ちた態度を保っていた。
 スヴァトプルク・チェフ(1846―1908)はオストジェデク・ウ・ベネショヴァの商店の支配人の息子として生れた。彼はスラヴ―愛国主義的雰囲気のなかで育てられた。父は彼に子供のころから、特にヤン・コラールの作品と思想にたいする尊敬を教えこんだ。しかし同時にチェフはマーハやバイロン、ロシアやポーランドのロマン主義作品の熱心な読者でもあった。学生時代をプラハのカトリック系(ピアリスタ)の寄宿舎で過ごし、新街区のピアリスタ・ギムナジウムを卒業したが、それ以前に文学界への登場を果たしていた。法学部に在学中に当時の代表的雑誌(「ルミール」「花」)、そのほか、特に、アルマナック「ルフ」(1868)に発表していた。学業を終えた後、スラニーとプラハで弁護士補として働いたが、間もなく法律家としての生活を断念して文学だけに専念した。雑誌「世界展望」Svetozor と「ルミール」を編集し、1878年には兄弟のヴラヂミール V1adimir とともに月刊誌「花」Kvety を創刊し、その後1899年までその編集をした。彼はずっとプラハに住んだが、1895年から1903年までの間だけムニェルニークの町の近くのオプジーストヴィー村に住み、ふたたび首都プラハにもどってきた。彼は何度か外国旅行もしたが、そのなかでとくに重要なのは、カフカスKavkaz とデンマークヘの旅である。チェフの詩作品の初期は60年代に相当するが、一方ではチェコおよび世界のロマン主義の詩に影響され、また一方ではマーイ派の詩に影響を受けている。また民衆詩がチェフに与えた影響も明瞭である。思想的にはチェフは最初から民族の進歩的伝統に傾き、スラヴ主義の思想、民族平等の戦いのプログラムに傾倒していた。間もなく同時代の社会的闘争にたいする熱烈な関心をもつまでにいたる。ジャンル的観点から言えば、チェフの場合、80年代の後半までは抒情性を強調した韻文叙事詩が圧倒的である。
 チェフの初期の詩作のなかで最も性格的な詩は『バルト地方のフス主義者』Husita naBaltu (「ルフ」1868)であるが、そのことはテーマの選択や創作のしかたについても言える。わが民族の過去のフス時代にたいする畏敬の念は、時代や目然の環境を詩的に描写する、すでに成熟した能力と結びついている。荒れ狂う自然の猛威を効果的に描写する技法をチェフはロマンチックな“海のファンタジー”『嵐』Boure (1869)で示している。
 チェフの初期の作品で最も重要なものは、叙事詩『アダミット派』Adamite (1873)である。その主題はフス戦争時代のアダミット派にたいする弾圧である。しかし詩の本来の意味は現代を指向している。チェフは両極端にある宗派や宗旨の理念の論争のなかで同時代の思想界の根を掘り起こそうとしたのである。
 これらの作品やその他のものを『詩集』Basne (1874)という名の彼の最初の本にまとめた。――チェフの詩の発展の第一段階にロマン主義的叙事詩『チェルケス族』Cerkes (1875)も含まれる。この作品は一つには彼のカフカスヘの旅行、また一方ではプーシキン、レールモントフの読書によって触発されたものだった。
 大叙事詩『ヨーロッパ』Evropa (1878)の出版をもってチェフの発展の新しい段階の始まりとみなすことができる。この段階の特徴は時代のアクチュアルな社会間題への傾斜である。それは同時代のヨーロッパにおける激化する社会的緊張の印象、とくにパリ・コミューンの闘争の印象のもとに生れたアレゴリーである。チェフの『ヨーロッパ』は征服されたコミューン党員を追放の地へ運ぷ船である。船上で反乱が起こるがその過程で反乱者たちの間に過激派と穏健派の二つの分派ができる。穏健派が勝つが、過激派のリーダーは船を爆破する。作者自身の意見も穏健派のリーダー、ガストンが表明する理想に一致している。ガストンは詩のなかで理想の国家を述べ、詩人もまたその国に住むことを望んでいる、そこは法律のない国家である。なぜなら正義ある人々には無用だからである。またその国家ではすべての者が完全な自由と平等とを得る。したがってこの詩は現実的可能性や社会の発展の展望を示すことをせず、本質的に観念的ユートピア社会の響きをただよわせている、『ヨーロッパ』とは対称的に楽天的な作品はスヴァトプルク・チェフの第二作目の大アレゴリー詩『スラヴィエ』Siavie(]882)である。このなかでは――社会問題とともに――スラヴの民族関係の問題が解決されている。チェフはロシアとポーランドの対立を例にしてスラヴ諸民族の合意の必要性を指摘している。チェフによれぱ、スラヴ民族のリーダーにはロシアがなるだろうが、スラヴの各民族はお互いに対等でなくてはならないだろうと。スラヴの環境のなかから社会的転換もおこる。その目的は社会的権利の平等であるだろう。それゆえに、チェフの確信するところによれぱ、わが民族は東方、ロシアと手をつながなくてはならないと、ロシア民族の歴史的使命にたいする確信と信念をチェフは生涯もちつずけた。
 スラヴ愛国主義理念は80年代のチェフの作品のなかに歴然と漫透している。しかも、素材をふたたびチェコ民族の過去に求めている。膨大な叙事詩『ヴァーツラフ・ス・ミハロヴィッツ』VacIav z Micha1ovic (1880) は1621年にスタrロムニェスツケー・ナームニェスティー<旧街区広場>で処刑され、たチェコの貴族ポフスラフ・ス・ミハロヴィッツ Bohuslav z Michalovic の第二子について物語っている。・ヴァーツラフは自分の出生について知らないままエズイット教徒に養育されるが、自分の父が誰であるか知るやいなや、彼らの秩序のなかにとどまることを拒否する。だが、彼の反抗はなんの成果も得ることなしに終わる。そして自分の信念を公に宣言するが、その後すぐに死んでしまう。詩の性格は極めてロマン主義的である(部分的にミツキェヴィッツ Mickiewicz の『コンラト・ワレンロット』Konrad Wallenrod に影響されている)。史実はむしろ物語りの背景にすぎず、物譜り本来の意味はアクチュアルである。チェフはそのなかでカトリック教会のヘゲモニー――特にエズイット派の秩序――にたいして反発を表明することで人間精神と民族社会の自由な発展という考えに賛同したのである。
 次のチェフの叙事詩『ダグマル』Dagmar(1884〉はデンマーク王ヴァルデマル Vardemar に嫁いだプシェミスル・オタカル一世の娘の物語を描いている。作者は素材をデンマークの民衆詩くバラード〉から取っているが、詩の意味はむしろコラール Kollar 的スラヴ主義の理念と伝統的スラヴ相互主義〈sIovanska sounalezitost〉の意識を表現している。これらの作品と同時に、スヴァトプルク・チェフは1879年に田園を舞台にしたユーモラスで、また、深刻でもある韻文の物語『菩提樹の木陰で』Ve stinu lipy を書いている。愛国者的な響き、チェフの大叙事詩のもつ装飾的要素を除いた詩の表現、それにチェコの古代世界の田園的雰囲気の幸せに満ちた描写といったものがこの作品を、チェフ作品のなかで最もポピュラーな作品にしている。チェフの詩『レシェティーンの町の鍛冶屋』もまた非常な反響を呼んだ。この詩は1883年の出版の後、オーストリアの検閲で没収され、数年後に複製が広まった。そして1899年になって改めて出版された。舞台をチェコの田園的状況に設定したこの作品の思想の重点は、ドイツの企業と資本側からの民族的、社会的圧迫にたいする民衆の反抗の理念である。
 1980年代のチェフの作品では風刺詩が著しい威功を収めている。この意図で書かれた作品のなかでもっとも個性的な詩は『ハヌマン』Hanuman(1884)である。チェフにインスビレーションを与える作用をしたのは、ハインリッヒ・ハイネの寓話『アッタ・トロッル』Atta Troll であったことは疑うまでもないが、しかし詩にたいする思想的刺激はまったくわが国内の社会生活のなかから生起したものであった。この動物を象徴する衣装をつけた状況のもとで、チェフはチェコの社会関係の不健全さ、外国の手本、西ヨーロッパの生活スタイルの猿まねに、だんだんと堕していくチェコ・プルジョアにたいして攻撃をしかけている。チェコの風刺詩の目標はしたがって世紀末のいわゆるチェコのコスモポリタニズムである。しかし同時にこの詩人は、同時代のチェコの生活における反対者の側の反動的要素――いかなる種類の新恩潮をも寄せつけない小市民的ナショナリズムと保守主義――をも暴露したのである。チェフの風刺的アレゴリー『真実』Pravda(1885)はさらに辛辣なプルジョア社会にたいする批判を含んでいる。この詩のなかで、作者は支配者階級の偽善と道徳の退廃、そして自由思想を標榜するそのスローガンの空虚さを暴露した。
 チェフの詩作品は1980年代未と90年代に一連の政治抒情詩によって絶頂期を迎える。これまでチェフの作品に叙事詩が圧倒的に多かったとしても、それはチェフの創遺的発展において決定的なジャンル転換が起こったことを意味しない。要するにチェフの叙事詩が抒情詩への強い傾向をもっていたのであり、したがって、この二つのジャンルの間の移行がチェフの作品においては比較的スムーズであったほど、逆に彼の抒情詩が理念的に客観化されていたのである。詩人の思想的基盤は同じであった。それは民族の健全な力、スラヴ民族の世界に依拠することの必然性にたいする確信と指導的社会階級、つまりブルジョアジーの役割にたいする否定的かつ批判的見解である。チェフはたしかに政治的抒情詩集の諸巻における社会批判においても革命的視点には到達していないが、他方、彼がヨーロッパ社会の先行する革命的変革について意識していたし、その変革を歓迎していたという証拠を彼の作品に見出だすことができる。
 彼は理解と共感をもって、とりわけチェコ労働者層の社会的闘争を受け入れていた。彼は労働者のなかに「未来の英雄」を見たし、同時代のプロレタリアの運動のなかに、したがって支配者社会の没落をもたらす革命の嵐の「地底の声」を聞いたのである。チェフは明日は自分の手の労働によって明日を準備する者であるということを確信していた。そのことを表明しているのは、例えぱ『労働万歳』Bud Praci tst (『補巻詩集』Doplnek versu, 1905)という詩であり、その詩から最後の三節を引用しよう。

どんな労働も称えよう、それが善をもたらすものならぱ、
槌をふるうものであれ、土をたがやすことであれ
ほこり、泥のなかを踏み進むことであれ
風が羽を舞わせてする仕事であれ
その動機が自分の欲望でもなく
自分の利益のためでもないときは――
羽の仕事、やすりの仕事、鋤の仕事の区別なく――
同じ敬意を払うぺし!

よき時代になれぱ、いま、人類の旗幟に輝いている
多くの空虚なるスローガンは払拭されるだろう。
平和は、政治や信仰や社会制度の論争のなかにも浸透し
人種の騒々しい抗争さえも静まろう、
権力者のファンファーレ、没落するものの悲鳴
武器の触れ合う膏さえも――
しかし、明日の世代のすべてのものの
労働万歳の声は響くだろう!

おまえたち、熱く勤勉なる働き一手よ
その勤勉さのなかから、他の者への案りと花が生まれ出るようにしろ
おまえたちに、勝利の重心は重く未来はおまえたちのもの、世界はおまえたちのものとなるだろう。
兄弟たちよ、ヒヨスが蔓に辣をもって
行く手にはびこるなら、はびこらせるがいい一
ただ、意欲をもって、前進あるのみだ――そこに月桂樹が待っている。
労働万歳!

 スヴァトプルク・チェフはこのようにはっきりと、自分の社会階級のイデオロギーにこだわらず、むしろ自分の生きる時代の杜会的また精神的新しい潮流を理解したことを証明している。このことのその他の証拠を詩集『朝の歌』Jitrni pisne(1887)や『新しい歌』Nove pisne(1888)のなかに見出だすことができる。第三のまったくポピュラーなチェフの政治抒情詩の本『奴隷の歌』Pisne otrovska (1895)はアレゴリーの手法を用いている。これは自由の賛歌であり、奴隷商人に破滅を、奴隷に自由をもたらす嵐への呼ぴかけである。この詩集の革命的調子は反ドイツ的、反ハプスプルク的民族意識の表現として、とりわけ反ウィーン<政府〉的意味に理解され、受け入れられた。ここから途方もない読者の反響も起こった。『奴隷の歌』はもぢろん広範な創作意図を含んでおり、来たるべき世界の新しいイメージ、外面的にも内面的にも自由で、民族的な脅迫からも社会的な差別からも解放された新しい人間像を求めるチェフの理念的努力の集大成である。
個人的抒情詩また同時代についての思索の本は詩集『未知なる人のための祈り』Modlitby k Neznamemu (1896)であり、ここには汎神論哲学とヒューマニズムの理念で満たされている。小歌的チクルス『刈り入れる人たち』Sekaci (1903)は同時代のチェコの農村にたいして批判的な目を向けている。未完の詩『荒野』Step(1908)は1905年のロシア箪命の反映である。チェフはスラヴ諸民族の未来を保証するものは『自分とともに他のすぺての民族の権利のための」民衆の闘争であることを意識していた。
散文もまたチェフの作品の重要な部分を成している。その多くはユーモラスな性格の小説であり、プラハの市民社会を描いた小品 obrazek または論評 fejeton である、チェフは幾つかの深刻なテーマを彼が熟知している弁護士の世界から取っている。成功したものは中編作品novela『オオタカ氏対キジバト氏』Jestrab kotra Hrdlicka (1876)である。主要人物たちの性格描写の見事さですぐれている。広範な散文作品のなかで最大の人気を博したのは、プラハの市民で家主のマチェイ・プロウチェク氏についての空想で、ユーモア的かつ風刺的物語のチクルスである。『ブロウチェク氏のほんとの月旅行』 Pravy vylet pana Brouckuv do Mesice (1888) は実は当時人気を博した冒険ユートピアロマンのパロディーであり、その作者はヴェルヌVerneやフランマリオソFlaoarionであった。
プロウチェク・シリーズのうち最も成功したのは、ロマン『ブロウチェク氏の画期的な大旅行・一今度は十五世紀への旅』Novy epochalni vylet pana Broucka tentokrate do 15. stoleti(1889)である。その作品は世紀末のチェコの小市民階級にたいする風刺的で、ユーモラスな批判であり、フス時代の進歩的市民と現代の快楽主義的市民との対比の上に構成されている。マチェイ・プロウチェクという人物の名を冠したチェフの両作品はレオシュ・ヤナーチェクの有名なオペラ『プロウチェク氏の旅行』Vylety Pana Broucka のリブレットのもとになっている。
Sv. チェフのその他の散文作品のなかで最も価値の高いのは自伝的ロマン『ふたつめの花』Druhy kvet(1899)であり、特に作者がプラハのギムナジウムの学生だった青春時代が生き生きと描かれている。





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