(3) ヤロスラフ・ブルフリツキー/Jarosiav Vrch1icky

Vrchlicky

 1870年代80年代のチェコ詩のいわゆるコスモポリタン的潮流のなかで、芸術的に最も重要な代表者はヤロスラフ・ヴルフリツキーとユリウス・ゼイエルである。ゼイエルとプルフリツキーを結びつけたのは、もともと芸術的プログラムも極めて近かっただけでなく、個人的にも友人関係にあったからである。しかし、間もなく創作者としてもまた個人としても二人の軌道は離れていく。だが、それにもかがわらず今日まで――両者の際立った創造的個牲の相互の差異を十分考慮したとしても――思想的、文学的立脚点の、そして究極的にはヴルフリツキーとゼイエルの創造的、思想的、社会感観的発展の幾つかの類比性によって生れてくる相互関係のなかに両詩人の文学遺産を認めることができるのでゐる。
 この両作家――相当な年齢の隔たりにもかかわらず、ほとんど同時に文学に登場した――を緒びつけたのは、物質世界におけるよりもずっと純粋な精神的価値を見出だしえた芸術世界への熱烈な傾倒であった。この芸術の、特に文学の世界は、またこの両詩人に(少なくとも、彼ちの発展の最初の段階においては)本質的に重要な創遺的刺激を与えた、ゼイエルもヴルフリツキーもこのような刺激を最も多く外国文学、いわゆるロマン文学のなかに求めたから、すでに述べたように、幾人かの同時代者たちから、国内の伝統、民族文化の評価にたいするセンスの欠如を非難されたこともあった。これらの非難はヴルフリツキーもゼイエルも、70年代の幾つかの作品においては、自分独自の詩的表現を追求しながらも、大なり小なりその芸術的手本に従属していたというかぎりにおいては、正当な非難といわざるをえない。しかし外国文学との接触が自国の伝統や自国の文学の評価にたいする両詩人の感覚を鈍らせたとする非難はけっして正当なものではない。ヴルフリツキーもゼイエルも、このような非難が根拠のないものであることを、彼らの文学作品の最も重要な部分によって証明している。

 ヤアロスラフ・ヴルフリツキー(本名、エミル・フリーダ Emil Frida)はルミール派グループの中心人物であった。彼は1853年にロウニ Louny に商人ヤクプ・フリーダとマリエ〈旧姓、コラージョヴァー Kolarova)の息子として生まれた。両親は裕福ではなかったからオフチャーリ・ウ・コリーナの牧師で叔父のアントニーン・コラーシュのもとで四歳のときから育てられた。スラニー、プラハ、そして最後はクラトフのギムナジウムのころから、すでに外国の言語や文学の勉強に著しく傾倒していた。卒業後は神学の勉強に備えて「大司教セミナー」arcibiskupsky seminar に入ったが、間もなくその意図を放棄してプラハ大学の哲学部に入った。ここに三年間在籍し、その間に、とくにロマンス言語と歴史を学んだが、試験を受けて学業に区切りをつけることはしなかった。このころ、彼はすでに文学的創作をしており、出版もし(1875年、彼の処女作『深淵より』Z hlubiny が出版された。教師の軌道よりも、詩人的活動に備えていた。その後一年間(1875-1876) 彼は家庭教師として北イタリアのモンテクッコーリ−ラデルキ Montecuccoli-1aderchi伯欝家で過ごしたが、この滞在はその後の彼に持続的な印象と影饗を与えつづけた。つまり古代ローマの世界との関係を深め、ルネサンスおよび現代イタリアの詩の詳細な研究と認織に彼を導いたのである。イタリアでヴルフリツキーはまた詩人として内面的に成熟した。そのことは女流作家のソフィエ・ポドリプスカー Sofie PoliPska への手紙が証明している。彼女は――彼よりもかなり年長ではあったが――その頃ヴルフリツキーが傾倒した女友だちだった。
 プラハヘもどってからヴルフリツキーはチェコ技術協会 Ceska technika の初期の職を得た。その後、チェコ科学・文学・芸術アカデミー Ceska akademie pro vedy, slovesnost a umeni の書記ととなる。彼は文学的キャリアの絶頂期にカレル大学の名誉教授の称号を受け、同大学の比較文学史の教授となった。――1879年以後、ソフィエ・ポドリプスカーの娘ルドミラ Ludmila と結婚し最初は幸福だったが、90年代に離婚によって終った。この詩人のその他の交友関係のなかでは、プラハの大学教授ですぐれた医師でもあったヨゼフ・トマイエル Josef Thomayer との生涯にわたる友情は思い出す価値がある。彼はR.E.ヤモット Jamot という筆名で一連の文学的書物、特に自然の散文を出版している。その他の友人にはウィーンの外科の教授エドゥアルト・アルベルト Eduard Albert がある。彼はチェコ文化の宣伝者で、J.ヴルフリツキーの作品のドイツ語への翻訳者でもある。ヴルフリツキーは何度かの外国旅行 (とくにフランス、ドイツ、デンマーク、ポーランド) で中断した以外はプラハにずっと住み続けた。――1903年、脳の発作で創作の軌道は終る。晩年はドマジュリツェ Domazlice で過ごし、1912年に死亡した。

 ヴルフリツキーの作品はその膨大さにおいてチェコ文学、世界文学においても全く例外的である。この詩人は生前に270冊の本を出版し、そのうちの約三分の一はオリジナルな作品であり、その他は翻訳である。ヴルフリツキーの作品の重点は詩である。ドラマはあまり重要な領域ではないが数は多い。散文体品にはほんの例外的に携わっており、いうならぱ全く成功していない、純文学的作品と平行して批評、エッセイによる規則的な活動もおこなっていた。
 ヴルフリツキーの文学活動は最初から作品的にも思想的にも、チェコの詩をヨーロッパの水準に引きあげようとする努力に貫かれていた。彼はフランスのロマン主義詩人ヴィクトル・ユーゴーとその作品『時代叙事詩』 Legenda vek を範にとって、人類の精神史をもふくみこんだ一大連作詩<チクルス〉の創作を意図していた。このチクルスの思想的基本構想はヒューマニズムと自由と、人間の内面的向上へむけての人間社会の不断の進歩への確信であった血このチクルスは――その雄大な構想にもかかわらず――人類の全歴史を把握し包含するすべくもなく、また、なしえもしなかったが、少なくともその明確なモメントだけは示すことができた。だからヴルフリツキーはその詩を「叙事詩<エポペイ〉の「断片」と名づけた。この作品は多分に思索的叙事詩の性格をもっており、詩的叙述のなかには作者の主観的視点がはっきり浸透している。そしてこの主観的視点が物語と詩人の現在との思想的関連性を常に全面に押し出しているのである。
 ヴル・フリツキーは「叙事詩の断片」のプランを一連の詩集、しかも膨大な叙事詩のなかに実現している。しかもそのなかに長い年月の思想の発展が反映している。とはいえ、そのことがこのチクルス全休の理念的意図の不統一と、しぱしぱ起こる一貫性の甘さの原因ともなっている。「叙事詩断片」の第一作『魂と世界』Duch a svet (1878) はかなりのところまでチクルス全体の性格と、思索的要素に貴かれしぱしぱ重苦しさをさえ覚えるが、ヴルフリツキーの叙事詩の特徴を予告している。つまり、その大部分は意見発表<プログラム>の詩であり、その目的とするところはこの詩人の進化的楽天主義と物質にたいする魂の優越の確信の擁護にある。この詩蕪の最も成功した詩編では好んでギリシャ神話から題材をとっているが、なによりも人生の美と豊かさの歓喜に満ちた陶酔が響き出している。このことは『サティルの歌』のなかの例が示している。

川辺の葦のあいだにいて、風景を望み
静かに、ぶどうの熟するを待つ

緑の丘の斜面、森、果樹園、牧草地をめぐって
わたしの目は紺碧に映え、耳には
せせらぎの、ものうげな楽の音が響く
葦葉のなかに身じろぎをして、身を陽ざしに暖める
ふいに、低木が、露のしずくをわたしにふりかける
おお、これが、ぶどう酒のしずくであればいいのに!

川辺の葦のあいだにいて、風景を望み
静かに、ぶどうの熟するを待つ

ディアナが狩りをして、丘や森をゆるがすなら、ゆるがすがいい
わたしは木陰で聞いていよう。つぐみ鳥が歌の真珠を
静寂の糸につなぎとめ、
エルムの木には、せみが、真昼のときを鳴き
トパーズよりも透明な羽の水トンボが
水蓮のまわりを、飛びまわる様を

川辺の葦のあいだにいて、風景を望み
静かに、ぶどうの熟するを待つ

谷間がまどろみ、太陽がうっとりと波間に見入るとき
パンの吹く、甘い笛の音さえも
わたしを、微動だにさせぬ。
それよりも、草のなかに見える、かたつむりのはうがおもしろい
角を振り、ながながと寝そぺる様が
また、あんずに群がり、うなりをあげるすずめ蜂のほうが

川辺の葦のあいだにいて、風景を望み
静かに、ぶどうの熟するを待つ

さすがに猛暑のときだけは、鍾乳洞に
身を隠し、湿った芝生に身を横たえる
すると、身軽な微風が芝生のうえを重々しく吹きぬける
せせらぎの神秘な楽の音に心をごみ
わたしの前を逃げ去った、沢山の木霊たちのことを思いやる。
おお、深く、冷気にみちた鍾乳洞よ!

川辺の葦のあいだにいて、風景を望み
静かに、ぶどうの熟するを待つ

そして夜には.葦のなか.そこに隠れて
エリュマントスの臆病な娘たちが
湯あみをしようと、衣を脱ぐ様をのぞき見る。
わたしがそのなかに飛びだすと、娘たちは身をひるがえして水に飛びこむ
すると、水は高く跳ねあがり、葦葉のうえに降りかかる
ああ、それはキラキラと輝く、ダイヤモンドの雨のよう

川辺の葦のあいだにいて、風最を望み
静かに、ぶどうの熟するを待つ

こうして、わたしは待っている。日々は去り、ただよう雲も
せせらぎの音楽も、ざわめきも、笑いも、わたしを泉へと誘う
わたしもそのなかに頭から飛び込み、沈む
すると、水藻のかたまりが頭に乗っかり
真珠の玉は髭にまつわる。このすばらしさは
ポセイドンにも負けはしまい。

川辺の葦のあいだにいて、風景を望み
静かに、ぶどうの熟するを待つ

時はもう聞近に迫り、すでに、みのりを注ぎ、
トパーズの粒のよづな実で、裸の幹をおおっている。
おお、ぷどうの.房よ、かぐわしきへ一リオスの子よ!
それを掴んで、杯に絞りとるとき、バッカスの女よ、
胸あても覆い布もない、おまえの裸の乳房を
わたしの荒々しい手のなかににぎりしめたときと、同じ感触がする。

川辺の葦のあいだにいて、風景を望み
静かに、ぶどうの熟するを待つ

わたしは乳房のゆれ、口づけをしようとするときの
唇のふるえ。わたしのおかげで、物質は成熟へと急ぐ
神々でさえ、自分のなかにわたしを拒みはしない
神々の王がエウロペーを牡牛の背にのせてさらったとき

その角をつかんで、その耳にささやいたものだ
「ほれ、今、おまえのなかのサチルがささやいているのだぞ」と。

川辺の葦のあいだにいて、風最を望み
静かに、ぶどうの熟するを待つ


『魂と世界』Duch a svet には、いずれにしても自由な形でチクルスの以下の詩集が結びつく。『エポペイの断片』Z lomky epopeje (1886〉、『フレスコ画とゴプラン織り』Fresky a gobe1iny (1891)、『新エポペイの断片』 Nove zlomky epopeje (1895)、『神々と人類』 Bozi a lide (1899)、『奉納額』Vot1vni desky (1902)、その他である。大きな詩作品のなかで『断片』の範疇に入るのは『ヒラリオン』Hilarion (1882)で、題材は古代エジプトに取られ、地上的生活の賛美の調子が響く。『トワルドウスキ』Twardowski (1885)は同時代の社会現実にたいする批判的視点をもった、ファウストと同一素材を扱った作品。『バル・コフバ』 Bar Kochba (1897)はヴルフリツキーの作品のなかでは最も規模の大きいもので、ローマにたいするユダヤ人の反抗の物語を描き、民衆の革命的指導者という悲劇的中心人物をもっている。『ヴィネタ市の歌』Pisen o vinete (1906) はデンマーク人にたいするスラヴ人の空しい戦いを描いている。とくに最後の二編には顕在的にしろ潜在的にしろ作者の(古代的テーマの)現在化 (アクチュアリゼイション) の意図が作品を貰いている。その意味するところは民族独立の戦いへの支持であった。
 チクルス『エポペイの断片』にはチェコをテーマとした重要な作品も含まれる。『神話』Myth (1879) は幾つかの民族伝説を素材としている。そのうち最高の作品は、よく知られている『聖プロコプのレゲンド』Legenda o sv.Prokopu である (この作品は、もともと『神話』のなかに含まれていたが、1884年にさらに規模を拡大して作られた)。サーザヴァ修道院の設立にまつわる、この物語は、プロコプの活動の民衆的、民族的性格と意義を強調した。そして十四世紀の同名の作品と同じ素材をもとに作られている(訳文、原文ともP.47-49参照)。『神話』のチェコ系統の次の詩は『シャールカ』 Sarka と『ボジェチェフの十字架』 Kriz Bozetechuv でゐる。
 80年代のヴルフリツキーの詩においては愛国的トーンとともに社会的アクセントも強めている。そのことは 1883年の詩集『スフィンクス』 Sfinx のなかにすでに現れている。ここでは、例えぱ、『ラザロの賛歌』 Hymna Lazarova という詩のなかでヴルフリツキーは人類の社会的発展の展望について、また貧困なるがゆえに社会から排除された者たちの運命について思索している。

[……]  老悪魔
子供が道化とするように、世界は悪魔と取引きする
今じゃ、利己心と自惚れと呼ぱれる網のなかに
一人一人とつかまえる、それは首切り役人。
燃えさかるなかの災害のように
うぬぼれと利己心も、燃えさかる災いの紳モロクのようなもの
わが子を食い、精気を養う
だかち、腹を空かした貧乏人はその犠牲者だ

 しかし、社会的意図をもった叙事詩のなかでヴルフリツキーの最も重要な作品は『農民のバラード』Selske baiady (1885) である。詩人の愛国的感性は民族的戦いと社会的戦いとの関連を意識することによって深められた。その証拠を私たちは15一18世紀の農民一揆の歴史からの一連の詩的表象<obraz>のなかに見出だすことができる。詩集は抑圧されたものの権利を求める反貴族的、革命的闘争の精神によって貫かれている。それによって――例えば、アロイス・イラーセクの作品と同様に――時代的にアクチュアルな意義を得たのである。ヴルフリツキーの詩表現は――これまではしぱしぱ言語形態論的自由、語順の逆転、文語的語彙による難解さがあったが――ここでは単純化され、簡潔で、意味の上からも正確になった。この詩人の民衆詩の読書がこれに少なからず影響している。この詩集のなかでも最高の詩編は、『クリスマスのバラー一ド』Balada vanocni、『ヤン・コジナの死のバラード』Balada o soti JanaKoziny、『プレダ伯爵』Hrabe Breda および、『農民祈祷書』Selsky Otocenas である。この最後の詩のなかには――18世紀のわが国の文学において愛好されていた形式が復活している(訳文p.145、原書p.138を参照)――悲劇的状況が映しだされているが、それぱかりでなくチェコの農氏たちの反抗の姿勢が桁外れの芸術的説得力と効果を伴って描かれている。

天なるわれらが神よ、聞きたまえ、聞きたまえ!
打ちひしがれた声で、われらが叫ぷのを
生きながらにして、われらはすでに地獄にある。
われらが時々の思いを、信じたまえ。
いったい、どんな人間にできるのだ
われらの生皮を剥がすことが。
領主は悪魔、執事は獣。

なんじの御名の崇められんことを
願わくぱ、かく恵みをたれ給わんことを
勇気を、困懲せるわれらが胸に注ぎこみ
力を、痩せ衰えしわれらが背に与え給わんことを
父なりや、なんじ、われらの?
なんじの王領に来たり給え!
そこにありて、われ、篭のなかに空腹をかかえし小鳥なり。

牧師の口からは、もちろん結構なことぱかり
永遠なるなんじの意思が、いたるところに有るなりと!
その意思とやらとは裏腹に、領主は、いつも酒池肉林
燃えさかるなかの災害のように
うぬぼれと利己心も、燃えさかる災いの紳モロクのようなもの
わが子を食い、精気を養う
だかち、腹を空かした貧乏人はその犠牲者だ

 しかし、社会的意図をもった叙事詩のなかでヴルフリツキーの最も重要な作品は『農民のバラード』Selske baiady (1885) である。詩人の愛国的感性は民族的戦いと社会的戦いとの関連を意識することによって深められた。その証拠を私たちは15一18世紀の農民一揆の歴史からの一連の詩的表象<obraz>のなかに見出だすことができる。詩集は抑圧されたものの権利を求める反貴族的、革命的闘争の精神によって貫かれている。それによって――例えば、アロイス・イラーセクの作品と同様に――時代的にアクチュアルな意義を得たのである。ヴルフリツキーの詩表現は――これまではしぱしぱ言語形態論的自由、語順の逆転、文語的語彙による難解さがあったが――ここでは単純化され、簡潔で、意味の上からも正確になった。この詩人の民衆詩の読書がこれに少なからず影響している。
 この詩集のなかでも最高の詩編は、『クリスマスのバラー一ド』Balada vanocni、『ヤン・コジナの死のバラード』Balada o soti JanaKoziny、『プレダ伯爵』Hrabe Breda よび『農民祈祷書』Selsky Otocenas である。この最後の詩のなかには――18世紀のわが国の文学において愛好されていた形式が復活している(訳文p.145、原書p.138を参照)――悲劇的状況が映しだされているが、それぱかりでなくチェコの農氏たちの反抗の姿勢が桁外れの芸術的説得力と効果を伴って描かれている。

天なるわれらが神よ、聞きたまえ、聞きたまえ!
打ちひしがれた声で、われらが叫ぶのを
生きながらにして、われらはすでに地獄にある。
われらが時々の思いを、信じたまえ。
いったい、どんな人間にできるのだ
われらの生皮を剥がすことが。
領主は悪魔、執事は獣。

なんじの御名の崇められんことを
願わくぱ、かく恵みをたれ給わんことを
勇気を、困懲せるわれらが胸に注ぎこみ
力を、痩せ衰えしわれらが背に与え給わんことを
父なりや、なんじ、われらの?
なんじの王領に来たり給え!
そこにありて、われ、篭のなかに空腹をかかえし小鳥なり。

牧師の口からは、もちろん結構なことぱかり
永遠なるなんじの意思が、いたるところに有るなりと!
その意思とやらとは裏腹に、領主は、いつも酒池肉林
百姓たちは空腹を、かかえながらに死んでいく。
願わくぱ、なんじの意思の
領主たちの狡知よりも、より広く
いきわたるよう、させ給え。

われらが日々の糧を、常に与え給え1
それが願い。だれもがすでに涙に暮れる
万能のわれらが父よ、われらが願い。聞きとり給え!
鳥もまた、おのれの糧を、自ら探すといえど
しかし、われら、生きるには
早暁からの苦役に、付かされ
夕べには、さらに苦痛の一鞭。

われらがいつか、何かの罪を犯そうと、どうか、お許し給わるよう
しかるに、われらの領主らが、われらに加える罪業は
とこ永劫の審判に、かけ給わせと祈るなり。
われらが、この世のむごき仕打ちを受けて、動物のように
卒倒するまで追いまわされるなら
領主だろうと、下役人のあんたとて、神よ
われら、けっして許すまじ。

とて、われらが心、惑わすごときは、なさるまじ、
われらが自らのくびきに慣れ、
永遠の自由の声を拒み
わが自らの子を裏切るように、
盲人のみんなが
杖、投げ出すように
動物のように、泥のなかに潜って逃げていくように。

悪からわれらを守り給え。たとえ、それが年貢であろうと
十分の一税、傭兵、火災からであろうと。
なんじの黄金の穀物を、われらが手に受けさせ給え
さすれぱ、瞬時に
われら百姓は
この全世界を天の王国に変えるだろう――アーメン。

 ヴルフリツキーはチクルス『エポペイの断片』に属する他の一連の作品においても、生き生きとした社会的感受性を証明している。例えぱ、『タンタルスの遺産』 Dedictvi Tantalovo (1888)、あるいは『近代人の祈祷書』 Brevir moderniho cloveka (1892)などの詩集である。しかし、それらのなかにおいては、すでに時代社会における詩人の個人的孤独感が強まっており、それは彼の作品や詩法からの著い世代の離反が呼び起こしたもので、そこから両詩集の幾編かの詩の主観的、ペシミスティックな性格と、その論争的な調子が由来している。
 叙事詩と同様に、ヴルフリツキーの作品のなかで重要な意味をもっているのは、抒情詩作品である。内面的、とりわけ恋愛詩とともに、これらの作品のなかでは、特にギリシア、ローマの神諸に起源を有する自然のテーマがしぱしぱ用いられている。したがってヴルフリツキーの抒情詩の少なからぬ部分が芸術とその精神を高揚させる力の賛美に向けられている。そして後年には愛国主義的モティーフも加わってくる。
 最初の抒情詩集――『深淵より』 Z hlubin (1875) と『幸福の夢』 Sny o stesti (1876) ――はヴルフリツキーの発展から見れぱ自分独自の表現の探求の段階にすぎないわけだが、それでも多くの点で興味あるものである。ある程度までネルダの『墓地の花』触発されている第一の詩集は、そのネルダの原典と同様に、個人的な失恋と同時代社会の道徳的価値観にたいする不信を表明するペシミスティックな性格をもっている。詩集『幸福の夢』は第一作の詩集と対称物である。この詩集も恋愛詩であるが、生命にたいする愛の告白であり、歓喜の人生観の表現である。現実にたいするこの第二の楽天的視点こそ、長い間、ヴルフリツキーの抒情詩の基調を決定していたのである。それに続く詩集『ヴィットリア・コロンナ』 Vitoria Colonna (1877)、『シンフォニー』Sinfonie (1878〉および『南国での一年』Rok na jihu (1878) は主として反省的かつ自然抒情詩を含んでいる。上記の最後の詩集はこの詩人のイタリア滞在を刺激としたものである。80年代のヴルフリツキーの幸福の順点の証拠となるものは詩集『田園詩と歌』 Eklogy a pisne (1880)、『感動とユーモア』Dojmy a rozmary (1880) および『エルドラードヘの巡礼の旅』 Pouti k E1doradu (1882) である。これらの詩集の大部分の詩は、夫として、父親としての感情、自然にたいして、また芸術にたいしての愛によって触発されている。ここでヴルフリツキーは最上の詩論において絶対抒情詩に近づいている。なぜなら、最も単純な体験から純粋な詩を引き出し、あらゆる装飾性を排除した言葉によって表現することをなしえているからである。それには詩集『エルドラードヘの巡礼の旅』のなかの短い詩『ハシバミのなかの道』 Cesta oresim を思い出すだけで十分である。

その道は狭く、二羽の蝶が
たがいに身を寄せ合って、飛ぷのがやっと
光の筋は、道の上にちらほらと、跳ねるだけ
かたつむりが道をよぎると、道全体を遮るほど。
そこここに、天の青い小裂れが、ちらほらと
わたしたちはともどもに、その薄ぐちい天蓋をくぐりゆく
すると、奇跡! でも、それは本当なのだ
たしかに、二人のために、十分の広さがあるのだった。

 同様の性格を詩集『人体が与えしもの』 Co zivota da1 (1883)、『曇り空に』 Jak tahl mracna (1885)、『色とりどりの蝶』 Motyli vsech barev (1887)、『魔人的孤独感が強まっており、それは彼の作品や詩法からの著い世代の離反が呼び起こしたもので、そこから両詩集の幾編かの詩の主観的、ペシミスティックな性格と、その論争的な調子が由来している。
 叙事詩と同様に、ヴルフリツキーの作品のなかで重要な意味をもっているのは、抒情詩作品である。内面的、とりわけ恋愛詩とともに、これらの作品のなかでは、特にギリシア、ローマの神諸に起源を有する自然のテーマがしぱしぱ用いられている。したがってヴルフリツキーの抒情詩の少なからぬ部分が芸術とその精神を高揚させる力の賛美に向けられている。そして後年には愛国主義的モティーフも加わってくる。
 最初の抒情詩集――『深淵より』 Z hlubin (1875) と『幸福の夢』 Sny o stesti (1876) ――はヴルフリツキーの発展から見れぱ自分独自の表現の探求の段階にすぎないわけだが、それでも多くの点で興味あるものである。ある程度までネルダの『墓地の花』に触発されている第一の詩集は、そのネルダの原典と同様に、個人的な失恋と同時代社会の道徳的価値観にたいする不信を表明するペシミスティックな性格をもっている。詩集『幸福の夢』は第一作の詩集と対称物である。この詩集も恋愛詩であるが、生命にたいする愛の告白であり、歓喜の人生観の表現である。現実にたいするこの第二の楽天的視点こそ、長い間、ヴルフリツキーの抒情詩の基調を決定していたのである。それに続く詩集『ヴィットリア・コロンナ』 Vitoria Colonna (1877)、『シンフォニー』Sinfonie (1878〉および『南国での一年』Rok na jihu (1878) は主として反省的かつ自然抒情詩を含んでいる。上記の最後の詩集はこの詩人のイタリア滞在を刺激としたものである。80年代のヴルフリツキーの幸福の順点の証拠となるものは詩集『田園詩と歌』 Eklogy a pisne (1880)、『感動とユーモア』Dojmy a rozmary (1880) および『エルドラードヘの巡礼の旅』 Pouti k E1doradu (1882) である。これらの詩集の大部分の詩は、夫として、父親としての感情、自然にたいして、また芸術にたいしての愛によって触発されている。ここでヴルフリツキーは最上の詩論において絶対抒情詩に近づいている。なぜなら、最も単純な体験から純粋な詩を引き出し、あらゆる装飾性を排除した言葉によって表現することをなしえているからである。それには詩集『エルドラードヘの巡礼の旅』のなかの短い詩『ハシバミのなかの道』 Cesta oresim を思い出すだけで十分である。

その適は狭く、二羽の蝶が
たがいに身を寄せ合って、飛ぷのがやっと
光の筋は、道の上にちらほらと、跳ねるだけ
かたつむりが道をよぎると、道全体を遮るほど。
そこここに、天の青い小裂れが、ちらほらと
わたしたちはともどもに、その薄ぐちい天蓋をくぐりゆく
すると、奇跡! でも、それは本当なのだ
たしかに、二人のために、十分の広さがあるのだった。

 同様の性格を詩集『人体が与えしもの』 Co zivota da1 (1883)、『曇り空に』 Jak tahl mracna (1885)、『色とりどりの蝶』 Motyli vsech barev (1887)、『魔法の庭』Carovna zahrada (1888)、『昼と夜』Dni a noci (1889) および『生と死』Zivot a smrt (1892)ももっている。私たちはこれらのなかに、愛と自然の抒情詩の他に、社会的モティーフと反省的モティーフをも見出だすのである、詩集『故郷の土の上で』 Na domaci pude (1888)は地方的、愛国的抒情詩を含んでいる。この詩集は後に『わが祖国』 Ma vlast (1903) と題した、さらに規模を大きくした版が出版された。
 ヴルフリツキーの作品のなかで特殊なグループとして、「形式主義的」 formalistni 抒情詩の領域が区別されてきたが、これはわが国の詩において、これまで知られなかったり、これまであまり用いられなかったきわめて多様な、しぱしぱ非常に技巧的な、詩的韻律的形式をチェコ詩に導入した詩集のことである。(例えぱ、ガゼル、セスチナ、ロンデル、ヴィヨンスカー・バラダ、リトルネル、ソネットなどである)。この種類の詩集に属するのは、例えぱ『魂の音楽』 Hudba v dusi (1886)、『わたしのソナタ』 Moje sonata
(1893)、『孤独者のソネット』 Sonety samotare (1891) である、自国の詩に新しい形式を導入しようというヴルフリツキーの努力は、以前、彼の批判者たちが主張したように自己目的的ではない。彼のこの範疇での多くの詩は確かに単なる形式主義的実験にすぎなかったし、また用いられた詩的・韻律的形式は大部分がわが国には定着しなかった。しかし、それにもかかわらず、ヴルフリツキーはチェコ詩のその後の形式的発展の可能性の多くの方向を示したのは確かである。このことは後に、例えば、ヴィーチエスラフ・ネズヴァルは評価し、強調した。

 上に茅)げた諸々の詩集を今日われわれは、この詩人の抒情詩的作品の全体のなかに、その有機的な部分として分類している。それは特にこの作品がその明確な特殊な性格にもかかわらず、ヴルフリツキーの他の抒情詩作品と発展的に、しかも全く直接的に関連しているという理由による。われわれはそこここに同様なまったく個性的な創作モティーフを発見する。それらは特に、この詩人の増大する個人的、社会的もまた芸術的孤立化の徴候によって呼び起こされた最初の苦渋に蒲ちた音調が含まれている。これらの音調は続く詩集(『にがい核』 Horka jadra, 1889; 『パルナッソスのあざみ』 Bodlaci z Prnasu, 1893)のなかに響き、一層はっきりと聞きとれる。そのことは若くして死んだ歌手クレメンチナ・カラショヴァーに触発された詩集『彼女は死んだ』 E morta (1889)にもあてはまる。

 詩人の社会的、内面的危機は90年代に頂点に達する。若い文学世代は彼の作品や彼のあらゆる芸術理念に、挑発的なまでに反抗の立場をとった。その結果、これまでの揺らぐことのないと見えていたわが国の詩壇におけるヴルフリツキーの権威は下降するほどであった。それに加えて結婚生活の破局に先導された家庭生活の危機も加わった。
 この時期にたいするヴルフリツキーの創造的反応のなかには、数年間をとうして諦感と苦悩と失望が支配的となる。――恐らく、同時にこれらの沈欝な気分に打ち勝ち、ふたたぴ人生と現実にたいして積極的な姿勢を取り戻そうとする詩人の努力も欠けてはいない。これらの内面的危機、それにもかかわちず人生の確信をふたたぴ獲得しようとする必死の葛藤の証拠を諸詩集『嵐のなかの窓』0kna v bouri (1894〉、『巡礼の歌』Pisne poutn1ka (1895〉 その他に見出だすことができる。かってのオプティミズムは悲愴にとって代わり、詩人はその悲愴を深く効果的な言葉で見事に表現したのだった。『嵐のなかの窓』のなかの一節を例にあげよう。

ほんの少しの愛の代償に、わたしは世界の果てまで行くだろう
帽子もかぷらず、靴もはかず
氷のなかを行こう――だが心のなかは永遠に五月
嵐のなかを行こう――しかし羊のいななきを聞く
荒野のなかを行こう――そして心にはバラの真珠をつけて
ほんの少しの愛の代償に、わたしは世界の果てまで行くだろう
門口に立ち、歌い、物を乞うもののように。

 ヴルフリツキーが自分の創造力にたいする不信感にくじけなかったこと、そして人生の積極的価値を信じることを止めなかったことの証言を、詩集『生命の樹』 Strom zivota (]909) が提供してくれる。部分的にはヴルフリツキーが翻訳したアメリカの大詩人ウォルト・ホイットマンに刺激されている。それは自然と人間と、生れた土地への歓喜にみちた賛歌である (それにたいしては詩集のなかの『チェコの風景』 Ceske krajiny の部が当てられている)。――しかし、新しいオプティミスティックな想像的高揚は間もなく、起こりつつある終局の予感に伴われていた。それを証言する詩集は『ダモクレスの剣』 Mec Damokluv (1913)で、この詩人の遺作から編まれ、重病突発のすぐ前年の詩も含まれている。詩集の基本的性格は感傷的、それどころか悲劇的ですらある。予想される衝撃、そしてそれが間違いなく来るということ、それらは詩人のなかに恐怖ではなく、むしろ未完に終わる作品、を思う苦痛を呼び起こした。両詩集――『生命の樹』と『ダモクレスの剣』――は最後を飾るばかりでなく、ヴルフリツキーの芸術的頂点を示す作品である。これらのなかに彼の力は最もよく集中され、表現は単純化され、同時に芸術的に深められ、形式的簡潔さは高度化された思想的集中によって貫かれている。チェコ詩においては、もうとっくに他の世代が音を奏でているときに、出版されたこれらの詩はヴルフリツキーの抒情詩がその最良の詩編において、時代遅れでないばかりか、芸術的に重要なチェコ詩の次の発展段階への見逃すことのできない前提を意味することを示している。それは、とくにシュラーメク、ノイマンの世代の詩的印象主義、ヴァイタリズムヘの橋わたしをするものである。
 詩とともにヴルフリツキーの作品は他のジャンル領域にもおよんでいるが、本質的には大きな成功を収めたとは言えない。ヴルフリツキーのドラマ作品は数は多いが重要性はあまりない。それらは「国民劇場」の開場後、現代チェコのレパートリーの緊急な必要に急されたものであった。――ヴルフリツキーの悲劇や喜劇の大部分は題材を歴史から、ときは神話から、それも古代のもの、自国のものからも取っている。古代ギリシャのドラマはルフリツキーの悲劇の手本にしばしばなった。しかし古代の影響は新時代の、主にフランスのドラマ、具体的には V. ユーゴー、V.サルドゥー、または E. オージェのドラマの直接な効果と重ね合わされている。ヴルフリツキーの悲劇のなかで最も成功したのは三部作『ヒッポダメイア』 Hippodamie (『ペロプス求婚』 Namluvy Pelopovy, 1890、『タンタロスの和解』Smir Tantaluv, 1891、『ヒッポダメイアの死』Smrt Hippodamie, 1891) で、ギリシアのタンタロス神話の劇化である。この作品は Zd. フィビフ Hibich の音楽とともに今でもわが国の舞台にメロドラマとして上演されている。――プシェミスル時代のチェコ歴からヴルフリツキーは三部作『ドラホミーラ』Drahomira (1882)、『兄弟』 Bratri 1889) および『貴族たち』 Knizata (1903) の素材を取っているし、「白山後」時代からドラマ『亡命者たち』 Exulanti (1886) の素材を得ている。
 歴史的喜劇のうち今日まで最も成功しているのは、『カルルシュテイン城の夜』 Noc na Karlsejne (1884) であり、カルル四世にかんする小話的物語に基づいている。アヴィニョン法王庁を主題とした喜劇で、シェークスピア風に作られた『愛の裁判』 Soud lasky (1886) は今日でもチェコの舞台で生きている。しかし全体的に見るとヴルフリツキーの作品はその創作当初から、すでに過ぎさろうとしていた段階、つまり本質的にチェコ・ドマの、またドラマ・スタイルのロマン主義的段階を示していた。そのことはヴルフリツキーの歴史主義に反抗してわが国の同時代の舞台に、とくに、社会的間題性をもち込んだリアスティックな作品が間もなく証明する。そして『ヒッポダメイア』の作者の高踏的な詩的式を民衆社会のなかで直に聞くことのできる言葉によって取って替えたのである。
 ヴルフリツキーのあまり多くはないが、散文作品の意味はほとんどないと言ってもよい。三冊の小品の本 (『皮肉で感傷的な物語』 Pvidky ironicke a sentimentalni, 1886、『色つきの欠けら』 Barevne strepy, 1887、『新しい色つきのかけら』 Nove barevne strepy, 1887) の他にロマン『あやつり人形』 Loutky, (1908) を書いている。これは満されない愛の物諮であり、この愛によって打ち勝ちがたい運命の力、決定づけられた人生行路について、根本的な懐疑的イデアが表現されるはずであった。
 広範で部分的には今日でも価値のあるヴルフリツキーの作品は翻訳である。ヴルフリツキーはあらゆる世界的な物語や、さらに多くの言葉からも翻訳したが、最も身近だったのはロマンス語の文学であった。フランス文学のをかで特に彼の注意を引いたのは、ヴィクトル・ユーゴー、アルフレッド・ド・ヴィニ、ルコント・ド・リスル、エドモン・ロスタン、シャルル・ポードレールなどであった。フランス詩の翻訳の選集は『新時代のフランス詩』 Poesie franzouzska nove doby (1877) と『フランス近代詩人集』 Moderni basnici francouzsti (1893) の諸巻に収められている。イタリアのルネサンス詩のなかからはダンテの『神曲』 Bozska komedie (1878-1882)、ぺトラルカの『三つのカンツォーネ』Tri kancony (1890)、タッソーの『解放されたエルサレム』 Osvohozeny Jeruzalem (1887)、アリオストの『怒れるロランド』 (1893)、ミケランジェロの『詩』 Basne (1889)、また新しいイタリア詩からは、とくに G.レオパルディと G. カルドゥッチを訳した。スペインの詩からはカルデロンの一連の戯曲、ポルトガル語からはカモエスの長編詩『ルソフチ』 Lusovci を訳した。――その他の翻訳ではゲーテの『ファウスト』第一部、第二部、両編の翻訳が大きな意義をもっている。重要なものとしては幾つかの英語からの翻訳がある (とくに、バイロン、シェリー、L. A. ポー、ウォルト・ホイットマンである)。デンマーク語からはアンデルセンの童話 (1902)、ポーランド語からはミツキェヴィッツの『死者の祭』Tryzna (1895)、ハンガリー語からはペチォフィの『詩集』 (1906) である。
 翻訳と平行して非常に多くの批評的エッセイや文学史的ポートレートが=書かれている。これはとくに V. ユーコーとその一派についやされており、例えぱ『フランス詩人のプロフィル』 Basnicke profily francouzke (1887) や『研究とポートレート』 Smdie a podobizny (1892) などの本である。――この第二巻には、チェコ詩の作品も取り上げており、特に、K.J.エルベン、J、コラール、Sv. チェフ、それに、J. ネルダなどである。











次章に進む

本章の頭に返る

タイトルページへもどる

トップページへもどる