(4) リウス・ゼイエル/Julius Zeyer



J_Zeyer

 ユリウス・ゼイエルはヴルフリツキーとは異なり、チェコの言語文化と完全なチェコ語表現をマスターするために必死の努力をしなければならなかった。彼の文学創造のスタートが遅れたのもここに理由がある。要するに彼はドイツ語が優勢な家庭環境に育った。
 1841年、彼は裕福な材木商の息子としてプラハに他まれた。父方の家族はフランスの出であり、母親はユダヤ系ドイツ人の家庭の出であった。しかし、この母親が未来の詩人のチェコ民族意識に影響を与えたのである。彼女は彼にチェコ語の学習をさせ、チェコ語の朗読をさせた(例えば、ボジェナ・ニェムツォヴァーの『おぱあさん』である)。そして自分の子供のためにチェコ入の乳母を雇った。その乳母のおかげでゼイエルはすでに子供のころからチェコ民衆詩に親しみ素朴なチェコ民衆を重んじることを学んだ。ユリウス・フチーク Julius Fucik はゼイェルの乳母の役割を高く評価しており(『三つの研究』Tri studie という書のなかで)、ゼイエルの作品に登場するいろいろな女性の人物たちが、乳母に触発されて生み出されたことの文学的証拠である。だがチェコ民族の偉大な過去について彼に語りかけた生まれ故郷プラハそのものもまた若いゼイエルに大きな影響力を及ぼしたのである。
 ゼイエルは子供のころから、とくに文学に強い関心を示したが、父から事業の後継者となるように申し渡されていた。この決定は父の早世後(1851)も母が尊重した。ゼイエルは決定された自分の人生の軌道の準備のためにドイツの実業学校に学び、やがて工学部へ進んだ、彼は高等教育をおえることなく父の会社に入り、何度かの商用旅行に出ている(ドイツ、スイス、フランス)。彼の芸術的関心が深まるにつれて、両親によって定められた軌道から急速に離れていった。帰国後は大学で言語と文学のプライヴェイトな勉強に没頭し、70年代の前半から彼の最初の文学的試みを発表しはじめた(シュトルパが発行していた雑誌「パレチェク」と「ルミール」)。
 その後、ロシアで教師として働き、熱心な研究と、時折の旅行と、引き続き外国での滞在(とくに、ロシア、イタリア、フランス)によってヨーロッバ文化にたいする見識を深め、あらゆるジャンルにおける豊かな作品の創造によって80年代にわが国の文学における指導的な地位の一つを獲得した。時代の市民的環境、とくにプラハの生活環境についての不満から、詩人は1887年にヴォドニャニ Vodnpy に転居した。そこで詩人のオタカル・モクリーや散文家のフランティシェク・ヘリテスと交友を結んだ。ゼイエルはヴォドニャニの滞在を外国旅行によって中断した。そして、1900年になってやっとプラハに転居したが、それは死の数カ月まえのことであり、まだ60歳にも満たない1901年のことであった。
 すでに述べたように、ゼイエルの詩、散文、ドラマ作品は外国文学から非常に多くの創造的刺激を受けていることを証明しているが、それにもかかわらず、ゼイエルのライフワークの最も本質的そして芸術的にも最も不変の部分は、郷土から受けたインスピレーションに触発されて生み出されたものであったし、彼はだんだんと民族の伝統にたいして関心を集中化していった結果、その関心は同時代社会にたいする批判となり、しぱしぱ抑えがたい反感に変化した。
 ゼイエルをこの批判へと駆り立てたものは、たとえそれが建築的ものであれ文学的なものであれ、かってのチェコの栄光の証となるすべてのものにたいするゼイエルの崇敬の念もあったのはもちろんである。ゼイエルにとっての文学的記念碑とは――彼の世代のほとんどの人々と同様に――その最も重要な位置を占めるのが『王宮写本』と『緑山写本』であり、古文献のなかではハーエクの『年代記』 Kronika を評価した。
 ゼイエルはとりわけこれらの作品の芸術的価値に感嘆した。それらの作品の時代的正真性やオリジナリティー、あるいは歴史的信憑性の間題は彼にとって二次的な意味しかなかった。一方、ハーエクの『クロニカ』については口承伝説の記録にかんするかぎり全面的な信頼性を確信していた。ゼイエルが『写木』やハーエクに見出だしたチェコの遠い昔の神語約情景は、民族史の最古の時代にかんする、また激しい惰熱と鋭い感受性を備わった英雄的個性の時代にについての彼のロマンティックな想像に応えるものだった。それはとくに叙事詩的チクルス『ヴィシェフラッド』 Vysehrad (1880) ――『リプシャ』『緑の勝利』『ヴラスタ』『ツティラト』『ルミール』の部分から構成されている――や、チェコ史の童話的黎明期の詩的場面『チェコ人の到来』 Cechuv prichod (1886) や『ネクラン』 Neklan (1893) のなかにはっきりしている。
 これらの作品は現実から過去の夢へ逃避しようとする努力から生れたのではない。反対にゼイエルはそれらの作品によってまさに現代における、自分の同時代者たちに、とくに、素朴な民衆読者たちに語りかけようとしたのである。その例が、詩『リプシャ』のなかにある。ゼイエルはそのなかで、プシェミスル家の起源についての伝説を彼独自の手法で脚色した。

そのときカシャは、稲妻に打たれたかのように
神の霊感に打たれて立ちあがり、叫んだ。
「さあ、王女が自ち選ぴし夫よ!
さあ、神がわれらに送りよこしたる男よ!
かつて、クロクがなしたるごとく、われらを治めるなり!」と

このお告げの言葉にしたがって、王女は男に杯を渡した
彼を迎えるかのように、すると、プシェミスルは
蜜酒のなかに、自らの指輸を落とし入れる
それを婚礼の証にと、リプシャがかつて
男に手渡したもの。そこで男は杯を返す……
そして王女は、この男こそ運命が
人民の幸福のために選んだのだと理解して
座から男のほうへ身を屈め
甘い声でささやいた
「おいでなされ、わが婿殿、わが父祖の家へ」

そのとき民衆のなかで、とてつもない大喚声が沸き起こる。
すると勇士たちも興奮の虜となり
剣を己が盾に打ち当てる。
そして、だれもがプシェミスルを歓迎した……
すると、ルミールがそぱ近く立つ金色の門を通って
プシェミスルの牛どもが中庭に入ってきた。
牛どもはプシェミスルの金の鋤を重そうに引いている
プシェミスルは王座につくと、大声で叫んだ
「見ろ、お前たちにもってきた土産ものを
おお、リブシャの愛する人民よ!」
その瞬間、地面は割れ
庭のなかに大きな火が燃えあがった。
そこでトゥルトは一方の手に槌をにぎり
もう一方の手で自分の剣を火のなかに差しこんだ
それから真赤に焼けた鉄を槌で打ち
あっというまに、鋤刃を打ち出した、
そこで勇士たちは大喚声をあげ
トゥルトにならって、自分の剣を鋤に変えた。

こうしてヴィシェフラッドは一日中騒々しく
日暮れまで、槌の音が響いた。
大地のふところで育てられた
賢いプシェミスルは、こうして
光の娘ニヴァが産みし
リブシャの隣の黄金の玉座に
ついたのである。

 この例は、ゼイエルの詩的表現の幾つかの個性的特徴を明確に示している。ヴルフリツキーやチェフと異なり、彼は原則として韻を踏まない詩行で書いている。彼が好んで用いた韻律は無韻(プランクヴァース)の弱強五歩格(アイアンブ)であった。詩の言葉を語
り書葉と区別しようという彼の時代の努力は、語順転置を頻繁におこなうことによって実現した。さらにゼイエルにとって特徴的なことは、それが歴史的(時には神話的)場面で
あれ、自然描写の場面であれ、色彩ゆたかな表現を好んで用いたということである。
 ゼイエルの『ヴィシェフラッド』の使命は主として民族的かつ社会的なものであった。―偉大な、恐らく、理想化された過去の情景は同時代の読者のなかに民族的自意識と同時に過去のチェコ民族における人民層の基本的役割についての意識をも強くした。チェコ
民族の領主の座にごく普通の農夫がついたということである。民衆にたいする、また民衆の伝統にたいする敬意、民衆文学にたいする愛が、ゼイエルの今日まで最も愛され、また重要な作品のなかから感じ取られるのである。それはスロヴァキアの童話のモティーフに墓づいた童話劇『ラドゥースとマフレナ』Raduz a Mahulena (1898) である。
 チェコの神話的題材とともにゼイエルの一連の詩的また散文的作品の土台となったのは外国の神話である。詩集『オッシアンの帰還』Ossianuv navrat (1885) の誕生に際してその出発点となったのは、聖パトリックに関するアイルランドの諸々の伝説だった。他のアイルランドの素材――楽園へと逓歴する聖人の伝説――を『聖プランダンにかんする『年代記』Kronik o sv. Brandanu (1886) として詩的に改作した。シャルル大帝にちなむ古代フランスの伝説からはゼイエルの最も長大な韻文叙事作品『シャルル大帝のエポペイ』Karolinska epopeja (1896) が生まれた。その四つの部分は『シャルル大帝にかんするおとぎ諾』Pohadka o Karlu Velikem、『アイモンの四人の息子にかんするロマン』Roman o ctyrech synech Ajmonovych、『ロランドの歌』Pisen o Polandu、および『ロヴィス王の戴冠式の歌』 Pisen o korunovani Krale Lovise と名付けられている。プルターニュとロマンス系の伝説は『アミスとアミルの忠実な友情のロマンス』 Roman o vernem pralelstvi Amise a Amila (1880) のもとになっており、そのなかで作者は騎士精神と騎士的名誉の理想像を呈示している。これらの作品をはじめ、その他のゼイエルの作品は過去の時代の「蘇った惰景」を造形しようという作者の努カによって導かれていた。散文作品のなかで、さらにこの種類に属するものとしては、例えぱ『ショシャナ伝説簾』Baje Sosany ――この作品の土台になっているのはエジプト、インドの神話である―― や『蘇った備景』0bnovene obrazy (1894)、『キリスト磔像についての三つのレゲンド』Tri legendy o krucifixu (1895) があり、劇的作品のなかでは、とくにコメディア・デ・ラルテの手法を用いた『古い話』 Stara historie (]883) や古代アイルランドの伝説から主題を取った悲劇『エリンのレゲンド』 Legend z Erinu (1886) がある。
 ゼイエルの一連の作品は本質的に自伝的である。しかしそこには詩人の外面的運命が描かれているのではなく、むしろ、その内面的体験、思考、また経験がそこに反映しているのである。このことはゼイエルの最初のロマン『オンドジェイ・チェルニシェフ』 Ondrej Cernysev (1876) に早くもそのことが言える。この物語はロシアの女帝アルジュビエタ Alzbeta の宮延でおこる。中心にあるのは次の女帝カテジナ Katerina にたいするオンドジェイ・チェルニシェフのロマンチックな愛の物語である。このロマンはロシアとその歴史にたいするゼイエルの愛の文学的記録の多くのもののなかの一つである。
 ユリウス・ゼイエルの敵文作品の頂点にあるのはロマン『ヤン・マリア・プロイハル』 Jan Maria Plojhar (1891) である。この作品は、作者が生きた時代、そしてまた民族社会と作者自身がいかに痛々しい結びつきをしていたかの、きわめて説得力のある証言である。このゼイエルのロマンは民族集団への最も深い帰属意識の告白であると同時に、また時代の「代表者」つまり市民社余にたいする厳しい批判的関係の表現でもある。プロハイルは完成された道徳的、民族的感受性の持主ではあるが、この社会のなかでは異質な人物だった。それゆえ彼はそこからイタリアヘ逃亡する。そして、そこで悲劇的愛の過程を経験する。つまりその愛の物語は愛する女性の死によって終わり、ふたたび孤独のなかにとり残される。この作品のなかでゼイエルは極度に繊細な新ロマン主義散文の手法を用いて、世紀末の大部分のチェコ・インテリゲンチャに特徴的な、時代の社会情況にたいする思想的、感情的姿勢を表現したのである。それは批判的、拒否的であり、同時にきわめて受動的である。それはもちろん氏族社会の次の発展の横極的可能惟の麗望がゼイエルの世代にとって、あまりにもかけ離れていたせいにもよるのである。
 失望とペシミズムと神秘主義への傾向は詩人の生涯における、それに続く時代の作品を特徴づけている。例えぱ、それは散文レゲンド『マリアンスカー庭園』 Zahrada marianska(1898)、ロマン『“沈みゆく星”通りの家』 Dum U tonouci hvezda (1897)――思想的にも、種類の上からも『ヤン・マリア・プロイハル』に近い――。そしてこの詩人最後の一大詩篇であり、自伝的『ヴィート・ホラース通りの記憶』 Moje pameti vita Choraze (1899) などがある。





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