(5)ヨゼフ・ヴァーツラフ・スラーデク/Josef Václav Sládek


sladek ヨゼフ・ヴァーツラフ・スラーデクはルミール派詩人グループのなかでも特殊な地位を占めている。彼の創作の初期にはルフ派と結びついており、ルフ派の1868年のアルマナックでは彼自身が編集に携わっている。チェコの文化活動をより広いヨーロッパ的また世界的関連に結びつけようとする努力が、結局彼をルミール派グループの一員にしたばかりでなく、本来、このグループの設立にたいして彼自身がかなり大きな貢献をしたのである。しかし、基本的にはスラーデクは芸術的軌道の初めから終わりまでわが国の文学伝統と密接に結びついていた。創作の刺激がたとえ外国文学の読書によって得られたものであれ、また外国に滞在したことによるものであれ、彼の純粋なチェコ民族性の上に何のマイナスも与えていない。彼の個性的な詩的才能は彼の発展のすべての段階で発揮されており、それゆえ彼の創造的遺産はまた有機的に総合されているし、目覚ましい、だが決して特異ではない性格をもち、そして一方ではヤン・ネルダに、また他の一方では例えばフランティシェク・フルビーンにつながるところのチェコ詩の流れのなかの堅固な一部分を形成しているのである。

 ヨゼフ・ヴァーツラフ・スラーデク(1845−1912)はズビロハ・ウ・ベロウナ Zbiroha u Berouna に煉瓦積み職人の職長の息子として生れた。彼は質素な職人の家庭という生活環境のなかで成長し、チェコの田舎の貧しさ、それだけでなく田舎の魅力と詩とも親しく見知った。特に大きな影響を彼に与えたのは民衆の歌だった。両親は彼を聖職者にしようと決めたのでスラーデクはプラハの新街区の<カトリック系の>ピアリスティツケー・ギムナジウムに入った。後に彼はそこから旧街区のアカデミツケー・ギムナジウムに移り、そこで卒業した。その頃には僧職につく考えを放棄し、自然学を学ぶためにプラハ大学の哲学科に籍を置いた。しかし徐々に語学と文学の勉強に引かれていった。

 1866年スラーデクは詩を発表し、1868年にはアルマナック「ルフ」Ruch を編集した。同じ年「花」Kvety に彼の詩、小民族の社会的、政治的抑圧にたいするプロテスト『アイルランドのメロディーより』Z irských melodií が掲載された。この極めて若者らしいスラーデクの詩はほとんど全編に社会的反抗の音調が響いている。スラーデクは、ブルジョア政党には一般大衆を社会的かつ民族的に抑圧する者に抵抗する闘争へ導く決意に欠けていることを見抜いていたから、彼らの掲げる国家主義的スローガンにたいして反抗的な姿勢を示した。だから彼の政治的意見がオーストリア官憲の注意を引いたのも当然であり、シャールカへの修学旅行における公開の発言にたいしては逮捕の危険にさえさらされた。恐らくこのような状況がシカゴのチェコ系アメリカ人家庭の家庭教師として働く機会が与えられたとき、かれに祖国を去る決心をさせたのだろう。

 スラーデクは1868年、スヴァトボル協会と彼が評論記事<フェエトン>を寄稿していた「民族新聞」Národní listy の編集部の援助によってヨーロッパからアメリカへ船出することができた。アメリカで彼は個人教師として、記者として、また鉄道の建設労働者として生計を立てた。彼は合衆国を知ったばかりでなく、メキシコへも行った。そして彼の得た体験は彼の目を開き、言語知識を広げるとともに、芸術的、思想的成熟に大いに役立った。合衆国においてスラーデクは一面では自分の国に欠けている多くの民主主義的自由を見出だしはしたが、他面では未解決な問題、特に社会問題に出会った。そのうち最も痛切に感じたのは人種的不平等だった。特に、インデアン種族の奴隷化は彼の目にはアメリカ生活の民主的表面の裏面として映った。彼のアメリカ滞在中、定期的にフェエトンやコラム、案内、短文といったものを「民族新聞」に寄稿していた(1913年にフェルヂナンド・ストレイチェクが『アメリカの風景』Americké obrázky として二巻にまとめて出版した)。合衆国滞在中のスラーデクの詩作品もまた数多い。彼はアメリカからこれらの詩作品をチェコの雑誌に送ったのである。

 合衆国から帰国後、スラーデクはプラハ商業アカデミーの英語の教師となり、文学の創作と翻訳に没頭した。私生活においては、最初の妻エミーリエ、旧姓ネドヴィートコヴァー、の死により悲劇的境遇に置かれた。この傷痕は長い間、ふたたび幸せな結婚をした後でさえも、彼の詩のなかにはっきり読みとれる。1873年以後はハーレクとネルダの後を受けて雑誌「ルミール」の編集を担当した( Ot.ホスティンスキー、 Sv.チェフとともに)。1877年から1898年までは一人で編集にあたった。スラーデクの生涯の晩年は重い病気と、だが同時に激しい詩的創作、ウィリアム・シェークスピアのはとんど全作品の翻訳の努力によって特徴づけられる。

 詩人としてのスラーデクはいわゆる民族派と称するグループから生れた。彼の詩はまず第一に主観的精神状態や感情、特に失った妻にたいする痛恨の念を表現した。その後の詩集においては感情的安らぎ、そしてそれだけにとどまらず、さらに新しい結婚や、子供と子供の世界との関係のなかでの私生活の新しい確信を発見する幸福感にまでいたっている。しかし、この主観的音調とともにスラーデクの詩は常にこの詩人のチェコ民族との、また社会生活との密接な結合をも表現している。スラーデクはわが国の民族社会の健全な発展の保証を、チェコ民族の過去の最も進歩的な流れへの意識的結合のなかに、生れ故郷の土地への信頼関係のなかに見たのである。その土地とはもちろんスラーデクにとって、父祖伝来の相続財産への保守的密着の象徴ではなく、あらゆる民族的努力の確実な基盤、支え、出発点の象徴である。

 このことはスラーデクにとって彼自身の創造の概念にもまたルミール派の文学プログラムにも完全に一致した。「ルミール」の編集者(そして同時にオーナー)として70年代の終わりから80年代の始めにかけてルミール派対ルフ派(時には、ヴルチェクの「オスヴィェタ」を中心に集まった「民族派」の批評家たちと)の民族文学の概念、またいわゆるルミール派のコスモポリタニズムの問題をめぐっての論争の重責を引き受けたのである。すでに述べたようにスラーデクは本質的にチェコの詩、なかでもチェラコフスキーとネルダに最も近い伝統から出ているのであり、その彼が「民族派」の論客として論争を買って出たというのは、必ずしも芸術における民族性の理念を否定しようというのではなく、むしろ民族文学という概念が、同時代の他民族の作品や文学伝統の創造的に刺激し合う関係を排除する、ないしは厳しく制限する狭い国家主義的意味に理解されるのが許せなかったからである。だから彼は、一国の文学の発展があらかじめ決められた枠組のなかで、民族的な、しかも、しばしば著しく保守的な視点に立っておこなわれる政治闘争の要求するところに従って管理されるべきだという、現代チェコ文学のこのような定義の仕方にはどうしても反対の立場を取らざるをえなかったのだ。

 J.V.スラーデクの最初の本は『詩集』(1875)だった。この詩集の成立に関しては三つの重要な刺激があった。その一つは1874年に結婚一年にも満たない23歳でこの世を去った詩人の妻エミーリエの早い死、アメリカ生活から得た感激と思い出、そして最後は60年代の終わりから70年代の初めにおけるチェコの一般生活と政治的事件の経験や体験である。詩集にはエレジー風の響きが支配的であるが、それは個人的な苦悩だけでなく、民族の危機的な状況にたいする超個人的な慨嘆によって条件づけられたものであった。しかしエレジー風の調子とともにスラーデクの最初の詩集には国内の問題と同時に、詩人がアメリカで目撃した社会的、人種的差別にたいする厳しい批判も浸透している。抹殺されたインディアンの一族の運命が彼の心を深く打ったのである。特に、二編の詩『インディアンの墓場で』Na hrobech indianských と『パプー』がアメリカの状況にたいするスラーデクの批判的関係とインディアンの運命にたいする同情を証言している。

 スラーデクの第二の詩集『海上の閃光』Jiskry na moYi(1880)においても、また社会的視点と愛国的感情が浸透している。この詩集も亡くなった夫人の悲歌的思い出が常に響いている個人的抒情詩であるが、ここでは尖鋭化した政治的意図をもった詩も収められている。それは叙情的であると同時に叙事的でもある詩である。これらの詩からは民族的ぬるま湯にたいする抗議、社会問題についての無関心さにたいする抗議、そしてまた、教会や国家が素朴な人に加えている暴力にたいする決然たる抗議の声が響いてくる。このすべての点において――単純で簡潔な詩的表現においても同様に――スラーデクはネルダに近い。それにまた彼は自分の師としてネルダに敬意を払っていた。しかしインスピレーションの源泉は彼にとっては、また民衆詩でもあった。

 80年代の初めにスラーデクの私生活に内面的平衡がもたらされ、それが彼の詩作品の新しい基礎となる。個人生活の価値が彼にとってふたたび意味をもちはじめた。特に新しい家族関係が周囲の世界にたいするスラーデクの全体的な姿勢のなかにオプティミスティックな性格を刻んでいた。このことは次の四つのスラーデクの詩集『明るい足跡』Svtlou stopou(1881)、『楽園の入口』Na prahu ráje (1883)、『人生より』Ze ~ivota (1884)、『太陽と影』Sluncem a stínem(1887)に顕著である。

 しかし、作者はこのような作品においても、自分の詩作の客観的使命をおろそかにしたわけではない。それ以後も民族社会の生活と闘争に密接に結びついていた。詩の形式的側面から言えば、たとえヤン・ネルダにたいするスラーデクの関係が基本的にあったとしても、当時、彼はヤロスラフ・ヴルフリツキーの詩に傾倒していた。この時代のスラーデクについて言えば、社会的主題にたいする関心が比較的少なくなっていた。愛国的な、特に家庭的抒情詩が優位を占めていた。子供のための詩にはしばしば民衆詩の反響がこだましているが、スラーデクはまさにこの時期に古典的簡素さと創造的名人芸の芸術家に成長したのである。それを証明するのはその後の一群の詩集であり、それらは純粋に子供と家庭の詩である。『金色の五月』Zlaty maj (1887)、『ひばりの歌』SkYivanci písn (1888)、『鐘と小鈴』Zvony a zvonky(1894)などであるが、これらの作品はチェコの子供のための詩において基本的意味をもち、わが国のこのジャンルのその後の発展に刺激を与え続けてきた。

 世紀末のチェコの一般生活における政治的、社会的緊張の激化はスラーデクの詩のなかに民族的社会問題にたいする関心の新しい潮流となって現れている。スラーデクは改めて民族の存在、民族発展の展望、民族社会の個々の階級層の機能の問題を提起している。同時代の市民の政治の失敗によって呼び起こされた幻滅、それと同時に詩人の個人的出生の前提から80年代から90年代への転換期ころからスラーデクの詩作のなかに過去と、とりわけ現在における民族の発展のなかでチェコ農民の決定的役割についての確信がより一層明確に述べられるようになる。

 この考えはもちろん以前のスラーデクの作品のあちこちにすでににじみ出ている。例えば『太陽と影』である。しかし、二連作詩集『農民の歌』Selské písn と『チェコ風ソネット』 eské znlky(1889)ではプログラム的なものが一層強調されている。『農民の歌』で表明された社会問題にたいする基本概念は、原則として進歩的である(附随的に結合された『チェコ風ソネット』の性格は異なっている)。スラーデクは、資本主義が民族社会における基本的道徳価値観を破壊して所有欲に替え、しかも、そのことによって、民族の個々の構成要素の内的団結をも分解させたと考えた。この団結はスラーデクにとり Sv.チェフやその他のチェコ市民層の進歩的要素の代表者たちとその理念において同じであり、彼らはもちろん個々の例においてのみ市民的自由主義の理念的境界を踏み越えていた。スラーデクは進歩のこの段階において民族的危機からの脱出口をチェコ農民の伝統的評価、生れた土地にたいする彼らの忠実さ、彼らの道徳観念の強靭さ、チェコ農民のたくましさのなかに求めていた。農民の現状の代表者たちはスラーデクの概念においては、恐らく財産の力を求める努力ではなく、特に、独立と自足と経済の確立を求めるチェコ民族の努力を象徴していた。スラーデクにとってチェコ農民とは誇り高く、道徳的に高潔で、尊敬に値する男の典型であった。そしてその男は生来の伝統を敬い、受け継いだ土地のなかになによりも自己の何ものにも依存しない存在の保証を見出だすのだった。

 『農民の歌』のなかにはチェコの農村に蔓延し、人間関係や農村の住民の個々の層や階級の関係をゆがめたところの資本主義にたいする批判がはっきりと響いている。上述のようにスラーデクは民族社会の統一を目指しながらも、彼の『農民の歌』のなかではすでに階級的に区分された社会の情景が浸透している。このことは『農民の歌』はスラーデクが規則的に接触をたもっていたチェコの農村の詳細な知識を土台にして生れていることを、そしてチェコの農村にたいするスラーデクのイメージ、そしてまたその形象化が完全にリアリスティックであったことを証明している。スラーデクの詩集の客観的な結論は、いわゆる自由農民、そして階級的に統一された農村社会の理念は過去のものであること、そしてチェコの農村にも社会正義の勝利を確立する必要があるということである。このことは『農民の歌』の幾編かの詩から響いてくる。そしてそれらのなかでスラーデクは農村に加えられた時代の社会関係重圧、特にチェコ農民のプロレタリア化を描き出している。例えば、そのことは『いや、その私の畑は……』Ne,ta moje pole … という詩にある。

   いや、このわたしの畑は
   わたしのものではない――他人のものだ
   わたしが耕し、馬鋤を引く
   そして、だれかがわたしの実りを刈りとる

   わたしの牛も、だれかのもの
   種をまくのも、だれかのため
   わたしの家も、だれかのもの
   わたしの子供も、だれかのもの

   わたしの腕も、だれかのもの
   からだのなかの、血管のことごとく
   ただ、わたしの苦痛と力だけは
   こいつらだけが、わたしの持てるすべてなのだ

 社会的な響きをもった詩とともに詩集のなかに一連の瞑想詩をも見出だす。それらの詩の中心をなすのは一般に人間の生命の意義についての疑問であり、生れた土地、自然にたいする人間の関係の問題である。詩人はここで野良仕事の最中に自分の人間的役割について思索する農民に自分を様式化している。生れ故郷のインスピレーションの力とともに彼の創造的発展のこの段階においてスラーデクに影響を及ぼしたのはスコットランドの民衆詩人ロバート・バーンズ Robert Burnse(1759−1796)の作品である。

 『農民の歌』のい幾編かの詩のなかに浸透している神への帰依によってスラーデクはとりわけ道徳的に再生する自然の力と正義の支配する明日の世界への楽天的な信頼を象徴している。幾つかの理想主義的性格と保守的伝統の傾向にもかかわらず、この詩集の基本的評価を決定づけているのは、特にチェコ農村の同時代の現状とその時代に特有の社会的問題性を提示する能力である。チクルス『チェコ風ソネット』は付録的にこの本の一部となっているが相当に強い愛国的性格をもっている。

 スラーデクは数年後『新農民の歌』(1909)においては、ふたたびチェコ農民の問題に戻っている。このなかでチェコ農村の伝統的概念は農村社会の愛国主義的段階の理想化の意味において強調されている。スラーデクは1892年の名人芸的詩集『チェコの歌』において、同時代の民族社会的生活の問題に取り組んでいる。この詩はまさに文字どうり、外部からばかりか、自身の内部の公的、政治的代表者の側からもチェコ民族の生活を脅かす直接的な危険に刺激されて生れた、時機に即した詩である。スラーデクは『チェコの歌』のなかで自分の生命にたいする権利、特に民衆層の豊かな道徳的基盤から湧き出るその内的力への民族の誇り高い確信を表現している。

 スラーデクの創造的発展の最終の段階では三編の重要な詩集が生み出される。『冬日のなかで』V zimni slunci(1897)、『夕闇のあとに』Za soumraku (1907)及び『忘却の河、その他の詩』Lethe a jine basne(「二巻詩集」Dve knihy versu,1909に『新農民の歌』とともに収められている)。この詩集の最も多くの部分は内面的、反省的、瞑想的抒情詩に割かれている。これらの詩は作者がすでに重病にあったときに書かれたにもかかわらず、人生にたいする肯定的価値観にたいする信頼によって満たされている。この詩とともにスラーデクの最後の詩集のなかには時代の社会的、政治的事件の明らかな反響が見てとれる。スラーデクは社会正義のための戦いの可能性と手段を明確に想像することはできなかったが、それでもこの戦いの発展と結果を基本的に正しく判断している。特に、90年代の労働運動は彼に影響を与え、チェコのプロレタリアートにたいして、また彼らの搾取に抵抗する彼らの戦いにたいして、労働者の連帯にたいして共感を示すよう強い衝撃を受けた。この社会的抵抗の音調は、例えば、詩集『冬の日だまりのなかで』の『炭鉱夫のバラード』Hornicka balada 、または『織り工のバラード』Tkadlecka balada において特にはっきりと聞こえてくる。この詩集のなかには『マーヨヴァー』Majova という詩のように、未来の労働者層についてのスラーデクの信念を表明したものもある。この詩集のなかには『忘却の河』その他の詩に続いて、社会的な共感ばかりでなく、労働者の差別、また飢餓や失業にたいする反感に満ちた詩も読むことができる(『取壊し現場にて』Na bouranici、『ありふれたバラード』Vsedni balada 、『吹雪のなかで』V metelici )。それと同時に、スラーデクはここで(『行進しながら』Na pochodu という詩のなかで)1908年のロシア革命での集団処刑にたいする彼自身の抵抗を表明していた。一例として『取壊し現場にて』という詩を紹介しよう。

   雪は降り、骨まで冷える
   そして、朝闇のなかに
   廃墟のうえに
   貧しいものたちの一団がたむろする。

   毛糸の襟巻をまきつけた者たち
   また、薄いコートしか着ていない者たちが
   かたまっている。まるで凍りついたアカシアの
   枝のうえの雀の群れのように

   足踏みをし、爪や手に
   息をはきかけ
   他の者たちが、瓦礫を打つ間にも
   生きるそのことのために、あがいている

   働くものたちのだれにも、恨みはないが
   こんなに、望みに望んでも
   鶴嘴で手にまめをつくることも許されない!
   とは、まさに泣きたいくらいだ

   監督がやってきて、手を振り
   そして、また行ってしまった またも仕事はありはしない
   手に血をにじませることはできはしない
   その結果、彼らの心は痛むのだ。

 チェコの言語文化を豊かにし、偉大な世界文学との接近に大きな意義をもつのはスラーデクの翻訳、それも主に英語の翻訳活動である。とりわけ、H.ロングフェロウの『ハイワサの歌=The Song of Haiwatha』Pisen o Haiwate (1872、1909改訳)や G.G. バイロン の『ヘブライのメロディー』(1890)、ブレット・ハートの『カルフォルニア物語』Kalifornske povidky (1874と1909)、ロバート・バーンズの詩とバラードの選集(1892)である。しかし、スラーデクの翻訳のライフワークは W. シェークスピアのほとんど全作品の詩的翻訳である。







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